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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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【近頃考えていることをちょっとまとめて】

2003.2.15 

中村桂子館長
 先回、少しまとまったものを紹介するという形をとりました。このくらいある方が、反応が多いことに気づきましたのでもう一度。元「文藝春秋」の編集長だった岡崎満義さんが取材をしてまとめて下さったもので、内容はこれまでここで書いてきたものと重なるのですが、それらの関係を知っていただくのによいと思い、活用させていただくことにしました。「家庭画報」という、私は美容院に行った時に手にする雑誌でのインタビューです。

家庭画報2003年3月号 スペシャルインタビュー 
行く道、来た道 ─ (2)

「中村桂子」  取材・文◎岡崎満義
中村桂子さんが館長をつとめる「JT生命誌研究館」は、大阪府高槻市にある。東京の自宅との間を毎週往復する忙しい生活だ。二重生活はキツくないはずはないのだが、中村さんはケロリとこなしている。中村さんの分子生物学のゆきつくところ、──心は脳の中に坐り込んでいるのではなく、関心をもつものと自分との間(あわい)にある──とすれば、中村さんは東と西の間を動きながら、人間・社会について考えを深め、さらに豊かな生命誌を紡いでいるのだろう。


 大阪に通いはじめてもう10年、今はすっかり関西大好き人間になりました。子どもの頃、疎開で愛知県に行ったことがあるくらいで、ずっと東京暮らしだったのですが、関西に行ってみると、新しさと古さが微妙に混在していて、なかなか面白いです。関西はバイリンガル、バイカルチャーなんですね。
 東京の人は何か、自分が日本を動かしていると思っているじゃありませんか。それもモノカルチャーで動かしてしまう。だから全然、面白くない。今、叫ばれている地方分権は権利や経済の面が強調されていますが、私はむしろ日本のカルチャーの豊かさのために地方分権を、と言いたいですね。たまたま、生命誌研究館は大阪にできたんですけれど、私の気持ちの中でも、新しいことは何でも東京だということはないだろう、生物学をやるなら京都大学や大阪大学などに面白い方もいらっしゃるし、西から発信するのがいいだろう、と思ったのもたしかですね。私にはそういうおっちょこちょいなところがあるんです(笑)。まあ、日本は北から南へ長くのびた国ですから、楕円に中心が二つあるように、日本は中心が二つあったほうがいい。東京だけで頑張っていると、日本が面白くなくなってくるんです。
 実を言うと、東京が今、ある意味でどんどんアメリカ化していますね。岐阜県の梶原知事が「東京はアメリカの一部なんだから、あそこはほっといて我々だけでやりましょう」なんて、よくおっしゃる。それは知事独特の言い方なんですが、私もうなずくところがあるんです。
 生物学をやっていますと、今アメリカ型になるということは、世の中が金融経済で動く、科学技術で動く、ということなんです。20世紀はやっぱり機械文明、科学技術文明だったと思うんです。そこから脱却して、みんなで命を大事にしましょう、ということを基本にした技術や経済をつくらなければいけない。技術や経済が先で、そこに生きものが巻き込まれていくのではなくて、生きものを大事にしよう、食べものは安全でおいしいものをつくろうという、それが今は逆になっているんですね。

 私は21世紀は生きものの社会、生命文明の社会にしたいと思っているんです。金融経済、科学技術のために生物を利用しようというのが、今の流れなんですよ。たとえば、病気の人の細胞を取って研究する。それをもとに薬をつくる。この薬で特許を取り、企業化するのは当然です。けれども、この細胞そのものをお金の対象にしてはいけない。そこが危ない。アメリカでは既に、細胞がお金になっている。この流れは必ず日本にも来ると思うんです。少なくとも、人間の体はお金の対象にしてはいけないでしょう。かつて、奴隷なんて、まさにお金の対象にしてきたわけです。やっとここ50年ぐらいで、人権というものが世界の共通認識になって、みんなが健康でいきいきと暮らせる社会をつくりましょう、というが、今の社会のスタートのはずなんです。
 平等とか平和とか口にすると、何かバカみたいって思われかねない空気があるんですけれど、そういうことを誰もがまじめに考えられる社会にしていかなければいけない。その根本のスタートラインは、やっぱり「いのち」だろうと思います。誰だって「お金と命とどっちが大事?」と訊かれたら、多分、「命」って答えるでしょう。ところが現実の社会は、命よりお金が大事という姿で、この10年流れてきたなあ、と思います。どうしてお金、お金になったかと考えると、そこに命の複雑さということがあるんです。
 つまり、かわいい、大事だけではすまない。生きていくためには食べなければいけない。食べ合ったりする、そのときの悲しさ、怖さ、獰猛さ、いろんな面が出てきて、簡単に割り切れるものではない。でも、本当に命が大事と思うなら、複雑なものをそのまま受け止めなければいけない。今は複雑なことは嫌われ、何でも単純に明快にしないと受け入れられないんですね。
 そのことを考えるとき、思い出すのは美智子皇后さまが4年前、国際児童図書評議会の第26回世界大会でされた「子供時代の読書の思い出」というスピーチです。本当に近年、私が接した最高のスピーチでした。その中で皇后さまは二つのことをおっしゃっています。「それ(読書)は私に根っこを与え、ある時には翼をくれました。この根っこと翼は、私が外に、内に、橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに、大きな助けとなってくれました」。そして「読書は、人生の全てが、決して単純でないことを教えてくれました。私たちは、複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても」。
 生きものとしての根っこをきちんともって、あれをやりたい、これもやりたいという想像力、夢、つまり翼を持って生きる。そして複雑化に耐える力をもつ。今はパッとわからないともうダメ、すぐキレてしまう。キレるというのは、複雑化に耐えられないっていうことですよね。


中村さんは皇后さまのスピーチに触発されて「根っこと翼」という詩を書いた。そしてその詩をもとに、昨夏、ダンスイベント『根っこと翼』を開き、舞踏家ケイ・タケイさんと一緒にダンスも披露した。大地にしっかり根を張るサクランボの木と、空を自由にはばたくヒヨドリと、小学生のタロー少年は、共通の祖先から生まれた仲間だ。お互いに関係をもって生きている。「生命誌を通して、生命・人間・自然を見つめることで、根っこと翼を探したいのです」と、中村さんはそのダンスイベントのプログラムに書いている。くわしくは生命誌研究館の内容充実のホームページ(ダンスイベント『根っこと翼』ページ)をどうぞ。


 昨年は仲のよい韓国の女性造形作家・崔在銀さんと、『オン・ザ・ウェイ』という映画をつくりました。南北を分断する38度線の境界をテーマにしたものです。生きものというのは、私は私、アリはアリ、それぞれ一種のアイデンティティといいましょうか、個というものをもっていますよね。ある意味では閉じた私、といえるのですけれど、やっぱり開放系なんです。生きているときは必ず空気を吸い、何かをいただいています。閉じてしまったら、死です。国も同様ですね。日本は日本、アメリカはアメリカですが、21世紀は開かれた境界をもって生きていこう、という時代だと思うんです。

 世界地図を見ると、たとえばアフリカはタテヨコまっすぐな線、定規で引いたような直線で区切られている。自然界にはまっすぐな線なんてないから、もし国境を考えるとき、人々の生活を考えたら、川や山を境にするのが自然だから、必ず曲がるはずなんです。生活する人たちのことを全く無視して、植民地として勝手に線を引いたから、あんな直線分割ラインになったんです。だから直線は、ある意味では死を意味する。その象徴がベルリンの壁と朝鮮半島の38度線だと思います。
 38度線の板門店に行ってびっくりしました。ベルリンの壁は高かったけれど、38度線の境い目はひょいとまたげるくらいの高さなんです。でも、またいでしまったら戦争になってしまうわけでしょう。越えられるようなものをはさんで、もう半世紀近く、あちらとこちらで見つめ合っているんです。アフリカも朝鮮半島も、男性の権威主義が生活感覚のないままに引いた直線なんです。
 私はふだん、自分が女性であることをほとんど意識しないで動いているのですが、こういうことを考える底には、やはり女性という視点があるのかな、と思います。社会学者の鶴見和子さんとは、よくお話しします。鶴見さんはアメリカでバリバリの社会学を勉強されて帰国。公害の原点といえる水俣の研究で、自然を考えないで水俣病はわからないと感じた。ところが、勉強したアメリカの社会学では自然という言葉は禁句なんですね。悩んだ末に内発的発展とおっしゃった。「それぞれの土地にその自然・文化に根ざした発展があり、それを見ていくのが社会学である」という視点で、社会学をとらえ直したんですね。
 私もバリバリの西欧生命科学、分子生物学を勉強しました。だけど、分析では生命はわからない。生きものは、アリはアリとして、人間は人間として、生まれるものをもっている。「自己創出」していることに眼を向けよう、それを大事にしよう、と考えるようになりました。これは鶴見さんの内発的発展とそっくりなんですね。二人とも日常的には、女性ということを意識することなしに仕事をしてきたんですけれど、話しているうちに、「どうもこれは二人とも日本の女性だということが関係しているかもしれませんね」ということになったんです。

 生命誌研究館の活動も10年たって、またひと皮むけて次の展開をするところに来ています。生命操作も進む中でもっと強く生命の大切さを意識したいと思っています。日本人のもつ生きものへの気持ちを表現する「愛(め)づる」を見つけました。『堤中納言物語』の中にある「蟲(むし)愛づる姫君」の「愛づる」です。この話を虫好きの変わった女の子の話と思っていましたらちがうのです。お隣のお姫さまは美しい蝶をかわいがるふつうの子なのに、この姫君は人の嫌がる毛虫をかわいがる変わったお姫さま。そして両親はもとより世間の人が、毛虫を好むとは何と気味悪いことか、と非難するのに、この姫君は「くるしからず(平気だ)。よろづのことどもを尋ねて末を見ればこそ(流転の成り行きを観察するからこそ)、ことは、ゆゑあれ(個々の事象には理由がある)。烏毛虫(かわむし)の、蝶とはなるなり」と言い切っているんですね。これ平安時代、11世紀。近代科学の生まれる前です。すごいでしょ。
 よく読むと、蟲愛づる姫君にはみんな手を焼いているんですが、どこか憎めず、いやむしろ好きなんです。かわいい姫君と思っている。それだけの魅力をもっている。それは姫君が生きものの本質をつかんでいるからなのではないでしょうか。「愛づる」というのは、ただ単にかわいがるのではなく、本質がわかってそれを大事にすることです。
 たとえば、子ども。子どもは本来「愛づる」対象なんです。親は子どもを「愛づる」だったんですよ。ところが今は虐待したりする親が出てきた。そこで生きものはタヌキでもキツネでも鳥でも、上手に子どもを育てているじゃないか。それなのに人間が育てられなくなったのは、母性本能が失われたからだ。人間が自然から離れてしまって、そういう本能まで失ったんだ、とおっしゃる。私もそう思っていました。
 ところが、「蟲愛づる姫君」を読んで、少しちがうと思ったんです。「愛づる」は単に本能でかわいがることではない。もっと深く「君の本質は何だろう」と考える。それには相手をようく見つめて観察する。すると本質が見えてきて、愛づる気持ちが湧いてくる。子どもを静かにていねいに観察して、よく本質を見ないと愛づる心は出てこない。その時間とその感覚が、人間には大事なんです。野生動物と同じじゃない。愛づる心なしでは、生きものを扱ってはいけない。科学も同じ。根本に「愛づる」気持ちのない人は、生命科学に携わってはいけないのです。

【中村桂子】


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