月刊 中等教育資料 2004年9月号「提言」より抜粋
「愛づる心」を呼びもどそう JT生命誌研究館館長 中村桂子
 「生命は大切です。かけがえのない生命を大切にしましょう。」正しい言葉だが、どこか空しい。これを教室でくり返しても何も起こりそうもない。学校は社会と切り離されたものではなく、社会を構成する大人が次の世代を育てる場である。つまり、大人がどのような価値観を持っているか、どのような社会をつくろうとしているかによって教育のありようは決まってくる。社会が生命を基本に置くという価値観を持って動いているなら、生命尊重の教育はどのようにもなされ得る。人間は生きものであり、子どもといえども生きることの喜びや難しさを知っており、生活の中で生命尊重とは何かを学びとっていけるはずだからである。もちろんこれは、一筋縄ではいかない難しいテーマではあるが。
 一方、社会が「生命」と真剣に向き合っていない中で、学校でだけ生命尊重の教育ができるはずがない。そこで、現在の社会のありようを見た時、私には、生命がないがしろにされているとしか思えない。確かに、一人一人に聞けば誰もが生命は大切だと言うだろうし、日々の生活の基本もそこに置いているだろう。しかし今、多くの人が、社会として、また時代の流れとしては「生命」尊重とは異なる方向へ動いていると感じているのではないだろうか。
 生命を無視したいとは思わないのにその方向へ行ってしまうのはなぜか。重要な鍵は「時間」だと思う。効率よく事を進め、競争に勝つこと。最近の社会はこれを求めて、あまりにも忙しく雑に動いている。生きものは、ある時間を必要としており、それが切られると本質を失う。そうかと言ってゆっくりのんびりしていればよいというものでもない。ここで、生命あるものが必要とする時間を測るものさしが必要になる。
 さてそれをどこに求めるか。難問だが、幸い日本にはみごとな言葉がある。「愛づる」。私にこの言葉の重要性を気づかせてくれたのは、「堤中納言物語」の中の「蟲愛づる姫君」である。世は11世紀、京の都に毛虫を手元に置き可愛がる姫君がいる。当然大人たちはとんでもないことと諫めるのだが、この姫君は少しも動ぜずこう答えるのだ。「この虫をよく見つめているとだんだんに変化して美しいチョウになる。チョウは皆が美しいと言うでしょう。でもその美しさの本質はすべて毛虫の中にあり、それが現れてくるのです。そう思うとこの虫がとても素晴らしいものに思え、愛しくなります」。
 −生命を大切にするとはこれである。対象を見つめていると、その変化が理解でき、本質が見えてくることによって、真の愛が生まれてくるというこの時間が重要なのだ。美しいものを好むとか、瞬間的な輝きに惹かれるというのではなく、時間、つまり生きている過程を必要とする愛である。愛づる心を基本にした社会をつくること。教育の基本をここに置くこと。生命尊重の具体的な姿はこれであると思う。
 ゆとりの教育は、時間に眼を向けたという着眼点はよかったと思う。ところが、ゆとりという言葉の中に量的な時間しか見いだせなかったがために、大きな落とし穴にはまってしまったということはないだろうか。そこに与えられた時間は、周囲をじっくりみつめることによって、物事の本質を理解し、愛づる心を生み出すために使われなければならないのである。周囲とは、友人や家族などの人間、小さな生きものや石や星などの自然、そして社会である。幸い、日本文化にはそのような時間を大切にする心が存在するのである。「愛づる心」を呼び戻そう。それを生命尊重の具体的姿として提案する。
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