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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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【“生きている”と“生きる”】

2005.9.15 

中村桂子館長
 今日は9月11日。昨夜メキシコから帰ってきて(メキシコのことはいつか書きます)、留守中にたまった郵便物を処理したり、お洗濯をしたり、庭の手入れをしたり、もちろん選挙にも行ったり、バタバタ過すことになりましたが、いつも心のどこかでこの数字がうごめいていました。政治家でもないし、ジャーナリストでもない。日々動いていく事件を追うよりは、基本の基本を考えることの方が性に合っているので今の仕事を選んだわけですから、どんな時にもそれを考えることが大事だと思っていますが、そうは言っても社会に暮らす一人としては日々の動きにも無関心ではいられません。なかでも2001年9月11日は、“生命”について考える時とても気になる日です。
 大きく見ると、21世紀の社会のありようを予測させるできごとだったと言えます。DNA研究を基本にしながら、生命科学ではなく生命誌として考えようと思い、そこで何が大事かは直観的にわかってやってきたつもりですし、館のメンバーの力によって、それなりの実績が積まれてきたとは思っています。けれども、最近の社会の動きを見ていると、“生命”という課題の周囲をとても危ういものが取り巻いている感じがします。本来そこにあるはずの謙虚さやていねいさは消え、傲慢で乱暴な空気がいっぱいです。基本を考えながら学問の変化や社会の変化に対応するという、“誌”のもつ意味をもっと適格に整理しなければいけないという気持を強くしています。でも整理はなかなか難しい。もやもやするものを抱えて過ごすことになるわけです。生命科学を始めた時も、生命誌を始めた時も、もやもやを抱えて考えていたので、“生命”に向き合った以上、これはしかたのないことだと思う一方で、のんびり構えてはいられないとも思うのです。
 今日は、いつもより少し真剣に考えたということでしょうか。もしかしたら、これで整理ができるかもしれないという切り口が見えてきました。“生きている”と“生きる”です。

(附)昨日はここまでで終わりました。読み通してみて、“生きている”と“生きる”で終わったのでは何のことやらわからないだろうなと思いました。でも今日(9月12日)は、研究館の机の上に1週間分の書類やら手紙やらが載っています。その整理で余裕がありませんので、次の“一言”に書くという約束でお許し下さい。

 
 
 【中村桂子】


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