【社会への発信はていねいにする必要があるのではないでしょうか】

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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　企業の中堅の方たちに生命誌について話す時にいつも体験することがあります。生命誌の考え方を話すとそれは理解し、興味をもって下さるのですが、事前に期待されるのは、DNA研究によっていかに経済が活性化するかということのようなのです。オーダーメイド医療、ゲノム創薬など、新聞や雑誌では生命科学といえばそのような話が語られているのですから、期待が高まるのは当然です。でも、困ったことに私には、そのような将来像をうまく描くことができません。DNA、とくにゲノム研究は大事ですし、面白いものであることは確かです。その成果が健康や食べものづくりに活かされていくことも期待しています。でもゲノム解析がそのまま医療とつながるわけではありません。しかもまだ、どうつながるかというところがはっきり見えているとは言えません。現代の医療は病因を探り、そこから予防、診断、治療の方法を開発していきます。しかも、今問題になっている、がん、高血圧、糖尿病、リュウマチ、アルツハイマー病などはいずれも感染症に対して生活習慣病とまとめられています。しかし同じような生活をしていても、がんになる人もいればならない人もいる。この差は、遺伝子にあると考えるのは当然ですし、そこから重要な情報を得ることは大事です。でも、どんな遺伝子がどうなると病気になるのか、生活習慣が具体的に遺伝子とどう関わるのかということを知るのはなかなか難しい。考えてみれば、結核菌が感染しても発病する人もいればしない人もいたわけで、病気はどんなものでもその人の体、それも物質的な面だけでなく精神面も含めて全体の状態との関係で生じるものでした。でも感染症の場合は、病原体が圧倒的に大きな意味を持っていたので、まだわかりやすかったわけです。
　遺伝子と生活習慣の場合、どちらがどれだけの意味をもつのか、両者の関係はどうなっているのかということを解くにはどうするか。どちらについても知識が必要なことは確かですが、その関係が見えない中で病気を語るのはとても難しい状態です。イギリスのマドレーが書いた「やわらかな遺伝子」（原題はNature via Nurture　翻訳して紀伊国屋から出版しています。）はこの辺りを上手に述べています。研究の必要性はわかるけれど医療としての姿は見えて来ていないというのが現状ではないでしょうか。つまり今大切なことは、研究から医療までの総合的な姿を描くことだと思うのですが、それはなされていません。そこには、技術だけでなく生命観、人間観が関わるはずです。生命誌は、直接医療を対象にはしませんが、生命観、人間観は重要なテーマにしています。そこで少なくとも医療現場の人たちの生命観、人間観について、こうあって欲しいという考え方を出そうと考えました。それが“医療に関わる人のための生命誌講議”です。
　話は長くなり、しかもあちこちとびましたが、企業の方に「医療の姿」を明確に語れる状態ではないのに、研究成果がすぐ医療や産業につながるかのような偏った情報が流れているのが気になっています。最近も、タンパク質にならないRNAが遺伝子のはたらきを調節する大事な役割をするらしいことがわかり、ここでも複雑さが見えてきました。あまり簡単にわかるかのように言うのは、生命科学のためにもよくないこと。もう少していねいにしないと、なんだかサギっぽくなってしまいますから。
　
　
　【中村桂子】

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