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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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【生命誌は“なる”を見ていく ― ちょっと大げさに考えています】

2007.7.2 

中村桂子館長
 今年のテーマは「生(な)る」です。広辞苑では“なる”の項に、生る、成る、為るとあります。生命とはなんぞやと考えると行き詰まってしまうけれど、“生きている”を見つめていれば、次々とさまざまなことが見えて来るということに気づき、動詞で考えるということを始めてから6年目。まずは“愛づる”“語る”“観る”のように私たち(人間)の行為から入りました。生きものを知ろうと思ったら、まずは“愛づる”。これは今も研究館の基本です。“語る”も“観る”も大事です。年刊号としてまとめたものを見ると、多くの方から教えられたことがたくさんあることに改めて気づきます。昨年は“関わる”でした。これは人間の行為としても考えられますし、生きもの同志、細胞同志、分子同志、細胞と分子などの間の関わりとしても考えられます。そして、今年の“生る”は、生きものそのもの。もちろん私たち人間も生きものとして“生る”わけです。
 それほど深く考えてのことではなかったのですが、取りあげる言葉が自ずと生きものに近づく方向で動いてきたわけです。そして、“生る”まできて、実は世界そのものが“ある”のではなく“なる”ものなのではないかと思えてきました。生きものももちろんそうです。生命科学が、生物を“ある”ものとして分析していくのに対し、生命誌はすべてを“なる”ものとして見て行こうとする「知」と位置づけられます。
 生命誌は、ゲノムに書かれた歴史と関係を知る「知」と言ってきましたが、歴史というすでにでき上ったものを見るのではなく、生きものたちができ上っていくところを見るという姿勢をもっとはっきりさせなければいけないと思っています。すでに存在するものを分析して知ろうとするのでなく“なる”を見ること、“関わる”を見ることで、自然を理解しようという姿勢です。そもそも古来日本ではすべては“成り出でるもの”と見てきたと言われますし、ギリシア語のPhysis(自然の意味)も本来“現われ出る”という意味の言葉なのだそうです。「ものみな一つの細胞から」という朗読ミュージカルも好評でしたし(これについては、改めて書きたいと思っています)、生命誌をもう一度“なる”というところから考えてみようと思います。少し気張って言うなら恐らく、自然をモデルとしてでなく、自然そのものとして見る新しい知は、“ある”ものを分析するのでなく生成を見るものなのだろうと思うのです。季刊生命誌53号で紹介した佐藤勝彦さんの宇宙の生成の話がまさにそうでしたし、その時佐藤さんも、動詞で考えるのはよいですねと言って下さいましたから。宇宙に始まり、生きものまで、すべて“誌”かなあと大げさに思っています。


 【中村桂子】


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