地球上の生きものに、名を残す

地球上の生きものを分類するという作業は、際限なく続くでしょう。現在学名がついている生物は150万種くらいですが、近年の熱帯雨林での研究などから現存する生物種は1億か2億にもなるのではないかと言われています。人間なんて変な生きものが出現して、地球上のあらゆる生物に名前をつけ始めたわけですが、それでもまだ1%にも名前がついていないのです。それで僕の仕事になるわけですが、ダニの中でもササラダニササラダニの名前の由来「ささら(簓)」とは、竹の端を細かく裂いてばさばさにした道具のこと。ササラダニの頭から突き出している1対の感覚毛がこのささらに似ている。という害も益もない虫の分類が中心です。そんなことして何の役に立つのかと思われるでしょう。名前をつけられたほうだって、ありがたくもなんともないでしょう。しかし記載がないということは、もし地球上からその生きものが消えたら、その生きものがいたという記録が全くなくなってしまうということです。僕がよく引き合いに出すのはトキです。トキはみんなに悲しまれ惜しまれながら日本の自然から消えていったわけで、ある意味で幸せです。だけどササラダニの中にはおそらく、人間が環境を変えてしまったために、誰にも気がつかれずに日本列島からいなくなったものがいるはずです。もしそれが日本固有の種なら、地球上から消えていったことになる。あまりに哀れじゃありませんか。40年間ずっと、ダニに名前をつけるなんてばかみたいなことを延々とやってきて、450種類の新種を記載しました。この僕の仕事の原動力は、「こういう姿をして、こういう名前のダニが地球にいたんだ」ということを、地球の生物の戸籍簿に残してやりたいという気持ちです。

ササラダニ類の中でももっともかわいらしいヒメヘソイレコダニ。お腹に見えるのは落ち葉の糞バーグ。

昆虫少年、でも模型か切手に行っていたかも

父が日銀の京都支店に務めていた時に生まれたので、京都生まれですが、家は代々東京です。3歳で東京に戻りましたから、京都の記憶はほとんどなく、出生地は京都だけど出身地は東京って言うことにしてます。

小学校は、家から近かった学習院の初等科に行ったのですが、すぐに戦争が激しくなって、空襲で学校も危ないというので日光に集団疎開になりました。当時私のクラスには常陸宮が、2つ上には現在の天皇がいらしたので、贅沢なことにホテルを借り切って臨時の寄宿舎にしたのです。でも建物はきれいなのですが、寝起きは一人一畳分のスペース、食べ物は当然粗末なものしかなく、いつもひもじい思いでした。もうその頃には虫を捕るのが好きで、そんな疎開先でも、餌を入れた紙コップを地面に埋めてシデムシやオサムシを捕っていました。たまにしか食卓に出ない魚や肉を食べるのを我慢して、こっそりポケットに入れ、それを餌に使うときれいな色のいろいろな虫がとれるんですよ。全部丁寧にノートにスケッチして、自作の昆虫図鑑を作りました。当時も原色昆虫図鑑はありましたから、その日光甲虫版を作ろうと張り切っていたのです。この思い出のノートは戦後どこかへいってしまった。本当に残念、もったいないことしました。

自宅が空襲で焼けてしまったので、戦後は鎌倉の稲村ケ崎にある祖父の家で暮らしました。近くに海も山も川もあって遊び場には事欠かない。こどもの頃泥んこになって遊んだところが「ふるさと」だとすれば、鎌倉の稲村ケ崎がぼくのふるさとです。
そもそも虫が大好きになったきっかけは、『日曜の昆虫採集』という本に触発されたからです。日曜日になると野山に虫捕りに行く話が楽しくて、いつのまにか虫好きになってしまいました。もうひとつ、叔父である加納六郎の影響が大きいです。数年前に亡くなりましたが、ハエやノミなどの衛生昆虫の研究者で、最後は東京医科歯科大学の学長になったその叔父が、動物も鳥も昆虫も何でも来いで、一緒に野山を遊びまわりました。その体験が自然科学に入るきっかけになりましたね。

子どもの頃には他にも熱中していたものが2つ。切手の収集と模型電車です。でも、さすがにお小遣いが間に合わなくなってきたので、小学校5年生の時に、一つに絞ることにしました。六角形の鉛筆の側面にナイフで「コ」、「キ」、「モ」と印をつけて10回転がしたら、「コ」=「昆虫」が一番多く出たので、それからは虫一筋。他のが出ていたら、今どうなっていたか全然わかりません。そこで、もう虫の学者になると決め、小学校の文集には「農林技官になりたい」と書きました。当時昆虫学の本を書いてる人は、ほとんど農林技官だったからです。それで、東京大学農学部に行きました。

4歳、鎌倉稲村ケ崎の別荘にて。右:本人と叔父の加納六朗(後の東京医科歯科大学長)、左:母と妹。

学習院幼稚園生の時、妹と。

14歳、鎌倉稲村が崎の祖父の家の前で。(左端:本人)

17歳、叔父(加納六郎)と日光へ昆虫採集に。

18歳 高校の仲間と身延山へ昆虫採集に。この後、「捕虫網を振り回すのが恥ずかしく」なる。(中央:本人)

ササラダニと出会う

大学に入って、さあこれから研究対象を何にしようかと考えたんですが、実はその頃には昆虫以外のことをやろうと思うようになっていたんです。これまであまり人に言ったことはないのですが、実は、いい若者が捕虫網を振り回してるなんて恥ずかしくなってきた。それで昆虫以外の生物を、しかも天邪鬼ですから、誰も見向きもしないようなものを専門に研究しようと思いました。僕は、みんなと一緒にわいわいやるより、人の見向きもしないことをこっそりやってニヤッとするタイプなんです。それに、そんなに能力があると思っていませんから、競争相手のいないところでなら、それなりの専門家になれるだろうと思ったのです。そんなとき、佐々學先生の『疾病と動物』という本に行き当たりました。東京大伝染病研究所の所長をされた先生はノミやシラミなど衛生害虫の研究者ですが、この本のダニの項目の最後に、実はダニは寄生性のものばかりではなく、森の落ち葉の下に住むササラダニという非常に珍奇な形をしたものがいる、種類が多いが日本では誰も研究してないと書いてあったのです。この文章を読んで、「これだ!」って思いましたね。大学3年の時ですが、来る日も来る日も頭の中はそのダニのことでいっぱいで、夏になったら早速長野県の美ヶ原にダニの採集に行きました。そうしたら新種を発見してしまったのです。実はそのころ日本のササラダニは6種しか記録されていなかったというわけなんですけどね。

虫が好きで農学部の害虫学研究室に入ったのですが、そこは害虫に薬をかけてどうやって殺すかという研究ばかりなんです。そこで「ダニの分類をやりたい」って言ったのですから、とんでもないことだったわけですが、当時は学生もたくさんいたし、先生も面倒くさくなったのか許してくれました。それで、美ヶ原で見つけた新種のササラダニを卒業論文にしました。でも、森の落ち葉の下に住んでるササラダニの研究なんて農学部でやるべきことじゃないわけで、教授たちからは「理学部へ行け」とずいぶんいじめられました。「お前のやってることは日本の農業にどう役立つのか」と聞かれるのには困りました。しかしその頃はもう東大には分類学講座はなかったので、分類学だけではなく生態学もやりますからということで引き続き大学院も害虫学講座に居させてもらい、ササラダニと土壌・植生との関連の研究で学位を取りました。日本にはササラダニの専門家なんかいませんから、先生はみんな外国人です。学部時代から、ドイツのゼルニック先生、オランダのハンメン先生というダニの世界的権威に手紙を出して、分類について教えを乞うていたのです。お二人とドイツ語でやりとりできたのは、高校のときから外国語を英語でなくドイツ語で通していたおかげです。こんなところでも天邪鬼が役立ちましたが、逆に英語は独学で苦労しました。

大学時代。後列右端:本人

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長野県・美ヶ原で採集した新種報告の論文に載せた図。和名は指導教官の山崎輝男教授に敬意を表してヤマサキオニダニと名付けた。

22歳、東大農学部害虫学研究室にて。

25歳、大学院時代。来る日も来る日もダニの新種記載に没頭した。
(本人後方:ツルグレン装置)

ハワイの博物館へ

大学を出て博士号ももらいましたが、ダニの分類では就職先がありません。結局、世田谷にある非行少年の更生施設に行きました。どうしてそこなのか、わからないでしょ。実はそこの保護司の方が、ハワイにあるビショップ博物館のグレシット博士という昆虫研究部長と知り合いで、博物館から三角紙に包んで送られてくる昆虫をきれいな標本にして送り返すという作業を少年たちにやらせていたんです。子供たちが、トンボの翅が取れたら別のトンボの翅をくっつけたりしてしまうので、作業の監督に来てくれと言われたのです。黙々と作業だけする子供たちに囲まれて、毎日毎日標本の作りかたを指導していたのですが、正直つらかったですね。研究者になりたくて今までやってきたのに一体何をやってるんだろうと思うと涙が出てきました。それでもとにかく一所懸命やっていたら、1年後にグレシットさんから、「面倒な仕事をよくやってくれた、ついてはハワイの博物館に来ないか」という手紙が来たんです。喜び勇んで行きましたよ。ビショップ博物館は民族学と昆虫学しかない小さい博物館ですが、南太平洋の昆虫学の中心で、ハワイ以外のあちこちからも標本が届けられて、居ながらにして珍しいササラダニが見られました。ところがこの博物館は、研究員は毎日標本の整理をしなければならず、金曜日だけが自分の好きな研究ができる日だったのです。土日は休みでしたが、休日も仕事場に行くといい顔はされません。「なんだあの日本人は」って。とにかく一所懸命ダニの論文を書いていたら、ある日グレシットさんから「そんなに論文が書けるんなら、もう標本の整理はしなくていいから毎日研究しなさい」と言われて、とても嬉しかったですね。ハワイには1年しかいなかったのですが、その間に9つ論文を出しました。中でも一番嬉しかったのは、ササラダニの新しい「科」を発見できたことです。ニューギニアの森にカタゾウムシという飛べないゾウムシがいるんですが、その、翅が開かない背中に生えた地衣類に、ササラダニが住んでいたのです。普通のササラダニは雄と雌が大体同じかたちをしているのに、雌雄ではっきりとかたちが違っている。発見した生物の特徴を記載し、分類のどのグループに属するかを報告するのが分類学の基本ですが、従来の分類体系からはみ出る新種を発見した場合は、種をまとめる単位である「属」や、「属」をまとめる単位である「科」を新しく作ることになります。このササラダニは、「新種」「新属」「新科」の発見だったので、グレシットさんもますます喜んでくれました。こんな調子でずっとハワイにいるつもりだったのですが、1年経ったころに国立科学博物館から、日本に帰ってこいという手紙をもらいました。就職活動は全然せずに、やっと日本で就職できた。しかも博物館だから堂々と分類学ができる。とてもとても嬉しかったです。ただ、日本に帰ったら給料が5分の1になってしまいましたけれど。

26歳、ハワイのビショップ博物館に赴任。左から4人目。右から3人目はグレシット博士。

ハワイにて。初めて買った車
(Studebaker Lark)と。

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ニューギニアの森林にすむゾウムシ。背中に白っぽく見えるのは着生した地衣類(図C~E)。その背中に着生する地衣類の上に生息する珍奇なササラダニ(A雄、B雌)。

分類学を基本にした生物調査

博物館では、狭い研究室で朝から晩まで、野外で採集したササラダニを顕微鏡で覗いてその分類に熱中しました。特に、屋久島、奄美大島、西表島などはじめての島に上陸するときは、どんなダニが出てくるかわくわくしたものです。採集は一人のこともありますし、研究員が合同で行う、ある地域を対象にした総合生物調査の一環としてやることもありました。この場合はダニだけでなく、土壌動物全般を担当することになります。このような生物調査では、普通は「打ち込み法」といって、5×4×深さ5センチメートルの缶を地面に打ち、土を取って、この100 CCの中にいる土壌動物の数を数えて定量的なデータを出すのですが、あるとき、これでは種の多様性を評価できていないことに気付きました。林や森のように土壌動物が豊かなところでは、大きな石や倒木があったり、木の根本に洞があったりして、それをどかしたり、中を調べると他にはない種類がいます。ただ平らな場所に缶を打っても、その森にいるササラダニのほんの一部の種類しか採れていないということが、いろいろな土地の生物調査をやって分かってきたのです。それで僕は、「拾い取り法」というのを提案した。5メートル四方か10メートル四方かのところをはいつくばって、目に付くいろんなものを手でつまみ取とって袋につめていくんです。こうすると缶で打ったよりもはるかに多くの種類がとれて、その森に住んでいる種類を全部おさえたという安心感があります。打ち込み法は定量調査には必要ですが、種組成を調べるためには血の通った手でやらないとダメなんですね。その頃の土壌動物研究者は、種の多様性にはあまり関心を払わず、土の中の生物をおおまかにグループ分けしてその個体数を数えることで、自然界の生産力などを調査していました。しかし僕は分類学者ですから、どのような種がいるかにまず興味があったのです。そして「種組成」に着目することが、実はその土地の状態を知るうえで重要だということがその後の野外調査で判明しました。たとえば道路ができて環境が変わると爆発的に個体数が増えることがあります。富士山の調査をしたとき、森の奥と道路際でトビムシを数えたらどちらも同じ単位面積あたり7万匹。変だなと思って種組成を調べると森の奥は15種類で、道路際ではたった1種類。数は同じでも多様性はがくんと落ちていたわけです。土壌動物の多くは分解者ですから、土壌動物の多様性とは、自然がいろいろなごみを出している証拠です。ごみごとに担当する土壌動物が違うから、まつぼっくりの下と落ち葉の下では違う種がいる。それぞれの種が、好きな生息環境を持って棲み分けているわけで、これを微小生息域(microhabitat)と呼んでいます。「拾い取り法」は一見非科学的ですが、森の中の微小生息域を調べて、その結果を論文でイラストにしたらヨーロッパの研究者が面白がってよく引用してくれました。

科学博物館時代の土壌採集。

北海道ポロシリ岳調査。濁流を15回渡渉。(左から4人目:本人)

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富士山三合目の道路脇(富士スバルライン)から森の奥へ向かってのトビムシの個体数(グラフ)と種組成(円内の図)の変化。

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拾い取り法で調べた森林に住む土壌動物の種組成。林床のさまざまな堆積物〔植物遺体〕にはそれぞれ別の種のササラダニが生息し、分解に関与している。群馬県榛名山で調査。このイラストはヨーロッパの研究者に引用された。

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屋久島宮の浦岳単独調査行の際、国立科学博物館の同僚に出した絵入りの手紙。

ササラダニで日本の環境を調べる

国立科学博物館に入って10年目に大学からお呼びがかかりました。その数年前に『土壌動物学』(814頁)という本を書いたことがきっかけだったようです。当時は日本に土壌動物の教科書はありませんでした。そこで、日本にこの学問を定着させようと思って頑張って書いたのです。土壌動物とはどのような生きもので、どういうところに生息しているのかを紹介し、写真も図版も全部自分のを使って、814ページの本に5年くらいかかりました。こんな書物が出版されて大学の先生も驚いたんでしょうね。いっぺんに5つの大学からお誘いがありました。その中で、横浜国立大学の環境科学研究センターだけが教授での招聘だったので、そこに決めました。その時僕はまだ39歳で、博物館のヒラの研究員を教授にしてくれるってんで舞い上がったのですが、行ってみたら横浜国大には不文律があって、教授になるのは45歳以上じゃないとだめだったのです。それでも、2年後にはきちんと教授に昇格させてもらいましたけど。

このセンターは名前通り環境が看板なので、環境を意識しなければいけないと思い、大学院以来ご無沙汰していた生態学にもう一度取り組むことにしました。運良く、隣の研究室には宮脇昭先生という植生学の世界的権威がいらして、そこを出た原田洋君に助手になってもらいました。しばらくは、彼に土壌動物のことを教え、彼からは植生のことを教わる毎日でした。そして二人で、日本列島を網羅するササラダニの分布調査を始めたんです。日本のどのような環境にはどのような種が生息しているかを調査できる段階になったと思ったからです。日本をくまなく調べるため、まず国土地理院の20万分の1地形図に従って日本列島をマス目に区切り、さらにその中で気候帯ごとに10の地点を選びます。この10地点は、自然林から二次林、都市の植栽から畑までとなるべく様々な環境が網羅できるようにしました。そうすると、1マスあたり最低でも10地点、富山県のように暖温帯、冷温帯、亜寒帯、高山帯があるところは40地点となります。調査地点が全部で2900。サンプル採集に最初は2人で行きましたが、旅費がもったいないので途中からは1人が出かけて1人は研究室で待機です。目的地に着いたら地図を広げて、まず神社を探します。神社の敷地ではたたりが怖くて古い木を切らないから、その土地本来のダニが棲んでいる自然林が残っているはずです。神社に着くと、10円のおさい銭でお参りしてから、「拾い取り法」で目に付く落ち葉や土を少しずつ取らせてもらいました。全国でそれをやるわけですから、僕ほど日本列島の神社を拝んだ人間はいないでしょう。これが最初に話した謎の答えです。二次林や畑は探せばすぐ見つかりますのでさっさとサンプリングをすませて、航空便で送りました。研究室に残っているほうは、送られてきたサンプルをツルグレン装置ツルグレン装置採取した土から土壌動物を回収する装置。漏斗状の容器に土壌や落ち葉を入れ、下には落下してくる動物を受ける容器を置く。上方から電球で光と熱を与えると、中にいる動物の多くは下へ下へと移動するため、下の容器で回収できる。にかけ、抽出されたダニはアルコール漬標本として保存しておきます。こうして2900地点の調査を終えるまで6年ほどかかりました。

このような全国のダニの調査をやっているうちに、環境が変わると落ち葉の下のササラダニの種組成がまったく変わってくることに気付きました。もちろん標高や生えている植物によっても違うのですが、人間の手の加え方にササラダニは敏感に反応します。ちょっと木が伐採されただけでもすぐにいなくなるものから、都会の植え込みでも生き残っているものまでいろいろなタイプがあることが分かってきました。面白いことに、他のケダニやトゲダニはあまり環境変化に関係なく生息しており、ササラダニだけがこのような傾向を示すのです。そこで、そこに住んでいるササラダニの種類を調べれば、その環境がどれだけ自然に近い状態であるか分かるはずだと考え、ササラダニを指標生物にした環境診断のアイデアが浮かんだわけです。

横浜国立大時代の夜の研究室。
(左から3人目:本人、右から2人目:原田助手)

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日本列島全域2900の調査地点(赤色の点)。

土壌動物を用いた環境診断

環境診断法を2種類提案しました。一つは、土壌動物全体を指標とした環境評価で、ミミズやワラジムシなどに1点から5点までの点数をつけて、見つけたらその点数を足していく。種まで決めなくとも、「○○のなかま」でよいことにしました。ヤスデがいたら5点、ワラジムシがいたら3点、アリがいたら1点という具合です。とりあげた指標動物がすべて出たら100点になるようにしました。実際には100点はありませんし、こういう点数換算はもちろん乱暴な話なんですが、一般の人にはこの100点満点法が分かりやすいと好評で広く使われ、環境アセスメントにも取り入れられています。

もう一つは、ササラダニを用いた環境診断です。こちらは指標となるササラダニの各種に1点から5点を与え、この平均値を出すやり方にしました。ダニと土壌の関係は博士課程でも取り組んだテーマでしたが、pHや水分含量や有機物含量などとの相関を一つ一つ調べても、結局何と一番関係があるのかつかめませんでした。しかしその時は気づきませんでしたが、環境はpHや有機物含量だけで評価できるものであるはずがなく、ダニの種組成がどれともきれいな関係にないということは、全部の影響を受けていると考えるべきなのです。人間には、一つ一つの数値を足せばいいのか掛ければいいのかさっぱり分かりませんが、土壌動物は、種の豊富さというかたちで答えを出してくれるのです。これで高い値が出たら、おそらく土壌動物以外の生物も豊かに存在しているはずです。時々誤解されるのですが、これは別に土壌の善し悪しを判断しているのではなく、環境全体の特徴が土壌動物で評価できるということです。ですから、具体的に何を測っているのかと聞かれると困ってしまう。私はこれを、「自然の豊かさ評価」と呼んでいます。落ち葉の下というのは大気圏と土壌圏の間の非常にデリケートなところで、そこにどういう生物が住んでいるかは重要なのですね。生物による環境評価には大気中のある汚染物質とアサガオの葉の斑点の関係とか、川の水質と水棲動物の関係などがありました。でも土壌動物を使うのは多分世界でも初めての試みで、自然の状態を総合的に評価する方法としても画期的だったと思います。

指標生物というのは、調べやすいもの、調べると有効なものの代表ですが、そういう意味でも土壌動物、特にダニは指標生物として非常に優秀です。まず、意外かもしれませんがダニは移動分散力が大きいのです。歩くのは1分間に1センチメートルあまりですが、風で飛ばされてかなりの遠距離を移動します。ハワイのビショップ博物館には、空中を漂う微小生物、エアープランクトンの研究者がいましたが、飛行機に網をつけて飛ぶと地上5千メートルで小さいカタツムリがとれたそうです。そんな高いところをカタツムリが飛んでるなんて、楽しくなりますね。同じようにダニもたくさん飛んでいて、落ちたところが生存に適していれば生きるし、ダメなら死にます。つまり、Aというダニが住めるところには必ずAがいて、AがいないのはAが住めない場所ということです。また、ダニは年間を通じて種組成があまり変わりません。季節ごとに分布や活動場所を変えるものでは評価が難しくなりますが、その点ササラダニの調査はたとえ台風が来ている夜中の2時でも構わない。さらに、人間が余計なことをしそうにない存在だというのも大事です。例えば植物だと、世話をしたり引っこ抜いたりしますが、わざわざダニを取ったり増やしたりする人はいないでしょう。自然のままの種組成が調査できます。更に、調査のために環境を破壊しません。手のひらいっぱいで30種類くらいはいますからサンプルが少なくてすみますし、数も種類も多いので統計的にも信頼性の高いサンプリングができます。ただ欠点は、ダニも土壌動物も普通の人には馴染みがないことです。そこで検索表を作って、普通の人でも簡単に見分けられる工夫をしました。円盤検索表といって、真ん中からスタートして足が何対あるか、翅があるか、とチェックしていくと円周上の答えに行き着くようになっています。円形にしたのはこの方が何となく楽しいからで、答えが絵で出るというのもちょっとした人気でした。その後、どうせなら土壌動物の名前調べの本を作ろうという話が出て、30人くらいで分担して「日本産土壌動物-分類のための図解検索」(1078頁)を作りました。文章ではなく図で検索するので、外国人でも使えるわかりやすい本だと喜ばれましたよ。

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土壌動物による自然環境診断。32種類の指標動物が全て観察されれば100点となる。

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ササラダニの種組成から環境の豊かさを測る。拾い取り法を用いて調べた土壌動物の中でもササラダニ類に注目し、どのような種がいるかで環境を診断する方法。図は環境診断に用いるササラダニ類100種の一部。ダニに付した数字は評価点数。5点の種類は環境の劣化にもっとも弱い。

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土壌動物の円盤検索図。足の数を問う中心部からはじめて、円周上の答え(イラスト)にたどり着く仕組み。

都市に住むダニ

最近は、都市にいるダニの研究しています。全国調査でどんな土にもダニがみつかるので、どこまでいくといなくなるのかが知りたくなったのです。最初に見つけたのは渋谷の東急デパートの屋上で、タイルの隙間の土にコケが生えてるのを見て、もしやと思ってスプーンですくってツルグレン装置にかけたらダニが出てきた。それがなんと、日本全国2900地点調査のどこからも出てこなかったダニだったのです。それで旅行に行くたびにデパートの屋上に上ってサンプリングしたのですが、釧路から那覇までほとんどのビルにいましたね。全部で20種類いましたが、シワイボダニ、サカモリコイタダニなどの4種類が圧倒的に多い。夏は手でさわれないくらい熱くて、雨が降らないとカラカラになる。冬はすごく寒くなり、栄養源になる有機物もきわめて少ないという過酷な環境です。こんなところにも生きものがいたことに興味をもってくれる編集者がいて、『都市化とダニ』という本になりました。本の帯には、「都会のコンクリートジャングルにひっそりと暮らすダニ達の生態。このまま都市化が究極の状態にまで進めば、都市は人とコケとダニしか住めない世界になるだろうと著者は予言する」なんて書かれていますが、日本全国のビルを写真つきで紹介していますから、読んだ人は、自分の知ってるあんなところにもいるのかと驚くことでしょう。こうして都市の生物に興味が出たのですが、僕の考える都市生物は5群。まず都市の廃棄物に依存して生活するドブネズミとかカラスなど。生息環境が変化しても都市に残留したアブラゼミなど。南方からきたクマゼミなど。外国からやってきたアオマツムシなどの帰化生物。そして、ビルなど都市の建造物が本来の生活環境と良く似ている岩壁動物です。例えばサカモリコイタダニの本来の生息地は、海岸の風衝低木林でした。年中潮風を受けて木が高く成長できない場所で、そこの土を調べたらいました。彼らにとっては、ここと都会の中央分離帯の植え込みは全く同じで、逆に、豊かな森に落ちたのは生き残れないわけです。シワイボダニはここでも見つからず、今眼をつけているのは断崖絶壁、岩棚みたいなところなので、ロッククライミングをやってる人にコケを採ってきて欲しいと頼んでいるところです。後から知ったのですが、鳥類では、ドバトやイワツバメが都市に住むようになったのは、本来の生息場所である中近東の岩場や海岸の岩壁がそれぞれ都市の環境に似ていたからだという指摘が既になされていました。都市生物のふるさと探しを始めたのは僕が最初ではないとわかって、ちょっと残念ですが。

海岸の砂浜に打ち上げられたゴミにも、見たことのないダニがいるのを発見しました。それで日本全国の海岸を車で走って、ゴミを拾って、ついでにおいしいサカナを食べて、できれば温泉に入ってから帰るという楽しい旅をはじめました。最初は漂着物に付いて遠いところからやってくるダニかなと想像しましたが、どうもそうではなく、波打ち際の環境が好きな種類がいるらしいんですね。それに気がついたのは、琵琶湖の湖岸で全く同じ種類が出たからです。そこで更に諏訪湖とか芦ノ湖とか各地の湖をまわることになりました。他にも洞窟の入り口とか温泉とか、全国調査で対象外だったところをできるだけ制覇しようと考えています。

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都市生物を構成する5つの動物群集類型。都市残留動物、帰化動物、南方系動物、岩壁動物、廃棄物依存動物。

都心の高速道路下の植え込み(下)の土壌からみつかったサカモリコイタダニ(中)の故郷は、海岸の風衝低木林(上)だった。

デパートの屋上(下)からみつかったシワイボダニ(上左)の故郷は、断崖絶壁(上右)と推定される。

環境庁の調査で北海道釧路湿原へ。この時もササラダニの新種を発見。

博物館と分類学

大学を退官後は、生命の星・地球博物館の館長として、再び博物館に戻りました。欧米では、大学よりもむしろ博物館のほうが、分類学やナチュラル・ヒストリーの研究の中心で、分類学者の理想的な居場所なんです。それが日本ではよく理解されていなくて、博物館はただ珍しいものを展示しているだけで、学芸員は標本にはたきかけてる人としか思われてなくて、社会的評価が低いのが残念です。

ナチュラル・ヒストリー(natural history)という学問は、自然史と書いたり自然誌と書いたりしますが、自然界に存在する植物や動物や鉱物や岩石などの自然物を、あるがままの姿で観察して記録して書き留めておくことです。そんなのは趣味でやればいいという人もいますが、生物学としては一番わくわくどきどきする楽しい学問だと僕は思います。今大学の実験室で、流行のDNA分析のために生きものを粉々にしたり試験管を振ってる生物学者は、本当に生物が好きな人ばかりではなくなったように思えます。でも昔からの生物学、特に分類学や生態学は、生物が好きでないとできません。好きだということは悪いことではないはずなのに、日本人はどうも苦しいことをやっているのが偉くて、楽しいことをやっているのは偉くないと考える人がいるようです。楽しいからこそ成果があがるのに。

今や博物館でさえ、そういう研究者の場として機能することが難しくなっています。生涯教育や、学校週休二日制の学習支援のための社会教育施設としての要請が、研究機関としての博物館の存在を許さなくなっており、学芸員はこれらの活動のために非常に忙しくなっています。今ほとんどの博物館の館長さんが、学芸員に対して、研究をちょっとやめて、社会の要請に応えて下さいと言わざるを得なくなっている。これでは博物館の学芸員がかわいそうです。彼らは動物や植物や鉱物が好きで好きでたまらなくてそこに入ったのです。その研究を抑えてしまったら、彼らの士気が下がって、生き甲斐が奪われてしまいます。それだけは守ってやりたいし、どんなに忙しくても論文だけは書け、学芸員がしっかりしなかったら日本の分類学はほろびてしまう、博物学も分類学もナチュラル・ヒストリーの研究の発展も君らの双肩にかかっているんだと励ましています。実際私のところでも、博士号を持ってる学芸員はたくさんいるし、その分野にかけては日本でただ一人の専門家が集まっているわけです。しかし事務系の人はなかなか理解して下さらず、博物館の研究者は大学よりも一段下だと思っている。ましてや県の施設だと県の教育委員会の下にあるから、教育委員会の人たちの理解が必要なのですが、研究者として評価されていないのが現状です。

日本動物学会賞受章祝賀会(1998年、63歳)。研究者仲間に囲まれて。

執筆した様々な本。単独執筆は10冊。共著・分担執筆などは25冊。

自然を“友達”にするには

博物館に来る人には、教育とか勉強とかを忘れて、まず楽しんで、感動して驚いて欲しいと思います。説明を読んでノートを取るのではなく、博物館には実物があるので、まずモノを見て下さい。今は生きものを映像体験で知っているだけという人も多いので、博物館くらいはよけいなサービス精神を捨てて、本物を30分でもじっくり見られる場所にしたいですね。その後で、解説を読んだり、興味をもったことについては学芸員にとことん質問すればいいのです。学校教育だと、基本的なことをしっかりやって、ある範囲までやればいいということになるのでしょうが、博物館教育では子供をどんどんおだてて、興味をのばし、豆博士みたいなのを育てます。最近では友の会の中学1年の少年が、私も見逃していたダニの新種を発見したんですよ。専門家としてはちょっと口惜しいような、うれしいような気持ちです。

子どもたちには、自然の中へ飛び出していろんなものをつかまえたり、とったりちぎったりして欲しいですね。虫を捕ったり、まつぼっくりや動物の骨をひろって宝物にするのがナチュラルヒストリーの始まりです。ところが今は、自然系の博物館の館長がこのようなことを言うと非難されます。今どき昆虫採集とは何事か、子どもたちには命を大切にしなさい、自然を大切にしなさいと教えれば十分だと。こういう風潮が頭にきて、「うわべだけの“自然は友達”」というエッセイを書いたことがあります。自然は友達とか、ふれあいの森を作ろうとか言う一方で、「触ってはいけません」ではおかしいのです。友達というのは堅苦しい挨拶をしなければならないものではなくて、ちょっとこづきあったりできる関係でしょう? 昆虫採集をすると、命の大切さが分からなくなるというのも違います。捕まえてきたものが死んでしまって、ちょっと心が痛む。それでいいじゃないですか。標本にするために殺したとしても、じっと見て、初めて自然の造形の素晴らしさに触れることができるようになります。それが大事なんです。命を大切にしなければいけないって言われると、子どものこころはどんどん自然から離れてしまいます。それに、子どもの昆虫採集くらいでは昆虫の数は減りません。大人のやってる環境破壊の方がよっぽど昆虫にとって脅威なのですから。

生きものの“種”を見分けられるようになれば、自然の造物の奥深さがよく分かってくるはずです。標本をじっくり見て違いを見つけるのもいいですし、魚を食べて、ヒラメはヒラメというひとつの“種”の名前だけど、カレイの仲間には色々な“種”がいて、種が違うと味が全然ちがうということを実感するのでもよい。魚屋さんでは紛らわしい名前の魚が並んでいることがありますが、賢い買い物をするためには種の名前と分類をおさえていることが必要ですね。自然を深く知るためには、“種”を通して生きものを見ることが大切なのです。

仕事一筋で趣味を持たない人は、実は大した仕事をしていない。趣味に熱中する人は仕事にも熱中して成果をあげている。
蛇取り。米軍家族住宅(池子)の調査で掴まえたヤマカガシ。小学生の頃から、友達とよく蛇取りに出掛けて、家に持ち帰って食べていた。ちなみにヤマカガシは美味しくない。
キノコ狩りも趣味の一つ。野山にはシイタケ・マツタケよりも美味しいキノコが一杯ある。
食いしん坊で、料理好き。子供たちが小さいころのクリスマスに、鳥の丸焼きで「カエル」を作った。
ヴァヌアツ旅行中、ホテルのコートで家内とテニス。どちらかというとバックハンドが得意なのは、子供の頃から捕虫網を左から右へ振って蝶やトンボを捕っていたためかもしれない。
“月夜のプランクトン” 幼稚園の頃に習ったクレパス画を、最近になって思い出した。あらかじめ、赤、気、青などの色を画用紙に塗っておき、その上を全部黒で塗り潰す。それから釘やナイフで引っ掻くと下から色が出てきて、なんとも幻想的な絵が出来上がる。意外と人気があって、何枚も書いては人にあげた。