遊びに夢中の女の子

故郷は岐阜県の養老町です。家を出ると目の前には北西から南東に連なる養老山地の山並みがあり、田んぼの用水路のあちらこちらから澄んだ水が湧き上がっていました。部屋で本を読むことが好きな妹に比べて私は非常に活動的で、毎日田んぼでドジョウをすくったり、おたまじゃくしを捕まえて育てたりしていました。庭でのセミ獲りも大好きでしたね。私の2年上の学年が団塊の世代ですから、子どもがたくさんいて遊び仲間には不自由しませんでした。授業が終わると家に戻ってランドセルを置き、すぐにまた運動場に集まったものです。中学校に上がった途端、誰も外で遊ばなくなってしまって寂しかったですね。まだまだ自由に駆け回っていたい気持ちでした。

子どものころは遊びに夢中で、自然や生きものは好きでも理科の勉強にはさっぱり関心がありませんでした。生きものについて学ぶことを意識したのは、大学で理科系に進むと決めた時で、なんとなく生物学を専門に選びました。将来の就職を考えての選択ではありませんでしたが、両親は「好きなようにやりなさい」と言ってくれました。ただし父からは、「家より半径100キロ以内の大学を選ぶこと」という条件がつきましたけれど。受験の年は東大で安田講堂事件安田講堂事件1969年1月、全共闘派学生が東京大学の安田講堂を占拠し、機動隊との間で3日間にわたり攻防が行われた事件。がありましたし、女の子の一人暮らしが心配だったのでしょう。とはいえ、家から近すぎる大学は面白くないと思い、半径100キロの範囲内でなるべく遠くにある奈良女子大学理学部に決めました。

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赤ん坊のころ、父に抱っこされて。父は私が自分の道を歩もうとするのを、さまざまな形で支援してくれた。

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母と着物でポーズ。研究者になった後、母は私が出張で家にいない間に京都へ来て、夫の家事をサポートしてくれた。

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幼稚園のころ。

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小学校低学年のころ。ずいぶんお転婆な子だった。

生き方の選択肢は幅広く

奈良女子大学でも東大の影響で学生運動が激しくなっていました。もっとも、講義室がバリケードで封鎖されて試験が延期になったと言えば大騒ぎのようですが、実際は普段通りに授業をする先生やスト破りする学生が大半でしたから、私も徹底して無関心を通し、普通の学生生活を送ることを選びました。容易に流されない性格が周囲にも伝わったのか、4年間学生運動に誘われたことすらありませんでしたね。

大学時代で思い出に残っているのは、3年生のころアメリカに2ヶ月間留学したことです。実際は、半分以上が遊びでしたけれど。まだ日本からは1000ドルしか持ち出せないなどの規制が多く、語学留学も珍しい時代でしたが、「これからの時代は海外を見ておく必要がある」という父の後押しのおかげです。4週間の英語研修後は、一般家庭にホームステイしながら、グレイハウンド・バスでアメリカを横断するプログラムでした。お世話になった家庭は、自家用飛行機つきの豪邸から老後のご夫婦お二人だけの家庭まで多種多様で、中には「離婚前の最後のメモリーに」と受け入れてくれた家族もありました。戦後、皆が足並みを揃えて努力してきた日本とは違い、豊かなこの国にはいろいろな生活の形がある。新鮮な驚きでした。後のアメリカ留学も迷わず決めることができましたし、父の助言は的確だったわけです。

大学生活の終わりごろから父は、「就職するなら家に帰ってくるように。大学に残って勉強を続けるならそれも良し」と言うようになりました。高等師範学校を前身とする奈良女子大は、学生全員が教員免許を取れるカリキュラムになっており、周りには教師を目指す学生がたくさんいました。そこで私も皆と一緒に教育実習に行ってはみたものの、すぐに教師は不向きとわかりました。自分はこのまま就職するべきか、まだ学びたいのかと考えた挙句、学士入学で法学部に入って弁護士になるのも悪くないなと思ったのです。ただし学士入学は毎年募集があるとは限りませんから、駄目だった場合の第二志望として考えたのが理学部の大学院でした。4年生のころには、法律の猛勉強に大学院試験の勉強、加えて卒業研究の実験と、全く違う3つのことを並行してやりました。若くて体力があったからこそできたことですが、このころはまだ自分の将来は定まらず、さまざまな方向に魅力を感じていたのです。

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大学時代、海外留学のためにつくったパスポートの写真。

「女の子に研究は難しいよ」

奈良女子大では植物を専攻しました。しかし当時の植物学は分類学が中心の静的な学問でした。生態学などの野外実習もあり、どうしても好きになれません。卒論では植物専攻の中でも実験室で扱える発酵酵母の研究を始め、その過程で、「より動的な生命現象を研究するためには、細胞壁がないことが重要なのだ」と自分なりに考えるようになり、大学院では動物細胞を研究しようと決めました。進学先は博士課程のある京大理学部が良いと思い、動物学教室や生物物理学教室の研究室をいくつも訪ねましたが、「女の子が研究者として研究を続けることは難しいよ」とおっしゃる先生ばかり。実際どこの研究室でもほとんど女性を見ませんでしたし、当時の京大理学部には女子専用トイレすらなかったのです。この困った状況を切り抜ける手がかりは、やはり父の援助でした。父は毎月の仕送りとは別に、「勉強のため、本は必要なだけ買いなさい」と書籍代をくれていました。そのおかげで岩波の『科学』や中央公論の『自然』、創刊されたばかりの『現代化学』など、当時の科学雑誌を一通り定期購読しており、当時の私にとって貴重な情報源になっていました。その中で特に興味を惹かれたのが免疫学だったのです。

はしかやインフルエンザなど、一度かかった病気に再びかかりにくくする免疫の存在は古くから知られており、18世紀にはそれを応用した種痘(天然痘の予防接種)が発明されています。その長い歴史から、免疫学では当時すでに細胞や物質のレベルで動的な現象を追うことができるようになっていたのが魅力的でした。抗体となるたんぱく質である免疫グロブリンの化学構造の解明や、ウイルスに対抗する物質であるインターフェロン発見などの成果が続々と報じられ、この分野が大きく動いていることが学生の私にも分かったのです。

ちょうど奈良女子大には、京大から免疫学の村松繁先生が講義にいらしていましたので、思い切って事前の相談もなく先生の研究室を受験しました。驚いた村松先生に志望動機を聞かれ、「先生が授業で何度もおっしゃっていた、『京大の学生は優秀である』というお言葉が心に残ったのです」と答えましたね。結果は幸いにも合格。村松先生の研究室の女子学生は私が初めてでした。結局その年は法学部の学士入学の募集がなかったこともあり、免疫研究に進むことになったのです。

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仙台の青葉城公園で、恩師の村松繁先生(京大名誉教授・故人:左)と。右はがんと免疫の関係性を研究していた熊谷勝男先生(東北大名誉教授・故人)。

免疫の手技を身につける

研究を始めたもののマウスを扱う実験が思いのほか辛く、初っ端からとても続けられないと思ったのですね。研究室を変えてもらえないか先生に相談し、教授会で議論してもらうところまで話が進んだのですが、気づくと研究室が非常に険悪な雰囲気になっていました。京大の上級生たちにとって、私の行動は一度向き合った問題から逃げ出すかのように見えたのでしょう。このまま研究室を去ってしまっては私自身が釈然としませんから、改めて残ることを決めました。とにかく努力して実験に慣れ、免疫の知識と手技を身につけていきました。まずは学ぶことからと思っていましたから、院生時代は自分が免疫学で何をやりたいかなどは一切考えませんでしたし、考えられませんでしたね。長く研究を続けてきたのも、大学院を卒業後に運良く職に就けたからに過ぎないと思っています。というのもこの時代、日本各地に国立医科大学が新設され、次々と上級生がそちらに採用されていきました。そして一人残った私が、村松先生の研究室の助手になったというわけです。

生体に病原体や異物が侵入すると、ヘルパーT細胞がB細胞に作用し、B細胞がその病原体に特異的な抗体をつくります。抗体は病原体に結合してその排除を促したり、毒性物質に結合して無毒化するなどの重要な役割を果たしますが、抗体産生にはヘルパーT細胞とB細胞に加えてもう一種類、未知の細胞が必要だとわかっていました。この細胞は、当時は「アクセサリー細胞(補助細胞)」と呼ばれていましたが、現在では「抗原提示細胞」として扱われます。どのような病原体が侵入したのかという情報を抗原としてヘルパーT細胞に提示する、抗体産生の開始の鍵となる細胞なのです。長年謎だったこの細胞の正体を突き止めることが、私の最初の仕事でした。

当時、世界ではマクロファージという免疫細胞がアクセサリー細胞の役割を担うという見方が大勢を占めていました。マクロファージは生体に侵入した病原体を無差別に捕捉する細胞ですから、病原体の情報を伝えている可能性が高いと考えられていたのです。しかし多種類ある免疫細胞の中で、抗原を提示するのがマクロファージであるという決定的な証明は誰もできていませんでした。

仮説を確かめるため、私はまずin vitro(生体外)in vitroラテン語で「ガラス器内で」を意味する。本来生体内で行われる現象を試験管内で行わせる時に用いられる。で抗体産生を検出する実験系を立ち上げることから始めました。マウスの脾臓から取り出した免疫細胞の一群に、抗原としてヒツジ赤血球を加えて培養すると、シャーレの中で抗体産生を起こせることが知られていましたから、これを土台にしました。苦労してようやく同じ実験を再現できるようになったところで、脾臓の免疫細胞を精製し、ヘルパーT細胞やB細胞を含むリンパ球の一群だけを取り出して抗原を加えました。すると予想通り抗体産生は見られず、ヘルパーT細胞とB細胞以外の細胞が抗体産生に必要であることを確認できたのです。いよいよここに、マクロファージを主成分とする付着性細胞の一群を加えました。抗原提示細胞の正体がマクロファージならこれで抗体がつくられるはずですが、おかしなことに結果は不安定でした。抗体がつくられる場合とまったく反応がない場合があるのです。原因がわからず、助手になって1年が経とうとしたころ、たまたま「マウスの脾臓で新たな免疫細胞を発見した」という、ロックフェラー大学のラルフ・シュタインマン博士の論文に出会いました。その細胞は「樹状細胞」と名づけられていました。驚いたことに樹状細胞は、直接ヘルパーT細胞に作用し、そのはたらきを活性化すると書いてあったのです。もしかすると私たちが扱っている脾臓のマクロファージの中に、この新たな細胞が含まれていて、それこそが抗原提示細胞の正体なのではないか? そう考えました。

その後、東京の国際シンポジウムで、樹状細胞の発見者であるシュタインマン博士らに出会ったことが大きな転機でした。講演後のレセプションで私は、シュタインマンのボスのザンビル・コーン教授に声をかけられました。そして「よかったらロックフェラーへ来て一緒に研究しないか」と持ちかけられたのです。思いがけずニューヨークへ行って樹状細胞の研究ができるなんて、何とラッキーなのかしらと思いましたが、留学にはボスの村松先生の了解を得る必要があります。その旨をコーン教授に伝えたところ、シンポジウム終了後博多へ行く途中にわざわざ京都に立ち寄って村松先生と話をしてくれ、渡米が決まりました。

後から聞いた話では、シュタインマンたちも私たちと同じように、樹状細胞が抗原提示細胞だと考えて証明に取り組んでいたのですが、抗体産生を観察する実験ができないために先に進めずにいたとのことでした。免疫学の研究は個人の手技が物をいいますから、私が彼らの欲しがる実験系を確立していることを知ってすぐ声をかけてきたのです。ロックフェラー大学で互いの手技を補完したらすぐに結論が出ました。シュタインマンたちの開発したモノクローナル抗体で樹状細胞を選別し、私が組んだ実験系に加えると、シャーレの中で抗体ができたのです。樹状細胞こそが、ヘルパーT細胞を活性化して抗体をつくらせる抗原提示細胞であることが確実となりました。

留学期間の2年はあっという間でした。このままニューヨークにいないかと誘われましたが、同じ時期にダラスに留学していた夫が帰国の算段をしていたので日本に帰ると答えました。するとシュタインマンたちは、「大学の休暇中に実験しに来るといい。ぜひこれからも共同研究を続けよう。」と言ってくれました。この縁で、日本とアメリカを行き来しながらの樹状細胞研究が継続されたのです。

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シュタインマン博士の発見した樹状細胞。

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マクロファージ(上)と樹状細胞(下)

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樹状細胞の発見者のラルフ・シュタインマン博士。ロックフェラー大学の古い研究室で。

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樹状細胞に抗原提示の能力があることを示したデータ。T細胞とB細胞からなる培地に3通りの組み合わせで細胞を添加した場合の、添加量と抗体産生量の相関関係を示す。上:樹状細胞のみを加えた場合、中:樹状細胞とマクロファージが混ざった脾臓の付着性細胞を加えた場合、下:脾臓の付着性細胞から樹状細胞を除き、マクロファージのみを加えた場合。樹状細胞の数と抗体産生応答には高い量的相関が見られる一方、マクロファージのみでは抗体産生を誘導することができないことが分かる。(Inaba K, Steinman RM, Van Voorhis WC, Muramatsu S. 1983, PNAS, Vol. 80 (19), 6041-6045, Fig. 2より引用。)

病原体を捉えて動き出す樹状細胞

樹状細胞はその名の通り、樹木のように複雑に枝分かれした形が特徴です。シュタインマンがこの美しい細胞を最初に見つけたのは、電子顕微鏡を用いて観察していた脾臓でしたが、その後、さまざまな種類の樹状細胞が全身の末梢組織や器官にあることが分かってきました。150年前に発見されたランゲルハンス細胞のように、長いあいだ機能が不明だった細胞が樹状細胞の一種だとわかった例もあります。私とシュタインマンが樹状細胞の抗原提示を証明したことで、ヒトを始めとするほ乳動物の体のあらゆるところで、樹状細胞による免疫監視がなされていることが見えてきたのです。

樹状細胞を研究の主軸に据えてからは、研究が楽しくてやめられなくなりましたね。ロックフェラー大学は物資が豊かで、研究に没頭できる環境が整っていました。渡米前に電話で実験に必要なものを伝えておけば、着くころには全て揃えておいてくれましたし、マウスの世話や器具の洗浄も専門のスタッフがやってくれます。私としては、日本の大学の仕事から解放され、伸び伸び実験できることが何より嬉しかったのですけれど。ノートにスケジュールをびっしり書き込んで、早朝から深夜まで実験に明け暮れました。こうして、自分の研究室とシュタインマンの研究室を行き来する生活は20年以上続きました。

この生活を始めたころから、さまざまな種類のモノクローナル抗体やT細胞のクローンが研究で使えるようになりました。多数の免疫細胞が関わりながらはたらくようすを分子の視点から追えるようになり、樹状細胞の抗原提示の詳細なしくみが明らかになってきました。

抗原提示までの流れは、樹状細胞が侵入した病原体を捉えるところから始まります。樹状細胞は捉えた病原体を細胞内で分解し、その一部を抗原としてMHC(主要組織適合遺伝子複合体)という分子にのせて細胞の表面に掲げます。そしてT細胞が集まる最寄りのリンパ節まで輸入リンパ管の中を泳ぐように移動し、リンパ節の中をパトロールしているヘルパーT細胞に抗原を見せます。こうして抗原に結合してきた特異的なヘルパーT細胞を活性化するのです。私たちが当初抗原提示細胞だと思っていたマクロファージは、病原体を捉えるという点は樹状細胞と同じですが、樹状細胞のように末梢組織からリンパ節へと移動することはなく、また病原体を跡形もなく食べてしまうので、1次免疫応答1次免疫応答第一回目の病原体の侵入に対して起こる免疫応答。同じ病原体の二回目以降の侵入に対する反応は2次応答と呼び、1次応答より強い反応が起こる。を誘導するという意味で抗原提示の能力がほとんどないこともわかりました。

樹状細胞が抗原をのせるMHCは細胞表面に20万個ほど存在しますが、実際はその中でたった100個程度のMHCに抗原がのっていれば、ヘルパーT細胞を活性化できます。免疫系の中で最も強力な抗原提示細胞であり、細菌やウイルス、化学物質など、侵入したあらゆる異物の情報を抗原としてT細胞に示し、然るべき免疫応答を起こさせるのです。

一つのことに答えが出るとすぐにまた次の問いが生まれ、80年代は筆頭著者として1年に2本ずつくらい論文を書き続けました。仮説を立て、実験でそれを確かめる過程は面白くて仕方ありませんでしたね。とはいえたくさんの細胞や分子がはたらく免疫の研究は、実験で仮説通りの結果が出ることの方が稀です。あらゆる可能性を想定し、それを一つ一つ否定していくことでしか前進できませんから、私は常にいくつもの実験を並行していました。同時に世界では、大勢の研究者がそれぞれの視点で知識や手技をどんどん発達させていたので、それらをいかに上手く取り入れ、タイムリーに成果を出し続けられるかも試されていると感じました。

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ロックフェラー大学で、オーストリアから留学中の博士研究員(Nikolaus Romani 現・オーストリア・インスブルック大学教授)と並んで実験。大学の春休みと夏休みに加え、年末年始にも実験をしに来ていた。

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ロックフェラー大学と京大を行き来していた頃。近くのセントラル・パークにて。

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サンフランシスコで。アメリカでは実験室に籠りきりで、遠くに遊びに行くことは稀だった。

樹状細胞はどこから来るのか

マウスの樹状細胞は全免疫細胞のうちのたった1%程度で、最も採取しやすい脾臓から得られる量もごく2%に満たない数です。生化学的な実験に足る数をなかなか採れないのが難点でした。そこで私たちは樹状細胞のはたらきの解明と並行して、樹状細胞をたくさん手にするための技術の開発にも取り組んできました。

未分化な樹状細胞(前駆細胞)はまだ増殖能力を残していますから、それを取り出して培養し、数を増やそうと考えました。樹状細胞が骨髄でつくられることは早くからわかっていたので、マウスの骨髄から細胞を取り出して色々な条件で培養しました。様々な細胞を刺激してサイトカインなどの物質をつくらせ、その培養上清を骨髄の細胞培養に使ってみたのですが、なかなかうまくいきません。

樹状細胞は皮膚の角化細胞やマクロファージの培養上清で育てると「活きがいい」のですが、ちょうどこの頃、それがGM-CSFというサイトカインの作用だとわかってきました。折しも世間では遺伝子組み換え技術によって、サイトカインなど目的の物質を細胞内で大量につくれるようになってきたところで、世界に先駆けてキリンビールの製薬部門がリコンビナントGM-CSFリコンビナントタンパク質組み換え技術によってつくられたタンパク質のこと。を供給してくれるようになったのが幸いでしたね。これを使うと骨髄の細胞が増殖することがわかったのです。しかし今度は顆粒球顆粒球血液を構成する白血球のうち、細胞内に顆粒がみられる細胞を指す。好中球、好酸球、好塩基球の総称として用いる。樹状細胞と同様に、骨髄でつくられ、血液を介して体の末端に供給される。など目的外の細胞が増えてしまい、樹状細胞を取り出せないという問題に突き当たりました。結局、どうしても他の細胞をきれいに除くことが難しく、一時はもう諦めかけたのですが、考えた末に方針を転換しました。樹状細胞は、数は少ないものの全身にくまなく分布していますから、骨髄と体の末端をつなぐ血液に前駆細胞が流れているはずだと考えたのです。血液中のリンパ球などを除き、GM-CSFを加えて培養を繰り返しました。

ついにある日、シャーレの底にくっついたマクロファージの下に、もこもこと増えている細胞の一群を発見。増殖を始めた樹状細胞でした。血液中に樹状細胞の前駆細胞がごくわずかながらあったのです。必ずあるはずだと思っていましたから感無量でしたね。また、分化途中の樹状細胞はプラスチックに付着する性質があり、マクロファージなどと集合体を作ってシャーレの底にぴったりくっつくことがわかりました。ここで付着性をもたない顆粒球をシャーレから洗い流してしまえば、容易に樹状細胞のみを取り出せると思いついたのです。結局この方法を発展させ、当初うまくいかなかった骨髄でも培養に成功。念願がかなって1992年に培養方法を確立しました。これで研究に困らない数を常に確保でき、ようやく誰もが樹状細胞の研究に着手できるようになったわけです。ここまで約10年という長い道のりでした。研究がいかに時間のかかるものかということが、よくわかりますでしょう。

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樹状細胞の培養法の論文に掲載した図。ベール状の突起のある細胞が樹状細胞。培養4日目のシャーレから付着性のない細胞を洗い流すと、マクロファージと樹状細胞の集合体が残る(A)。細胞の集合体を取り出し、(B)それを培養すると付着性の細胞と共に突起を持つ細胞が見られる(C)。これをさらに一晩培養して最終的に浮き上がってきた樹状細胞(D)。(Inaba K, Inaba M, Romani N, Aya H, Deguchi M, Ikehara S, Muramatsu S, Steinman RM. 1992, J EXP MED. Vol. 176, 1693–1702, Fig. 1より引用。)

基礎から臨床まで

樹状細胞の培養法を確立すると、医学や薬学の分野の研究者が一斉に樹状細胞の研究に参入してきました。感染症ワクチンなどさまざまな治療薬への応用の期待が高まり、樹状細胞の論文数も飛躍的に増えました。特に注目されたのはがん治療への応用でした。樹状細胞は外からの病原体だけでなく、体内で発生したがん細胞も抗原としてT細胞に提示します。もともと自己の一部であった細胞も、変異によってがん細胞になれば非自己として排除の対象となるのです。この作用をコントロールできれば、樹状細胞が免疫の作用でがんを退治する天然のアジュバント(免疫賦活剤)になるということは、私たちも初期から考えていたことでした。さまざまな研究の結果、樹状細胞を体から取り出し、がん細胞を取り込ませて体に戻すと、免疫応答によってがん細胞が排除されることが明らかにされました。今では患者自身の樹状細胞を培養してがん治療に用いる手法が開発されており、京都市内の病院のいくつかでも、樹状細胞ワクチンによる治療が受けられるまでになりました。自身の樹状細胞から作ったワクチンを、冷凍保存しておくことも可能です。

免疫学の研究者には医学出身の方が多いのですが、私は医師ではないので、自分で臨床への応用研究はしませんでした。ある科学的な事実が発見されてから医療現場で使われるようになるまでには、さまざまな分野の研究者や現場の人々の手が必要で、気の遠くなるような努力の積み重ねです。その中で私は、あくまで生物学的な問いを追いかけ、さまざまな応用につながる発見をするのが役割だと思ってきました。培養方法を確立して以来、多くの人が関わってくれたことで、樹状細胞の研究の裾野が臨床まで広がったことが本当に嬉しいですね。

30年近く共同研究をしてきたシュタインマンは、膵臓がんで亡くなる直前まで、自らを被験者として樹状細胞ワクチンを試していました。彼が亡くなったという知らせを家族から聞いた3日後、まだ悲しみのさなかにいた時にシュタインマンのノーベル賞受賞が発表され、驚きました。選考委員会が彼の死を知らずに生理学・医学賞の授賞を決定したのです。ノーベル賞は生存者だけに与えられるのが原則ですが、その後、例外的に受賞の決定を覆さないとの知らせを聞いて安心しました。けれど、あと3日のところで受賞の知らせが本人に届かなかったのは本当に残念です。一方で、彼が築き上げ、身を以てその力を示そうとした樹状細胞の研究が広く世間に知られることになったのは良かったと思っています。

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自然免疫学の審良静男さん(大阪大学教授:中央)と、シュタインマン博士と。シュタインマンはこの2年後に膵臓がんを発症した。手術後、樹状細胞を使った治療と化学療法を組み合わせて比較的元気に過ごし、4年半生きることができた。

寛容をもたらす樹状細胞

多種多様な細胞や分子の発見により、今や免疫の全体像は非常に複雑なものだとわかってきました。どんな生命現象もそうなのかもしれませんけれど。私が研究を始めたころの免疫学には、「自然免疫」と「獲得免疫」という概念すらありませんでした。今では、体内に病原体が入るとまずマクロファージや樹状細胞が病原体を無差別に捉える「自然免疫」がはたらき、その次にT細胞やB細胞が病原体に特異的な抗体をつくる「獲得免疫」がはたらく、という考え方が当たり前になっています。樹状細胞は、抗原提示という役割を通して両者を結びつける要だったわけです。

樹状細胞のはたらきは、当初考えていたより遥かに広いものでした。実はこの細胞は病原体が侵入したときだけにはたらくのではなく、絶えず動いているのです。樹状細胞が病原体を取り込んでいない定常状態にあるときは、新陳代謝によって生じた死細胞を取り込んでT細胞に提示していることがわかりました。そして自己の細胞や成分に反応するT細胞があると、それを除いたり、不活性化することで、免疫が自己を攻撃することを抑えます。つまり、樹状細胞が自己免疫疾患自己免疫疾患免疫が自身の細胞や組織を異物とみなして攻撃してしまうことで起こる疾患。リウマチや1型糖尿病などが挙げられる。を防いでいるのです。また、花粉や埃などアレルギーの原因になりうる物質を取り込んで、それらに反応するT細胞を不活性化させていることもわかりました。樹状細胞は免疫のはたらきを促すだけでなく、自己免疫疾患やアレルギーなど、過度な免疫のはたらきを抑える「免疫寛容」をもたらす役割もあるのです。

本来、T細胞は自己の細胞や成分に反応しないものだけが胸腺で選別されるのですが、私たちの体はさまざまな成分でできています。特に腸内細菌やインスリンなど、末梢組織にしかない成分に反応してしまうT細胞を、一つ残らず胸腺で除くことは不可能です。ですから、末梢組織に供給されてくる新しいT細胞には、樹状細胞が絶えず抗原提示を行うことで、自己に対する誤った反応を防いでいるのです。このはたらきはヘルパーT細胞や制御性T細胞、マクロファージ、さらには組織の環境と相互作用しながら維持されており、樹状細胞は状況によって役割を使い分けているようです。そしてこの絶え間ない営みがあるからこそ、免疫は自己を傷つけることなく的確に病原体だけをやっつけられるのです。樹状細胞が、免疫の中心にいる「立て役者」であることが見えてきました。

私は確たる目標があって研究者の道を選んだ訳ではありません。物事を深く考える性格ではなく、ただ、今やっていることをやっていくというだけなのです。そのおかげか、何か一つの実験の結果がダメでも「まあ、いいか」と考えることができました。私の研究のやり方は、さまざまな条件に応じて柔軟にはたらく樹状細胞を追うのに合っていたのかもしれません。

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2011年の研究室。渡米の際は時には2名ずつの学生を連れて行き、向こうの研究環境を体験できるようにしていた。

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皮膚科学会で樹状細胞についての講演を行い、当時の学会長だったアトピー性皮膚炎の研究者の古江増隆先生(九大医学部教授)から、感謝状をもらった。(2011年ごろ)

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会長として主催した「マクロファージ分子生物研究会」にて、糖鎖生物学の入村達郎先生(現・順天堂大学特任教授)と。(2000年ごろ)

しなやかに、たおやかに、折れないで

2003年に京大の生命科学研究科の研究科長になりました。京大で女性が「長」のつく役職に就いたのは私が初めてでした。以前から研究の世界に女性が少ないことは気にはなっており、その後は女性研究者支援センター長を担当しました。こうした仕事は他にやる人もいませんし、私の世代は女性研究者が極端に少ないので仕方ないかなと思い、一生付き合っていこうと覚悟を決めました。2013年からは副学長となりましたが、さらに2014年には理事・副学長(男女共同参画・国際・広報担当)に就任することになり、この役職は研究との両立は難しいと思って、1年半後の定年を機に研究の一線から退いたのです。樹状細胞に関しては自分なりに納得できるところまで研究を進めることができたので、今は副学長の仕事に専念し、女性研究者の支援にも力を注いでいます。

男女を問わず若い人には、まず自らが強くあることを忘れずにと言っています。そうすれば個性を発揮でき、さまざまな支援も生きてきます。もう一つよく言うのは、人との縁を大切にということ。私の場合、シュタインマンたちとの縁が長く続いたおかげで研究を続けてこられました。研究だけではなく、いろいろな繋がりを大切にすれば、それがまた思いがけない新たな繋がりを運んでくれるでしょう。嬉しいことに、研究を退いた今でもアメリカから友人が訪ねて来てくれます。つい最近は、シュタインマンの息子さんの奥さんが、友人を連れて来てくれたんですよ。また研究科長時代に出会った松本紘前総長は、話しているうちに奈良女子大学付属高校のご出身だと分かって意気投合し、今では一緒に「京都奈良県友会」の会長と副会長をやっています。人との繋がりがいろいろな機会をもたらしてくれて、面白いものですよ。

人生も研究も、一つの可能性だけに固執すると上手くいかないときに落ち込んでしまいます。落ち込んで、傷ついてまでやらなければならないことなんて、この世には何一つありません。どんな状況も自分次第ですから、しなやかに、たおやかに、折れないように生きて欲しいと願っています。

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毎年行っている、動物学教室出身の教授の集まり「蕪庵会」。京大初の女性教授、柳島静江先生(京大名誉教授・故人:前列左端)、村松先生(前列右端)、川那部浩哉先生(京大名誉教授:前列右から3番目)たちがいる。さまざまな人との縁を大切にしている。(本人:後列中央)。

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IL-6の機能を解明した免疫学の大家・岸本忠三先生(大阪大学)と。

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理事・副学長に就任後、海外出張のおりに山極寿一総長(右)と。