いさ・ただし/人間の脳の働きを考えてきたのは私たち「脳研究者」と称する人種の人間だけではありません。哲学、とくにカントの「純粋理性批判」は今でも環境と脳の関わりについて考察した最も優れた脳研究書のひとつだと思います。このように哲学の天才達が思弁のうちに既に理解していたことを私達研究者はひたすら実験によって証明しようとしている・・・ということなのかもしれません。しかし、過去の哲学の天才達もこのような脳の働きがわずか1キロ余りのタンパク質と脂質、糖質、水さらにわずかな無機イオンでできた塊にどのようにimplementされているかということについてまで十分なアイデアは持っていなかったことでしょう。
私が神経科学研究の道に入るきっかけは、医学部の学生時代に東京都老人研の佐藤昭夫先生の研究室で実験研究に参加する機会をいただいたことに遡ります。そのときの研究は麻酔ラットの副腎髄質を支配してノルアドレナリンなどの分泌を促す交感神経節前線維の活動を記録しながら末梢の求心性神経を刺激して起きる反射的応答を調べる実験でした。触刺激や痛み刺激は反射的に副腎機能を調節しますが、intactな脳の動物と脊髄と脳を切断した動物では反射の起こり方は全く異なります。この時に信号が脳の中をどのように流れているのだろうか、と不思議に思ったのがそもそもの始まりでした。その後の私の研究歴はめまぐるしく変わります。大学院で入った東大脳研の神経生理部門(3年間)では、視覚刺激に対して頭を向ける運動を制御する神経回路をネコを用いて電気生理学的・神経解剖学的手法を用いて調べる研究をしました。その後スウェーデンのイェテボリ大学生理学教室への留学中(2年間)はやはりネコを用いて上肢の到達運動を制御する脊髄神経回路とその機能を電気生理学実験、行動実験からしラベル研究に従事しました。そして帰国後東大の助手時代(3年間)は大学院時代の研究の延長として、実際に視覚刺激に対して頭を向ける運動を遂行しているネコの脳幹の同定されたニューロンから活動記録を行い、頭部の運動制御系も眼球と同じく水平系と垂直系が異なるシステムによって制御されていることを明らかにしました。その後、一大転進をし、群馬大学医学部(講師・助教授、2年半)では、スライス標本を用いて海馬、大脳皮質ニューロンのAMPA型グルタミン酸受容体のCa透過性を調節する分子機構をスライスパッチクランプ法と単一細胞RT-PCR法などを用いて解析する研究に参加しました。そうしているうちに、現在の勤務先である生理学研究所から教授にならないかとお誘いを受けたのは私がまだ34歳のときでした。「これは天から与えられた2度とはないチャンスである」と興奮し、絶対あとで後悔することのないように思い切ったことをしようと考えてそれまでの研究テーマをやめて、全く新しい研究を開始することにしました。群馬大学にいた90年代中ごろは既に分子生物学が脳の統合機能の研究を指向していた頃でしたが、分子・細胞レベルの研究と行動レベルの研究は必ずしもつながっていないように思えました。そこで1996年1月に35歳で自分の研究室をスタートすることになったとき、脳機能の分子から行動までをつなげる統合的理解を可能にするような実験系を作ろうと考え、そのモデルシステムとして、視覚刺激に対して眼球のサッケード運動を起こす中脳の上丘の局所神経回路の動的調節機構と動物の「注意」をむすびつける研究を開始しました。上丘の浅層は視覚入力を受け、深い層は運動出力を出しますが、その間の信号伝達はいつもつながっているわけではなく、動物の注意のレベルによる調節を受けます。注意のレベルが高いと直接流れるようになり、その結果眼球運動の反応時間は飛躍的に短くなりますが、注意のレベルが低いと直接流れず信号は一度視床から大脳皮質を経由して運動を制御することになるため、反応時間は長くなります。私達はこの信号伝達の切り替えに、上丘へ入力するアセチルコリン作動性線維が関与していることを、スライス標本を用いた電気生理学実験とサルにおける行動実験を組み合わせるという他のどこにも例のないような戦略で明らかにしてきました。私の研究室では幸いにも優秀でNICEな共同研究者達が集まってくれたので、ラットのスライス標本を用いた電気生理・局所回路の解剖学的研究、サルを用いた電気生理・心理生理学的実験、マウスの行動実験が動き、それから新たにラット・マウス個体を用いた神経回路を解析する電気生理実験が動こうとしています。語られる言葉も「シナプス電流」「イオンチャンネルのキネティクス」から心理学用語まで実に多様です。私自身、それぞれのレベルの実験にそれなりの「こだわり」があり、同じやるなら細部にわたって徹底的にやるように心がけています。また今年から私がprincipal researcherになって、Human Frontier Science Programの国際共同研究が始まり、以前に留学していた先のスウェーデンの研究グループとともに腕の運動制御に関わる神経回路の研究を再開することになりました。これまでネコで行ってきた研究を霊長類とげっ歯類(ラット・マウス)に展開してより理解を深めようとするちょっと野心的な試みです。こうしているうちに岡崎に来てからの時間(5年)がこれまでで一番長いものになりました。今は時間が経つのが本当に速いと感じています。このようにいろいろな研究を今は展開していますが、私の中では、結局私がやろうとしているのは「脳幹・脊髄レベルで起きる反射的機能が注意や動機付けなどの高次機能の作用によってどのように調節を受けるのか、という視点から脳の統合機能を理解しようとする」ということで一貫しています。これは実は学生時代のスタート時点で自律神経系を扱いながら培われたもの考えだと思い、「三つ子の魂百まで」を実感しています。私の一見分裂症的な研究スタイルは傍目からは「いろいろやっていて、一体何がやりたいのかわからない」と映るかもしれませんが、私自身は一度しかない人生ですから後悔することのないよう、今しばらくは現在のスタイルで突っ走ってみたいと考えています。
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