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神経科学 発生学 細胞生物学 ショジョウバエ 関東
  ハエの神経回路を「ぜんぶ」調べる
顔写真
氏名   伊藤 啓
name ito kei
e-mail itokei@nibb.ac.jp
住所1 東京大学分子生物学研究所 高次構造研究分野
住所2  
telephone 000-0000-0000
facsimile 000-0000-0000
住所3  
いとう・けい /1963年生まれ。男だが、髪は研究所で一番長い。
「宇宙戦艦ヤマト」の波動エンジンにあこがれて、「人類が西暦2199年に、あのようなものを設計図をもらうだけですぐに作れるようになっておくためには、重力波など関連する現象を今のうちにきちんと研究して理解しておかなくては」と考え、日本では唯一重力波の実験的研究をやっていた東京大学の理学部物理学科に入った。しかし量子論・相対論の難解な数式には早々に落ちこぼれてしまい、このままこの道で研究の真似事を続けても大した貢献は出来ないだろうと自分に見切りをつけた。学部の3年から4年に進む頃である。さて、では何をしようか、と考えたときに頭に浮かんだのが、今度は「キャプテン・ハーロック」であった。ハーロックが操る宇宙海賊船アルカディア号には、死んだ親友の心を移植したバイオコンピューターが搭載され、ハーロックの相談相手になっている。西暦2970年にああいうものを作れるようにするには、いま何をしておくことが必要か?

 人間の脳を再現したいからと現代の貧弱な知識で膨大複雑なヒトの脳にいきなり挑むというのは、「難しいものをそのまま調べるのでなく、なるべく単純な実験系を使って本質的な原理を理解する」という物理学を学んできた者の心得に反する。全ての動物に共通する「センサーで取得した外界の情報を処理して、とるべき行動を決定するキカイ」としての脳がどのように作られ、どのように動作しているのかの基本原理がきちんと理解できなければ、知性・論理的思考・創造性・友情のような人間に特有の高度な脳機能の物質的背景など、理解できるはずがない。とはいえ、調べる神経系があまりに単純すぎると、多数の細胞が協調して情報を処理するという中枢神経系の本質を見のがしてしまう。そこで、単純すぎず、複雑すぎずの中庸をゆく実験系として、脳がシンプルな割にかなり高度な学習や行動制御を行い、しかも分子生物学的な実験技術が全実験動物のなかで最も進んでいる、ショウジョウバエの脳を研究しようと考えた。

 こういう経緯で1986年に堀田凱樹教授の研究室に進んだが、考えが甘かったことを知った。ゴルジとラモニ・カハール以来すでに百年。これまでの神経解剖学の研究で、単純なショウジョウバエの神経回路などは隅々まで大体分かっているだろうから、私はその知識を元にして、情報の流れを追ったりコンピューターシミュレーションしたり出来るだろうと期待していたのだが、そんな研究は実はほとんど手つかずのままだった。仕方なく、脳細胞を作る神経幹細胞がいつ、どこでどのくらい分裂するかを調べるところから初めて、1991年にその仕事で学位を取った。それからすぐに横浜港から上海行きの船に乗って、旧満州鉄道・シベリア鉄道に乗り継いでドイツのマインツ大学に移り、94年秋からは東京・町田の科学技術振興事業団ERATO山元行動進化プロジェクト、98年春からは岡崎の基礎生物学研究所・細胞増殖研究部門へと移ってきたが、このあいだ一貫して、ショウジョウバエ脳神経系のグリアや神経細胞の構造と、それが形成されてくる過程を隅々まで調べる作業を、コツコツと続けている。脳は高度に分散協働して情報を処理しており、脳のどこが何をしているか、人類はまだ全然理解できていないのだから、面白そうな一部分に飛びついてそこだけ調べるのでなく、「ぜんぶ」調べて全体像を把握しないとならない。

 写真のノウハウと美術センスが要求され、ラテン語単語が飛び交う神経解剖学は、メカものの他に写真や美術・デザイン、教会音楽に凝っている私にとっては、趣味の延長といえなくもない。この調子であと10年ほど頑張れば、私が大学院に入った頃に期待していたレベルに、やっと近づけるのではないかと思っている。いちおうは物理を修めた人間が、「発生神経解剖学」という一見物理学から最も縁遠く見える分野で働いているのは、こういう次第である。
 明日の社会をどうしてゆくか考えるのは、科学者だけの仕事ではありません。しかし、未来に向かって人類が何をすべきなのかを皆が考える際に、必要なデータを提供し、選択肢となりうる新たな知識や技術を提示してゆくのは、科学者に与えられた使命です。20世紀の私たちの便利な生活は、有機化学・電磁気学・遺伝学・進化学など、50年100年前の19世紀の基礎科学者の研究成果をベースにして築かれてきました。21世紀の基礎科学の研究は、21世紀でなく22世紀の人類がより豊かに便利に暮らすのに、もしくは迫り来る存亡の危機を何とか切り抜けて生き延びてゆくのに、必要な選択肢を提供する役に立つと期待しています。
もっと詳しく知りたい方へ
スライド、この一枚
 ショウジョウバエの神経系は、神経系全体の細胞数が10~20万、うち脳本体の細胞総数が約4万で、回路の複雑さとしては現代の高性能パソコンとほぼ同程度である。ヒトやマウスの脳よりは遥かに単純で、現時点の人類が持つ知識でも何とか解析できそうなレベルの情報処理システムだといえよう。同程度の複雑さの脳を持つ動物は、ハチやガ、ナメクジなど他にも色々あるが、高度に進んだ分子生物学的な実験技術を駆使できるのは、ショウジョウバエのみである。このため、ショウジョウバエは現代生物学において、単に昆虫の代表というよりは動物界を代表するモデル系として、神経系の機能や発生を研究するために利用されている。
 コンピューターと脳が大きく異なるのは、コンピューターの回路は第三者である人間が設計図に従ってトランジスターを配線でつなげて作るのに対し、脳の回路は誰かが設計図を見ながら神経細胞をつなげて作るわけではなく、細胞自らが互いを結ぶあって作り上げてゆく点にある。従って脳の回路を理解するには、単に完成品である成体の脳を眺めて神経細胞のつながり具合を調べる「神経解剖学」だけでなく、発生過程を追って、細胞たちがどのように振る舞って互いを結んでいくのかのルールを見つけだす「発生神経解剖学」の視点が欠かせない。  脳を構成する神経細胞やグリア細胞は、「神経幹細胞」とよばれる特別な細胞が何度も分裂を繰り返して作られる。幹細胞は単に未分化の細胞集団を作るだけで、子孫細胞は出自に関係なく、それぞれが独自に分化していくのだろうか?それとも、ある特定の幹細胞から作られた子孫細胞の一族は、完成した脳の中で、出自に応じて特定の回路や役割を担うようになるのだろうか?これは脳がどのように作られるかを考える上で欠かせない根本的な質問のひとつであるが、胚発生だけでなく成体の脳まで細胞系譜を追うことは技術的に難しく、これまでほとんど未開拓の研究分野だった。
 他の実験動物と異なり、ショウジョウバエでは幾つもの異なった合成遺伝子を個体に導入することが極めて容易である。私はこれを利用して、多数の神経幹細胞のうちのごく一部のみを発生の途中でランダムにラベルして、その幹細胞に由来する子孫細胞の一族が成虫でどのような構造を作っているかを調べられるシステムを作った。
 スライドに示したのは、このようにして作成した成虫の脳の標本の例である。丸い粒が集まっている部分が、ある幹細胞の子孫一族の細胞本体が集まっている部分で、そこから神経線維の束が伸びて、回路を作っている。ここに示した4つの例で見られるように、子孫細胞の一族は、出自に応じて特定のタイプの回路のみを形成している例がほとんどだった。一つの幹細胞に由来する細胞群(クローン)が作る、ひとまとまりの神経回路の構造を、クローナル・ユニットと名付けた。ショウジョウバエの脳の回路網は、沢山のクローナル・ユニットがモザイク状に組み合わさった構造と考えることができ、発生において細胞系譜の果たす役割が極めて大きいことが分かる。現在は脳に存在するクローナル・ユニットをなるべく隅々まで同定すべく、網羅的なマッピングを進めている。
 いっぽう遺伝子の発現パターンを様々な方法で調べてみると、特定の細胞系譜のみで発現するような遺伝子は、ほとんどないらしい。ショウジョウバエの脳の回路は、構造的には細胞系譜で決まる面が大きいが、個々の系譜の中にはさらに細かな分化があって、似た形をしていても遺伝子の発現パターンは異なる様々な細胞群が、一族の中に生じてくると思われる。クローナル・ユニットは、どうやってそれぞれが特徴的な構造を形成してゆくのか?一族の兄弟細胞たちは、どのようなメカニズムで微妙に異なった細胞に分化してゆくのか?未解明の問題は多く、興味は尽きない。
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