プロフィール
いとう・けい /1963年生まれ。男だが、髪は研究所で一番長い。 重力波の研究がしたくて東京大学理学部の物理学科に入ったのだが、量子論・相対論の難解な数式には早々に落ちこぼれてしまったので、「非常に出来の良いコンピューター」である脳へと興味を移した。脳をあくまで情報処理をするキカイとしてとらえ、その回路がどのようにして出来てくるのかを調べたいと思った結果、「発生解剖学」という一見物理からは最も縁遠く見える分野で働いている。大学院では堀田凱樹教授の研究室に進み、1991~94年はドイツ・マインツ大学客員研究員、94年秋からは科学技術振興事業団山元行動進化プロジェクト研究員、98年春からは、基礎生物学研究所・細胞増殖研究部門と移ったが、分子生物学的な実験技術が全実験動物のなかで最も進んでいるショウジョウバエの脳を、生体情報処理装置のモデル系として一貫して使い続けている。写真や美術・デザイン、教会音楽などにも凝っているが、写真のノウハウと美術センスが要求され、ラテン語単語の飛び交う解剖学は、趣味の延長といえなくもない。
ショウジョウバエの神経系は、脳本体の細胞総数が約4万で、回路の複雑さとしては現代の高性能パソコンとほぼ同程度である。ヒトやマウスの脳よりは遥かに単純で、現時点の人間の持つ知識でも何とか解析できそうなレベルの情報処理システムだといえよう。同程度の複雑さの脳を持つ昆虫は、ハチやガなど他にも色々あるが、高度に進んだ分子生物学的な実験技術を駆使できるのは、ショウジョウバエのみである。このため、ショウジョウバエは現代生物学において、単に昆虫の代表というよりは動物界を代表するモデル系として、神経系の機能や発生を研究するために利用されて
いる。
脳を構成する神経細胞やグリア細胞は、「神経幹細胞」とよばれる特別な細胞が何度も分裂を繰り返して作られる。幹細胞は単に未分化の細胞集団を作るだけで、子孫細胞は出自に関係なく、多様な細胞へと分化していくのだろうか?それとも、ある特定の幹細胞から作られた子孫細胞の一族は、完成した脳の中で、出自に応じた特定の回路や役割を担うようになるのだろうか?これは脳がどのように作られるかを考える上で欠かせない質問であるが、成体の脳まで細胞系譜を追うことは技術的に難しく、これまでほとんど未開拓の研究分野だった。
他の実験動物と異なり、ショウジョウバエでは幾つもの異なった合成遺伝子を個体に導入することが極めて容易である。我々はこれを利用して、多数の幹細胞のうちのごく一部のみを発生の途中でランダムにラベルして、その幹細胞に由来する子孫細胞の一族が成虫でどのような構造を作っているかを調べられるシステムを作った。
スライドに示したのは、このようにして作成した成虫の脳の標本の例である。丸い粒が集まっている部分が、ある幹細胞の子孫一族の細胞本体が集まっている部分で、そこから神経線維の束が伸びて、回路を作っている。ここに示した4つの例で見られるように、子孫細胞の一族は、出自に応じて特定のタイプの回路のみを形成している例がほとんどだった。
一つの幹細胞に由来する細胞群が作る脳構造を、クローナル・ユニットと名付けた。ショウジョウバエの脳の回路網は、個々の幹細胞由来のクローナル・ユニットが多数モザイク状に組み合わさった構造と考えることができ、発生において細胞系譜の果たす役割が極めて大きいことが分かる。現在は、脳各部のクローナル・ユニットをなるべく多く同定すべく、網羅的なマッピングを進めている。
インタビュー日記 (水色の文字を押すと音声が流れます)
※学会会場で録音したため、音声が聞き取りにくくてすみません。
98年5月30日の夕方、熊本での発生生物学会最終日も終わりに近いころ、空港へ向かわれるまでの少しの間にインタビューをさせていただきました。実は、それ以後続くインタビューの最初の方が、伊藤先生でした。やっとのことで言った「インタビューをさせてください」の一言。出発の時間が迫っているのに、快く「いいよ」と言っていただけた時のことを、私は忘れないと思います。
脳の回路図を作る
「僕の場合は、脳みその中の神経の回路はどうやってできてくるか。つまり一個一個の細胞がどうやって神経線維を伸ばしてきて、どうやってお互いに枝を出してきて回路を作るか。末梢神経のように脊椎から筋肉への線維が出るような、スタートからゴールへまっすぐ行くものだけでなく、脳の中には、もっとぐちゃぐちゃした回路がありますよね。整然とAからBへ行くんじゃない回路、そういうのがどうやって出来てくるのかを知るのが最終的な目的。(317KB)
大学院の頃からそういう方面へ動いていたね。僕は脳に興味があった。僕が大学院に入って、もちろん修士の頃は何をやったらいいかわからないから研究室のテーマをやったんだけど、ドクターに入ってテーマを変えようという時には、自分がしたいことをやろうと思って、その時には脳をしたかったわけね。
ラジカセなんかでも必ず回路図があって、すべての部品が電線で繋がっているよね。電線が繋がっているから録音ができたり、ボリュームが変えられたりする。脳も必ずそうなっているはずなわけ。何らかの回路を作っているはず。どこがどう繋がっているのか、その回路を明らかにする。でも全部の回路を明らかにしなきゃならないから、あまり難しい回路はまだ無理で、例えばマウスの脳なんかだと細胞が1千万もあるからそれは無理なわけ。ショウジョウバエの脳だと細胞が4万だから、4万ならまあ何とかなるかな。線虫の300に比べると大変だけども、それでもマウスなどに
比べれば随分楽なはず。」
メカっぽいものが好き
「僕はね、ぶっちゃけて言えば、SFとかアニメでさ、人工頭脳とかってあるでしょ。脳をコンピュータのようなので作ったりさ。そういうのってどうすれば本当にできるのかなという興味があった。
神経なんかの話をしている人には、大きく2種類の人種がいて、虫屋とそうでない人がいるわけね。子供の頃昆虫採集ばっかりやっていて、虫が大好きでその研究をしたいという人。虫でなくても動物や自然が好きで、という人もいるわけね。一方そうじゃなくて、
例えばラジオを作るとか、ラジコンを作るとかさ、プラモデルを作るとかね、そういう方から、工作の延長として動物を考えている人もいる。僕はそっち側なんだよね。もちろん毎日動物を扱っているけれど、僕の元来の興味はもっとメカっぽいものだよね。(125KB)鎌倉で育ったから、まわりにわしゃわしゃセミなどがいたけど、標本を作ったりはしなかった。僕は、例えば虫屋の人が昆虫採集している頃、ラジコンとかプラモデルとかばっかり作っていたし、それから後はコンピュータを使ってプログラムを作ったり、そういうことばっかりをしていた。」
手ごろなサイズ
「マウスの脳はぐちゃぐちゃとややこしいけれど、昆虫の脳っていうのはそこそこシンプルで、かつ線虫に比べたら複雑で、ちょうど中間だからさ、わりと手ごろなサイズだった。
ラジオなんか作る時どうするかというと、売っているようなラジオはとても自分じゃ作れないけれど、トランジスタのラジオのごく単純なのなら小学生でも作れるわけね。ごく単純で性能も低いけれど、ラジオはラジオで全機能を持っているわけ。そんな感じで、昆虫っていうのは、ちょうど電気屋で売っているようなラジオが人間だとしたら、工作で作るラジオが昆虫の脳っていう感じ。とりあえず簡単だけど、基本的な機能は持っている。
昆虫の脳は基本的に小さくて単純なわけね。だから全体を見ることができる。ところが人間とかマウスの脳っていうのは複雑すぎるから、全体を同時に見ることはできない。例えば、海馬がどうなっているかを詳しく調べることはできるんだけど、どこから海馬に信号が入っているのか、海馬の処理した信号はどこに行くのか、完璧に調べるのはすごく難しい。ショウジョウバエの脳全体は海馬より小さい位しかないから、全体が視野に入る位の複雑さなわけね。」
空白を埋める
「何かがわかる、今までどこにも書いてないことがわかる。特に僕の研究はかなり特殊といえば特殊で、いわゆる遺伝子のクローニングとかでなく、記載生物学って昔からあるよね。僕はそれなんだよね。僕は実験生物学ではなくて、記載生物学がメインなんだよ。
顕微鏡を見れば、それまでの文献に書いてないことがわかる、これまで見つかっていないような回路が見える、そこがやっぱり面白いわけね。どんどんこれまで空白だった部分を埋めていく、それが面白い。それは科学全般に言えることだろうけど、今までわかっていなかったことがわかることが面白い。」
上手に異なることは結構難しい
「科学者の場合、他人と同じことをするというのは価値が全くゼロなんだよね。他人と違わなきゃいけないわけね。でも、他人と同じにするのは簡単でさ、例えば制服なんかでも着ていればいいのだけれど、ファッションなんかでも、他人と違えるというのは難しくて、あんまり突拍子もなく違っちゃ困るわけ。その時代の全体の流行とかTPOの中で、ちょっとおしゃれにする、ちょっと違える必要があるわけね。スーツを着る時にはスーツを着るけど、ちょっと色に工夫してみるとか。おしゃれってのは、そこが一番難しいわけね。
いかに人と違いつつも全体の枠に自分をはめるか。ちょっとしか違えちゃいけない。(51KB)科学でも、それと全くおなじなわけ。」
ムカデでなくショウジョウバエ
「僕の分野ってのは僕と同じことをしている人が世界にいないわけ。他の人が誰もめんどくさがってやらないようなことをしているから、他の人は僕がやるのを待っている。競争がないし、論文を書けば落ちることはあまりない。
非常に競争が激しい、みんながやっている分野に踏み込んでいって、そこでがんがんやる人もいるし、僕みたいに誰もしていないけども、でも大事な所を探していく人もいる。これも結構難しいの。人が全然やっていないものっていっぱいあるんだよ。でもその中でも、やって他人が面白がってくれるものと、そうでないものとがあって、僕は今ショウジョウバエの脳の回路図を作っているわけ。ムカデの脳でないわけ。ショウジョウバエっていうのは他の多くの人が研究しているから。僕にとってはショウジョウバエの脳を研究するのと、ムカデの脳を研究するのではあまり変わりないけれど、ムカデの脳を研究しても他の人からすれば使い道がない。
これがわかれば、他の人の役に立つ。今何を調べれば、他の人の一番役に立つか、脳の中でもまずどこから調べるか、他の誰も研究していない場所を調べるよりはみんなが研究している場所を調べる。脳の4万の細胞のどこを研究してもいいんだけど、今僕はキノコ体という所を研究している。それはどうしてかというと、今キノコ体という部分の研究はホットなわけ。多くの人が研究しているけれども、キノコ体の回路の研究というのは誰もしていない。だから、キノコ体の回路の研究をすれば、キノコ体の研究をしている人全員の役に立つ。それが違う所の研究をしちゃったら役に立たない。だから今はキノコ体の研究をすることが一番優先なわけ。キノコ体の回路の研究が済めば、その人たちの役には立ったから、今度は次に面白いところをやる。それを今順番にやっているわけ。」
大切だと思うこと
「僕が好きな言葉に、孔子の論語の『学んで思わざれば則ち罔(くら)し。思うて学ばざれば則ち殆(あや)うし。 』、第一章だけどさ。孔子の言う学ぶっていうのは、読書して勉強する。学ぶだけで自分で考えなければ駄目だ。でも考えるばっかりで、他の人が書いた本を読んで勉強をしなければ、ひとりよがりになって危ない。単に勉強して鵜呑みにするだけじゃ駄目だし、といって自分で考えるばっかりで地に足の着いた勉強をしないというのも駄目なわけね。
研究っていうのもそうで、実験して観察する、それだけじゃ駄目。考えなきゃ駄目。でも、考えた内容を実験して確かめなきゃやっぱり駄目。(97KB)どうして僕がこういうことを言うかというと、神経の研究なんかだと、神経の細胞がこうありますよ、こんな細胞がありますよ、、、といくら調べてもそれだけじゃ駄目なんだ。こういう神経細胞がこう繋がっていれば、どういう計算ができるのかということを考えなきゃ駄目ですよということ。一方でコンピュータを使ってモデルを組んで、これで人工知能ができると言っている人がいるが、実際の脳がどうなっているかを見ないで、頭の中で考えているだけではやはり危ない。両方ちゃんとやって、実際の脳を良く調べてそれがどうなっているかを考える、それからモデルを考えて実際の脳と合うかを確かめる。両方をバランス良くやらないと、動物の脳の原理はわからないだろう。」
もっと知りたい方へ
一般向き
伊藤啓 (1996). GAL4 エンハンサートラップ法 -ショウジョウバエの分子神経解剖学への利用-. 細胞工学 15, 1760-1770.
伊藤啓 (1997). GAL4/UAS系を用いた遺伝子発現誘導システム-ショウジョウバエ神経発生解剖学への応用-. 比較生理生化学 14, 117-130.
伊藤啓 (1998). 脳に存在する解剖学的な雌雄差. 脳の科学 20, 615-622.
原著論文・専門書など
Ito, K., Urban, J. and Technau, G. M. (1995). Distribution, classification,
and development of Drosophila glial cells in the late embryonic and early larval ventral nerve cord. Roux's Arch. Dev. Biol. 204, 284-307.
Ito, K., Awano, W., Suzuki, K., Hiromi, Y. and Yamamoto, D. (1997). The
Drosophila mushroom body is a quadruple structure of clonal units each of which contains a virtually identical set of neurones and glial cells. Development 124, 761-771.
Ito, K., Suzuki, K., Estes, P., Ramaswami, M., Yamamoto, D., and Strausfeld
, N. J. (1998). The organization of extrinsic neurons and their implications
regarding the functional roles of the mushroom bodies in Drosophila melan
ogaster Meigen. Learning and Memory 5, 52-77.
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