物質循環と生命の進化

地球が誕生して以来、進化を続けてきたシステムには2つあります。1つはもちろん生命で、38億年間かけて多様な生物を生み出しました。もう一つは物質循環系で、水と大気が生体を構成する全ての元素循環の媒体となり、地球上の生物活動を支えています。

最初の生命を生んだ化学進化は、大気中や地表でつくられたさまざまな有機物が、物質循環系によって海に濃縮されることで始まったとも考えられます。また生物の上陸は、生体を介した物質循環系が地球規模に広がったことを意味します。2つの進化は、互いに影響し合いながら現在にいたっています。

生物の進化と多様性を見るための切り口が、ゲノムDNAです。一つの化学物質を調べ比較することで、個体の識別から種の違いまで見分けることができるのは、生きものが違えばゲノムが異なるという基本のおかげです。これに対して物質循環系を見る切り口は、僕が見つけた安定同位体を使う方法。まだDNAほどには、一般の人にも生物の研究者にも馴染み深いものではありませんが、自然界の物質の由来を追い、どの生きものが何を食べているかを知る力強い手段です。

安定同位体とは、化学的な性質が同じで質量がわずかに異なる物質のことで、ある一定の割合で自然界に存在していますTITLE同位体は、元素記号の左肩に質量数を付けて表記する。なお、安定同位体に対して、放射線を出して崩壊する不安定な同位体は放射性同位体と呼ばれる。。たとえば炭素原子のほとんどは質量が12(12C)ですが、1%ほどの割合で質量13の安定同位体(13C)が含まれています。ここで、僕の描いたイラストを見て下さい。ヒトの体をつくっている分子に、どれくらいの安定同位体が含まれているかを示した図で、“Isotope Person(同位体人間)”って呼んでいるんですよ。体重を50kgとすると、軽い12Cが11.4kgに対して重い13Cが137g含まれます。この同位体は普段僕らが食べているものからきたわけですから、食生活が異なる個人で比較すると、含まれる同位体の量も違ってきます。「食べるものが異なれば、体をつくるものが異なる」というあたり前のことを使って、物質と生物と人間社会との関係を見ようとしてきたのです。

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生体分子に含まれる安定同位体の比率を図示した”Isotope Person(同位体人間)”。体重50kgのヒトの場合、軽い12Cが11.4kg含まれるのに対し重い13Cが137g含まれる。同様に、酸素(O)、窒素(N)、重水素(D)の含有率を合わせると、225gの重い同位体を持っていることになる。

教師を目指して化学科へ

東京の池袋に生まれましたが、4歳の時に秋田の横手盆地に疎開して、終戦後の新制小学校もそこで入りました。小学校6年生で東京に戻ってきたんですけど、秋田と違っておなかをすかしている人が多いのには驚きましたね。給食委員がズルして自分の分をいつも多めによそうので、学級会の議題はいつも給食問題です。それで地元がイヤになったというわけではないのですが、中学は千葉県の私立の男子高に行きました。私立といっても当時は、お金も学力も大して必要なかったのです。梨畑の中にあるひなびた学校で、徒歩と電車で1時間半くらいかけて通いましたよ。

中学校の時の理科の授業で、メンデレーエフの周期表メンデレーエフの周期表ロシアの化学者メンデレーエフは、元素を原子量の順に並べると化学的性質の似たものが周期的に現れることを発見し、これをもとに元素の周期表を作った。を見たのが、化学に興味を持ったきっかけです。世の中のものができている仕組みが、とてもよくわかった気になったんですね。こういう基本の学問はいいなと思いましたよ。結核持ちだった親父は、お前は医者になれってうるさかったんですがね。

高校はまた東京に戻って都立を受けたんですが、そのころの都立高入試には音楽や美術もあったんです。男子高だから音楽の授業なんてまともにやったことありません。主要科目が良くても副科目がダメなら落ちちゃう。しかたがないからヤマを張って、「荒城の月」だけ丸暗記していったら、楽譜を見て曲名を当てる問題にそれが出た。この時は、努力はしてみるもんだと思いましたね。ただ頑張って入ってみたものの、都立高が受験校と化して、東京大学の進学数を競う雰囲気にはなじめませんでした。僕は早々と勉強はあきらめて、教育大に行って理科の教師になろうと思っていました。それで東京教育大学の理学部化学科に行ったのです。実はそれが思いがけず、研究者になる道の始まりでした。

小学校時代。(後列右から2人目:本人)

地球化学の有名人

卒業研究で無機化学の研究室に入り、助教授の松尾禎士先生(東京工業大学名誉教授・故人)から卒業研究にもらったテーマは、「自然界における窒素同位体比の測定」でした。天然物に含まれる同位体を精密に測定することは、地球化学の分野ではすでに行われており、鉛や酸素などの同位体から、岩石のできた年代や古環境を調べる試みがなされていたのです。ところが窒素の場合、軽い14Nに対して重い15Nが0.365%しか存在せず、質量数が同じ一酸化炭素(CO)との分離が非常に難しく、測定が困難でしたN2分子を試料として窒素同位体比を測定する場合、大量に存在する14N14Nと微量の14N15Nを質量差で区別する必要がある。14N15Nと同じ質量を持つ一酸化炭素13C16Oが試料に混入していると、正確な窒素同位体比を求めることができない。。過去に間違った測定値を発表してしまった研究者もいて、「窒素に手を出すのは危ない」とまで言われる状況でした。

その窒素同位体に挑むのが、僕の先生のそのまた先生から引き継がれてきた課題だったのです。ところが教育大には同位体を計測する質量分析計もなく、理化学研究所へ行って使わせてもらっていました。那須火山の噴気口の水蒸気のアンモニアとか、千葉県の地下水中の窒素ガスなどを集めて測ってみたのですが、やっぱり感度が低くてデータなんかでない。そもそも測る機械もないのに研究テーマを与えるなんて変な話ですが、それを何とも思わず続けていた僕も、のんき者だったのでしょう。教師になるつもりが、何となくそのまま大学院に進んでいました。

大学院では教授の三宅泰雄先生(故人)の専門である、海水中の窒素化合物や生物試料中の窒素同位体比が研究対象になりました。気象庁の観測船による日本近海の調査に参加して、海洋学を学ぶ機会を得ることができ、また幸いなことに研究室に精度の高い日立製の分析器が入りました。大学院を終えるまでに100ほどの試料を測定し、せっかくだからと先生に勧められて、博士論文を日本学術会議のジャーナルに投稿したんです。日本の学術を発信するためにいろいろなところに配っていたようですから、読む人は案外多かったのでしょう。環境中の窒素同位体の正確な測定の初めてのデータに、世界中の地球化学者が関心を持ってくれて、知らない間に有名人になっていたんです。

パイオニアの仕事といえば格好いいですが、世界で初めてのデータですから、その数値が正しいかどうか、誰も検証できないともいえます。論文から8年後、アメリカのグループがペルー沖の硝酸の窒素同位体を測定して、日本の海での測定値と近いことがわかった時は安心しましたね。

助手と教授の名コンビ

博士課程を出て就職先を探していたら、東京大学の海洋研究所に海洋生化学部門という新しい組織ができるからと助手に採用されました。応用微生物研究所から移ってこられた服部明彦先生(現名誉教授)が教授に着任し、海洋中の窒素代謝系の研究に取り組もうとされていたのです。微生物が窒素を代謝する速度を調べるには、培養液に窒素源として15Nでラベルしたアンモニアや硝酸塩を混ぜておいて、一定時間培養した後に生物がどれだけ15Nをため込んでいるかを測定することで、利用されたアンモニアや硝酸塩の量がわかります。微生物学の先生と同位体分析の僕が、ちょうどいいペアとなったわけです。

海洋研には専属の研究船があり、日本近海から太平洋の真ん中まで、いろいろな場所の窒素同位体比を調査することができました。服部先生は、まったく船酔いしない方でした。特異体質ですよあれは。僕はあまり船に強い方じゃないから、海の上の実験については、設計を僕が全部やって、濾過操作とか体を動かすのは教授の仕事。論文を仕上げるのも分担で、原稿をまず僕が書くと、先生が英語をきれいに直す。実験も発表も効率的でしたね。そもそも分野が違う2人が組んだのが良かったんです。先生は植物学出身で、僕は化学だから、お互いの面子が気にならないし、いいところを補完し合える対等な関係でした。

大学をとりまく環境が、昨今では考えられないくらいに恵まれていたのも幸いでした。新しい研究部門の予算で、日立が作っている当時最新の性能の質量分析計を買えたのです。化学の分野ではなく生物学で精密な同位体比を求めようという発想はまだなく、普通なら却下されるような買い物です。海洋学の中心と言われる米国の著名な研究所でも、日立製の分析計に比べたら2けたは感度が悪い装置しかもっておらず、研究がかち合っても僕らが勝つに決まってます。従来の分析計では100時間培養してやっと測れるデータが、こっちは1時間で済むんですから。僕が優秀だったのではなく、技術の進歩に恵まれたパイオニアの特権の中に居たと言えます。

こうして、アンモニアが代謝される反応速度はどのくらいだとか、植物プランクトンが硝酸とアンモニアのどちらをどのくらい割合で取りこんでいるのかなど、これまでわかっていなかった基礎的なデータをどんどん出していきました。

東京大学海洋研究所の助手時代。白鳳丸船上、小笠原沖にて。最前列で腰掛けているのはコンビを組んだ服部先生。(中列右から2人目:本人)

学問の体系づくり

なりゆきで始めた窒素の測定から、生物の世界にどんどん入り込んでいくうちに、同位体比のデータから見えてくるものがあることに気づきました。14Nと15Nを含む窒素化合物が環境と生体を循環する過程では、軽い同位体の方が先に動いていきます。酵素反応の際にはわずかでも軽い物質の方が反応しやすい性質を持っているためで、同位体効果として知られている現象です。この結果生体内には環境に比べて重い15Nがより多く含まれるのですが、その存在比が食物連鎖の上位にいる生物ほどわずかに高いのです。新たなテーマの発見です。

海洋研に8年いてたくさんの論文を書きましたが、そろそろ船の重労働がきつくなってきて、服部先生との共同研究も忙しく、他の勉強はあまりできないままでした。テキサス大学に客員研究員として呼ばれて少し体を休めていた時、三菱化成生命科学研究所の江上不二夫所長(故人)から、「あなたを採用したいけど、来る気はありますか」という短い手紙が突然来たのです。

江上先生にはそれまで会ったことがなく、生命研は生化学や分子生物学が主流だから自分は畑違いだなあと思ったのですが、深く考えずに行きますと返信して、帰国して生命研に就職しました。当時僕はまだ36歳の若造ですから、まず上司と相談して研究テーマを決めるのだろうと思って、江上先生に「私の上司はどこに居るんでしょうか」と尋ねたら、「いない。お前が上司だ」という返事で驚きました。おそるおそる「なにをやるんでしょうか」と聞くと、「生物地球化学と社会地球化学の学問体系をつくりなさい。重要な学問だから」と言われ、びっくりしちゃってもじもじしていると、「じゃあ帰りなさい」で終わりです。後になって知ったのですが、江上先生は弟子たちとは5分以上話さない方で、ぱぱぱっと用件だけ伝えておしまい。生命研の会議でもそうでした。

所長室を出て事務の人にあなたの場所ですって案内されたら、実験室が10くらいある。これから研究員を3人雇って、技官を2人雇って、秘書を雇って、学問の体系を作ることになりますねえとか言われて、これは大変なことになったとノイローゼになりましたよ。知り合いはだれもいないし、いても愚痴のこぼしようもないでしょ。恵まれ過ぎててつらいなんて。とりあえず最初の1年間研究室が立ち上がるまでの間、「君は海のことばかりで陸のことを知らないから、土壌学を勉強しなさい」と江上先生に言われていたので、東京大学農学部に内地留学しました。

南極ロス島を調査中。海鳥の排泄物が窒素源となるため、この島に生える藻類は重い窒素を地球上で最も多く含む。

同位体で食物連鎖を見る

いくら悩んでも、自分がやれることはそんなにないんだからと開き直るしかありません。結局、安定同位体の生物地球化学ならできると思いますと宣言して、質量分析計を買うことから始めました。高価な機器ですが独占してもしょうがないので誰でも使えるようにしたのがよかったんですね。いろいろな大学から質量分析計を使って仕事をしたい人間がやってくるようになり、同位体研究の中心になっていきました。

食物連鎖と同位体の関係をはっきりさせたのは、研究員の南川雅男さん(現北海道大学教授)です。珪藻などいろいろな微生物を培養し、窒素を取り込んだ生物が15Nをどの程度体内に濃縮しているかを厳密に測定したのです。その結果、食うものは食われるものに対して、重い窒素同位体比が3.3上昇することを発見しました窒素の同位体比を表す場合、大気中の窒素ガスにおける15Nの存在比を標準として、調べた試料中の15Nの存在比がそれよりどれくらい変化しているかの差で示すことが多い。これをδN値とすると、食物連鎖における動物の摂食過程では、以下の式が成り立つ。
δ15N (動物) = 3.3 (TL‐1) +δ15N (植物)
TL(Trophic Level)は栄養段階をさし、植物のTLを1とし、植物を食べる動物は2となる。
。実際に環境中で測定したデータも、植物プランクトンよりも動物プランクトンが、動物プランクトンよりもそれを食べる魚がという具合に、同じ割合で「重く」なっていることを示しました。つまり、多様な種が入り乱れている生物群集でも、窒素同位体の含有率を測定すれば、その生物が食物連鎖の何段目にいるかを推定できることがわかったのです。

炭素の安定同位体でも面白いことがわかりました。空気中の二酸化炭素を固定して炭水化物をつくるのは植物の役目ですが、光合成に使われる酵素の違いからC3植物とC4植物に分かれます。この違いは同位体効果の差としても現れ、C4植物はC3植物よりも重い炭素同位体をたくさん含んでいます。穀物で言えば、イネとコムギはC3植物で、トウモロコシはC4植物ですから、トウモロコシ食文化圏の人の方が稲作文化圏の人よりも重い炭素をたくさん含んでいることになります。

安定同位体を使った生物地球化学の特色が見えてきました。本来は野外調査で生きものを見たり捕まえたりして関係を調べることでしか得られなかった「その生物の体は何を食べた結果か」という生元素の履歴の情報を、生物を見なくても議論できるようにしたことです。同位体効果は生体反応の酵素が同じなら同じようにはたらきますから、多様な種が入り乱れている生物群集でも、一つ一つの種間相互作用を気にすることなく、物質循環の流れを追うことができます。安定同位体は、多様性を持った群集構造を統一的に見ることのできる切り口とわかり、ひとまず生物地球化学の基礎をつくることができたとほっとしました。

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個々人の安定同位体比を厳密に測定すると、何を食べているかによって変化がみられる。トウモロコシはイネより13Cの含有率が高いので、トウモロコシ食文化圏の同位体人間は米食文化圏より重い。

海から陸へ

陸のことも勉強しなさいと言われて始めたのが、陸上の水すなわち陸水環境への取り組みです。名古屋大学が始めた諏訪湖にメソコスム(隔離水界:隔離水界海洋や湖沼の生態系を調査するために、水域の一部をシートや水槽で仕切った実験空間。)を設置して湖の生態系を調査するプロジェクトに参加し、湖の食物連鎖を調べました。湖が富栄養化するとプランクトンが増えるというのが一般的な見方ですが、炭素や窒素の同位体を測ると、季節により生活排水の影響の現れ方が違ってくることが見えてきました。また諏訪湖のワカサギは、季節によって食べるプランクトンの種類は変化するけれど、植物プランクトンを1とした時の食物連鎖の栄養段階は年間を通じて3であるという面白い結果も出ました。

海から陸へ視点を移すと、この2つをつなぐ川も見えてきます。水の循環は、海から水が蒸発するのが始まりで、雲ができて雨になる。水以外の物質循環は、陸上の岩石が大気や植物の作用によって細かくなり、雨にさらされて風化するところから始まる。それぞれ始まる場所が違うんですよ。雨に始まる陸水は河川を通り、時には湖を経由して海に注ぐ一つの水系を形成します。集水域というのが一つのユニットとして、自然に頭の中に入ってくるようになってきましたね。ここで安定同位体の出番。海洋研の臨海実験所との共同研究として、岩手県の大槌川水系で、陸上植物や沿岸の藻類を出発点とする食物網の骨格を描きました。山から湾までにわたる研究は、陸水学としては最初の例に入ると思いますね。
陸水環境は経済活動の影響を強く受けますから、人間社会が環境にどんな変動を与えているかを浮き彫りにします。安定同位体を用いた社会地球化学は、研究員の水谷広さん(現日本大学教授)が興味を持って仕事を進めてくれました。

三菱化学生命科学研究所にいた頃。(左から2人目:本人)

生態学の機械化部隊

15年間生命研にいる間に、同位体の仕事を一緒にやってくれた仲間が大学の教授になって全国にいました。生命研の研究員は10年プラスマイナス5年で次へと飛躍しなさいと言われていて、僕ももう最大限いたことになります。それに、その頃は中村桂子さん(現JT生命誌研究館長)の後を次いで、研究所の部長になっていました。研究部門のトップですから、このまま一つの分野で偉くなって安全圏にいては自分はダメになる、出た方がいいと思いました。

いくつかの大学から誘いが来ましたが、いざとなるとなかなか踏ん切りがつきません。京都大学に新しく生態学研究センターができたときも、特に熱意があったわけではないのですが、人事情報をくれた人に「お前は3番目の候補だから採用されっこない」と言われて、まあ自分から応募するポーズもたまには見せておこうかと軽い気持ちでいたら決まっちゃったんです。後から聞くと、4人の教授枠のうちの3人目に名前が出ていたと言うことでした。僕の諏訪湖の仕事などをみていて、同位体が生態学の重要な手法になると評価してくれていたのです。生命科学の世界から、また知り合いが一人もいない生態学にとびこむことになりました。

日本に生態学研究所を作ろうという動きは昔からあったそうですが、なかなか候補地が決まらず、最終的に京都に全国共同利用のセンターを設けることに落ち着き、最初は旧い臨湖実験所を利用していました。所長の川那部浩哉先生(現滋賀県立琵琶湖博物館長)を始め、生態学の教授はこれまで縁がなかった人達です。僕はもう異分野交流には慣れていましたし、皆さん思ったことは気兼ねなく、本音をしゃべれる良い雰囲気でした。「京都の生態学の哲学は川那部先生お一人で十分ですね。川那部先生のような方が10人もいたらおかしくなっちゃいませんか。」などとずうずうしく語ったことを記憶しています。

僕なんかの役割は生態学の機械化部隊でした。生命研にあった装置を京都大学に移動し、精度の高い分析器で安定同位体を測定する方法を生態学の学生に学んでもらいました。

琵琶湖を臨む京都大学生態学研究センター。

文理連携のリーダーに

生態学研究センターに移った頃、生態学に「環境問題」の課題が入ってき始めました。例えば人間活動によって生元素の循環系が乱されたとき、生態系はどう応答しているのか、基本となるデータが必要になってきたのです。

世界最大・最古の淡水湖であるバイカル湖は、安定同位体で調べると植物プランクトンからサケ科の魚オムールにいたる整然とした食物網が見えるんです。景色に劣らない美しい秩序を見せる生態系です。バイカル湖を愛する地元の研究者によって、オムールの鱗が50年にわたり標本採集されており、調べてみると鱗に含まれる13Cの量が年々わずかに減っていることがわかりました。これは大気中や南極の氷柱から観測された、化石燃料の増加に伴う13Cの減少と同じ傾向です。気候変動に対する応答が、生態系の上位に入る魚にまで同位体比の変化として現れているのです。

環境問題には社会的なニーズがありますから、プロジェクト型研究が次々に提案されています。プロジェクトのテーマはその辺の流行に合わせて決めればいいから実は簡単です。難しいのは、どういう方法で、どんな組織でやるかという実行案を作ることです。仮説をたてて、検証するまでの見通しを立てられるかです。

琵琶湖の環境問題に取り組んだ時、湖の富栄養化の原因は何かを探りました。これは文系理系の研究者が連携したプロジェクトで、リーダーをやらされましたよ。湖が汚れないようにするには、住民の参加が必要だという原則論を文科系の方がよく口にされますが、それが本当に正しい解決法ならきちんとした理由があるはずだと僕は考えます。何を調べたらその理由がわかるかを考えるところから始めなければなりません。

このとき調査したのは、森林地帯から琵琶湖を経て、淀川、大阪湾にいたる堆積物の同位体比です。森林では窒素源が雨からくるため生物活動の影響が少なく、δ15Nの値は低くなります。一方、植物プランクトンによってもたらされる窒素は、δ15Nの比率が高いものとなります。琵琶湖の堆積物や生物は、周囲の環境と比べてもδ15Nが特異的に高いという、世界的に見ても稀な湖であることがわかりました。そこで琵琶湖に注ぎ込む河川を調べると、北湖に流れ込む大きな川のδ15Nは低いのに対し、小河川はδ15Nが高く富栄養化が進んでいました。小さい川が生活排水によって汚れているのが問題とわかり、これで住民参加の意味がはっきり浮かび上がったのです。

バイカル湖に流入するモンゴルの河川を調査中。

流域環境をめぐる文理連携のプロジェクト・リーダーを務めた。国際ワークショップの開催模様。

近江平野の田んぼを調査中。

生態学の中での役割

現在は、海洋研究開発機構の地球環境フロンティア研究センターで、陸域生態系と海洋生態系の観測と、その予測モデルの研究責任者になっています。海と陸の両方に関わって、生態学もわかっている奴だからということで呼ばれたんでしょうね。地球物理学とスーパーコンピュータによるシミュレーションを駆使する職場ですから、また異分野にやってきたわけです。

地球温暖化の予測で今一番わかっていないのが、大気中の二酸化炭素の収支にかかわる生物の役割です。ここは地球生態学が活躍するべき所なのですが、だいたい生態学者は種間相互作用とか進化とかを考えている方が好きなわけで、炭酸ガスの動向をコンピュータ使って一生懸命予測して何のオリジナリティがあるのかって心の中で思っている。中村桂子さんにも以前、「計算機で何がわかるの」って聞かれましたよ。実は僕も以前はそう思っていましたから、その指摘はよくわかります。生態学者や地球化学者のようなフィールドサイエンティストには、人間が現場に行って調べた方がよくわかるという信念があります。しかし自然界をいくら調べたって、やはり人間には想像できないことがあるのだと、今はそう思っています。

たしかに人間は、観測データが示すものを見抜く優れた直感力をみせることがあります。一方シミュレーションの威力は、過去のデータからモデルを作り、あとはここの観測値があればもっといろんなことがわかると予測できることです。でも観測屋はそんなところに喜んで行くはずはありません。数値計算をやってる連中に自分の仕事のやり方を命令されるのは嫌ですから。この軋轢は、世代が交代して数値計算も観測も自分でする研究者が現れないとなくならないかもしれません。でも僕はここで、観測とモデルとシミュレーションを三位一体でやるのが一番いいんだ、いくらフィールドだけ調べたって分からないはずだと言って、あえて生態学者には嫌われる役をやっています。もともとは観測屋の僕が言うことに、意味があるんだと思ってますから。

マレーシア、ランビル熱帯雨林のタワーの上で。右端は調査中の飛行機事故で亡くなった井上民二教授。(右から2人目:本人)

ロシア、イルクーツク陸水学研究所にて。

地球を見るホモ・サピエンス

安定同位体は、陸と海が物質と生物を通してつながっていることを数値で見せてくれました。現在は観測衛星や画像解析、環境測定の精度が進歩して、多くの地点のいろいろなデータを同時に収集することが可能になってきました。ある地点の観測だけで議論するのではなく、それが世界の中でどういう意味をもっているかまで、ある程度は言えるようになったのです。あと10年もすれば、普通の人でも直感的に地球環境がわかるような説明ができるようになるのではないでしょうか。まだ今の研究者は、偉そうな顔をして難しいことしか言えません。一面しか知っておらず、全体像が見えてないからです。

講演会などで一般の人に話をする時、ユーラシア大陸で春の青葉が北上していく様子を、観測とシミュレーションで再現した映像を見てもらいます。日本列島で桜前線を見る時の、グローバル版です。人間は本来ものすごく勘がいいはずで、これまで見ることができなかった地球の表情が少し見えるようになっただけで、考えることがたくさん出てきますよ。そのときわたしたちが本当にホモ・サピエンス(知恵のある人)になれるのか。ハードルは高いかもしれませんが、新しい人間の社会が出てくることを期待したいですね。

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南極の塩湖ドライバレー。ここに生えるラン藻(右)は、地球上の生物界でもっとも15Nの比率が低い「軽い」生きものである。和田英太郎の名は、この発見者として残ることを密かに期待している。

2002年に京都大学名誉教授・ロシア科学アカデミー名誉教授を授与。歴代の弟子・秘書と一緒に祝賀会。