蝶と素粒子

生まれは新潟の燕です。スプーンやナイフなどの生産量が日本での90パーセント以上を占めるという金属洋食器の産地で、僕の家もその販売関係の仕事をしていました。長男なので本来なら家を継ぐ立場ですが、親が自由にさせてくれたので、本を読んだり、虫取りにいったりのんびりした子供時代を過ごしました。越後平野の真ん中ですから、米どころ新潟の田んぼが広がっており、田んぼで虫を捕まえ、観察を楽しみました。近くに弥彦山があって、4月にはギフチョウ、5月にはウスバシロチョウがでるのですが、電車でいかなくてはいけないので、子供の頃は憧れの遠い場所でした。中学生になったとき、理科の先生が昆虫好きで、理科好きの生徒を4,5人山に連れて行ってくれたんです。嬉しかったですね。その先生の影響もあって、弥彦山に熱心に通って、蝶を集めては標本を作りました。「子供の科学」や昆虫の雑誌もありましたが、自分で本を読んでいろいろ調べながら工夫するのが好きでしたね。その頃は将来は昆虫学者になろうかと思っていました。学校では理科と数学が得意でしたから、将来は理系というのは初めから決めてましたが、高校に入ったら、急に標本作りでは物足りなくなったんです。興味は物理学へ。日本人で初めてノーベル賞を取った湯川秀樹さんやアインシュタインへの憧れが出てきたんです。素粒子論なんてなんだか難しそうだけれど、どうも物質の根源を考えることのようだとわかり、そこに興味がわいてきたんです。実はまだ昆虫学にも未練はあったのですが、昆虫学はなんだか古めかしい、物理のほうが新しくてかっこいい学問に思えたんですね。そんな高校生としての選択で、東北大学の理学部物理学科に進みました。1963年です。学問は期待通り、勢いがあって、とても面白かった。でも、学んでいくうちに素粒子論ってたいへんな世界だぞと気づいたんです。つまり、物質の究極はなにかというたった1つの問題を世界中の優秀な連中がしのぎを削って考えているわけでしょ。学問をしたいという気持ちは強くなっていたので、大学院に行こうとは思ったのですが、この競争の激しい分野で、一角になるのは難しいと感じ悩みました。ちょうどその頃、生物物理という分野が出てきたんです。生物学でもDNAを基本にした新しい動きが始まっていたわけで、物理学者が生命現象の中に普遍原理を求めようとするのは当然の動きだと思います。もともと昆虫が好きだったわけですから、物理を生かして生物研究ができるということに魅力を感じて、生物物理という専攻があった名古屋大学の大学院に進みました。

子ども時代。
夏休みに弟と(本人:左)。昆虫を探して野山を駆けめぐった。

中学生の頃。
弥彦山で蝶を追いかけた中学時代。将来は昆虫学者を夢見ていた。

水素結合との格闘

名古屋大学の生物物理の中心は大沢文夫先生(名古屋大学名誉教授)。筋肉の収縮などを研究していらっしゃいました。僕が入ったときちょうど奈良県立医大から大沢文夫先生に誘われて右衛門佐(よもさ)重雄先生(名古屋大学名誉教授、故人)が移ってこられたところだったので、その最初の弟子になりました。右衛門佐先生は、理論物理の出身で量子生物学という看板を掲げてらしてね。大学時代は理論物理でしたから、実験をしたことがないし、こちらの方が向いていそうだと思ったのです。量子生物学って耳慣れない言葉でしょう。さまざまな生命現象の鍵となる現象を量子力学で説明することを目指したのです。先生は、視覚の問題などを扱っておられました。光がロドプシンに当たって、ロドプシンの中のレチノイン酸がシストランス転換するというプロセスです。膨大な量の量子力学の方程式を解くんですよ。僕が修士課程で実際に取り組んだのは、水素結合でした。水素結合は生命現象で重要な働きをする力ですから。当時はコンピュータの能力が低かったので、たかだか水分子二つの間の結合を調べるのでさえたいへんで、4年かかりましたよ。当時、日本で一番大きなコンピュータは、東大にある共同利用のもので、全国の大学がそれを使っていました。名古屋から東大へ向けての定期便があって、パンチカードを週に1回送るんです。ハードディスクに情報を蓄えておくなんてまだできない時代なので、パンチカードが2000枚入る箱を3箱、6000枚ものカードを毎週送るんです。エラーがあって返ってきたらやり直し。直して、また送ってということを繰り返していましたね。ちょうどその頃、早稲田で学位をとった宮田隆さんが、右衛門佐研究室の助手に着任していらしたので、ありがたい相談相手になっていただきました。右衛門佐先生は、次から次に新しいアイディアを思いつかれて、生き生きしていらっしゃるんだけれど、下で仕事をしている僕たちは、その頃のコンピュータの能力では実現が難しいテーマばかり出されて大変でした。宮田さんとはテーマは別でしたが、一緒に悩んだ仲間です。現在は、いろいろ条件が整ってきて、こういう研究が意味を持ち始めていると思いますが、当時はまだ早すぎたのですね。

大学院時代。
大学院時代に右衛門佐研究室の仲間と。後列中央が右衛門佐先生(故人・当時名古屋大学教授)(前列右端:本人)。

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Scientist Library:
季刊 生命誌 40号
『本質を問い続ける』
宮田隆

中立説との出会い

もう少し生物に近いことをしたいと思っていたところ、博士課程の2年目の時に、東大の理学部生化学教室での助手の募集があり、運良く採用されて野田春彦先生(東京大学名誉教授)の研究室で働くことになりました。1970年です。野田先生は、物理化学のご出身で生命の起源に興味を持たれ、ミラーの実験の延長で生体分子を人工的に作り出す実験をなさっていました。これも早すぎた研究の一つかもしれない。どうも僕はそういうところを歩いてきましたね。それまで生物学を正式に勉強していなかったので、ここでは生物学を徹底的にやろうと思いました。でも一方で、物理を学んだことを強みにしたい気持ちもあったのですね。生命現象を突き詰めていくと進化の問題になると思い、分子進化をやろうと決めたんです。生命起源も進化の一つですから研究室のテーマとしても良いということになりました。でも実はこれも早すぎるテーマの一つではあったんです。具体的にどんな研究をするのかを考えるところから始めなければなりませんでした。

進化といえば、木村資生先生の中立説が1968年の「ネーチャー」に出ていたのですが、僕はまだ知らなかった。東大へ移った頃に、国立遺伝学研究所で木村先生が一般向けに開いた集団遺伝学と進化の講習会があり、それを聞きに行きました。まだ中立説が世界的に認められておらず、木村先生は挑戦的でしたね。正直な方で、講義でも外国の偉い先生を名指しで「あの人はこんな見当違いなことを言ってる」と言うのです。日本にもすごい先生がいるものだと思いました。僕自身は、中立説はなるほどと思いましたし、どんな変化にも適応的な意味があるはずだとされていた進化の常識を覆したということは大きいと思います。ただ僕は説そのものよりも、次のステップに興味を持ちました。つまり、DNAの変化の大部分は確かに中立的だけれど、中立的ではない変化もあるはずで、生物学としてはそちらの方がおもしろいと思ったのです。

当時木村先生は、中立説を確立する立場だったので、精力的にその正統性を主張しておられましたが、ダーウィンの進化論を否定的に見ておられたわけはありません。DNAデータを見る限り中立説が一番妥当だけれど、生物学者としてはそれを心底納得していないと言われたことがありました。世間一般では理論家で通っていますが、ランの育種をされたり、自然をよく見ている方でした。木村先生にはその後もいろいろな面でお世話になりました。ずっと後ですけれど、僕が青少年向きの分子進化の本を書いたとき、気に入ってくださって何冊か買って故郷の図書館に寄付されたらしいんです。自分の仕事も含めて、若い人に分子から進化を考える大切さを知ってもらいたいと強く思っていらっしゃることを知り、感激しましたね。

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Scientist Library:
季刊 生命誌 3号
『サバイバル・オブ・ザ・ラッキエスト』
木村資生

分子進化への黎明期

分子進化をやろうとは決めたけれど、1970年代はDNAの塩基配列解析はできず、DNAのデータはなかったんです。配列が分析できるのはタンパク質とRNA。それも大変な作業でした。ヘモグロビンやチトクロームcという小型のタンパク質やtRNAのデータが出始め、その配列の種間比較などが出されていた頃です。ですから、研究らしきものはほとんどできず勉強だけでした。遺伝コードとアミノ酸の性質の関係の基本原理を考えたり、DNAのGC含量や酵素の性質など生化学で出されたデータを使って思考実験をしていたのです。わずかなデータしかなかったので、逆にいろいろ考えることができる楽しい時代でもありましたけれど。

実は、1975年に統計数理研究所に移るのですが、そのきっかけになったのがこの頃考えていたことを話したセミナーです。様々な生物で測定されたタンパク質のアミノ酸頻度からアミノ酸配列のエントロピーを計算して、ゲノムのGC含量と比較したところ、GC含量42%の脊椎動物でエントロピーが最大となったんです。エントロピーが大きいということは多様なアミノ酸配列を作れるということです。だから、脊椎動物のように複雑な体制を作る生きものは、多くのタンパク質をコードするためにDNAが長くなるだけではなく、アミノ酸配列の多様性が大きくなるような塩基組成をしているのではないかという内容でした。自分でも面白いと思う結果でしたね。その後、高等生物のゲノムはジャンクのような非コード配列が多く、アミノ酸配列に相当する部分はわずかだと分かってきましたから、あまり意味のない話だったかもしれません。でも、この頃考えていたことは、その後塩基配列やアミノ酸配列の置換モデルをつくるときの基本になっていますので、無駄ではなかったと思います。この話を統計数理研究所のセミナーでしたら、おもしろがられて「来ないか」という話になったのです。

進化のメカニズムに興味を持ちながら模索していくうちに、理論には限界がありコンピュータによる実際のデータ解析が不可欠と思えてきました。配列データの解析から系統樹を推測するという実際の生物につながる研究をしなければいけないと思ったのです。分子で進化を見るには生物間でDNAを比較して系統樹を描いてみないと分からないわけでしょ。そこで分子系統学に入っていきました。DNAがだんだん変わってきた結果として例えば、ヒトとチンパンジーのDNAは違ってくるわけですよね。とにかく現存生物のDNAを比較して系統樹を構築する必要があります。DNAの変化は確率的におきるのですから、まさに統計学の問題です。系統樹の推定は、統計数理研究所のテーマとしてぴったりだと考えました。分子系統学の研究者は、海外でも少なかった時代ですから、早くから目をつけた方だと思います。

ところで、ここでちょっと面白い偶然に出会うんです。統計数理研究所の林知己夫所長は、数学出身で社会調査データの解析法を研究されていました。ただ彼は山が好きなので、ちょっと趣味も入れて、野ウサギの個体数を数える方法の開発をしていたのですよ。野ウサギの野山での動きをモデル化し、ヘリコプターで何キロ飛んだとき、雪の上の足跡が何回クロスするかを計ると、その平原にいるウサギの数がわかるんです。その頃はまだ分子系統樹のためのデータがあまりなくて研究のほうは暇だったので、所長のフィールド調査に連れて行ってもらいました。久々にかつての昆虫少年の気持ちがよみがえってきて楽しかったですね。実はその後ずいぶん経ってから本格的にフィールド研究を始めるのですが、そのきっかけにもなりました。まさか統数研でフィールドをやるとは思いもしなかったので、何がどうつながるか、それこそ偶然ですね。

ノシャップ岬で野ウサギの個体数の調査。本格的なフィールド研究の面白さを体験した。中央が林知己夫所長(故人)(右から3人目 : 本人)。

データから進化を見る

統計数理研究所での初めの十年くらいは、他の人が出したDNAのデータを使って系統樹の推定法を開発していました。まず方法の開発が必要な段階だったんです。最初にやったのは、ヒト、チンパンジー、ゴリラの間の関係を知るという問題です。オランウータンが遠いということは1970年代に分かっていたのですが。1982年にアメリカのバークレーのアラン・ウィルソンたちが、ヒト、チンパンジー、ゴリラ、オランウータン、テナガザルのミトコンドリアのDNAを896塩基決めたのです。今から見るとなんと短いと思われる長さですが、当時は画期的な仕事だったんです。彼らは最節約法という方法で系統樹を推定し、チンパンジーとゴリラが近いという結果を出しました。そこで僕が最尤法最尤法ここでは系統樹の推定方法としての最尤法を指す。進化の過程で塩基またはアミノ酸配列の置換が起こる法則性を確率モデルで表現したとき、実際の配列データがそれを実現する確率を尤度(ゆうど)という。系統樹の枝分かれの順序に従って計算したとき、尤度が最大となる系統樹の形を選ぶ。可能性のある系統樹を全て計算して、最大値を選ぶためには計算が膨大なので、近似的な方法が用いられることが多い。を使ってやってみたら、ヒトとチンパンジーが近いという結果になっちゃった。実はこの矛盾は、手法の違いです。最節約法は、系統樹を作るときに塩基置換の数をなるべく少なくする系統樹を選ぶ方法ですが、塩基置換が少ないほど実態に近いという保証はありません。一方、最尤法は、塩基置換がどのように起きてきたかを確率モデルとして数式で表現するので、仮定がはっきりしていますし、モデルが正しくない場合は、もっとよいモデルに改良することができるという利点があるのです。最尤法は1981年にフェルゼンシュタインという人が開発したのですが、彼は理論家だから、それを実際の生物に応用したのは僕が初めてでした。計算量が莫大だったので、誰にでもできるわけではなかったのですが、統計数理研究所では大型計算機が自由に使えるというメリットがありました。1984年にヒトとチンパンジーが近いという可能性を示したのですが、そのころはまだデータが不十分で、他の可能性を完全に否定することはできませんでした。人間からみたらチンパンジーとゴリラの方が、似た動物に見えるんでしょうね。ヒトとチンパンジーが近いという主張は当時かなり抵抗がありました。でも、1990年代くらいからいろいろなデータが出はじめて、1995年に、当時国立遺伝学研究所にいた宝来聰さんがミトコンドリアDNAの全塩基配列を決定し、その解析結果で確かにヒトとチンパンジーが近いことになりました。

その後アラン・ウィルソンとはヒトの起源について共同研究したんです。かの有名なイヴの話ですよ。彼の研究室では、世界各地のヒトのミトコンドリアDNAを分析し、現生人類の共通祖先が、いつごろどこにいたのかを調べようとしていました。解析の対象にしていたD-loopという領域は、置換が起こりやすい領域とそうでない領域があって、変わりやすい領域で起きている多重置換を考慮しないと正しい推定ができないんです。それで僕の方法を見込んで、解析を依頼してきました。当時は厳密な最尤法では計算量が多すぎたので、近似的な方法で、答えは約15万年前のアフリカであると出しました。ミトコンドリア・イヴです。残念ながらアランが白血病で亡くなり、その後は僕もヒトの解析からは離れてしまいました。

DNAの塩基配列解析法が確立し、データがたくさん出るようになり、分子生物学者から解析を頼まれることが多くなりました。それでもみんなそれぞれ興味が違いますから、僕が知りたいことにつながるデータが手に入るとは限らない。待っているだけではまどろっこしくなり、1990年から自分の研究室でもDNAの塩基配列を解析し始めました。実際にやったのは当時助教授だった橋本哲男君(現筑波大学教授)です。

自分で解析するからには、進化に真っ向から向き合おうと思い、真核生物の起源と思われる、ミトコンドリアを持たない真核生物に取り組みました。ミトコンドリアはバクテリアが共生したものだというのですから、核はあるけどミトコンドリアを持たない生物がいたはずですよね。そこで現存の生物でミトコンドリアを持たない真核生物を調べて、真核生物の祖先型を探そうと思ったのです。カバリエ・スミスが、1987年頃にアーケゾアアーケゾアイギリスの進化学者キャバリエ・スミスが、ミトコンドリア共生以前の真核生物の祖先型として命名した仮想的な生物で、「古い生物」という意味である。真核生物のなかで核を持ちながら、ミトコンドリアを持たないものがその候補とされた。
宮田隆の進化の話 [真核生物誕生の謎] ランブル鞭毛虫は細胞内共生以前の生きた化石か?
と名づけていたものです。この頃、岸野洋久君(現東京大学農学部教授)が、アミノ酸配列の最尤法を開発してくれたので、それを使って解析しました。ところが、まず調べたアメーバ性赤痢の病原体が真核生物の系統樹の根元にこないのです。昔はミトコンドリアを持っていたけれど、寄生生活に適応するうちに必要がなくなって失ったと解釈するほかありません。こういうタイプも多かったのですが、根元にあると思われるのも見つかってきて、アーケゾアの可能性をちょっとわくわくして考えていました。ところが、1996年くらいになってデータが増えてくると、そういう生物にもバクテリア由来の遺伝子が含まれており、しかもそれが他の生物ではミトコンドリアで使われている遺伝子だと分かってきたのです。つまり昔はミトコンドリアを持っていたと考えなければなりません。こうして、アーケゾア仮説は否定されるという、ちょっと残念な結果になったのですが、こういうデータを積み重ねていくことで正解に近づいていくんだと思います。

最尤法を使った最初の論文。
ヒトと類人猿の関係を最尤法で調べた論文(左)とミトコンドリア・イヴの論文。

青少年向きに書いた分子進化の本。木村資生先生に気に入っていただき、賞もいただいた思い出のある一冊。

1998年、統計数理研究所の研究評価に集まったメンバー。後列右から3人目がフェルゼンシュタイン博士(ワシントン大学)。その向かって左隣がロンドン・ユニバーシティ・カレッジのZiheng Yang博士(本人撮影)。

コンピュータ時代の系統解析

僕はずっと最尤法を用いて研究を進めてきました。最尤法の置換モデルは、現実からかけ離れた単純なもので信頼できないという批判も当初はあったのですが、コンピュータの性能があがり、実用的なソフトウェアも開発されて分子系統学の分野で認められる方法に育ちました。それに伴って、現実に近いモデルも扱えるようになっています。いつどんなモデルを使うかは大切なんですよ。少ないデータしかない時現実的な複雑なモデルを当てはめても意味がありません。例えば、塩基がコドンのどこにあるかによって変わりやすさが違うことを考慮したモデルがあります。タンパク質をコードしている遺伝子の進化を記述するのには、塩基が全部独立だと考えるよりも、コドン単位での変化を考える方がよいわけです。でも1980年代にはこれはあまりにも複雑で手に負えませんでした。ようやく1990年代後半にある程度実用化されて、今ではそれが用いられています。データ量の増加と共に、複雑なモデルが要求されるようになったわけです。この頃、モデルとデータの適合度を評価する赤池情報量規準(AIC)を分子系統学の分野に導入しました。AICを考案した赤池弘次さんは統計数理研究所の所長さんでした。

また系統樹の信頼性評価によくつかわれるブートストラップ法ブートストラップ法
系統樹推定に用いられる配列データの長さが限られていることからくるサンプリングの誤差を評価する方法。アラインメントされたデータの座位を、もとの配列の長さの回数だけランダムに復元抽出し、得られた仮想的なデータ(ブートストラップ・サンプル)から系統樹を推定する。この操作を繰り返して、もとのデータから得られた枝分かれがどれだけの頻度復元されるかをみる。この復元頻度(ブートストラップ確率)が高いほど、系統樹は信頼できるとする。
もコンピュータの性能が上がったので導入された方法です。僕が最初にブートストラップを使ったのは、1989年。アラン・ウィルソンらのミトコンドリアの配列を使って、最尤法でブートストラップをはじめて試した論文を書いています。今では、なんにでもブートストラップ確率がついていますが、最初やってみた頃は、まだ計算が大変でしたから、その後計算量の少ないKishino-Hasegawa検定を提案しました。僕のやってきたことは、現実の問題を解決するための工夫の積み重ねです。それで分子生物学の人と協力してきたわけです。

2000年頃には、ゲノム解析が進んでデータがどんどん出るようになると同時に、パソコンで系統樹が推定できるようになったんですよ。隔世の感ですね。この頃には、近似の工夫をしなくても、時間が多少かかるかどうかだけの問題になりました。それまでは生物学の人にとっては、系統樹を正しく描いたり、評価したりするのはかなり難しく、解析を頼まれることが多かったのですが、計算機の得意な優秀な若い人もたくさん参入してきて、誰でも系統樹がかける便利なソフトウェアも開発されました。AICによるモデルの選択も汎用的なソフトウェアに採用されて、今では論文の査読者からモデルを評価する方法として使うことを要求されるほど一般的になりました。でも、僕は必ずしもこれを歓迎してないんです。論文で多くのひとが使っているソフトウェアでできるのは、たいてい簡単なモデルの比較だけなのです。いわばドングリの背比べです。モデルは現実を近似したものですから、データ量が増えれば現実とのずれが目立ってきます。だからモデルを現実に即したものに改良する努力はいつでも必要ですし、AICはそのような新しいモデルの開発のためにつかうものです。進化の問題はそう単純ではないはずでしょう。時間とお金をかけて出したデータを、肝心な最後のところで簡単に扱ってはもったいないと思いますよ。

中国武漢水性生物学研究所で、ヨウスコウカワイルカの系統調査。中央は分子生物学者の東工大岡田典弘教授。共同研究で、ほ乳類の進化関する新しい発見をいろいろした(左:本人)。

統計学者フィールドに出る

この頃から、目的を持ってデータを集め、自分で知りたいことをやろうという気持ちになりました。最近の研究者は自分が解析した生きものを見たことがなくても平気だったりするようだけど、フィールドが好きな僕はそれではだめなんです。実際に足を運んで、生きものから直接サンプルをとったり、写真を撮ったりもしたい。それで学生を誘ってフィールドに行くようになりました。

2003年からマダガスカル島で調査を始めました。マダガスカル島は、白亜紀の始め頃にはゴンドワナ超大陸の一部でしたが、1億3000万年前にアフリカ大陸から離れてインドと亜大陸を作りました。その後、7500万年前にはインドが離れ、それ以来現在の位置で孤立した島になったのです。マダガスカル島の真獣類は固有の4つのグループに分かれます。中でもテンレックとキツネザルは特に多様化が高くて、あまり動物がいなかったから、これだけでほ乳類全体の多様性をほぼ尽くしているほどなんです。ただそれでも突拍子もない姿形のものはいません。テンレックを見ていくと、水中適応したミズテンレックは水かきをもち、カワウソと共通の形になる。収斂するんですね。収斂がこれだけ一般的だということは、ある生活スタイルのための形はある程度決まっていて、多様性は限られているということだと思うのです。ハリテンレックは、ハリネズミと形態が似ているので、同じ食虫目に分類されてきましたが、DNAの配列で系統樹をつくってみると、アフリカ獣類に近い異なる系統でした。それでアフリカ食虫目という系統ができました。ここでも収斂が見られます。

マダガスカルのキツネザルの姉妹群は、アフリカとアジアの原猿類をあわせたものになります。マダガスカルのほかの哺乳類では、一番近い親戚がアフリカで見つかるので、祖先がアフリカから海を渡って来たと考えられるわけですが、キツネザルの場合はアフリカだけではありません。原猿類の祖先は、インドとマダガスカルが一つの島だった頃に進化して、その後マダガスカルとインドが分かれて、一方はマダガスカルのキツネザルになり、インドに行った原猿類が後にアフリカに渡ったのかもしれないというのが僕たちの考えです。これを「アウトオブインディア(Out of India)」仮説として提唱しています。カエルではこのような動きが立証されているので、原猿類でもその可能性があると考えたのです。こう考えなければならない理由の1つが、海流の向きで、今は海流がマダガスカルからアフリカに向かっていて、アフリカから渡ってくるのは難しいんです。原猿類はアジアにもアフリカにもいるので、原猿類はインドから広がったと考えても矛盾はしません。でも昨年「ネーチャー」に海流のシミュレーションの論文が載って、キツネザルの祖先がマダガスカルに渡ったと考えられる頃の海流は、時々アフリカからマダガスカルに向けて流れたこともあるというのです。そうだとすると、「アウトオブインディア」を考えなくても、マダガスカルのキツネザルの起源は説明できることになります。いずれの仮説もまだ決定的な証拠はないんですが、こういったことをいろいろ考えるのが研究の醍醐味ですね。やはり自分で生きものを見るとアイディアが生まれます。元々フィールドには興味があったので、動物の写真を数え切れないほど撮りました。動物園や博物館にも撮りに行ったり。本を書くにもほとんど自分の写真だけで済みますね。

2003年、マダガスカルにてフィールド調査。左は宝来聡さん(2004年逝去。当時総合研究大学院大学教授)。

マダガスカルでは、テンレックのサンプル収集のため、トラップをしかけて捕獲し、実物を前に写真も撮れた。

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マダガスカルはインドと共に大陸を離れて、その後インドはユーラシア大陸へと向かった。カエルで見つかった「アウト・オブ・インディア」仮説はレム−ルにも言えると考えている。

マダガスカル・バオバブ

適応と進化への視点

2007年からは、中国の上海にある復旦大学の教員になりました。そこの植物の先生が統計数理研究所に共同研究をしに来ていた縁です。中国では植物の適応進化、種レベルでの収斂進化の研究をしています。陸上植物で最も繁栄しており、しかも栽培植物を含むイネ科植物ですが、進化に関してはあまりわかっていませんでした。ところが最近、インドで発見された恐竜の糞化石からイネ科植物に含まれるプラントオパールプラントオパール植物珪酸体とも呼ばれ、植物に含まれる珪酸の結晶で、植物ごとに形態が異なる。植物が枯れた後も土壌に残るので、過去の植生等の調査に使う。単子葉植物のなかのイネ科植物に特に多い。という珪酸の結晶が見つかり、これは植物の種類によって形が異なることを手がかりにすることで、イネとトウモロコシの仲間が6500万年以上に分かれていたことが明らかにされました。こんなに早くから分かれていたとは思いもしませんでした。そこで、それを尺度にイネ科植物の進化を調べたところ、それよりずっと前のイネ科の共通祖先で進化速度が上がっていたことがわかりました。現生のイネ科植物には見られない特徴で、進化速度は変化するものだということを実感しました。面白いことだと思いますので、他の生物でも調べてみたいですね。また、いくつかのタンパク質を調べたところ、イネ科の共通祖先で新たに機能を獲得した可能性のある変異が見つかりました。適応進化が起きたのかもしれなません。イネ科の植物は多くの動物にとって主要な食糧でもあり地球上で大繁栄している植物でもありますが、共通祖先での分子進化の加速や適応進化が効いているのかもしれません。

蘭州大学とも共同研究をしており、チベットでのヤクの家畜化について調べています。実は、種内の変異と種間の変異とは、かなり違う原理で起こっているということを1990年代に見つけていて、これがこれから結構重要な概念になってくると思っているのです。通常は種内の変異は小さく、変化が蓄積した延長上にある種間の違いの方が大きいと考えますよね。ところが違うんです。アミノ酸を変えない同義置換とアミノ酸が変化する非同義置換の比率を見ると、ヒトとチンパンジーの間でよりも、ヒトの種内での方が違いが圧倒的に大きい。ヒトとチンパンジーの比較にあたる長い期間では負の選択で集団から取り除かれてしまうような弱害遺伝子が、種内比較のような短期間では存続しているためだろうと思うのです。実は家畜でもタンパク質のアミノ酸置換速度が大きいんです。イヌとオオカミとの場合より、家畜化されたイヌの間でミトコンドリアタンパク質のアミノ酸置換が増えているんです。ヤクでも野生のヤクと家畜化されたヤクで同じことが起きています。ミトコンドリアは生体内のエネルギー生産工場であり、家畜になれば野生よりも、多少エネルギー効率が悪くても生きていけるからだと思うんです。つまりミトコンドリアタンパク質にかかる機能的制約が緩んだということですね。野生のヤクは標高4000メートル以上の高地で過酷な環境を生き抜いているわけですから、ミトコンドリアタンパク質にはかなり強い制約がかかっているはずです。それが家畜化に伴って制約が緩み、野生で生きるための形質が多少劣化しても許容されるようになったのでしょうね。遺伝形質の劣化と言ってよいのかどうかはわかりませんが、ヒトも農耕が始まり、文明化して大分変わっていると思います。もういちどヒトの進化を見るとしたら、十万年とか五万年前以降、文明化と遺伝子の進化の関係を調べてみたいですね。今や個人のゲノムがどんどん読まれる時代になっているから、いろいろな解釈ができるのではないでしょうか。

ヤクの家畜化は中国での研究テーマの一つ。チベット・ナムツォ湖(海抜4718メートル)にて。

復旦大学(中国上海)の研究室のメンバーとチベットにて(後列中央: 本人)。本人の右が、復旦大学のYang Zhong 教授。

ユニバーサルコモンアンセスター(共通祖先)を探して

野田研究室での生命の起源の研究は早過ぎましたが、この問題にはずっと興味をもっていました。地球上のあらゆる生きものは、真核生物、古細菌、真性細菌の3つの超生物界に分類されます。1989年に宮田さんのグループがこの3つの関係を明らかにした論文を出しましたが、そのときも議論に参加して、古細菌と真核生物が近縁で真性細菌は遠縁であることを決めました。次はこれらの祖先を考えるというテーマがあります。

あらゆる生物が遺伝情報としてDNAを用い、DNAからRNAを通してタンパク質へという仕組みが共通で、遺伝コードもほとんど同じ、ヒトと大腸菌でもDNA配列の似た遺伝子がありますから、すべての生物は1つの共通祖先から生まれたと考えるのが自然です。この地球上すべての生物の共通祖先ユニバーサルコモンアンセスター(UCA、Universal Common Ancestor)がいたと考えるのがUCA仮説、三つの生物界が独立に現れたとするのが独立起源仮説です。2010年にテオバルトが、たくさんのタンパク質遺伝子の配列データをAICを用いて解析し、独立起源仮説を棄てる結果を『ネーチャー』に発表しました。つまり遺伝子に関しては、真核生物、古細菌、真性細菌が1つの系統樹にまとまるということを、統計学的検定を使って証明したと言ったんです。それに対して我々はクレームを出しました。分子レベルの収斂ということもありえるのにそれが考慮されていなかったからです。一番問題なのは、配列データのアラインメント法を使っていることです。そもそもアラインメント法は共通祖先の存在を仮定している方法ですから、共通祖先がいるかどうかの検定には使えません。多くの状況証拠から、僕も共通祖先UCAがいると思いますが、完全な証明にはなっていないのです。証明法は、将来見つかるかもしれませんが、まだないんです。たとえ現存の生物すべてが共通の祖先から進化したとしても、生命の起源は1回だったとは限りません。たぶん多くの試行錯誤があって、いろいろな生きものが生まれて、そのなかでたまたま生き延びたのがUCAの子孫だったということでしょう。状況証拠です。

統計数理研究所にて忘年会。研究室のOBや共同研究者も毎年集まる(前列中央:本人)。

ゲノムから集団進化の時代へ

ゲノムの時代になって一番大きく変わったと思うのは、集団としての種分化の問題を遺伝子レベルで考えられるようになったことです。今までは、ヒト、チンパンジーといっても点で捕らえてきたようなところがありますが、実際の共通祖先は集団だったのです。ヒトとチンパンジーとゴリラについて考えると、ヒトとチンパンジーが最後に分かれたことは今では確定していますが、80%くらいの遺伝子はヒトとチンパンジーで最も近いけれど、のこりの10%がヒトとゴリラで、10%はチンパンジーとゴリラで近いという解析があるんです。これはチンパンジーとゴリラとヒトの共通祖先が多様な遺伝子を持っていたことを意味しています。ゴリラが分かれてからあまり間をおかずにチンパンジーとヒトが分かれたために、共通祖先集団の多型が保持されたまま3つの集団にランダムに割り振られたために、近縁な生物種同士だからといって近い遺伝子を持っているとはかぎらないんです。昔の種分化の考えは、遺伝的な交流が途絶えて、そこから種分化が始まるという考えだったのだけれど、どうもそうではないらしい。自由とまではいかないけれど、時々集団間の交流がある中で次第に性的隔離が確立し、別の種になるという考え方が出てきました。たくさんの個体が構成する、集団の間の関係性として種分化を考えることが、ゲノムの解析によってできるようになったのです。昔の分子系統学では、考えられなかったことがゲノムをつかったらわかるようになってきた。具体的な方法はまだわかりませんが、種分化のプロセスの全体像が理解できるようになる時代に、なっていくのだろうと思います。

僕は、長い間系統分類学をやってきて、DNAやタンパク質という生物に共通の分子を見ながら、どちらかというと普遍的なものよりも、変わりゆくものや多様なものに惹かれてきました。昆虫の標本から動物の写真へと形は変わりましたが、生きものとの出会いが研究の原動力だと思っています。生物の系統的な位置づけによって答えを得る解析方法を提案してきましたが、どんな方法も万能ではありませんし、欠陥があります。でもいつも、この方法がサイエンティフィックなアプローチとして正しいかどうかと考えてきました。これからますますゲノム解析が進み、全ての生物の正確な系統樹が書けるようになるでしょう。でも系統樹を確立することが目標ではありません。どの生物がどの生物に近いかというだけではつまらない。系統関係が明らかになったら、進化の研究が、そこから始まるんです。今、スタート地点に立っているんですよ。

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ゲノムデータが大量にでる時代でも、現地に足を運んでわかることはたくさんある。進化は昔のことではなく、今も進んでいるから、これからもっとおもしろくなるはず。

共通祖先の集団が、種分化したときの遺伝子の関係

チョウトンボ。さいたま市の自宅近くにて。

写真はずっとやってきた趣味。傷もへこみも愛着のあるカメラ。
旅で出会った動物たちを撮影した写真はこちらへ。

コラム:旅で出会った動物たち

学会で発表するとか、本を書くとかいう場合に、やっぱり自分で撮った写真があるといいと思って、昔から僕は自分で写真を撮ってたんです。今回、本書くときも、だいたい必要な写真がみつかりました(「新図説動物の起源と進化 – 書きかえられた系統樹」八坂書房)。そんな本に使うとは想定してなかったような写真もいっぱいあるんですけど、もうちょっと数えられないくらいあります。

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マダガスカルの森で出会ったインドリ。深い谷を隔てた向かい側にいる。人を見たことがないのか、珍しそうにこちらを見ている。このような状態で30分以上も睨めっこが続いた。 インドリはマダガスカルに固有種の原猿亜目のサルの仲間。

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インドネシア・スマトラ島の森で出会ったスマトラオランウータンの親子。

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アオウミガメ。ハワイ・オアフ島にて。

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サバンナゾウ。南アフリカ・クルーガー 国立公園にて。

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樹上で休息するヒョウ。南アフリカ・サビサビ私営保護区にて。

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ムラサキサギ。沖縄・西表島にて。

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カンムリワシ。沖縄・西表島にて。