季刊誌「生命誌」通 巻26号 
コンピュータの中でつくる細胞:冨田 勝
Experiment
コンピュータの中でつくる細胞 
生命と機械は何が違うのか。
多くの哲学者を悩ませてきたこの問いに答えるには,生物システムを再構築するのが一番だと思いませんか。コンピュータの中に生命は生まれるのでしょうか。
 ついに死ななくなった。今まではブドウ糖をうまくエネルギーに変換できなかったり,中間物質が細胞内に異常に蓄積したりして,長くても数十分で死んでしまっていたのが,何時間も安定して「生き」続けている。
 「乾杯!!」と大きな声とともに冷えたビールのジョッキがゴツゴツと衝突する。全員満面の笑みを浮かべながら一気に飲み干す。テーブルのフライドポテトの横には,先ほど誕生したばかりの127個の遺伝子からなる小さなバーチャル細胞がラップトップコンピュータの中で「生き」ていた。1997年の夏,遺伝子解析で世界的に有名な米国タイガー研究所のそばにアパートを借り,ここでこの記念すべき日を迎えようと,研究室の学生8人と6週間の合宿を行なったワシントン郊外での快挙だった。
 細胞が生きるには内部でたくさんの物質が反応し合う必要がある。これを代謝というが,それをすべてモデル化し,細胞をまるごとシミュレーションすることを目的とした電子化細胞(E-CELL)プロジェクトが96年に発足した。これまで知られている生物でもっとも遺伝子が少ない「マイコプラズマ菌」を最初のモデル生物に選んだ。マイコプラズマ菌の全DNA情報は,95年にタイガー研究所によってすでに明らかにされている。その約500個の遺伝子の中から自分を維持するのに不可欠な遺伝子127個を選んで,その機能ひとつひとつをコンピュータでモデル化した。このコンピュータの中のバーチャル細胞は,ブドウ糖を摂り込み,エネルギー(ATP)を生産し,タンパク質を合成してひたすら自己を維持する。
E-CELLシステムを用いて作ったバーチャル細胞
 バーチャル細胞は,膜外から摂り込んだグルコースを解糖系によって分解しエネルギー(ATP)を生産する。リン脂質合成系は,脂肪酸とグリセロールからホスホチジルグリセロール(細胞膜)を合成する。転写機構(RNAポリメラーゼなど)と翻訳機構(リボゾームなど)があり,遺伝子からタンパク質を合成する。
 最近,新たにE-CELLとしてヒトの赤血球細胞のシミュレーションを完成させた。これを使うと,酵素機能を抑えるなどのいろいろな「バーチャル実験」が可能で,遺伝性貧血症患者の赤血球に似た状態がどんなときに現れるかを調べることもできる。
 シミュレーションを始めると,すべての酵素反応が並列(実際には疑似並列)に実行され,「代謝活動」が始まる。グラフィックインターフェースを通じて,細胞内のさまざまな物質(分子数)の増減(“Traced substances”ウィンドウ)や特定の化学反応のアクティビティが観察できる(図右の“Reactor”ウィンドウ)。全遺伝子の発現状態が一目でわかるインターフェースもある(図右下)。シミュレーション中に,リアルタイムに介入して物質の量を変化させることもできる(図右の“Substance”ウィンドウ)。
 たとえば細胞外のグルコース量をある時点でゼロにすると(図左上 C00031E),細胞内のグルコースが枯渇し,解糖系の中間物代謝物質が軒並み減少していくのがわかる(図中上 glycolysis2と書かれたウィンドウ)。しかし驚いたことに,ATP量(図左下 C00002)は一瞬増加してから減少することがわかった。解糖系は消費したATPの倍の量のATPを生成することで全体のATP量を増加させるが,急激なグルコース量の低下でそれが不可能だとATPの消費が抑えられ,最初一時的にATPが増加したように見えるのではないかと推測している。
 研究を始めたころは生物学者に一笑に付されていたE−CELLプロジェクトだが,最近では分子生物学会や生化学会でも多くの人が関心をもってくださり,『Sciense』誌(99年4月2日号)をはじめとするさまざまな雑誌・新聞にも取り上げられるようになった。
 私はもともとはコンピュータ科学者だった。米国カーネギーメロン大学でコンピュータ科学を専攻,85年に博士号をとり,その後も93年までアメリカで人工知能の研究を続けていた。奇跡としか思えない人間の知能をコンピュータで再現するのが夢だったからだ。しかし80年代後半には「人工知能」という学問も,「できることはできる」けれど「できないことはできない」というように徐々にその限界が明確になってきていた。つまりヒトという知的システムは複雑すぎて,とても手に負えない代物であることが改めて明確になってきたのである。
 ところが今この瞬間にも地球のいたるところで(受精,発生を経て)ヒトができあがっている。何万人ものコンピュータ科学者たちが匙を投げつつある「知的システムの構築」を大自然はいとも簡単にやってのけている。60兆個の細胞からなるヒトという知的システムも,もとは受精卵という一つの細胞なのだから驚く。しかもその中にあるゲノム,つまり「たったの」30億文字のDNA配列によるプログラムでヒトができるのだ。細胞同士が情報をやりとりすることによって,ほとんど間違えずにヒトができあがるメカニズムは,いったいどうなっているのだろう。しかもそれは機械的な変異と自然選択によって40億年の歳月をかけ誰の意志でもなくできあがったという。
ヒト赤血球のE-CELLモデル
 赤血球の主な代謝系路である解糖系,ペントースリン酸経路(核酸合成に必須なリボース5-リン酸を作る),核酸合成経路(GTPなどの核酸を作る)の3つが示されている。
 「生命はうまくできすぎていないか?」「生命は機械なのか?」そんな素朴な疑問と好奇心から,コンピュータ科学者だった私はゲノム研究の世界にのめりこんでいった。生命が機械ならシミュレーション可能なはずだ。また逆にシミュレーション不可能だと証明できたとしたら,その理由を追求すれば機械と生命の違いに迫れるだろう。
 生命科学を本格的に始めて7年近くたつが,謎はますます深まるばかりだ。生命科学には「地動説」「相対性理論」に匹敵する大発見が眠っているのではないだろうか。現在の物理化学法則でまだ知られていない生命特有の「何か」があり,それが解明されていないので不思議に思えることがたくさんあるのだと思う。
 解糖系酵素欠損時の赤血球の様子。解糖系の酵素が欠損すると,ATPの生産量が落ち,浸透圧を維持するためのエネルギーが得られない。そのため,通常の赤血球(左)が徐々に膨らみ(中央,右),最終的には破裂したり,脾臓で破壊されたりする。
 「地球は丸くて回っている」ことを知る前には数多くの謎があった。海の向こうはどうなっているのか。なぜ星は東から出て西に沈むのか。なぜ日食がおきるのか。大地は巨大な亀の甲羅の上に乗った3匹の象によって支えられているというが,その亀は何の上に乗っているのだろうか? これらの謎は地動説の出現とともに一挙に解決したのである。
 21世紀には「じつは生命と機械との違いは○○○だった」という大発見があって,これが明らかになるやいなや,生命の起源や進化,発生,老化など,生命にまつわる多くの謎がいっぺんに解け,「なーんだ,だからだったのか」と苦笑いをする。そんな日がやってくるに違いないと思っている。


本稿は慶応義塾大学冨田研究室E-CELLプロジェクトの成果をもとにしています。プロジェクトメンバー全員に感謝いたします。,の図は橋本健太氏,の図は中山洋一氏の提供によるものです。
とみた・まさる
1957年東京都生まれ。81年慶應義塾大学工学部数理工学科卒業後,米国カーネギーメロン大学に留学し, Ph. D:(情報科学)を取得。その後,同大学助手,助教授,準教授,同大学自動翻訳研究所副所長を経て,現在慶應義塾大学環境情報学部教授。同大学医学部教授も兼任。88年,米国立科学財団大統領奨励賞受賞。94年,工学博士(電気工学)取得。生命の不思議に魅せられ98年には医学博士(分子生物学)を取得。「サイエンスアイ」(NHK)レギュラーコメンテーター。
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