1. トップ
  2. 季刊「生命誌」
  3. 季刊「生命誌」35号
  4. TALK 心理学の新しい流れ-生態心理学

Talk

年間特集「人間ってなに?」

心理学の新しい流れ-生態心理学

佐々木正人東京大学
中村桂子JT生命誌研究館館長

心理学の新しい流れの一つであるアフォーダンスがちょっと気になります。多様で柔軟な心を理解するには、身体の内に入り、分析していく従来の「科学」を越えた新しい知が求められているような気がします。アフォーダンスという切り口をもつ生態心理学の現状を伺いながら心について考えます。

1. 心理学とはどういう学問か

中村

若い頃って誰でも人間ってなんだろうと考え、心理学に憧れませんか。私もその一人でしたが、教養部の頃の授業があまり面白くなかったので離れてしまいました。江上不二夫先生がおつくりになった生命科学研究所は生化学から脳研究まですべてを含み、生理心理学研究室もあったのです。興味をもってのぞいていたのですが、ネコの頭に電極をさす実験が人間の心理とつながるまでは大変だという感じでした。最近、佐々木さんが翻訳監修なさったギブソン(註1)の本を知って…。

佐々木

『アフォーダンスの心理学』ですね。書評を書いてくださって、ありがとうございました。

中村

心理学に関心をもちながら生物学の世界にいた私にとって魅力的なアプローチなのです。今日は、この考えが生まれてきた経緯と心理学の中での位置づけをお話しいただけますか。

佐々木

19世紀に心理物理学という形で成立した1つの方法があります。物理学や生理学での刺激と、その測定や観測の方法を心理学的現象の解明に援用する。どれだけの量の刺激があると「何かがある」と感じるのかを問題にする。すなわち閾値の研究です。19世紀半ばに盛んに研究され、後半にウィルヘルム・ブント(註2)によって実験心理学として大成されます。1879年に実験心理学の研究室を開設したことで有名なブントは医学部出身の生理学者です。生理学者が中心になって、いわゆる科学としての心理学を組み立てていきます。  もっとも、要素主義的方法には限界があって、そもそもこの方法で人間の全体を知ることは到底無理だということはこの流れをつくり上げた人々もわかっていた。そこで、ブントは、一方で文化人類学者のように、各国の神話、伝説、物語など信念、体系と呼べることを集めて、そこに描かれた人々の物の見方、考え方を調べ、それを民族心理学と称しました。実験心理学の科学的測定と、文化や社会に共有されている信念や体系を結合することで心理学という学問を構築していく。まったく違う2つのレベルを足し合わせたものが心理学なのです。

中村

一人の研究者が常にその2つの作業をしていくのですか。

佐々木

そうです。ですから心理学者は、まず細かな実験や統計の方法を身につける必要があります。一方で、人々の精神については、手に入る種々の理論を活用します。ある時は論理学、ある時はチョムスキーの言語学、ある時はコンピュータサイエンス、最近ではDNA研究などです。つまり、学問のトレンドを心に関するメタファとして自分たちの実験結果に接ぎ穂して、ある人間像をつくり上げていくということをしてきた。

ここで問題なのは、科学的方法で得られたデータの意義づけです。データをもとにモデルを作り、そこから多くのことを語る。モデルに基づく話はまあ比喩であって、街でおじさんおばさんが語るのと大して変わらないというところが心理学にはあるのですが、それは心理学者が無能だからではなく、これまでの心理学が、全くレベルの違うものを合わせたものだからそうならざるを得ない。ミクロなものにマクロなものを接ぎ穂している。かたや物理・生理的事実、かたや信念です。これをつなぐことで人間が理解できると考えているわけです。

中村

生物学も19世紀以来、要素還元的な科学の方法で生命現象の解明に努めてきて、幸いDNAまで追いつめました。しかし、これで生命が理解できたかと言えば違います。ここから、生命とは何かという問いを改めて立てる、つまり考え方を出す必要が出ています。身体の場合、DNAという実体が見つかりましたが、心を対象にしているとそこが難しいですね。

(註1)ジェームズ・ギブソン(James J. Gibson)

ギブソンは、1904年、鉄道会社に勤務していた父と教師だった母の間に生まれた。1922年にプリンストン大学の哲学科に入学、心理学を専攻し、ゲシュタルト心理学(註3)に出会う。ゲシュタルトとは、クリスチャン・フォン・エーレンフェルス(ドイツの哲学者)が「感覚要素の総和以上のもの、総和とは異なるもの」として定義したもので、たとえば音のつながりから生まれるメロディーなどがそれにあたる。メロディーは、要素である個々の音とは異なるレベルの秩序をもったゲシュタルトである。

学位取得後、ギブソンは、スミス・カレッジに最初の職を得る。1940年代に、第二次世界大戦中に空軍の知覚研究プロジェクトの一員となり、フライトシミュレーターの開発、敵機を発見する知覚能力の分析などの任務に当たる。そこで、「動き」の重要性に気付き、動きの中で変化するものとしないものが知覚の基本を与えるという考えを得る。環境の中で動き回るうちに、知覚者が全身の動きとともに発見する何かが重要と考えたのだ。

こうした経験を基に、徐々にアフォーダンスという考え方が結晶化していくことになる。アフォーダンスは、知覚者が構成するものではなく、環境の中に実在する、知覚者にとって価値のある情報である。知覚者は、情報に反応するのではなく、情報を環境に探し求め、抽出している。アフォーダンスは、環境からの刺激という言葉から連想されるような環境から押しつけられるものではなく、環境の中に発見するものなのだ。

ギブソンは、1949年に、ニューヨークのコーネル大学に移り、1979年に亡くなるまで、そこで研究を続けた。


(註2)ウイルヘルム・ブント(1832~1920年)

ドイツの心理学者。哲学者でもあり、生理学者でもあった。哲学的だった心理学を科学的な心理学に変え、心理学を近代的な学問にしたことから、実験心理学の父と言われている。心理学の対象を意識とし、自分の意識過程を観察する内観法を強調した。意識過程は感覚や単純感情のような単純な心的要素から構成されると考え、これらを実験と観察によって発見し、その法則を明らかにしようとした。

ブントの実験心理学は19世紀末から20世紀初頭にかけて世界に瞬く間に広がるが、創設当初から多くの批判も受けていた。こうしたブントの学説に反対する考え方が、精神分析学、ゲシュタルト心理学、行動主義心理学など現代心理学の諸学派を産み出すことになった。

2. 心理学の流れ―ゲシュタルトからギブソンへ

佐々木

そこで19世紀末から20世紀冒頭にかけてゲシュタルト心理学(註3)が登場します。「ルービンの盃(註4)」という、盃にも人の横顔が向かい合った絵にも見える図が有名ですが、1つの刺激図が2つの意味をもたらすわけです。1つの刺激のもたらす結果が1つでないとすれば、原因と結果の恒常的な関係は崩れますね。心理物理学は恒常的関係があるという仮説のもとに心を物理的な刺激と心の反応との関係で見ようとしたのですが、恒常仮説は成立しないとなると話は変わります。そこで、還元できる、時空を閉じた刺激ではなく、時間と空間に開放されたマクロなレベルの刺激を扱った時に初めて意味があらわれるというゲシュタルト心理学が生まれたのです。  同じく20世紀の前半に登場したロシアのヴィゴツキは、言語や道具などを媒介にした単位を考えたり、上の世代とそれを学ぶ子供の世代というような大きな社会システムの相互性を問題にしなければ、心は語れないという主張をしました。彼の考えは70年代に欧米で再評価されました。そういう既成の心理学への危機感の中でギブソンが登場します。

中村

要素の集合としてでなく全体の構造を見ようという流れの中で生まれたわけですね。

佐々木

ギブソンは、視覚をとりあげ、感覚器官へのミクロの刺激を問題にせずに視覚を説明するにはどうしたらよいかということを徹底的に考えます。そして、刺激に信念を接ぎ穂するようなことをしなくても、刺激のマクロな構造レベル、彼が言う「情報」のレベルを記述できれば、直接意味に到達できると考えたのです。その実証が彼の夢だった。視覚について約半世紀研究を続け、「生態光学」という全く独自の領域を創ったわけです。

中村

それが生態心理学へと進むという、そこの過程を伺いたいのですが、これは決して心理学の主流ではありませんでしょう。

佐々木

そうですね。現在の世界の心理学での大きな流れは、脳研究を進めていけば、心の秘密が解けるだろうというものです。

中村

脳科学者はそう思っていますね。心理学者も?

名前2

一部の心理学者はそう信じています。2つのレベルを結合して成立していた心理学は分裂したわけです。片方は脳研究にいった神経心理学者、もう片方は臨床心理学。二極分解です。

(註3)ゲシュタルト心理学

20世紀初頭にドイツを中心として起こった心理学で、ウェルトハイマー(1880~1943年)によって提唱された。心的現象を各要素に還元してしまうブントの心理学に対して、全体性で捉えるべきだと説いた。全体は部分の寄せ集めではなく、まず全体があって部分はその全体に依存して現れるとし、この全体性をゲシュタルト(形態)と呼んだ。

(註4)ルービンの盃

3. 今の心理学は何をしているか?

中村

神経心理学と臨床心理学に分解してしまったら、ミクロとマクロをつないでなんとか心に迫ろうという心理学の本来の姿が見えなくなりませんか。

佐々木

脳科科学や基礎医学、生物学など隣接の領域になると、もう心を考えなくていいわけで、実験的な科学に徹していく。

中村

でも、それでは心理学ではないでしょう?

佐々木

はい。でも、実験心理学者は、その流れに合流し、ある意味「厳密科学」へと解脱したといいますか…。

中村

まず脳を分析的に理解しようとするのは過程としては理解できます。でもそれは心理学独自ではありませんね。

佐々木

かもしれませんね。もはやその心理学者は、特別な意味がないかもしれません。かたや臨床の方は、ある意味リアリズムです。そこでは現象自体が20年、30年という経験を積んで初めてわかってくることだから、どんな理論があったとしても力がない。モデルなんて実践ではそんなには影響力を持たないはずです。結局、臨床家の経験というか、ある種の身体技が力をもつ。そういうリアルな領域なんです。

中村

学問とは何かということですね。脳科学は今、大変おもしろいですし、臨床心理学も日常的に非常に大事な作業でしょう。こんな世の中ですから社会が求めている。ただ、心理学に求められるのは、心とは何ぞやという問いに正面から取り組む、体系的な知を組み立てることですから、脳科学も臨床心理学もその基本から逃げているように見える。もう少し、本質に近づく独自の方法を探ってほしいと外野としては、思うのですが。

佐々木

20世紀後半になって心理学の危機は再び心理学者に深く理解され、人間という対象を心身一体にして問題にするには、19世紀までの西欧のフレームワークではだめだと理解されました。知覚の領域ではギブソンみたいな人が出てきた。ごくごく少数のすぐれた人が次の一手を打っているというのが現状だと思います。

4. アメリカと日本の心理学の違い

中村

あるセミナーでアフォーダンスが話題になり、アメリカの専門家が、アメリカのインテリの間でアフォーダンスなどという言葉は聞いたことがないとおっしゃっていましたが。

佐々木

アメリカでは大学の教養で学ぶ科目として、物理学と法学と同じレベルで心理学が重視されています。教科書も分厚く、確立したアメリカの学問になっている。教科書にはあたかも物理学のように、いろいろなモデルを背景にした知見がまとめられています。米国心理学会には数万の会員がおり、臨床を入れると、十万人を越えるはずです。日本の比じゃない。  一定の知的枠組みを前提にして多くの心理学者が着々と輩出されるアメリカの心理学で、ギブソンのアフォーダンスのような、観点を180度変えてしまう議論はなかなか通じないんです。舞台を変えようという話をいやがる人の方が多い。

中村

学問の枠組みがしっかりしすぎているのですね。

佐々木

生態心理学の国際学会は100人くらいの規模で、アメリカでは、ギブソンのお弟子さんの世代にもその次の世代にも広くは継承されていない。自己組織化などの複雑系の観点から研究する人たちが、エコロジカルと称し、既成心理学とは違う研究ユニットとして広がっていますが、そこでもそれほどギブソンは読まれていません。ギブソンの理論の一般化はアメリカではあまり進められてない。

中村

どこで盛んなのですか?

佐々木

ヨーロッパと日本でしょうか。その意味するところの重要さを一部の人々は深刻に受けとめています。ただアフォーダンスという言葉がこんなにはやっているのはおそらく日本だけですね。

中村

必ずしもギブソンを理解してではなく、流行語として。あるとき、利己的遺伝子という言葉を流行語として使っていた人たちが、そろそろ飽きてきて、アフォーダンスという言葉を使い始めたという感じがしなくもありません。

佐々木

それは避けたいですね。

5. アフォーダンスとは何か

中村

いよいよ生態心理学とはどのような考え方なのかというところへ入りたいのですが。

佐々木

アフォーダンス理論の革命的なところは、意味や価値が周囲にあるということです。例えば、歩くという行為。これまでは動物の身体の性質として歩くことを研究するのが普通でした。「歩行」という意味は動物の内部にあるとされていた。ところが、歩行のアフォーダンスというのは動物に歩くことを可能にする環境の性質を指しているのです。それに名前を与えるというのが発想の転換です。山登りをすると、山肌にはでこぼこの岩場やツルツル滑るところなど、いろいろなところがあり、一歩一歩足の踏み場を探して移動していくわけです。そのとき常に自分の移動を可能にする山肌の性質を探しているわけです。もし、一万歩で頂上に立てたとすると、体重を支え、移動を支えて、一歩歩くということを可能にする山肌の意味を一万のステップそれぞれで使ったはずで、そのすべてが移動を支えたアフォーダンスなのです。これは動物の歩行の意味です。

周囲にある環境の一部が歩くことに利用できるという見え方は、自分の身長や体重や運動能力を通して見えているので、ただの客観的環境というわけではない。動物の行動の性質と周囲の性質が共に埋め込まれたことです。わが国の認知科学研究者にこの発想が好まれているようです。  

例えばロボット研究では(関連記事:「ヒューマノイド・サイエンス - ヒト知能の新たな理解を求めて:浅田稔」)、動きに関する研究成果をフルに使って、身体をつくり、生きもののように振る舞うロボットを作ろうとしています。ロボットを作ることを通して人間がどのような周囲と親和的であるのかを知ろうとしている。30歳代のロボット研究者はロボットの脚と共に床の性質についても深く考えるようになってきました。ロボットが世界の意味を探るのでなければ人間とロボットとの間に交流はないと本気で考えているわけです。柔らかさを介護ロボットに教えるなら、人間の皮膚と動きとが発見している柔らかさを教えなければ人とのコミュニケーションではないのです。こういうことを考えるのは、日本の研究者に多いですね。そういう人たちがアフォーダンスについて真剣に考えています。

中村

アフォーダンスに注目すると、ロボットが心の問題を考えるよいテーマになるということでもありますね。

佐々木

もうひとつは建築。概念的な建築理論に背を向けて、実際に暮らす時の建築の意味を考える人たちがアフォーダンスということを言い始めた。デザイナーや建築家や一部の技術者、つまり人とコミュニケートする物づくり職人であり、科学者であるような人たちが日本ではアフォーダンスという言葉を使っている。そのあたりは日本的展開だと思います。心理学者はむしろ少ないのです。

中村

人型ロボットも日本が得意ですし、物づくりの時、物との関係性を見ることには関心が強いですね。

佐々木

物との接点を持っている人たちが、アフォーダンスという言葉に、自分たちの観点を発見しているのかな。そういう意味では、ただの流行ではなく、ひょっとして我々の文化の基礎には職人文化や物の文化があるのかもしれませんね。理論ではなく腕や眼を信じる…。

中村

日本語の中で大事にされている言葉に「わざ」がありますよね。

佐々木

アフォーダンスとは「わざ」に対応する物の性質ということですね。登山家が山肌に路を発見するのも「わざ」だと思うのです。登りにくい急な岩場の小さなくぼみの中に体重を支えられるところを発見することは、その岩場の方に行動の意味を見いだすということですね。

中村

「わざ」とか暗黙知とか。

佐々木

そうですね。無意識とか。

中村

その場合、やはり自分の中に「わざ」とかかわり合う何かがあると考え、それを求めていたわけでしょう。ところがアフォーダンスはそれを外に出したところが発想の転換ですね。山登りも一歩一歩違うので、答を法則や数式で書きにくい。それをどう捉えるかという答を内に求めるのでなく外に求めるところが面白い。

佐々木

そうですね。科学はわかる範囲を限定してすべて透明にするという作業ですよね。それはすごみがあり、一種の思想だと思う。それに対して、わからないものはわからないでいいのだという考え方があって、無意識というような言葉を使います。誰もわかる部分とわからない部分があるということを知っている。そのわからない部分を環境の性質として捉えることで少しでもわかるようになるだろうというのがアフォーダンス。もちろんこれでわかるのもごく一部ですけどね。

6. アフォーダンス研究の実際

佐々木

例えば、寿司屋の職人が握った寿司はなぜうまいか。グルメ評論家はご飯粒の間に入っている空気がうまいとか、ご飯とネタの温度差がうまいなどと言いますね。これは結構アフォーダンスに近いわけです。どうしてそんなふうに握れるのかは実は謎なわけですが、職人さんの無意識が可能にした「寿司にある意味を物の性質として記述できる」とすると、伝承可能になる。

アフォーダンス博物館を作って、登山の部屋では、すぐれた登山家がアルプスの岩肌につけた足跡を展示したり、寿司の部屋では、種々のパラメーターを変えて組み合わせてさまざまな寿司を握って、味わえるようにしたらおもしろいでしょうね。  僕が実際にこれまでやってきたのは、盲人のアフォーダンスを理解しようという研究です。全盲の人がまっすぐに歩くのはとても大変です。周囲の人や車の音を利用している。壁を通り越したりする時にどんな音の変化が聞こえてくるか、これを目の見える人が体験できる仕組みがあれば、盲人の移動のアフォーダンスの一部が理解できるはずです。

中村

最近バリアフリー実施へ向けての意識を高めるために車いすに乗ったり、ゴーグルをかけるなどの体験の場がありますね。

佐々木

周囲の変化を体験できるようなシステムをつくる。そこで少しでもわかったことを外にあることとして記述してみる。その外はただの物ではない。ヒトの行為とつながった外です。そういう風に外在化するということは、他の人に伝えられる、伝承可能になることです。簡単ではないですけれど。

中村

伝承可能にするというのは、客観性を持たせて科学にするわけで大事だろうと思いますが、その具体的な方法は?

佐々木

例えば、盲人は交差点で近づいてくる車の音を聞き分けて、渡り始めるタイミングを測ります。視覚の場合は、光の変化を使っていて、車の拡大率の逆数が自分のいる所に車が到達する時を特定する視覚情報なのですが、盲人の場合は、音を視覚の変わりに使っているという研究があります。

また、目をつぶって、手に持ったペンを振ると、見えなくてもペンの先の位置、つまりペンの長さがわかります。慣性を感じているわけで、これを元にした知覚は、身体が今どうあるかというボディイメージの基礎になりますが、一方でペンの回転に対する抵抗がペンの長さ、太さ、形の情報になるわけです。  通常は物の視覚的な変形、目をつぶった時には力学的な変形の中に自分にとって意味のあることが現れてくるのです。これは針で皮膚を突いて感覚器官にわずかな刺激を与え、わかりますか、わかりませんかという実験とは意味が違います。物を持って振ることで、物と動的に関係したさまざまな変化が大事で、実は、その中で、変わらないものは何かということを明らかにしていくのです。

中村

なるほど。変わらないものを探すわけですか。

佐々木

そうです。変化を起こしてみて、膨大な変化の中で不変に残り続けるものを探すというのが、ギブソン後期の研究の指針なのですね。

中村

それが基本的な実験方法なのですね。

佐々木

そうです。力学的情報や音響学的情報などを既成の物理学でも記述できる方法で追っています。この辺の研究が昨年出した『アフォーダンスの構想』という翻訳書に載せたもので、自己組織化などを研究している物理学者たちとかなり共同研究が進んでいます。

中村

変わらないものというのは要素的なものではなく、むしろ自己組織化や複雑系として説明できる事項であることが多いということですね。

佐々木

おそらくそうだろうと思うのです。例えば、ある物体の光学的な拡大率とか物の回転に対する抵抗の値(慣性テンソル)は、式で記述できますね。そういう方法で生物的意味の一端が物理的に記述できる可能性がある。それは伝承可能です。しかも面白いのは、われわれが物を振る時の手の動きは、毎回違うことです。情報を抽出する時に使われる身体は常に組み変えられているのに、不変な情報をちゃんとつまみあげる(ギブソンはpickupと言った)。行為にはそういう柔軟性があります。

一方で環境の意味を特定する情報を記述するという研究があり、この情報と環境の意味は1対1に対応する。ここで環境を情報が特定すると考えるところが生態心理学が成立する根拠になっているわけです。この情報とアフォーダンスの「特定性」を認めないと何でもありになってしまうのでここは重要です。そして情報を得るための身体の協調や組織化などに注目すると、自己組織化というか、システムを構成するいくつもの要素が常に組み変わりながらあるところに到達することが見えてきます。例で話しましょう。

7. 靴下をはく

佐々木

数年前に、靴下をはくという行為を観察しました。まずどんなふうに記述したらいいかを考えて図にしてみると、主に、3つか4つの意識がある。ある意味を実現させるために身体が行っている注意と言ってもよいわけですが、これが重ね合わさって、靴下がはけることに気づいたのです。

具体的に言うと、1つは転ばないこと。転倒しないためには、壁につかまる、いすに座る、床に座るなどいろいろやらねばなりません。次は全身の姿勢です。手から一番遠い身体の突端部にある足先と手とを接近させるという身体の変形の意識。転倒しないことを保証しつつ、身体を折り曲げ足先に手をもっていく。もう1つがこれを持続しながら、グジャグジャして扱いにくい靴下を操作する意識。この3種の意識の発生と組織化を追ってみました。具体的には、肩から下が全然動かなくなった頸椎損傷の人が6ヶ月かかって靴下をはけるようになる過程を観察したのです。彼が、この3つの問題をどんなふうに解決しているかを図にしてみました。

その経過の中で、3つのことがある時は単独に、ある時は多重で、複雑に重なり合って靴下はきが成立していることがわかった。毎月1回、全部で6回観察したのですが、毎回できてくる図柄は違うのです。彼は、3つの課題のうち、まず、転ばない姿勢をつくる、それから足を手先にもってくる、それからはき込むと、3つを段階的に並べることに気づくのに3ヶ月かかりました。段階化は、3歳児ぐらいのレベルです。ところが、さらに2ヶ月たつとまた少し変化します。こんどは同時化するのです。

中村

同時化すると時間が短縮されますね。

佐々木

そうです。我々が靴下をはく時は、今3つのうちのどの問題に対処しているかなどと分けて考えることはありませんよね。一気に取り組むはずです。世界の意味との接触のことをギブソンは意識と呼ぶのですが、この場合、3つの意識が同時に走っているわけです。

ギブソンの弟子のリードが言っているのですが、草食動物が草を食べる時、どれを食べるかということと、敵が自分を狙っていないかということに、意識が分裂している。意識の分散こそが注意の本質だと言っています。靴下をはくということにも3つの注意を並列させるというレベルがあると思うのです。それを身体の組織として描いてみると、靴下を扱うために、身体が毎回柔軟にある組織を作り上げている。一生のうちに何千回はいているかわからないけれど、毎回違う。組織をつくるための調整として1つの行為が成立しているので、結果が毎回違うのは当然です。しかし、3つの意識がどういうふうに組織をつくろうかと準備していることは毎回不変だと思う。この不変を探します。例えば歩いているとき、腰の揺れよりは頭の揺れのほうが少ない。直立して歩く動物の移動は、視覚的な注意を損なわないように、上のほうが揺れないようなシステムになっているのです。これは腰の揺れと頭の揺れの組織ですね。そういう中で、中村さんには中村さんなりの、僕には僕なりの組織があるし、個性もあって、でこぼこの道や坂道を歩くときの対処の仕方がちょっと違うわけです。だから見ていておもしろい。

行為を身体の動きの間の協調として描くのが、運動研究の新しい方法です。こうして靴下の「深み」もちょっとは描ける。靴下のアフォーダンスはこのように運動組織として描けるのです。

登山のアフォーダンスを博物館に出す場合でも、山肌を使った誰かの足跡を示すと同時に、その人の山を歩くときの身体組織の毎回の揺らぎや毎回の組織化の様子を展示するといい。

8. アジの解体の研究と生物学におけるアフォーダンス

佐々木

ちょっとマニアックですが、アジの干物がどのように解体されるかを2年かけて観察した経験があるのです。リハビリ病院で片麻痺の患者さんの手が、いかにしてアジの身に到達するのかという。

中村

アジの解体!この頃お魚の食べ方が下手になっていると言われるので、大事な研究かもしれない(笑)。

佐々木

アジをほぐす方法はあまりに複雑です。言葉では説明できません。実は食事の時に、いろいろな食材をご飯を中心にして系列化するやり方はリハビリ中の人と子供とで似ているのです。だんだん運動が発達し、おかずをうまく時間的にならべられるようになる。

中村

ご飯だけ食べてしまうということをせずにあれこれ混ぜるということですね。その意味を探って、それがどうかかわり合うかというところを見ていくところに共通性があるとすれば、子供が新しく覚える時にも同じ過程があるはずということですね。ですから、それは人間がある行為を自分のものにする時に、共通なものを見ていくことになるとお考えになったわけですね。

佐々木

ただし、何ができたというふうに片づけるのではなく、そのプロセスにこだわります。例えば、みそ汁を飲む場合は、両手の動きのレベルに注意します。両手がどんなふうに関わっていたかを観察して、両手の関係として追っかけてみると飲み方が多様に見えてきます。両手で持ってもいいし、右手で持っても左手で持ってもいい。中に入っているものをこぼさないようにするために片手でどう調整するのか、もう一つの手でそれをどうサポートするのか。持った手での器の傾け方と箸をもった手での中身のすくい方はどうか。両手の組織がみそ汁にアプローチしているはずです。成立する組織を挙げればきりがない。そういうふうに見ていく。組織ということでいうと、赤ちゃんがおっぱいを吸う時に、重要なのは、吸うことと飲み込むことと息をすること。この3つをうまくやらないと。

中村

飲めないし、窒息しちゃう。赤ちゃんも大変ですね。

佐々木

実際にうまくできない子は突然死で亡くなるというデータがあって、赤ちゃんのリスクを予測するために、吸う、飲む、呼吸の連携が検討されているのです。赤ん坊の時に最初に与えられる一番重要な物との接触であるおっぱいを飲むという過程で、自分の行為の元をどう組織化するのかということが真剣に探られていると思うのです。世界にアフォーダンスを探すために1つ以上の注意をどんなふうに扱うかということが常に課せられていて、行為というレベルで見ていくと記述できる。そこが面白い。アフォーダンスに近いのは、この調整を探っている行為組織です。行為は、常に多重に世界とかかわっています。言葉でみそ汁とか靴下とかお乳とか言ってしまうと、それで完結しているように思いますけれども、行為的にそういうものを記述してみると、大変、難しいとわかる。

中村

みそ汁の持っている意味がいろいろあるわけですね。

佐々木

それがアフォーダンス。生物学でも行動の話になると因果の物語っぽくなるのは、外界を記述する方法をまだ科学者がもっていないからだと思うのです。

中村

人間特有のことでなく、生物全般の課題として考えることができるということですね。

佐々木

実際に動物のふるまいを通して物を見ると周囲にはとてつもなくいろいろなことがあるでしょう。

中村

確かに。外の多様性と内の柔軟性の組み合わせで事が起きているということでしょうか。

佐々木

そう。環境と行為のがちんこゲームですよ。なかなか院生に勧められない仕事ですよね。論文が簡単には書けないのです。

中村

多様性と柔軟性が勝負しているところから何を探しだすかというのはおもしろい。

佐々木

リードの心理学はまさにそうです。彼はダーウィンの後継者を自認していますけれども、身体に起こる変異を観察して、その中で何が選ばれてくるかを記述する。そこにアフォーダンスがおぼろげに見えてくるのではないかと、そういうもくろみをしています。

中村

共通なものを探すとはそういうことですね。生物は柔軟で外界は多様といっていたのでは何も出てこないから、多様と柔軟がくんづほぐれつする中に、ある種の何か記述できる不変なもの、共通なものがあるだろうと考えてそれを探すということですね。

佐々木

そうです。はい。

中村

外側が多様、身体が柔軟であることは、みんな常識でわかっているけれど、それでは、科学にならない。生命誌も常識と科学を結ぶことに意味をもっているので、そこの問題意識はよくわかります。

9. 発達心理学とダーウィンのミミズ

佐々木

発達心理学は、子供から大人までを見るという意味ではなく、そのくんづほぐれつのところを時間をかけてよく見るという意味だと思っています。そこが自己組織化の科学ととても近いところです。

中村

単に子供が育つのを見るのではないのですか?

佐々木

もちろん、子供が育つのを見るのですが、トポバイオロジーのエーデルマンのかつての共同研究者であるインディアナ大学のエスター・テーレンは、赤ちゃんのリーチング(手を伸ばして物を取る)をたった4例観察しただけで論文を書いた。リーチングの軌道とか、それがその後何週間でどう変わるかとか。それが赤ちゃんごとに全部違うのです。この論文が80年代に出た時には驚きました。彼女は元は生物学者で、心理学者がなぜ外界と普通に接触するところを見ないのか疑問に思っていたとはっきり言っています。今、発達心理学で光っている一人です。

中村

新しい方法論を探しているのが少しわかってきました。

佐々木

観察に戻って、事例を限定して平均化しない。単一事例で起きたことを可能な限りその固有性を捨てずに記述するという方法。

中村

再現性を信じて多くのデータをとり平均する科学の方法に対して、単一事例を徹底して観察することで、基本を探す。

佐々木

そういうことです。単一の中にこそ普遍があると考えるわけです。

中村

かなり新しい方法論みたいでもあり、昔風でもあり。

佐々木

ダーウィンのミミズ観察は、そういう方法を何十年もやっていた(関連記事:「ダーウィンのミミズ研究とアフォーダンス:細田直哉」)。例えば、ミミズが寒気を防ぐために穴をふさぐのに利用したものをずっと記述した。そして外国産の葉っぱも穴ふさぎに使うから、その行為は「本能」じゃないと考えるわけです。外気中ではよく使われる松の針葉は、温かい部屋にいるときにはあまり使わないから、「刺激反射」ではない。三角形に切った紙も使うのですが、最初から一番引き込みやすい部分を使っているから、「試行錯誤」ではないという具合に観察していくのです。ダーウィンは、生きものの行為を説明する当時の議論を全部排除していき、結果としてミミズの柔軟性がよくわかったと言っています。行動を説明するモデルが、その一部しか説明していないことを実証する長い作業のあげくに、ミミズの行為の圧倒的な能力を発見する。あれは感動しました。

中村

ダーウィンのミミズ研究は、あの偉大な科学者もこんなばかなことをすると言われたみたいですけれど、実に面白い観察ですよね。でも心理学とつながるとは思いませんでした。

佐々木

そうでしょうね。僕もアフォーダンス理論に出会わなければ、読みませんよ。延々書き連ねてある。ミミズの行為は余りにも柔軟で多様だから描けないのを、ミミズが利用した環境を描くことでミミズを描いているのです。

中村

確かにアフォーダンスですね。

佐々木

リードもそう書いています。ああいう記述をしてみたいなと思います。物語ではないのです。ミミズも周りもあって、ミミズだけを特別に描く書き方ではないのです。

中村

今までの科学は多様性と柔軟性という、常識的に知っていることを言ってもしかたないと思い、その中からある特別な部分だけ引っぱり出して、解けることを解いてきわけですね。

佐々木

そうだと思います。

中村

それが、意識してどうしようもないことを両側に置いているのですから、これまでの科学とは違う学問ですね。

佐々木

1つの解答を求めていません。

中村

そこが大事ですね。

佐々木

だから、靴下を子供に上手にはかせたいと思っているお母さんにはあんまり役に立ちません。どうはいてもいいという答えしかないわけで(笑)。

10. 心理学は人間とは何かという問いに答えられるか?

中村

人間の心を知りたいという素朴な問いに対し、人間は柔軟ですと言われたら、学問をやらなくても私だって知っていますということになる。でも、そこから変わらないものを引きだすというお話は面白いけれどそれが心を知ることにどうつながるのか、心理学って何だろうということはますますわからなくなったような気もします。

佐々木

柔軟性を固有の原理として、一回一回の組織化によってものの意味に到達するのが行為の原理だとしますよね。ところが、観察していると、そのものの持っているより深い奥行に行為が接近していく。例えば、味覚だと、単体そのもののおいしさを見分けるのにも、口の中での舌の動かし方とかいろいろなものが関係する。それにとどまらず、我々は、いろいろな食物を料理という形で加工して、おいしいものにしていく。食卓に料理を並べ、レイアウトする。これは長い営みの末、引き継がれていく。

中村

環境は自然界だけでなく人間が作っていくものも含めてのことだということですね。

佐々木

だから、レイアウト化、組織化というのは、身体の外にも広がっているし、身体の内部でも行われている。事例があまりにも日常的なので、感動を呼ばないのですが、マラソン選手が42キロ走るときの身体の動かし方に目をもっていけば、エネルギーを使わずに地面と接触するという1つの意図を実現するために、繰り返し環境と出会って、身体はその関係に制約され、組織として成立していく。さらに組織が環境のもう一歩先を見るという循環、それがライフの意味だと僕は思っています。だから、生き方として選んだジャンルによってライフは違う。そういうことだと思えるのは心理学者としては結構うれしいことです。

中村

心理というと自分の奥底をのぞく他ないと思っていたけれど、外とのやりとり全体を見ていくという方法がある。しかも日常がもっとも重要な対象。

佐々木

それが科学ではないと僕は思わないのです。「習慣」が一番強いと思うのです。習慣というようなことをきちんと扱える心理学があるべきだと僕は思っています。まさに多様性と柔軟性をあらわにしているような経験の末に成立する心身の組織。ノーベル賞は無理だと思うのですけれど(笑)。今までの科学者と周囲に見える意味は違いますから。

中村

むしろ今まで科学が捨ててきたところを拾っていく。関係とか日常とか。先ほども言いましたが生命誌はまさにそれなのです。だからギブソンやリードの本に魅力を感じたのでしょうね。習慣というところまでは読み切れなかったのですが、感じるところがあったのだと思います。

佐々木

アメリカの研究者はそういうのは耐えられないと思うのですよ。

中村

NIHに申請しても通らない。

佐々木

日本には理解のある人が結構いるけれど、NIHは厳しいでしょうね。なぜって原因ばかり問いますからね。

中村

ロボットの作り方なども日本とアメリカでは違うようですしね。

佐々木

と思いますよ。日本のロボットを作っている人たちは、まさに、「わざ」とか、場とか関係というキーワードをもろに扱っている。科学的に解明された原理を持ち込もうという発想ではなく、人の観察を取り入れてやってますよね。因果論を越えて、習慣として成立してゆく行為体を目指している。

11. 心理学のこれから

佐々木

リハビリテーションでは、相当重い状態でも必ず変化はあり、発達はあるわけです。そのときに、脳の中でどういうことが起きているか。それは両手がお互いどうかかわっているかと同じ意味を持っていると思います。僕は脳を見ていませんので、お医者さんと組むことが必要です。脳が原因を指令していると考えずに、活動総体のリンクの1つとして見て、脳の組織がどう変わっていくかを見ることに関心があります。

中村

それは私も同じように感じています。脳を一つの臓器として、また他の生物との関連の中で見ると面白いと思うのです。心は脳の機能だという捉え方とは違います。

佐々木

心を脳に閉じ込めることはしたくない。

中村

外との対応の時に筋肉や神経がどうはたらくかという問いと同じく、脳がどうはたらいているだろうという問いも、自然に出てくる。生態心理学はそういう脳の解析は拒否するわけではありませんね。

佐々木

していません。運動に関して脳の貢献している度合いが他よりも重いと実感していますから。脳研究がだんだんその方向に来ているという期待もあります。むしろ臨床の方向から解明されるだろうと思います。再生医療などで脳自体の見方が変わってきていますから。

中村

現在の脳神経科学研究と生態心理学はつながらないような気がしていましたが、そういう形でつながっていくだろうということですね。

佐々木

そうですね。脳の現象を説明するモデルがどんどん変わって、ダイナミックになっていると思うのです。固定された状態の被験体にごくわずかの刺激を与えて、限定された反応を見ていく脳研究には期待していません。そういう方法が問題だと思うので、そこを開いたものにすることで、見えてくるものがあるのではないかと思います。

中村

そうですね。実際にそういう研究が可能ですよね。

佐々木

可能だし、もう随分始まっています。心理学にとってはいい時代になってきているのではないでしょうか。ただ、生態学的観点を入れた基礎研究をやっている人は少ないのです。若い人たちに引き継いでいきたいと思っていますけれど。

中村

生命誌の今年のテーマは「人間ってなに?」という問いですが、佐々木さんのお話を伺うと、人間は柔軟なものというのが一つの答ということでしょうか。外側にある多様な環境との関係でその柔軟さにアプローチする。

佐々木

2つのものの出会いで、不変といっていいぐらい長く持続するようなことが起こるんですね。僕らの身体もそうです。生命誌は種や個体を越えた時間を対象にしていらっしゃいますけれど、心理学では、個体の発達という時間の中で持続するものを記述します。個体の行為のレベルの生態学や生物学があっていい。それが心理学だと思っています。

中村

なるほど。

佐々木

生学者が個体を越えて見ている環境とは随分違っていて、瑣末なものに見えるかもしれません。たとえば、我々の身体はこの堅さを持っている地面がつくったのだといってもいいかもしれないわけですけれど、それは物語です。それを普通の心理学の言葉にするのが仕事だと思っています。

中村

そこに1つの問題があります。科学としての心理学の言葉にもっていくことが解答なのか、物語でこそ本質を解けるという展開をするか、実は私は後者にとても関心があります。ところで、若いころに心理学にある「心」という文字にひかれたと言いましたが、お話を伺っていると、むしろ身体をきちんと見ていくことが心理学になっている、身体に本質があるという気がしてきましたが。

佐々木

そこでなぜ身体にそういう意図や目的があるのかというものすごく難しい話になりますね。おそらく生物はそういうものを持ってしまっている、それをギブソンはアニマシー、「自ら動く」性質と言っています。アニマシーをもっているものには感受性があって、なぜかわからないけど動くと。そこで周囲の性質がだんだん識別されてきて、周囲について知っていくというのが、ギブソンが考えたマインドの単位です。動きながら周囲と接触するのが意識(awareness)。その最も原型的なのが生きているということであり、人間は原型から大分離れているという議論もそうだなという気がします。そこの部分は心理学では十分に記述されないのだけれど、そこで起こっている複雑なことに注意を向けている心理学者がいることは重要だと思って、そのグループに参加している。

だから、何かの問いにスパッと答えられるような心理学は捨てざるを得ない。何か起こっていることに対して、まだだれも見ていないことが見られるようにしたいのです。そういう訓練はここ十数年やってきたつもりです。ある種、臨床とも近いかもしれません。

中村

観察という点ではそうであり、そして、そこにやはり身体が浮かびあがっていますね。アフォーダンスを考えた時に、意味をこちらで受けとめると考えれば意識や心になるけれど、現実には、歩くとか座るとかいう行為として出るわけですから。今まさに佐々木 さんは手や足の動きで記述していらっしゃるわけでしょう。心がどこにあるのか、もちろん答はありませんが、私には体全体が心であり、もう少し広く言えば外との関係が心だと思えるのです。ですから身体性に向いていくのは興味深い。

心理学がつきつめようとしたら脳科学へ行ったのでわかるように、多くの人は心を考えようと思ったら脳にねらいを定めるのがまっとうだと思っている。

ところが今のお話はほとんど行為です。もちろんそれは単なる運動ではない。心をブラッックボックスにして刺激と行為を対応させるというのとはまったく違いますね。

佐々木

何せ我々のライフというのは具体的なもので、たまたま周囲にある他者、物、場所、さまざまなものとどういうふうに折り合いをつけていくのかというのが、生きるということの中心問題ですよね。

中村

そうです。

佐々木

その問題を解いていくのは、手、足、体幹、つまり身体だろうと思うんです。その問題を解いていると思っている脳も、その解法にはかかわっているんですけれども、解法が今、具体的に進行している行為というところを見ない手はないですよね。それが1つの目標です。もう1つは、意味というと辞書ですが、辞書の中の意味は脳を通したものですよね。ところが脳を通さずに手を通して見たり、足を通して見たりすると、辞書にない意味がいっぱい見えてくるんです。意味というのは、きっとわからないんだなということがアフォーダンスをやっていてわかったんです。本気でわかったんです。意味というものはわからないんだということを本気でわからないと、アフォーダンスはわからない。だから、今、僕は意味ということをわかったと思ってしゃべる人の話はあんまり信用しなくて、意味がわからないと思っているグループに入っているんです。そこで少しでも意味をわかろうとするならば、意味をわかろうと苦闘している身体を見るしかない。

中村

なるほど。日本にそういうグループがあるんですか?

佐々木

日本生態心理学会ができました。まだ20人くらいですけれど。生態心理学って特別なものではなくて、いろんな人がいろんなことを考えている。日本では、そういう人たちがそれなりに意見を持つ場があるという感じはしますね。アメリカでは、下手するとあぶない人になってしまいます。少なくとも科学者はそういうこと言いませんものね。そう言う意味では、ギブソンもかなり変わった人だったと思いますね。

中村

確かにこの見方には危険性がある。1つは、アフォーダンスが流行語になって深く考えずに何でも使われると学問として危険。もう1つは、分析的科学のような共通の方法論が確立していないから、なんでもありに成りかねない。そこで、わけのわからないものになる危険。それを乗り越えて、新しい学問としていったら、本当に面白いと思いますし、人間という複雑な存在は、何かそういう新しい方法でなければわからないとも思うのです。

佐々木

生物学のなかでは行動とか行為はどうなのですか?一時ローレンツなどの行動学がはやったようですが。

中村

今は当時の勢いはありませんね。もちろん行動生物学は重要です。生命誌は、ゲノムを切り口にして、個体の時間である発生、種を考える進化、そしてあらゆる生物の関係を考える生態系をつなげて行こうとしていて、この中に個別の行動が入ってくるのはまだ少し先ですが、必ず入るはずだと思います。そうなると全体がつながるのですけれど。

佐々木

生物行動学において行為のレベルに本気で興味のある人がいたら、交流したいですね。


佐々木正人(ささき・まさと)

東京大学大学院情報学環学際情報学府・生態心理学専攻・教授
1952年北海道生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。早稲田大学人間科学部助教授を経て、現職。

季刊「生命誌」をもっとみる

オンライン開催 催しのご案内

レクチャー

4/20(土)14:00〜

オサムシからイチジクとイチジクコバチ