生命誌ジャーナル 2003年夏号
Talk ─ 対話を通して ─ :目次
Talk ─ 対話を通して ─
年間テーマ「愛づる」
讃美と涙が創造の源泉:今道友信×中村桂子
今道友信(東京大学名誉教授)
中村桂子(JT生命誌研究館館長)
若者の理科離れを憂うる人が、好奇心を育てよと言う。違う。好奇心のない人間などいない。対象への態度が大切で、私は“じっくり見つめることで生まれる愛”と考えたが、アリストテレスは“驚き”、今道先生はそれを“讃美”とおっしゃる。讃美で大事なのも、対象ではなくやはり自分の気持ちだと思う。(中村桂子)
今道友信(いまみち・とものぶ)
1922年東京生まれ。東京大学文学部哲学科卒。東京大学教授、パリ国際哲学研究所所長、国際哲学会常任委員などを経て、現在、東京大学名誉教授、哲学美学比較研究国際センター所長、国際形而上学会会長、英知大学大学院教授。
1.ゲノムと言語
  2.学問の始まりは好奇心か?
  3.「愛づる」や「あわれ」という大和言葉
  4.生きものを愛づる
  5.愛づる時間
  6.カイロスの時
  7.イマジネーションする学問
  8.命令する愛
9.新しい学問としての科学
10.科学者との対話
こぼれ話--夜の生物学
1. ゲノムと言語
(中村)  季刊『生命誌』は、昨年度から年間テーマを決めています。昨年度は、「人間ってなに?」ということを考えました。人間というのは永遠のテーマですし、あまりにも大きいので切り口を「言語」にしました。ご承知のように、ヒトゲノムプロジェクトで人間のゲノムが解読されています。それを見ていて、2つのことが知りたくなったのです。1つは、ゲノム、つまりDNAはあらゆる生物に共通で、人間もその例外ではないけれど、やはり人間には人間の特徴がある。人間と他の生物を区別するものは何かと考えた時、やはり「言語」だろうと思ったこと。もう1つは、ゲノムが1次元の文字で書かれ、それが読み解かれていく時のきまりに言語の文法と同じようなものがあるのではないかということ。
 ゲノムが存在することで生命ができる。ゲノムは、A、T、G、Cという4つの文字(塩基)が一次元に並んだもので、細胞の中で解読されて、私たちの体がつくられます。その読み方は、端から順番に解読されるのではなくて、ここを読んだらそっちを読んで、次はあっち…と、辞書をあちこちと開いて単語を拾って文章をつくっていくようなものです。それで私はゲノムは言葉と似ているんじゃないか。そして、生きものを生きものにしたのがゲノムなら、人間を人間にしたのは言葉ではないかと思いまして。
(今道)  言語が人間をつくるのか、人間があって言語が文化の基礎になったのか、それは僕はわかりませんが、言語が人間と他のものとを分かつものであるというお考えには、全く賛成です。言語は叫びや記号とは全然違います。
(中村)  言語をコミュニケーションの手段と考えがちですが、それが本質ではありませんね。
(今道)  そう、言語より有効な伝達手段はたくさんあります。痛い時なんか七転八倒した方が万国共通に伝わりますしね。叫んでもよい。しかし、言語のすごいところは、既にあるものを伝えることではなく、ないものを考え出すこと。それは完全に一線を画しています。
(中村)  そこで、生命、人間、言語という昨年の切り口から、一歩踏み出すためのテーマとして、「愛」という概念に注目したいと思っています。今年度のテーマは「愛」なのですが、特に大和言葉の「愛づる」を意識しています。これは、友人と話し合っている時に出てきたものなので、教えられながら考えています。「愛づる」ためには、対象との関係は、一瞬ではなく、時間が必要だと思いまして、「時間」も陰のテーマとして考えています。
(今道)  そんな大変なことだと思わず参りまして、しかも科学が全然だめな男ですから。でも、愛がテーマとは、非常に嬉しいことでございます。愛は本当に大切でしてね。動物がほとんど無意識に子供を大事にしたり、性欲があったり。それは、何か意識のないつながりを保つための愛、非常に原始的な形の愛だと言えるかもしれません。そういう愛は、生きものには皆あるのだと思います。でも、見えない価値や宗教的な愛、崇高なものを考えること、それに学問に対する愛、これはやはり言語を持っている人間じゃないと出てこないと思いますね。
(中村) 今回考えたいのは後者の愛です。生命、人間、学問などへの愛の意味。先生がご専門の哲学はphilosophy、まさに愛知ですね。
2. 学問の始まりは好奇心か?
(今道) 
よく学問の起源や進歩の元は好奇心だと言われますが、好奇心程度で動いてる学問っていうのはせいぜいが科学だなんて言ったら怒られるんですけどね。
(中村) 
なるほど、せいぜいですか。文部省が好奇心を育て、科学に強い人を産み出そうとして、スーパー・サイエンス・ハイスクールというようなシステムを作っているのですが、ちょっと伝えなければ(笑)。
(今道)  せいぜいが科学です(笑)。それではいけないと思うのです。その通り書かれて、袋だたきになっても変えない考えです。というのも、多分、立派な科学者の出発点は好奇心じゃないと思います。では、何から出発するかというと、「讃美」。それから「憧れ」。そういうものだと思うのです。「驚きから学問が始まる」というアリストテレスの言葉がよく引用されますが、「驚き」も好奇心よりはずっと上だと思います。だけど「驚き」って訳もよく考えると、ギリシア語でタウマゼインといいますが、タウマというのは「偉大なもの」という意味でしょう。
(中村)  偉大なことに心を動かされると、憧れ、讃美の気持ちが湧いてきますね。
(今道)  そうなの。驚く程度では、これはやはりせいぜいが…なんでしょうね。
(中村)  科学よりちょっといいものに(笑)。
(今道)  せいぜいが哲学とかじゃないでしょうか、驚くぐらいだったらね。もちろん、驚きから出る科学もあると思いますよ。
(中村)  好奇心や興味というより、そのものに対する讃美や、ある種の畏れがあって初めて本物の学問ができる。
アリストテレス【Aristotels】
(前384〜前322)
古代ギリシアの哲学者。プラトンの弟子。プラトンは事物の本質をイデアと名づけ、超越的なものとしたが、アリストテレスはそれを形相(エイドス)と名づけ、質料に内在するものとした。形相と質料は存在者を構成する不可分の2原理として、前者が現実態、後者が可能態とも呼ばれる。アテネにリュケイオンという学校を開き(その学徒はペリパトス(逍遥)学派と呼ばれる)、その研究は論理・自然・社会・芸術のあらゆる方面に及んだ。「形而上学」「自然学」をはじめ、論理学・倫理学・政治学・詩学・博物学などに関する多数の著作がある。
<『広辞苑』より>
(今道)  そうだと思います。好奇心でやっていくことは、1人でも、あるいは人に隠れてでもできる。哲学者にもいます、そういうのは。でも、讃美、憧れの場合は、これはもう今までの我々の力ではだめなんじゃないか、君も見てごらんって、誘うことになってくると思うのです。自分の好奇心でやっていくだけでは済まないようなものになる。それは良い意味のモラルです。
 アリストテレスのちょっと後の時代、アラトスというストア学派の天文学者が詩を書いています。当時は詩でいろいろの学問を書いてました。彼は、カイレ・パーテル・メガ・タウマと言っています。「父よ!」ですが、神様のこと。キリスト教徒じゃありませんからストアの神様。「神よ!大いなる素晴らしいもの」という意味で、神にタウマを使っている。また、プラトンが最初にこの語を使った時は、星を見てタウマゼインと言っている。これはやはり「讃美する」でして、だから中世の人たちは学問の始まりはアドミロールと言う。ミロールは「驚き」。ミロールじゃなくてアドミロール、「讃美」です。本当の学問は、そうではないかと思うのです。
(中村)  自然や生命に対して讃美や畏れを感じることが、学問の基本ということはよくわかりました。一方、実際に生きものを対象にしておりますと、小さなものへの愛ということも感じます。それが「愛づる」ではないかと思うのです。
アラトス【Artos】
(前310〜前240)
ギリシャの詩人・学者。小アジア・キリア地方のソロイ(ソリ)出身。天文や気象の知識をまとめた「ファイノメナ」という長詩が残っており、多数の星座の記述が初めて登場する書物として重要。
<『天文学人名辞典』恒星社より>
プラトン【Platn】
(前427〜前347)
ギリシアの哲学者。ソクラテスの弟子。アテナイ市外に学校(アカデメイア)を開いた。霊肉二元論をとり、霊魂の不滅を主張、肉体的感官の対象たる個物は真の実在ではなく、霊魂の目でとらえられる個物の原型たる普遍者(イデア)が真の実在であると説いた。このイデア論に基づいて、認識・道徳・国家・宇宙の諸問題を論じ、哲学者の任務はイデア界を認識して、現実の世界をこの理想世界に近づけることにあるとした。著「国家」「パイドン」「饗宴」「テアイテトス」「ティマイオス」「法律」など約30編の対話篇。
<『広辞苑』より>
3. 「愛づる」や「あわれ」という大和言葉
(中村)  「蟲愛づる姫君(『堤中納言物語』)」の「愛づる」ですが、日本人の生きものへの気持ちをとてもよく表現した言葉だと思うのです。「愛でる」ではなく「愛づる」。
(今道)  「愛でる」は小さいものとかを可愛がったり、あ(お菓子を見て)、こういうのは愛でていいんですよ。
(中村)  どうぞ(笑)。
(今道) 
いただきます。僕はこういうお菓子、目がなくて。おいしい、おいしいって言って愛でて食べて。だけどこれが、見たこともないくらいきれいで、お花かと思ったらお菓子で、今まで食べたこともないものだったら、それは「愛ずらかだ」と言うでしょう。「愛ずらか」は、今では珍しいという意味だけのようになりましたが、本来「愛づる」にはギリシア語のタウマゼインほどではないけれど、驚きとか素晴らしい、という賛嘆の意があると思います。日本はギリシアのように体系的な考え方をあまりしていなかったし、漢字が入ってきてからは、漢字に即して考えるようになって、「賛嘆」や「驚嘆」になりました。しかもそれは中国人ほど根本的な使い方でもない。自然と触れての驚きや喜びを自分の言葉で言わなくなっているのですね。幸い古典の物語には、昔からの言葉が使われています。
(中村)  大和言葉ですね。言葉が概念を産み出すとしたら、思考や学問にとって言葉が大事なものであることは当然なのに、これまで科学ではあまりそこに思いをいたさなかったと思います。生命、人間について考えるとしたら、言葉にもっと敏感にならなければなりませんね。
(今道)  「あわれ」という言葉、今は悲しみを誘う言葉になりましたが、もともと「あっぱれ」という賛嘆の意味もあった。「愛づる」時にはまだ涙は出ませんが、「あわれ」になると涙が出てくるでしょう。本当に賛嘆する時は必ず涙が出る。僕は1つ諺をつくりました。ラクリマ、涙ね。ラクリマ・エスト・オリゴ・クレアチオニス……創造の源。
(中村)  涙は創造の源である。
(今道)  「感傷的だな、先生は」って強そうな学生が言うから、違う、君たちも人間のはずだから、本当の喜びの時、本当の美を見たら涙が出てくるはずだ、って言いかえしました。喜びの涙です。痛みとかそんなもんじゃない涙が出る、それが「あわれ」の元だと思うのです。それこそ動物の叫びにはない、言葉がつくりだすものだと思いますね。
『堤中納言物語』
【つつみちゅうなごんものがたり】
http://ddb.libnet.kulib.kyoto-
u.ac.jp/exhibit/np/tsutsumi.html

(京都大学電子図書館)
4. 生きものを愛づる
(中村)  「蟲愛づる姫」は、チョウの幼虫、つまり毛虫を可愛がるので、両親はもとより世間の人が、毛虫なんて気味悪いと非難すると、「くるしからず(平気だ)。よろづのことどもを尋ねて末を見ればこそ(流転の成り行きを観察すれば)、ことは、ゆゑあれ(個々の事象には理由がある)。烏毛虫の蝶とはなるなり(毛虫は蝶になる)」と言うんです。11世紀、平安時代です。単なる好奇心ではありませんでしょう。本質を見ている。16世紀にヨーロッパで近代科学が始まるはるか以前に、日本のお姫様がこういう見方をしているところに興味をもちました。現代科学が必ずしも先程からお話があるような讃美や感嘆で裏づけられた自然への関心を基盤にしているとはいえない状態の中で、「愛づる」に眼を向けてみたいと感じたのです。
(今道)  「蟲愛づる姫」は、虫ゆえに可愛がるのではなく、虫自身の中に潜んでいる不思議な力。それを与えた仏様か、自然か、神様か、そういうものに対する賛嘆のようなものがどこかに潜んでいるのでしょう。蛾が出てきても、涙が出るほど喜ぼうなんて、僕が虫を愛づるってのは大変なこと。虫怖じる、いや虫怖づる君だ。
(中村) 
種から芽が出てお花が咲いてもいいのですが、私は小さな生きものそのものの中にみごとさを見たと思っていたのですが、先生はその背後にある偉大なものへの賛嘆だとおっしゃる。確かにそうですね。当時の日本でしたらおそらく仏教的なものでしょう。もっとも私は生きものの中に賛嘆する対象があると思っていますが。
(今道)  そうね。中村さんは何でも生きものは大事だって言うから同じかもしれないけれど、僕にとってはダニが出てきたり、毒蛾になったりしたら、賛嘆しませんよ。驚くけど。だから僕はBRHには入れてもらえないと思うの。仕方がない。人間中心の考えかもしれないけど、僕は人間だから。嘘言えなくて。
(中村)  人間が人間中心になるのは当然ですが、「本質を客観的に見ることによって生まれてくる愛」があるのだと思います。
(今道)  科学者になっちゃったんですね。
(中村)  私の場合も、DNAから生きものを見るという見方が入り込んでいるので、例えそれが見た目美しくないものでも、そこにも同じ本質があると思えるのです。
(今道)  生命の不思議ですから、それはその通りだと思います。ただ生命の尊さとはまた別に、それがきれいなものになってこそ生まれる価値もある。例えば、自分の力を素晴らしいものに使っていく子もいれば、人を殺すような展開をしていく子もいた時に、どちらも小さなよちよち歩きの者がきちんと立って成長したことに変わりはない。それはそれぞれ驚くべき変化で、両方とも命としては大事なのだけど、他者を大事にするのと他者を抹殺するのと、どちらが良いかという価値判断もあって、クリスチーナ・ロゼッティの詩で、一人しか席のない時、少女をボートにのせて自分は沈む舟に残った少年の愛、それを讃美すべきだと思うんです。だからその讃美の対象を慎重に考える気持ちが失われてしまうと、展開すべきものと展開してはいけないものとの区別がなくなるおそれがある。現在の科学を思うと、そこを考えて好奇心を自己抑制してこそ、本当の学者じゃないかと思いますね。
(中村)  人間の文化としての価値ですね。そこが難しいところです。1つは実用性からの価値が入ります。役に立つものはよいし、害虫や病原体は除くべきものとなります。日常生活ではそうですね。もっともその時にも、生きものを大切にという基本はあってのことです。それからもう1つは、美しいとか讃美すべきという価値を入れ、何でもやってよいということではないと考える基準にするということ。そこが人間の人間たるところで、生きものの論理をそのまま人間社会にあてはめることはできないし、そうでない人間社会としての価値がある。それは大事なことです。
5. 愛づる時間
(今道)  その価値とは、時間によって変わらないもので、本当にいいものは昔からよくて、未来もいい。永遠って言ってよければ永遠にそうです。その永遠と相関的に、展開には時間が必要だと思います。科学でも永遠ってことは言ってもいいのですか。この頃はなんでも科学的になってしまって、永遠というようなことを学問の世界からはじき出そうとしているようで、おうかがいを立てるのです。
(中村) 
永遠ですか。難しいですが。ただ、科学の世界でも宇宙論は、始まりと終わりを問います。
 生きものの場合、今わかっていることは、地球上にこれだけ多様な生きものがおり、40億年近い歴史をもつ。生きる基本システムとしては、ずっと続いてきたということです。もちろん恐竜や他にも絶滅した生物はいるけれども、システムとしては続く性質を持っています。生きものって何ですかと聞かれたら、続いていくものと答えることができます。始まりがあり続くもの。
(今道)  ゲノムがずっと続くには、何か条件は必要なんですか。
(中村)  生きものにはこの地球の有りようが必要です。地球が終わる時は、消えるものとしてあると思います。
(今道)  その意味では相対的なものですね。例えば仮に、初めがあって終わりのないものを、「永久」と名づけましょう。下手な比喩ですが、神様があるとすると、神様は人間が考えるような初めもなく終わりもない。これは「永遠」。その神様が天使をつくったとします。天使はつくられたものだけれど死なない。それは「永久」。
(中村)  それが「永遠」の定義ですね。
(今道)  ラテン語には「永遠」と「永久」の区別があります。アエテルニタスとアエヴムと。それから人間のように初めがあって、動物としての死である終わりがあるものも、もし霊魂のことを考えるならば、天使と同じ。
(中村)  そもそも時間は、初めがあって終わりがあるものなのでしょうか。
(今道)  そうじゃないかと考えています。本当の真理は永遠ですが、科学の方でいう真理も「永久」には近いですが、科学で追求している真理は、真というより正確性でしょう。はかれないものは真から省かれるんじゃないでしょうか。正確が真理の影であることは確かですが、科学では、真と、正確あるいは精密ということとが同等に扱われているように思えます。それが悪いということではなく、科学でいう真とは、そのようなものと限定されていることを認識しておく必要があります。
 例えば、人文科学における美術史は、作品に関してできるだけ正確な事実を記述していく。でも、美術史で素晴らしい作品をまとめても、なぜそれが美しいのか、その答は美術史だけからは出てこない。そこで同じ作品について、美学でその作品の美を説明しようと努力する。そこではおそらく正確さの範疇に入る言葉をほとんど使えないことになるでしょう。
6. カイロスの時
(今道)  カイロスっていう言葉があります。時が熟したということ。例えば履歴書って案外おもしろくて、自分の中でのカイロスを書いていくようなところがあります。誕生がいつだとか、小学校入学がいつだとか。世の習慣と言ってしまえばカイロスでも何でもないかもしれないけれど、例えば中学出てから事情あってサーカスに入って苦労して後に大学に入ったとなると、それは一つのカイロスですよね。個人的な履歴書として、中学2年の時にこういう感動があったとか、自分のカイロスを意識してみたらおもしろいと思います。
(中村)  生物にはまさに時が熟すということがあります。植物の芽が出る時や、花が咲く時。植物の場合、芽が出て葉になるというくり返しの中で、ある時、芽が花になるわけです。そこではゲノムのはたらきに変化が起きて、がく、花びら、おしべ、めしべ、を作る遺伝子がはたらき始めるのです。いかにして花が咲くかはこのようにしてわかりますし、その引き金は何かと順に追うこともできますが、結局時が来たということなのです。動物でも同じで、発生生物学といいますが、生きものの個体を「時間」がつくっていきます。そこでは、ある時が来るということが重なっていきます。「愛づる」には、時間が必要と申しましたが、毛虫を見つめているとだんだん変わってチョウになるとか、お星様を見ているとだんだん動いていくとか、時間が重要な気がします。
(今道)  内発の力と外部の条件と一緒になって、アリストテレスの言葉で使うと、デュナミスが内的可能性。それが外部条件と一つになって、ある程度実現した力を持った時、エネルゲイヤっていうの。つまり種が芽になるって大変なことでしょう。私はその瞬間を見たことない。だけど見てみたいですよ。あんなかたいものからどうやってあんな柔らかい芽が出るのでしょう。それみんなエネルゲイヤです。力がある。そして植物だったら種を宿す時、つまり次の世代を産める力を持った時が、そのものの完成だっていうのでエンテレケイヤと言います。これもギリシア語です。エンは英語のin。テロスが終点とか目的。エケインは持つ、ということ。エンテレケイヤは終局の状態、完全現実態と訳します。女性だったら月経が始まった時とか、男性だったら夢精が始まった時に動物としてはエンテレケイヤ。人間としてのエンテレケイヤは普通の社会活動だったら成人になった時とか。学者なんか、なかなかエンテレケイヤにならないですね。
(中村)  完全になることはありませんから。
(今道) 
次の世代の人を教育する資格ができたら、ある程度はエンテレケイヤかもしれません。
 それで、ポテンシアあるいはデュナミスがエネルゲイヤになる瞬間は、大事なカイロスです。それには、内部の力だけじゃなくて外部条件も要ります。僕は、それは永遠という時間がチャンスを与えるのだと思うのです。だから中村さんが時間に注目なすったのは、言ってみればデュナミスからエンテレケイヤへの動きというものですね。
(中村)  なるほど。伺っているとプラトン、アリストテレスの時に、考える基本はすべて出されているような気がして、それこそ賛嘆です。現代科学は物理学を基本にして成立してきました。その成功の理由の一つは時を捨象してきたことにあります。けれども生きものは、時が作るものであり、時に眼を向けなければ解けません。生命に基盤を置く「科学」、本来の“science”という意味での科学が生まれるところに来ているような気がしているのです。しかし、時はよくわからないし…。永遠は、神とは違うのですか。
(今道)  神ですね、結局。もし個々のネイチャーを含む大ネイチャーみたいなものがあるとすると、それでもいいかもしれません。だけど科学者でも、神っていると思う人はいるでしょ。
(中村)  ええ。宇宙のすべてについて私にはわからないことがたくさんあるけれど、宇宙は存在し、動いています。ただ、宗教や哲学がそのすべてを説明できる真を求めているのに対して、科学は部分的、暫定的な答でよいから、実証性、再現性のある事柄を積み上げて理解を進めようと努力するものです。ですから、大自然とおっしゃるものがあることは科学と矛盾するものではないと思っています。
(今道)  でも大自然も、僕は子供の時から同じように考えて、同じようにわからないんだけど。宇宙の外は何って聞いて親を困らせた自分が、今になってもわからない。情けないですね。
(中村)  わからないことを、情けないとお思いになるのが哲学者。科学者はシメタ!と思うのです。まだ自分の仕事が有る。「わからない」ということに対する気持ちの違いで、哲学者になるか科学者になるかが決まるのかもしれませんね。
花が咲くということ
季刊『生命誌』15号
Special Story
7. イマジネーションする学問
(中村) 
自然、その中でもとくに生命、人間について知りたい、または考えたいと思い、部分的であってもそれをつきつめていくと全体が見えてくるような気がする時があるという喜びを求めて研究を進めているのですが、同じように、ある断片を切り取りながら、自然の総体というか、本質を表そうとする表現として文学があると思います。価値を表現するのにも、文学は大事な役割をしてきたと思うのです。先生は、お若い時からダンテの『神曲』を読み続けていらして、昨年その集大成ともいえる講義録を出版なさいました。その中で先生は「古典研究を介して言語に習熟する」、「言語を」でなく、「言語に」というところに意味を込めていらっしゃいます。「言語に習熟する」とは、言語になじみ、自分の言語に責任をもち、そのように行動することだとおっしゃっています。現代の学問は、すべてを対象として捉えます。ここで「なじむ」とおっしゃっているのが印象的で、私が「愛づる」に感じるもの、相手を客観的対象とすると同時になじむという感じなのです。
(今道)  今までの科学がある意味で否定してきていたイマジネーションとか、教育がおろそかにしている記憶とか、そういうものを大切にしてね。もう少しヒューマン・ディグニティーに合うような芸術が出てくれば本当にいいのにと思います。ルトコの絵なんか本当にいい。人間の内在的自由が呼びさまされてくる。みえないものを、超越を画こうというあこがれがあるからです。そこで想像的創造がわく。哲学はそういうものの論理化で、もとは憧れでしょう。哲学は知的憧憬です。
(中村)  科学も、論理だけで考えるものではなく、イマジネーションが本当に大切なのです。今の科学の世界は、先程おっしゃった正確性を目指して論文を書くことが第一で、評価されるためにはそうせざるを得ないのですが、優秀な科学者はイマジネーション豊かなので、それをもっと生かす知の有りようを探りたいと思うのです。
(今道)  イマジネーションと涙でね。学問でも芸術でも、涙はその始まりになり得ると思います。自然科学に限らず社会科学だってみんなそうですよね。
(中村)  涙も悔しいとか悲しいではなく、アリストテレスの驚きや、大和言葉の「あはれ」とつながるものでね。
(今道)  それから、気になるのは、文学や哲学が技術で利用されることは今までは少なかったけど、怖いのは、情報メディアに乗ると文学も科学技術の操作範囲に入ってくるかもしれない。科学技術によって、今やほとんどの人が昔でいえば何百人分の力をもたらされている状況です。早馬を何頭も走らせてやっと届くようなことが、携帯電話で瞬時にできる。そのわりに責任意識がない。アカウンタビリティーだけの世界になってリスポンスビリティーが失われているのです。
(中村)  確かに全てが情報として流れてしまって、自分との関わりの点での自覚が足りませんね。
(今道)  僕も哲学者のリスポンスビリティーを考えなければいけないんだけれど、科学者のリスポンスビリティーが今、好奇心で済まされ過ぎているような気がしてならない。そうじゃない。好奇心の充足は、研究を進める意味では大事だけれど。僕はうっかりすると、科学者の悪口を言ってしまうけれど、そうじゃなくて、哲学者を含めて、学者のリスポンスビリティーっていうのが、今非常に大事なことだと思います。
(中村)  おっしゃる通りです。アカウンタビリティーでは、人を納得させられればよいことになってしまいますが、一番大切なのは自分自身が本当に納得できることをしているかということです。そこに責任が生じる。今は、好奇心すら失われかねない世の中なので、科学好きの子どもを育てるには、好奇心をもたせなければいけないという声が高まっていますが、その先には先生のおっしゃるようなリスポンスビリティが不可欠のはずです。
(今道)  本当に価値を考えて好奇心を論じないといけないですね。それから哲学を含めて、今の学問が皆、ノベルティー、新しさを探すでしょ。好奇心とノベルティーが学問を汚してると思います。哲学の場合、カントやプラトンで論文書こうと思ったら大変なんです。プラトンは何千年、カントで200〜300年、研究の伝統がありますから、もう読み尽くされている。それでも、大きな伝統と悪戦苦闘して自分も大きくなるものだと思うのですが、そこで新しいことやるのは難しいから、八流ぐらいの哲学者を探してきてそれを研究する。生い立ちを調べて、本を全部翻訳して注つけて論文書く。そうすると今まで誰もしなかった研究ができて博士号がもらえるんです。
 本当の学問の高さが危ぶまれるもう1つは、コンピューター検索が今便利ですから、本を手に取って読まない。図書館で触っただけでこれは凄いと圧倒されるような本っていうのもあるのにね。読みもせずインフォメーションとして手に入れる。初めからごまかしてる気がします。僕は教育現場の人たちに、もうそういう人たちが既に教育者かもしれないけれど、アドミレーション、讃美の対象でなければ、創造とは言えないと伝えたいですね。新しさと好奇心とが創造性だと思っている人が多いので。ただの生産を創造だなんて、とんでもないことです。
カント【Immanuel Kant】
(1724〜1804)
ドイツの哲学者。ケーニヒスベルク大学教授。科学的認識の成立根拠を吟味し、認識は対象の模写ではなく、主観(意識一般)が感覚の所与を秩序づけることによって成立すること(コペルニクス的転回)を主張、超経験的なもの(不滅の霊魂・自由意志・神など)は科学的認識の対象ではなく、信仰の対象であるとし、伝統的形而上学を否定し、道徳の学として形而上学を意義づけた。著に「純粋理性批判」「実践理性批判」「道徳形而上学原論」「判断力批判」など。
<『広辞苑』より>
8. 命令する愛
(中村)  私も、生物学がここまで人間にも迫っている時に、好奇心だけで進んではいけないと思って、背後に何を置こうかと考え、「愛づる」という言葉に出会ったのですが。最初に好奇心ではせいぜい科学だってすごいパンチを食らわされたので(笑)。科学がせいぜいじゃなくなった時に、それを科学と呼べるかどうかは分からないのですが、とにかく好奇心だけでなく、ある価値を含んだ活動にならなければいけないとは思っています。讃美と愛の関係はどのようなものですか。
(今道)  好奇心も讃美も愛の一つですが、愛は無条件に認めてはならない。命令としての愛があるって言うと、みんな嫌がるんだけど、愛の中で一番尊い愛の一つは、やはり隣人愛。それは、好きな人の隣に行って、愛します、愛しますっていうことではなくて、運命的に自分の隣人となった人に対して、自分と同じぐらい大事にする気持ちを持ちなさいっていうこと。自分より大事にする必要はない。自分も人、他人も人っていう、それだけのことですけれど、それが本当に難しい。それは命令としての愛なんです。キリストや仏、孔子様もそう言う。社会生活の中には命令としての愛がいろいろあって、それが守られていけば世界平和だって不可能ではない。
(中村) 
命令としての愛を守るという倫理観を持って暮らすことが科学にもある種の規制をかけるだろうということで、おっしゃる意味はよくわかるのですが、好奇心を越えて讃美というところまでいって学問としての格を保つならば、外から規制されるだけではなく、学問そのものの中に自ずと規制がかかりませんでしょうか。そこで科学の中に愛を持ち込めないだろうかと考えたのですが。自分の好きなものを一生懸命見つめるのは得意なわけですから、愛づることで、ある価値を含む科学にならないだろうか。そうなれば、結果として出てくるものはいろいろあっても、対処方法もわかってくる。毒のものが出てきたら、これは人に渡してはいけないという判断もできる。
(今道)  でも、科学がその判断基準をつくってはいけなくて、それは倫理学の仕事じゃないかと思います。自然の素晴らしさを解明しようということ、どんな変化や結果も平等に見ていくというのは、やはり科学の立場で、それを科学は捨てちゃいけないと思う。だけどもし虫愛づる姫がやはりそういうふうなら、僕はあまりほめるのはやめます、愛づる姫をね。
(中村)  愛づる姫は、みんなが嫌がる毛虫が、これから美しい蝶になることを知っている。そこで愛するわけです。科学による生命の理解は、虫に対する愛だけではなくて、人間も含めて命あるもの全てを愛づるという普遍的な気持ちに繋がると思っているのです。
(今道)  だけど、その願望が満たされないようにするのが僕の務めのような気もするんです。満たされるに至る過程のことですが。そういう願望は科学普遍主義のようで。恐い変なものが出てきても同じように感動するっていうのは、僕はやっぱり少し違うような気がしてならないけど。
(中村)  ここで求めているのは、科学普遍ではなく、生命を基本に考えようということです。科学に重きがあるのではなく大事なのは生命の方。ただ、現代生物学はすべての生物を仲間として見る視点を出しているので、それを生かしたい。そこでは、変とか変でないという区別はありません。とはいえ、台所にいるゴキブリには薬を使う。生きものの歴史の中で、お互いに闘ったり、共生したりする仕組みができていますから。変だからではないのです。
(今道)  中村さんは倫理を持っているから、間違いは起さない。でも例えば、蝶々の変化は素晴らしいからそこで好奇心が芽生えて、どんな虫も変わるんじゃなかろうかって思う、それはそれでいいんだけど、もしこの虫にも何か注射したらきれいになるだろうかとやってみたら死んでしまって、しかしうまくやったら死ななかったのではなかろうかと、いろいろ遺伝子操作とか試していくことになるでしょう。僕は、何か人間がしてはいけないことが、あるとかないとか言い出すとおかしいけど、自然の秩序を乱してどうなるかわからないなら、そんなことしなくてもいいじゃないっていう気持ちはあります。科学者や科学技術者たちが好奇心をどう認め、どう抑制するかが、ある意味世界の未来にかかわる。時間を清らかなものにしていくのか、それとも何だかものすごいこわいものにしていくのか。
(中村)  まさにそこです。生きものの世界をよく知って、そこからやってよいこと、やらないほうがよいことを考えていくことが必要だと思っているのです。科学者にはそれを求めずに、外から枠をはめればよいというのではないと思って。
(今道)  好奇心を学の基本として当然のものと認めている限りはだめだと思うんです。好奇心そのものを価値として認めていいかというと、僕は認めないんです。あの人は何をしているのだろうかと盗聴器をしかける好奇心もありますから。何を愛し何を愛すべきでないか、隣人愛と隣虫愛とどっちが大事ですかということは科学だけでは決めるんじゃない。僕ら哲学者が科学者の絢爛たる業績に怖気づいて何にも言わないでいるのがいけないんだけど、倫理学や哲学は、価値の秩序、価値に対する命令の愛や抑止について言わなければならないですね。
(中村)  おっしゃる通りです。ただ、価値や愛も絶対のものなのだろうか。生物学が明らかにした事実によって、それを見直すことはないだろうかという問いもあり、外の枠をただ受け入れるというのには抵抗感がありますが。
9. 新しい学問としての科学
(中村)  もともとサイエンスという、自然や生命を理解しようという学問は、必ずしも正確さ、厳密さを求めるだけのものではなかった。現代科学がそういうところへ来たのは、それは非常にやりやすく有効だったからです。
 例えば、力学を最初に習う時、坂を物体が滑ってくる時の力を考えますが、必ず摩擦のない坂を想定します。摩擦のない坂は実際にはないけれど、本質を掴むために、摩擦ゼロという状況を仮定して考える。これが科学の方法です。でも今は、そのような基本がかなりわかってきて、私が立っている床はどうなんだろう、あの坂はどうなんだろう、と一つ一つ考える段階なのです。
(今道)  ハイゼンベルクの対話で、これから物理学だけではできないような学問が出なければならない、と言われたところまでは賛成です。ところが、出てきた生物学が遺伝子とかになってくるとやっぱり同じでしょう。
(中村)  ええ。分子生物学はまさにハイゼンベルク、ボーアたちのところから出てきました。彼らは全く新しい学問が生まれるか、それとも物理学で生物が説明され切ってしまうかという問いを立てた。今はまだ、生物学は物理学から出ていません。でも、彼らが語っていた意識や精神、そういうことを考えるところまでやっときている今日、物理学に収まるか否か、まだ問いは残っていると思うのです。
(今道)  残ったままだといいです。もっと行こうっていうんでしょ。とんでもないことだと思うんです、それは。
(中村)  確かに物理学の力は大きいので、その中でできることはまだありますし、特に科学技術は、その線で突っ走っています。これは大きな問題です。新しい知を目指して出発した現代生物学の進むべき方向を、原点に戻ってここで考えなければいけませんし、考えられるところにきたような気がします。今度は物理学をもとにしてではなくて、生物をもとにして。
(今道) 
そうですね。そうすると僕はやっぱり、まず好奇心を捨てることだと思います。好奇心を捨てることができれば認めます。なぜかというと、生命を本当に勉強しようとしておられる中村さんが、命の尊さっていうことよくおっしゃる。僕は感心しています。それは今までの学問にあまりなかったことなのね。でも尊いものはある面でオーフルなところがあって、好奇心を拒絶するようなものでもある。学んだ知識でどうしてやろうというのじゃなく、尊いから知りたい。好奇心が、驚き、讃美になってくださるといいと思います。科学もアリストテレスやプラトンの頃を思いだして。プラトンは『テアイテトス』という本の中で、星を見て神々しさに訴えられたら、人間は到底それには及ばないってはっきり言う。そして賛嘆する。アドミレーションによって学問をする。それだと僕は態度が違ってくると思います。
(中村)  好奇心という言葉を、先生がおっしゃっているような面から検討せずに、よいこととして使っているきらいはありますね。確かに、好奇心はどこまでもづかづか踏み込みそうですし、讃美には謙虚さが伴っていると思います。私個人は、どちらかといえばアドミレーションの気持ちが強いですが、今世界じゅうの科学者がそうかって言われると、そうとは言いきれない。やはり、生きものってすごいなという気持ちで。
(今道)  すごいっていうのはまだアドミレーションじゃない。素晴らしいならまだいいですね。
(中村)  素晴らしいです、素晴らしい(笑)。
(今道)  素晴らしさの気持ちでいっぱいになった上に、あまりいろんなことをわかろうと思い過ぎてもいけないですね。生物を研究する時に、好奇心もそれはある程度は構わないと思いますよ。でも生物に宿ってる生命っていうのは本当に尊いもので、その秘密はわからないでしょう。
(中村)  もしかしたら、永久にわからないかもしれません。科学は、正確、厳密と言いながら、実はむしろそれを捨象して抽象化しているのです。モデル化です。モデル化できるところだけを持ってきて、その中での正確さです。これからはそうではなく、自然を見つめる時でもあると思うのです。
 その理由は2つあって、1つはそうしないと自然が危ないから。自然を知るはずが、自然と敵対し壊していく結果になったことを直視しなければならない。もう1つは、私たちが随分モデルで勉強したので、次はそれを使って本当の自然を見つめる人間になれると思うこと。
 21世紀はそろそろどの学問も、自然や人間のあるがままを見つめる時期に来ていると思うのです。DNAやら何やらいろいろな知識、蓄積全てを抱えて、もう1回素直にスタートに立つのです。
ハイゼンベルク
【Werner Heisenberg】
(1901〜1976)
ドイツの物理学者。行列力学を創始し不確定性原理を提唱し、量子力学の基礎をつくった。W.パウリとともに場の量子論を展開。中性子が発見されると、電子核は陽子と中性子から成り立つとして核力の性質を論じた。その後、素粒子論、宇宙線現象などを指導的立場で研究。磁性、超電導、乱流などに関する研究も行った。1932年ノーベル物理学賞受賞。
<『科学大辞典』丸善 より>
ボーア【Niels Bohr】
(1885〜1962)
デンマークの理論物理学者。量子論の立場からはじめて原子構造を解明し、相補性原理を提唱、量子力学建設の指導者。第二次大戦中イギリスへ亡命、アメリカの原爆開発計画に協力。戦後、原子力の国際的管理に努力した。門下からは、物理学・化学から分子生物学に至るノーベル賞学者が輩出。1922年ノーベル物理学賞受賞。
<『広辞苑』より>
(今道)  ハベルは学者じゃなくて文学者だから、いい加減なところもありますが、新しい時代は別の知が生まれる時だと言っているのは本当ですね。
(中村)  そういう気がとてもします。
(今道)  私ども哲学者も、謙虚に原点に帰らなければなりません。退却じゃなくてね。哲学も何千年の歴史があって、随分進歩しています。だけど、世間は哲学って勉強しないでしょ。ほとんど教育の世界から忘れられて。『自然哲学』っていう本を書いたけど、全然読む人いない。自然についての学問は、自然科学しかないと思ってる人もいて。
(中村)  日本の教育もいけないし、私自身も怠け者で理科系に入ると、プラトンとかソクラテスって名前聞いただけで逃げ出しておりました。でもこうして、アリストテレスやプラトンの言葉を伺うと、私が今知りたいことをすでに何千年も前に考えていることがわかり、それこそ驚きです。
ハベル【Vaclav Havel】
(1936〜)
元チェコ大統領。
10. 科学者との対話
(今道)  哲学者はつまらないからって、相手にしてもらえない。こんな座談会に呼んでいただくのも珍しいんです。でも僕は本当の哲学者に憧れを持っていて、どこ行ってもおべっかは言わないし、科学者にも嫌われて。仕方がないですね、中村さんは、それでも僕を呼んでくださって、本当に感謝しなきゃならないし、本当にうれしゅうございます。
 ベルクソンもファクト(事実)を一生懸命勉強して、それは科学者と対話するために勉強してたのです。19世紀後半から20世紀、本当に科学と科学技術が進歩した時代ですから、この対話は大切なことです。僕も科学の恩恵を受けながら、しかし、臓器移植というのは野蛮の極みだと思うから、ずっと反対しています。人工臓器だったらいいと思っているのですが、この頃再生医学が盛んになり、大脳までできてくるとか。
(中村)  まだ神経細胞ぐらいです。
(今道)  まだできないって、これからやろうと思う人がいるでしょう。それは生命を、何かちょっと汚すような気がする。
(中村)  病気の人を治したい、治りたいという気持ちと、それをどこでどう諦めるかということとのせめぎ合いで…。何でもやってやろうというのは、違うと私は思っています。
(今道)  でも誰か若い人が死ねばいい、使えると、どっかで思うとしたら。
(中村)  そういうバランス感覚というか、畏れを持った上でどこまでやるかという判断の問題は、現実問題として生殖技術等にありますので、それは科学技術の課題として考えなければなりません。今、社会全体がやれることは何でもやりましょう、やった方が勝ちですという風潮になっていますね。その中で科学技術を進めていったらよい結果にはならないと思っています。
(今道) 
倫理学者をもう少し倫理委員会に入れるべきでしょう。生命に対する倫理っていうのは、本当に一番大事なものに対して人間の態度を決定しなきゃいけないんですから、本当の倫理学者が入ってなきゃいけない。科学に色目を使うような人が倫理学者として入っているのは、その点、本当に日本はひどいと思います。
(中村)  社会全体が品格を失いつつある中で、科学も品格を欠いたり、野蛮になってきたことは私も認めます。だからこそ生物の研究を否定しないで、この先に讃美の入った、生命の知を組み立てたいと思っているのです。
(今道)  ぜひそうしてください。好奇心だけでは危ないっていうことはみんな人間としてはわかってるんです。愛づるに注目くだすったことは、僕は、科学の動機の一つが好奇心じゃなくて、賛嘆のようなものになってくる兆しと感じました。今日、考えた格言「讃美と涙が創造の源泉(Admiratio et lacrima sunt origines creationis.)」。
(中村)  大和言葉の「愛づる」と「あはれ」を生かして、アリストテレス以来の知の宿題を考えていきなさいということですね。それはまさに生命誌のテーマですので、これからもお教えください。
ベルクソン
【Henri Louis Bergson】
(1859〜1941)
フランスの哲学者。自然科学的世界観に反対し、物理的時間概念に純粋持続としての体験的時間を対立させ、絶対的・内面的自由、精神的なものの独自性と本源性を明らかにし、具体的生は概念によって把握し得ない不断の創造的活動であり(直観主義)、創造的進化にほかならないと説いた。著「物質と記憶」「創造的進化」「道徳と宗教との二源泉」など。1927、ノーベル文学賞受賞。
<『広辞苑』より>
こぼれ話:夜の生物学
(今道)  自然界の現象の中で、僕が今注目すべきは、夜だと思うんです。今までの自然科学って、夜をあんまり考えてないような気がする。夜と昼の世界って、全く違うでしょ。昼の世界だったら第一次元っていうのが奥行き、第二次が幅で、第三次元が高さ、これが明らかです。だけど夜っていう自然現象の中にいると、ここにいる我々のこの先で3歩先が絶壁だったら大変、落ちて死んでしまう。それでこう頭ぶつけないで行けるかどうか、高さも必要。どこまで行ったらいいのかっていうんで、そこからして全く別のことになってくる。だから夜の空間の第一次元は高さです。昼の空間構造の逆なんです。真っ暗だとすると、視覚はきかないので聴覚がものすごく大事。そのようなことを考えてみると全然違った捉え方をしないといけない。はかろうと思っても見えないんだから、時計ではかることもできない。そうすると、自分の普段の脈拍が70ぐらいだから、今少し慌ててるから80くらいかなって、1分ぐらいたったかしらって時をはかる。時間は触覚の対象です。何か僕は、例えるならそういう生物学が中村さんの生物学としてもっとおもしろくなるんじゃないかと、そういうこと考えることがあります。余計なおせっかい、と言われるでしょうね。
 夜は内部に帰る時のような気がします。そうして月との対話とか、星の光とか、暁の喜びや、その時に本当に自分も自然に過ぎないことを実感する。遺伝子なんて全然問題にならない世界のような気がするんです。もちろんそれも自分の中にある自然で大事なことだけど。美しく生きるためには中を見るより夜を見る。
(中村)  夜の女王になる(笑)。
(今道)  そう。夜の女王みたいな。意味ないでしょう、私の言うこと。退散しようかな。
(中村) 
身体に居るという意味で面白いです。遺伝子も試験管の中にあるものとして研究するのでなく、自分の体の中にあるものとして捉えることが大事だと思っています。遺伝子を眼の敵になさらないで、新しい展開を見て下さって、命令する愛として叱正をなさってください。
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