生命誌ジャーナル 2007年春号
Research ─ 研究を通して ─ :目次>他者の象徴としてのライオン
他者の象徴としてのライオン
―カラハリ砂漠の狩猟民グイの視点から―
京都大学大学院人間・環境学研究科 菅原和孝
<プロフィール>
菅原和孝(すがわら・かずよし)
1949年東京都生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。北海道大学文学部助手、京都大学教養部助教授、同総合人間学部助教授・教授を経て、2003年より京都大学大学院人間・環境学研究科教授。
  1. グイ・ブッシュマン
2. 他者としての動物
3. 咬むもの(パーホ)の原型としてのライオン
4. ライオンに殺される
5. 女の力
6. 言語ゲームの境界で
1. グイ・ブッシュマン
図1 中央カラハリ動物保護区
 南部アフリカのボツワナ共和国のまん中に位置する中央カラハリ動物保護区は、約5万km2の面積を有する。九州と沖縄県をすっぽり収めても、まだお釣りがくるぐらいの広さである。(図1)この地域には、ブッシュマンと総称される狩猟採集民の一グループであるグイの人々が古くから住んできた(註1)。1997年に、保護区内のすべての住人は、政府の施策によって、その外側に設立された「再定住地」に移住することを余儀なくされた。以来、人口1000人以上にのぼる村でのストレスの高い生活が続いている。このように消えていきつつある伝統的な生活のなかで、グイが動物とどのような関わりをもって生きてきたのか。とくに宿敵ともいうべきライオンに焦点を合わせて、行動観察と談話分析をもとに調べている。
2. 他者としての動物
 グイにとって、動物とは何よりもまず殺すべき対象である(註2)。ハンターは、茂みに隠れながらギリギリまで接近し、矢を射かける。猟の語りでは、接近の過程で見定めた獲物の様子や、矢があたった瞬間のその反応が、内的独白の形をとって克明に再現される(註3)。それが映し出しているのは、人間と動物とのあいだで交される、命がけの「駆け引き」である。獲物のほうが人間に気づいてしまったら、その時点で、弓矢猟は失敗に終わる。ハンターが物陰から動物のふるまいを盗み見るとき、彼はそのまなざしによって動物を「標的」として対象化するのだが、それと同時に、いつも動物によってまなざしを向けられ、対象化される可能性を帯びている。さらに、ハンターは、自分と獲物とのあいだに独特のつながりを想定する。彼は、傷ついた獲物が逃げ去った方角を見定めてからいったんキャンプ(流動的な居住集団のこと)に帰るのだが、その夜は食べ物を口にしない。自分が満腹したことを獲物が「感づいて」活力を回復することを怖れるためである。
図2-1   図2-2
(図2-1)猟犬をつれて狩りに出かける男たち
彼らに同行し、狩猟における一連のプロセスを観察した。
(図2-2)狩りで仕留めたエランドを解体する
図2-3 ヒョウガメを捕らえた男性
もしも動物が心をもたない「物」だとしたら、「滑稽感」も生まれえないだろう。
 グイは、動物のふるまいをとても面白がる(註4)。数年前、再定住地の周辺に仕掛けた罠の見回りに同行した時のことである。道すがら、ヒョウガメ(大きな陸ガメ)を生け捕りにした。(図2-3) 木陰で小休止をとったとき、横たわっている男のそばでカメが甲羅から頭を出した。男がぱっと指でつまもうとするとカメはすばやく頭をひっこめる。大のおとなが、さも楽しげに、そんな遊びを続けるのを見て、私はあきれた。さらに、動物は「お告げ」をする存在である。カラハリに生息するたくさんの鳥たちは、その鳴き声や姿形によって人間にさまざまなメッセージを伝える。また、動物の異様なふるまいや、その形態の異常さは、死のお告げ(ズィウ)とみなされる(註5)。だれかが死んだというニュースがもたらされたときグイは、「あの異変こそ、この死のことを告げていたのだ」と回顧的に解釈しなおす。要するに、グイの生活は、動物とのあいだの絶え間ない「交感の回路」に埋めこまれながら、営まれてきたのである。
3. 咬むもの(パーホ)の原型としてのライオン
図3-1 <パー-ホ>(咬む-もの)の例
「パーホ」の一員であるワイルドキャットを今まさに打ち殺そうとしているところ。この動物は「パーホ」の中でも恐れるに当たらない存在である。
 だが、グイは、動物がときとして人に危害を加える恐ろしい存在であることを身にしみて知っている。弓矢猟の標的となる大型偶蹄類が<コー-ホ>(食う-もの)と総称されるのに対して、人に害をなす動物は<パー-ホ>(咬む-もの)と呼ばれる。(図3-1)「猛獣」のほかに、毒ヘビ、サソリ、毒グモなどがその代表である。ここで、認知科学の領域で発展した「プロトタイプ理論」を援用しよう。この理論では、人間は動植物や人工物を含む、この世界を構成する様々な事物を「放射状カテゴリー」に類別することによって認識しているとする。たとえば「鳥」というカテゴリーの中心には、スズメ、ハトといった「典型例」が位置し、ダチョウ、ペンギンなどは周辺的な位置を占める。パーホという民俗カテゴリーは、この放射状カテゴリーという概念にぴったり当てはまる。その中心に位置するパーホのなかのパーホこそが、ライオンである。(図3-2)
図3-2 放射状カテゴリーとしての〈パーホ〉の模式図
中心(プロトタイプとしてのライオン)から離れるほど、「咬むもの」の危険性は低くなる。
※グイの民俗カテゴリーについてもっと知りたい方はこちら
 ライオンの特別な位置を浮かびあがらせるために、もう一種の猛獣ヒョウについて述べよう。ある年長男性は、ヒョウと格闘したことがあり、今でも咬まれた傷跡が腕に残っている。不意に遭遇すれば、ヒョウは十分に人間を殺傷する力をもつ。だが、同時に、美麗な毛皮をもつヒョウはグイにとって稀少価値の高い獲物でもある(註6)。狩猟の経験談のなかにしばしば「ヒョウをやっつけた」という逸話が出現する。これに対して、「ライオンをやっつけた」話は、後述する凄惨な例を除けば皆無である。ちなみに、ヒョウとよく似たチーターは、怖れるに足りない相手である。現地調査助手Tは、チーターを延々と追いかけ、そいつが疲労困憊して動けなくなったところに追いついて撲殺した実績をもつ。
4. ライオンに殺される
図4 語りを記したフィールドノート
左側に原文、右側に対訳。文字をもたないグイの言葉を全文転写するのは苦難の仕事である。
クリックすると拡大図が見られます。(ライオンのアップが出ます。)
 私が収録した語りのなかで、もっとも衝撃的なものは、人間がライオンに殺された事件である。つい最近収録した逸話を以下に紹介する。(図4) ゴイクアという男が妻と共に暮らしていた。妻は夫の婚外性関係を疑って嫉妬に狂い、彼を呪詛した。「あんたはエランド(大型のレイヨウ)を仕留めて食うだろうが、ライオンがきっとあんたを襲うわよ」。しばらくして、ゴイクアはエランドに矢を射当てた。翌日、ガーガバという男と二人で獲物に追いつき、とどめを刺した。解体していると日が暮れてきたので、その場で火を起こして野営した。すると肉の匂いに惹かれて、牡ライオンが近づいてきた。眠りこけたゴイクアは、ライオンに肩を咬まれ引きずって行かれそうになったが、かろうじてガーガバに救出された。ちょうど近くに廃屋があったので、二人はその中で夜を過ごすことにした。ところが家の中で焚き火を燃やしていたのにもかかわらず、ライオンは屋内に跳びこんできて、ゴイクアの首すじに咬みついたのだ。ガーガバはひきずり出されそうになるゴイクアの体をひっぱりながら、片手で矢筒を探りあてると、ライオンの前肢をつかんで持ちあげ、腋の下に深ぶかと毒矢を突き立てた。ライオンは爪でガーガバの頭の皮を引き裂き外へ跳び出したがすぐに倒れて死んだ。朝になるとガーガバはキャンプへ知らせに戻り、男女が総出でやってきた。ゴイクアは、首すじを食い破られて息絶えていた。ゴイクアの妻は夫を呪詛したことを恥じ、エランドの肉のほうに目を向けようともせず、人々が勧めても食おうともしなかった。
5. 女の力
 この物語の軸になる因果関係は、<妻が夫に「ライオンに襲われるぞ」と言ったから、そのとおりのことが起きた>というものである。だが、もし夫が妻の婚外性関係に嫉妬して妻を呪詛したとしても、それはなんの効き目もないという。コラムに掲載した「第三夫人がライオンに殺された」という例でも、第一夫人の呪詛こそが事件の原因として措定されている。夫婦喧嘩をはじめとして、体力において劣る女が男の暴力の犠牲になることは、グイの社会でも珍しいことではない。また、グイの男たちは女の身体を「汚れ」の源とみなしたり、女と性交渉をもつことを「女を狩る」と表現したりもする。女の呪詛が男を脅かすという考え方からは、男の身体的優越や男性中心的なイデオロギーに拮抗する、女が揮う「見えない力」への畏怖を読みとることができる。「呪詛」によってライオンを呼び寄せたとき、女は共同体の内部の秩序を撹乱するライオンと通じ合う、恐るべき存在となるのだ。
6. 言語ゲームの境界で
 私たちが身を浸している<近代>の枠組みは、ある災いの原因を呪詛、妖術といった「超自然的」な要因に帰する考え方を「非合理的」として排斥してきた。だが、私の「理屈」が「合理的」に聞こえるのは、私とあなたが同一の「言語ゲーム」の中で同じ「ことばの使用法」に従っているからにすぎない(註7)。この合意の根拠は、「われわれ」が「生活形式」を共有していることのなかにしか求められない。同様に、グイは、「呪詛」ということば=行為の用法を組みこんだ言語ゲームを演じ、しかもそのゲーム全体は、原野を遊動する彼らの生活形式に根ざしているのである。
 私は以前、拙著『会話の人類学』(京都大学学術出版会)の末尾に次のように書いた。「「言語ゲーム」の規則などまったく共有していない<咬むもの>に殺されることもありうる空間の中を歩き続けること。グイの生はそのようなものであった」。最近になって、このように見てきたグイと動物たちとの関係を「コミュニケーション域」という概念で捉えなおそうとした。グイに限らず人間は、「ことばが通じる」と想定できる、他者たちの集合を心に抱いて生きている。もっともその境界は曖昧なものだが。動物とは、そのようなコミュニケーション域の外部に位置する他者である。(図7-1) ところが、この捉え方を長年お世話になっている「コミュニケーションの自然誌」研究会で話したところ、列席者たちから「ライオンが言語ゲームの規則を共有していないと決めつけるのは軽率なのではないか」という批判を浴び、目を見開かされた気がした。そういえば、上で述べた凄惨な話以外にも、グイはライオンと遭遇した体験談をじつに嬉々として面白おかしく語るではないか。
図7-1 グイのコミュニケーション域
人間や共に暮らす犬や馬などの家畜は「ことばが通じる」他者であり、心が通じあうと見なされる。しかし、狩りやズイウ(お告げ)の例で見たように、グイは他者としての動物のふるまいに積極的に意味を見出そうとするが、両者が言語ゲームの規則を共有することはない。
※動物にカーソルを合わせてください。この図を見るにはFlashPlayer8以上のプラグインが必要です。
図7-2 オオミミギツネを走って捕まえた少年
グイは自らの力で動物と向かい合い、切り結び、生きている。
 ある年長者は、ライオンに咬まれた脛の傷跡を見せてくれた。彼は、夜眠っているとき、小屋の中に顔をつっこんできたライオンにあやうく引きずり出されそうになったので、自由になるほうの足でそのばかでかい顔を蹴とばしながら「カイテ!カイテ!」〔グイ語で犬を追い払う言葉。日本語の「シッシッ」にあたる〕と叫んで撃退したのだそうだ。その思い出を笑いながら楽しそうに語ってくれた。さらに別の年長者は、早朝に長く伸びた木の影の中に佇む牡ライオンの後ろ姿を、大型のレイヨウのゲムズボックと見間違え、あやうくその尻の穴に槍を突き立てるところだったという。気づいたライオンが彼の連れの男のほうに向かっていくと、剛胆な連れはライオンの顔を殴りつけ、狩猟袋を投げつけた。その袋をしばらく背中に担いだまま、ライオンは走って行ったという。時に、獲物を仕留めたばかりのライオンを見つけると、大勢でワアワア騒いで追い払い、その獲物を横取りすることさえある。(図7-2)
 ライオンが人間を凌駕する力を具えた他者であるからこそ、そのライオンと対峙し、わたりあい、生き延び、ときにはそれを打ち負かすという経験のなかに、ギリギリの愉悦が漲っているのではなかろうか。ライオンとの駆け引きにおいて、グイは、やはりある種の「言語ゲーム」をかれらに投げかけていると考えられる。もちろん、ライオンが人間の投げかける「ゲームの規則」を共有するなどということはありえないのだが、人間の想像力は、いつも、物言わぬ他者のふるまいのなかに、自分にとって了解可能な意味を見出そうとする。
図7-3 夕日に照らされた草の家の前で踊る少年と少女
彼らとともに暮らした記録は、私たちに多くの事を教えてくれる。
 動物保護区内の定住地に住んでいた頃、ライオンはよくグイの家畜を襲った。再定住計画を住民に受け入れさせるために、政府は「保護区の中にいるからライオンの被害に怯えなければならないのだ」と説得した。それに対してある老人は述べた。「昔からライオンとおれたちは同じ土地で暮らしてきた。われわれは一緒に造られたのだから、怖れるわけにはいかない」。(図7-3)

 人間よりも強い他者と出会い続ける。少なくとも、その経験は人間を謙虚にする。私は「だから日本人も、ツキノワグマに重傷を負わされたり、ヒグマに食い殺されたりする可能性を引き受けるべきだ」などと主張したいわけではない。ただ、私たちが忘れてはならないことが一つある。たかだか1万年前までは人類のすべてが狩猟採集民だったのだ。つまり、人類は、もともと「自分よりも強い他者」と切り結びながら生きてきたのだ。その原点を思い起こすとき、「人間」のこのどうしようもない傲慢さに、少しは風穴が開けられるのではなかろうか。
INDEX
 
細胞性粘菌のゲノムでみる多細胞化の舞台裏
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