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TALK

地上の光と生きものと

内藤 礼美術家
中村桂子JT生命誌研究館館長

 

1.一人の人間としての素朴な感情を作品に

中村

内藤さんの作品《このことを》(註1)を拝見したのは2001年でしたね。とても素晴らしい体験をさせていただきありがとうございました。

内藤

もう15年もたっているのですね。《このことを》は自然光の中で初めて作った、私にとって大きな意味をもつ作品です。

中村

これまで光や風など自然に影響をうけて表情が変わる抽象的な作品を作っていらしたけれど、東日本大震災の後の《ひと》(註2)には具体の形がありますね。

内藤

あの時はなぜか「ひとを増やさなくてはいけない」と思い、衝動的に小さな人形(ひとがた)を作り始めました。

中村

それは、地震や津波によって多くの方が亡くなってしまったことがそうさせたのですか?

内藤

直接こうだからこうということは、今でも自分の中ではっきりとさせておらず、ただ強い衝動があり作り始めたと感じています。それまで私にとってものが存在するということの表現は抽象形態で、具象の作品はほとんど作ったことはありませんでした。

中村

とても小さくて、特別なことがないが故に大きいといいますか、その中にいろいろなもの感じました。

内藤

《ひと》を作り始めた時はアーティストとしてより、一人の人間としての素朴な感情があったと思います。彫刻作品として完成度を考えるよりも先に、素朴な感情がそのままに手を動かし形になっていきました。そして、最小限の触れ方をして木から形ができていく時、頭と胴体の境が生まれ首や顎ができた時にひとになると感じました。

中村

とても面白い。頭や顎ができるところは生命の歴史物語の中で大きな意味があるところなのです。無脊椎動物から脊椎動物が進化した時に頭ができました。脊椎動物として最初に誕生したお魚は、頭はあるけれど顎はなく、丸い口をあけてエサが流れてくるのを待っていました。顎ができ、エサをパクッと捉える積極的な生き方ができるようになったのです。日常、顎の重要性なんて意識しないのと思うのですが。

内藤

そうですね、普段は輪郭的なもの、外側を見ている気がします。

中村

お魚には首はありません。陸にあがり始めたカエルなどの両生類は首の骨(頸椎)が一つですが、は虫類になるとそれが増えて、振り返えるなど多様な動きができるようになるのです。内藤さんが作品づくりの中で感じられたことと、進化の物語の重なりが面白いです。

内藤

無意識のレベルで何かあるのかもしれません。角材から始めて、まずどこに窪みをつけていくのか。いろいろな方法がある中で、私の場合、首が最初で、次に頭や腕などができていく。作り始めた当初、足はこけしのように一体化していましたが、昨年ぐらいから2本足にわかれるようになりました。進化に時間がかかったのかもしれません(笑)。

中村

時間の流れの中で個が生まれ少しづつ変化していく様は、まさに進化ですね。

(註1) 《このことを》

2001年 家プロジェクト「きんざ」
写真:森川 昇

(註2) 《ひと》

2014年
写真:畠山直哉



2.人形(ひとがた)を作るということ

内藤

人形(ひとがた)を作る時、私は、立つ形をずっと選び取ってきました。座ったり、横になっている像は一つもなく、何かに寄りかからず立っていて欲しいという思いがあるからです。これまで350人ほど作りましたが、そのひとはそのひとでしかないという個性が現れるのは、目を入れた時だと感じます。

中村

今もお話ししていると目を見ますものね。

内藤

今まで作っていた抽象の作品と明らかに違うのは、人形(ひとがた)には前と後ろという方向性、頭から足へ貫く軸があるということです。目が入ると、明らかにこちらを見ているひとだと、何かを見ようとしているひとだというふうに感じるのです。そして、私自身はそのひとを「見たものを希望だと信じて疑わないひと」だと思うようになっていきました。庭園美術館の展覧会(註3)では「鏡を通してひとが人間を待っている」という在り方でした。

中村

ひっそりと目を見てもらう時を待っている感じですね。そこに希望がある。

内藤

見てもらう、そして自分が見るその時を待っている。信じる側のひとなのです。人形(ひとがた)だから自分にできないことや、願いを託すのかもしれません。見たものを見たままに信じ、疑わない、そのままに思うひととして作っています。

中村

今、人間への信頼が失われているような気がする中でひとの形にこめた思い共有します。

内藤

いろんな人形(ひとがた)も含めて、ひとの形だというだけで特別な感情が見る側に生まれるのだとつくづく思いました。昔から土偶、仏像、お地蔵さん、こけしなど人形(ひとがた)は多く作られてきましたね。それは他の形ではなくて、人形(ひとがた)でなくてはならなかったのだと思います。

中村

神様も、ひとの姿を思い浮かべますものね。

内藤

自分の気持ちを理解してもらおう、何かを伝えたいと強く思う時に人形(ひとがた)を作る衝動が人間の中にあるのではないでしょうか。

中村

そうかもしれません。内藤さんが、震災後アーティストとして何かを表現しようというよりは、人間としての素朴な感情が作品を作らせたとおっしゃったでしょ。とてもよくわかるのです。私は原子力発電所の事故が本当にショックでした。あれは科学が作ったものであり、そのコミュニティの中に私はいるわけですから。科学者として立ち直ることは不可能だと思いました。そして、一人の人間として、起きてしまったことをもう一度見つめ直そうと考え『科学者が人間であること』(註4)という本を書いたのです。恐らく多くの方があの時、一人の人間としてどうしたらいいのかと考えたと思うのです。そのような人間としての根源的な思いがあの小さな《ひと》になったところが、さすが内藤さんだと、私にもそういう表現ができたらいいのにと羨ましく思います。

内藤

小さな《ひと》は、もしかすると私が俯瞰で見ているのかもしれませんし、とても近くにいるのに遠くにいるように感じる時もあります。

中村

実は、私はあんまりお人形さんが好きではないのです。しかし、あの作品はお人形さんではない。そこにひとが凝縮されているけれど、生々しいひとではありませんね。

内藤

そうですね。精霊だと思う時もあるし、死者だと思う時もあったり、性別がわからないひとが生まれてくる時もあるんですよ。ただ、精霊も人形(ひとがた)の精霊であり、そういう意味ではすべてひとなのです。

中村

そういえば、お祈りやお祓いの時に白い紙で人形(ひとがた)を作る伝統もありましたね。そういったものとの繋がりも感じますが、やはり内藤さんの《ひと》は立つという姿がいいですね。小さいから隠れることができますし。

内藤

あっ見てたんだ、とあとから気づいたり、そこに時間がかかったりすることもありますね。

 

(註3) 庭園美術館の展覧会

内藤礼 信の感情
2014年11月22日–12月25日
東京都庭園美術館


(註4) 『科学者が人間であること』中村桂子著 岩波書店(2013年)



3.「地上の生」を問い続ける

中村

内藤さんは、作品のテーマとして「地上に存在していることは、それ自体、祝福であるのか」という問いを一貫してもち続けていらっしゃるけれど、そこで、ここに存在する主体は人間ですか?

内藤

私を含めてすべての人間ですね。私は自分のことを「人間で、生きている係」だと思っています。

中村

私は係がチョウになったり、クモになったり時により変わります(笑)。祝福されているのかと問う対象もやはり私であり、人間一般ですか?

内藤

そう思いますが、広げればやはり人間だけでなく、生きものすべてということになるのかもしれません。地上に生命の住む世界がこのようにあるわけですね。そのこと自体が不思議としかいいようがありませんが、この地上に存在しているということ、それだけを取り出しても祝福されているのか、祝福であると思えるのかという問いが私の中には常にあるのです。

中村

私が生きものを研究する動機も、存在していることそれ自体への驚きです。この時、人間はもちろんですが、アリもタンポポもほとんど同じように対象になります。「どうしてあなたこんな形をして、こんなふうにここにいるの?」とすべての生きものに問いかけたくなるのです。

内藤

それは親しみというか、繋がりの感覚が強いのでしょうか?

中村

そうですね。同じという感覚でしょうか。アリはアリ、ライオンはライオンとして異なる姿形、生き方をしているけれど、生きているという意味では同じ。生きものを相手に長いこと仕事してきましたので、自然にそう感じるようになったのだと思いますが、そういう感覚をもち生きてくと面白いのです。

内藤

生命観のもち方が私とは少し異なるのかもしれません。美術作品の場合、それを見るのは人間になる。動物たちは鑑賞できませんから。

中村

そうですね、いい作品を作りましたねと人間以外の生きものは言ってくれませんね。

内藤

作るという行為の中にはもちろん人間ではないものへの気持ちも含まれるわけですが、どうしても人間への思いが強くなるのかもしれません。

中村

もちろん私も自分が人間ですから、日常的な関心は人間に向かいます。ただ、生命誌を問い、考え始める時はすべての生きものが全く同じに見えてしまう。そして、自然そのものから「あなたたちいていいんだよ」と言ってもらっている感覚があります。

内藤

私もいろいろ思う時もあるけれど生まれてきて、生きているということを考えると、それは「生きてなさい」とか「喜びなさい」と言ってもらっていることだと感じます。そして、私が神様のような存在にお返しができるとしたら、「私は生きていることを喜んでいます」、「たくさん受け取っています」という思いを形にすることではないかと思うのです。

中村

私も同じ気持ちです。内藤さんが今おっしゃったような感覚や気持ちを言葉にしてやりとりする場が今の社会にほとんどありませんね。特に都会の人工的な社会にいると、自分が自然、生きものの一部として存在していることの実感がもちにくくなるのではないでしょうか。

内藤

人間の社会の中だけで生きて、人間同士のやりとり、人間の社会の中の関心事だけで日々が過ぎてしまいますね。

中村

だからこそ内藤さんが一つのことを問いつづけ、それを作品として見せてくださるのはとても大切なことだと思います。ただ、せっかくメッセージを出しても、それを受け取れない方が、増えているのではないかと心配です。生きものは受け取る能力がとても重要で、この辺に匂いがあっても私に受け取る能力、受容体がなければその匂いは存在しないことになってしまう。イヌは私より多くの匂いを敏感にかぎわけていて、イヌにはイヌの世界、ヒトにはヒトの世界がある。さらにヒトの中でも一人一人みんな違う世界、自分が感じる世界をもっているはずです。自分が生きものとして与えられた受け取る力をおもいっきり使わないと、それこそ祝福されている実感に繋がらないと思うのです。

内藤

何ももっていなくても、人間としてここにいるだけでそういった感じる力をもっているということですものね。

中村

それを存分に使っていれば、充分に豊かですよね。生きものとしての本当の豊かさとは何かをみんなが真剣に考える時だと思います。

内藤

そうですね。そして作品というものは、眠っている人間の感覚をひらいていく力をもっているのではないかと思うのです。

中村

感受性が鋭いからこそ気づくことをアーティストが作品に凝縮して見せてくださることで、一人一人の感受性、受け取る力がひらかれていく。内藤さんの《ひと》はまさにそういう作品だと思います。小さくて繊細なゆえに、それを見た方が作品を通して普段感じなかったことを感じ、世界を注意深く見つめるようになる。「ひとをふやさなきゃいけない」とおっしゃった内藤さんの言葉の背後には、たくさんの方が亡くなられたことがあるのではないかと私は感じます。

内藤

あの時の感覚を正直にあらわした言葉なのですが、その発想自体を乱暴だとも感じるので、実は今でも言葉にすることを躊躇する感覚もあります。

中村

神様でもないのに、ひとをふやすとは図々しいと捉えられるかもしれませんね。

内藤

子どものような、非常に原初的な感覚だと思います。一方では、不思議な感じでその自分を見つめている自分もずっとその時からいるんですよ。

中村

おそらく3.11のショックが何かを解放したのではないかしら。

内藤

あの時は普段の自分から少し離れたような、一番生々しい感情が一人一人の中に生まれたのではないかと思います。

中村

普段と違う生きものとしての人間の感覚がそれぞれの立場で出たはずですよね。でも、その気持ちをみんな忘れてしまったのかしらと思うことが最近多い。あの時感じたことがそれぞれの日常に反映されていないとおかしいと思うのですが、どうして社会から消えてしまったのでしょう。

内藤

あの時は世界が変わってしまったと思いました。皆さんも思ったと思うのですが。

中村

そうですよね。いつまでもそこにこだわるということではなく、自然の圧倒的な力を目の当たりにした時に感じたこと考えたことを一つの軸にして、一人一人がその思いを持ち続け、何かを切りひらいていかなければいけない。それこそが、「生きていていいよ」と言ってもらえる生き方だと思うのです。

4.遥かかなたからもたらされる光

中村

展覧会など新しい活動を考えていらっしゃいますか。

内藤

いくつか展覧会の予定があり、それぞれの準備や制作をしているところです。

中村

震災から5年を経た今のお気持ちでお作りになるとすると、例えばどんな形になるのかしら?

内藤

震災がきっかけで自分の中で何が変わったかは今でもよくわからないのです。後で振り返って、あの時の作品にこういう形で出ていたのだと思う時がくるかもしれませんが。ただ、私が一番求めているものは光なんだということを最近つくづく思います。私は気持ちが天気に影響を受けやすく、暗い日とか曇りの日にはそちらにひきずられてしまいます。

中村

私も同じです。

内藤

以前は天気の影響で気持ちが沈むことをネガティブに捉え、明るくならなくてはいけないと思っていたのですが、最近はこれも自然と一体化するあり方の一つではないのかと思うようになりました。けれども、自分はやっぱり光を求めているのだと思った瞬間があったのです。曇りの日に重い気持ちを整理して仕事を始めようとしていたところ、はっと気がつくと、スーッと日が差し、一瞬にして部屋中が光で満ちて、自分の気持ちまで同時に明るくなり解放されました。その時に、これ以上の幸せがあるだろうかと感じたのです。私が求めているものは光だと思いました。人間にとって、光とは特別なものではないでしょうか。

中村

そうですね。しかも、生きものが求めているのは太陽の光ですね。

内藤

この条件で地上にいるということが、私たちが生きていることと切り離せませんね。

中村

最近、都会の街には人工的な光が必要以上にあふれていることが気になっています。東京では、クリスマスでもないのに木にLEDのライトがたくさんついていたりします。

内藤

あの光は私も苦手です。縛りつけられている木も可哀想ですし。

中村

何か鋭く刺すような光ですね。私たちが生きものとして本来求めている太陽の光は、さまざまな波長がまざり合い包まれるような光です。38億年前に地球上に初めて生まれた生きものは、海の中にある栄養分を取り入れて生きており、そのままだったら栄養分を使い尽くして途絶えていたでしょう。生きものがここまで続いてこられたのは、太陽の光を使って、光合成で自ら栄養を作り出す生きものが生まれたからなのです。

内藤

それは、光を受け取る能力が自ずと生まれて、生きもののほうが変わったということですか?

中村

そうです、進化の時間の中で生きもの自体が変わっていったのです。最初に光合成の能力を獲得したのは、シアノバクテリアという小さな生きものであり、それを中に取り入れて共生を始めた細胞でできているのが植物です。光合成をする植物がいなければ私たち動物も生きていられないわけですから、その意味で光が生きていることの基本だと、生命誌はそう語っています。

内藤

そうですね。光は心の作用にも密接に関係していると思います。冬の日照時間が短い北欧などでは光を浴びる精神的な治療もありますね。

中村

私は太平洋側で育ったこともあり、一週間曇りが続くとしょぼんとしてしまいます。お日様の光を浴びることはまさに祝福と感じます。

内藤

自然の光は、曇りだと思っていたら急に日が差した時などによくわかりますが、予測ができない時にもたらされる感覚が人工的な光とは違いますね。ただこうしているだけで、優しく心を満たしてくれるところがすごいと思うのです。

5.変化し続ける自然の中で

中村

お話しを伺っていて、直島で《このことを》の中に入った時のことを思い出しました。下のほうに少しだけ自然光が入る隙間が空いているので、太陽が動きがわかる、それがわくわくしました。少しの時間でも変化がわかりますもの。

内藤

本当に少しの時間でも大きく違います。自分が止まっているような気持ちでいても、刻々と世界が動いている、時間が流れているということが光によって感じられる。

中村

日常、普通に光を浴びているとなかなか気づかないのですが、少しの隙間から漏れてくるとわずかな変化がわかります。あの作品の中にいることはとても気持ちのよい体験でした。

内藤

《このことを》の後に豊島に作った《母型》(註5)も大きなドーム型の建築に開口部が2つあり自然光が入る半野外のような作品です。

中村

雨や風もそのまま入ってくるのですか?

内藤

雨はそのまま、垂直にサーと入ってきます。光や風が入ってくる器として捉えました。そして、床には2ミリほどの穴が180個以上空いていて、そこから地下水があらわれ、ゆるい傾斜を少しずつ流れていきます。私が最近、改めて思うことは、何かが動く、変化した時に、人間の心も一緒にふっと動き出すのではないかということなのです。

中村

そうですね、動く、変化するということが大事ですね。光があっても24時間同じように照らしていたら面白くありません。この家からは富士山が見え、夕日が落ちて富士山がシルエットになっていく様子は本当に綺麗です。周囲の変化と自分の心の動きが重なっていると感じます。

内藤

私は、祝福ということについて、どうしてそんなに考えるのかと自分でも不思議に思うのですが、ある時、その問いは自分が生命であるという実感をもつことと結びついているのではないかと思いました。つまり、自分は生命であるという実感をもてた時に、祝福されていると感じるのではないかということです。それは、自分が激しく動いたからということではなく、光が差す、風や水がゆらぐなど、自然の動く様を見て心動かされた時に、ああ、自分も生きて、動いて、流れているものの一部なのだと感じられるのではないかと。

中村

まさにそうです。実は研究館では生命と言わず、「生きている」、「生きる」というように動詞で考えるのです。他にも生きることに関わる動詞を年間のテーマにしています。今年は「ゆらぐ」。

内藤

太陽の光の変化もそうですし、私が作ったもっと単純な作品で、例えばリボンを吊るして、リボンの変化から風が吹いているということがわかる。

中村

鎌倉で拝見しました。

内藤

鎌倉では中庭にリボンを吊るしました。そういうものを作り始める時に、今お話ししているようなことがわかっているわけではないのです。ただ、何かしようと思っている時に、無意識のところで人間として、生きものとしての動機が必ずあるからそれを育てて、とにかく形にしていく。最初にこうだからこうするのだと思うと、アイディアの段階で閉じてしまう。だから、作り終えるまで自分がなぜそうするのかわからないままに、強い気持ちで動いていきます。できあがったものを見るといろいろとわかっていきます。

中村

作品を見ると、私はこうしたかったのだと思えるのですか?

内藤

それが何を自分に伝えてくるのかを、できあがったものから感じ取っていきます。リボンの作品も、動いている様子を見た時に、心も動き始める、自由になるのです。そして、作品を見た方に伺うと、それはどうやら私だけではないようです。

中村

思いがけない動きから自分の心も動く。

内藤

いつ動くかわからない、刻々と変化しつづける自分が想像できない次の瞬間を見るということが大事なのだと思います。絵を描いても、固定した意味を読み取る絵よりは、見るひとの心の状態や、その時の光の状態で変化し、見るたびに違って感じる、実体があるようでないような、固定していないものを描こうとしています。そしてやはり光の生起を描こうとしているのだと思います。

(図1) 《母型》

2010年 豊島美術館
写真:鈴木研一



6.何が起こるかわからない動きが生きもの

中村

私にも内藤さんの気持ちに重なるところがあります。生命科学というと、固定させたものを分析することになりますが、それでは生きものが本当にわかったことにはならないと思っています。生命誌はBiohistoryですので、そこには時間が流れている。生きものとは時間を紡いでいる存在なのです。

内藤

時間が外側に流れているのではなくて、生きものたちがそれぞれ時間を作り出しているという感覚ですか?

中村

科学的にというよりは、生きものを見た時の感覚です。ただ、生命科学研究の中で生きものを要素に還元し分析しようとだけ思っていたらその感覚は出てこないと思うのです。生きているということは、プロセスであり、その繋がりが時間を作り、歴史が残っていく。時間を止めて固定したものを見るだけでは、生きているということがわかったという実感はもてないと思います。

内藤

そうですね。私が大事にしているのは自分自身も次の瞬間、次の日に、今思っていることと同じように何かを思うとは限らないということです。新しいことに気づくかもしれない、だから自分で自分のことをわかっていると思わないようにしています。

中村

そうですね、自分って何だろうと毎日思うことは、辛い面もあるけれど、楽しいことでもありますよね。私は私だなんて決めつけていたらあまり面白くない、明日また違うことをやり始めたらよい。

内藤

今日思いもしなかったことに気づいたり、何かに出会うことは、生きているということの中でとても大切なことではないでしょうか。

中村

科学もそうです。自然に向き合い、問いを生むのが科学の本質。科学というとわからせること、何かに答えるものと思われますが、やればやるほど答えにくくなるし、わからないことが増える。いつも何かに出会いたい、新しい問いを見つけたいと思う気持ちは、芸術も科学も同じですね。

内藤

確かに、やればやるほど自分が入っていこうとしている世界が底なしに深まっていくということがわかってきて、自分にできることがあまりにも小さくて、打ちのめされつつも、それでも止めない、これが人間なのかなって思いますね。自然の力に感動しながらも、圧倒されて落ち込むこともあるんですよ。こんなに美しいものがあるのに、これ以上いったい何をするのかと。それでもまた作り出すところが人間らしさで、小さなことしかできなくても、それがやりたいのなら、やればいいと思うのです。

中村

本当にやりたいと思えることをやればいいと私も思います。最近は、あまり大きな声でそう言うと叱られそうな社会ですね。すぐに何かの役に立つのかと言われてしまう。

内藤

偏っています。目的が明確でないと許されないような。

中村

そうそう。自分の中に生まれた問いに向き合ったり、やりたいと思うことをやる。それが、生きているという実感を得られることだと思うのに。

内藤

人間らしいことだと思いますね。地上に存在して、自然の美しさに力をもらい、喜びをもらって、それでまた何かしたくなるのが人間なのかなと思います。ただ見て受け入れていればいいのに、そこから何かを作ろうとするのは何かおこがましいことだと思ったりすることもあるのですが。

中村

いえいえ。内藤さんが作り続けてくださるのは本当に嬉しいことです。また、作品を拝見できることを楽しみにしています。今日はありがとうございました。

中村館長宅の庭にて。遠くにうっすらと富士山が見えた。

 

写真:大西成明

 

対談を終えて

中村桂子

瀬戸内海の直島にある内藤さんの作品《このことを》の前でお話して以来、心の中にいる方です。「今ここにあること」への思いを美しく繊細に表現する作品は、生命誌を考えるうえの力になります。そして、東日本大震災後に思いがけず、白い小さな《ひと》が現れたのです。人間としての素朴な感情がこれになったとのことに肯きました。その衝撃から立ち直るには人間として考えるしかないと思い、『科学者が人間であること』を書いた気持ちと重なったからです。光や風を感じながら、静かにていねいに生きる仲間として、すてきな作品を楽しみにしています。

内藤 礼

冬の午後、中村先生と私は、置物に姿を変えた部屋の精霊のような動物たちや、庭に生息するさまざまな気配に静かに包まれていた。この世で初めて光合成をした海の小さな生きものの話をしていた時、太陽光は勢いよく部屋に差しこみ、私たちを暖めていた。光はこの日も与えられていた。私たちはそのことによって互いを見つめることができた。そして、光によっていつのまにかどこからか運ばれ、命としてそこにいたのだった。何の話の時も、先生はすべての生きものを同じように愛されていた。生命を我がこととして生きてこられたのだと眩しく思った。

内藤 礼(ないとう れい)

1961年広島県生まれ。1985年武蔵野美術大学卒業。1997年ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館にて《地上にひとつの場所を》を発表し注目を集めた。恒久設置作品に《このことを》(2001年、家プロジェクト 「きんざ」)、《母型》(2010年、豊島美術館)がある。2015年には30年にわたる仕事を包括した作品集『内藤礼|1985-2015 祝福』(millegraph)が刊行された。


 

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