青森平野の南西部に位置する三内丸山遺跡は、約1万年以上続いた縄文時代の中でも成熟期とされる前期の中頃から中期の終り、つまり約5,900年前から約4,000年前までの1,900年という長期にわたって営まれた大規模集落である。ここの発掘調査で出土した土器の量は、なんと青森県内で過去20年間にわたって蓄積されてきた量に匹敵する。しかも、ふつう一つの遺跡から出土する土器型式は、多くても2, 3型式であるのに、ここでは円筒土器とそれに連なるすべての土器型式が10型式以上出土した。ここが長期間存続した拠点集落であったことがわかる。
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写真提供:青森県史編纂室
三内丸山遺跡から出土した10型式以上の円筒土器。円筒の形に作られた土器型式に代表される文化を「円筒土器文化」と呼ぶ。 |
実は、この地域には点在する遺跡が多くあり、すでにそれごとに整理され蓄積されてきた考古学的知見があった(図2)。 |
| 図2 円筒下層式土器が出土した遺跡の分布。( ● ) | 三内丸山で得た厖大な情報をそれらと総合することによって、歴史のつながりと文化の広がりを捉える手掛かりを得ることができたのである。
発掘された土器型式から歴史を辿ると、この集落は、まず縄文時代前期中頃の円筒下層式土器に始まり、中期の円筒上層式土器まで、10土器型式が途切れることなく続いている。つまり、「円筒土器文化」がこの集落の前半期を支えているのである。その後、榎林(えのきばやし)式、最花(さいばな)式へと引き継がれたあと、大木(だいぎ)10式という土器型式で終焉を迎えたことがわかる。
遺跡内には、そこでの暮らしを伝える魚骨や木炭などの生活廃棄物が堆積していたので、ブドウの種子1粒ほどの微量の炭素化合物から高精度年代測定のできる加速器質量分析(AMS)法 (註1)を駆使して、集落(ムラ)の始まりから終焉まで、すべての土器型式に細かな年代を与えることができた。10年以上かけての調査・分析から得た年代が、先にあげた約5,900年前(3,950 B.C.)から約4,000年前(2,050 B.C.)までとなったわけである(図3)。
| 図3 三内丸山集落の文化の変遷 |
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円筒土器文化が終り、大木式土器への変化の兆しがみられるのは約5,000年前(3,050 B.C.)で、集落1,900年の歴史は、円筒土器文化の前半期と、大木式土器文化の影響を強く受けた後半期とに分けられ、この二つはほぼ同じ長さの時間になる。これまで三内丸山遺跡の象徴とされてきた巨木6本柱の大型建物やその後のストーンサークルの原型とされる環状配石などの遺構は、実は、大木式土器文化の影響を受けた後半期に属するものである。そして最後の円筒上層式土器に続いて大木式へとつながる、榎林式、最花式の両土器型式は、円筒土器文化圏の南側にあたる東北地方中南部に展開した広大な大木式土器の影響を強く受けたものである。すなわち後半期の三内丸山集落は、南方からの影響を強く受けて文化が急速に変質していったと考えられるのである。
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