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RESEARCH

生死のつながりの中に

他者の象徴としてのライオン
―カラハリ砂漠の狩猟民グイの視点から―

菅原和孝京都大学大学院人間・環境学研究科

南部アフリカで狩猟生活を送るグイ・ブッシュマン。彼らのふるまいや語りから、動物を自分たちと一緒に造られたものと捉える中で、ライオンのように「自分より強い他者」と切り結びながら生きてきたことがわかります。ここから文明社会の人間の傲慢さに風穴を開けたいと思うのですが。

1.グイ・ブッシュマン

南部アフリカのボツワナ共和国のまん中に位置する中央カラハリ動物保護区は、約5万km2の面積を有する。九州と沖縄県をすっぽり収めても、まだお釣りがくるぐらいの広さである(図1)。この地域には、ブッシュマンと総称される狩猟採集民の一グループであるグイの人々が古くから住んできた(註1)。1997年に、保護区内のすべての住人は、政府の施策によって、その外側に設立された「再定住地」に移住することを余儀なくされた。以来、人口1000人以上にのぼる村でのストレスの高い生活が続いている。このように消えていきつつある伝統的な生活のなかで、グイが動物とどのような関わりをもって生きてきたのか。とくに宿敵ともいうべきライオンに焦点を合わせて、行動観察と談話分析をもとに調べている。

(図1) 中央カラハリ動物保護区

(註1) グイ・ブッシュマン

ブッシュマンという通称は、侮蔑的なニュアンスをもっているという理由で、一時、使用を控えられていたが、さまざまな事情で、近年の人類学では、また勢いを盛り返している。田中二郎がこの地で生態人類学的な研究を開始したのは、1966年末のことであった。より詳しくいえば、グイは近縁な方言集団に属するガナとかなり入り交じって暮らしており、両者の通婚も珍しくない。グイとガナの双方をひっくるめて「セントラル・サン」とも呼ぶ。私は、田中に導かれて、1982年から伝統的な生活様式を色濃く残すグイの人たちのもとに住みこんで研究を続けてきた。



2.他者としての動物

グイにとって、動物とは何よりもまず殺すべき対象である(註2)。ハンターは、茂みに隠れながらギリギリまで接近し、矢を射かける。猟の語りでは、接近の過程で見定めた獲物の様子や、矢があたった瞬間のその反応が、内的独白の形をとって克明に再現される(註3)。それが映し出しているのは、人間と動物とのあいだで交される、命がけの「駆け引き」である。獲物のほうが人間に気づいてしまったら、その時点で、弓矢猟は失敗に終わる。ハンターが物陰から動物のふるまいを盗み見るとき、彼はそのまなざしによって動物を「標的」として対象化するのだが、それと同時に、いつも動物によってまなざしを向けられ、対象化される可能性を帯びている。さらに、ハンターは、自分と獲物とのあいだに独特のつながりを想定する。彼は、傷ついた獲物が逃げ去った方角を見定めてからいったんキャンプ(流動的な居住集団のこと)に帰るのだが、その夜は食べ物を口にしない。自分が満腹したことを獲物が「感づいて」活力を回復することを怖れるためである。
 

(図2-1)

猟犬をつれて狩りに出かける男たち
彼らに同行し、狩猟における一連のプロセスを観察した。

(図2-2)

狩りで仕留めたエランドを解体する。

(図2-3) ヒョウガメを捕らえた男性

もしも動物が心をもたない「物」だとしたら、「滑稽感」も生まれえないだろう。

グイは、動物のふるまいをとても面白がる(註4)。数年前、再定住地の周辺に仕掛けた罠の見回りに同行した時のことである。道すがら、ヒョウガメ(大きな陸ガメ)を生け捕りにした(図2-3)。 木陰で小休止をとったとき、横たわっている男のそばでカメが甲羅から頭を出した。男がぱっと指でつまもうとするとカメはすばやく頭をひっこめる。大のおとなが、さも楽しげに、そんな遊びを続けるのを見て、私はあきれた。さらに、動物は「お告げ」をする存在である。カラハリに生息するたくさんの鳥たちは、その鳴き声や姿形によって人間にさまざまなメッセージを伝える[COLUMN 1]。また、動物の異様なふるまいや、その形態の異常さは、死のお告げ(ズィウ)とみなされる(註5)。だれかが死んだというニュースがもたらされたときグイは、「あの異変こそ、この死のことを告げていたのだ」と回顧的に解釈しなおす。要するに、グイの生活は、動物とのあいだの絶え間ない「交感の回路」に埋めこまれながら、営まれてきたのである。
 

(註2) 狩猟と語り

グイの生業生態の軸をなすのは、男女の分業である。植物性食物の採集はおもに女が行なうが、狩猟は男だけが行なう。なかでももっとも重要なのが毒矢を用いて大型の偶蹄類をしとめる弓矢猟である。男たちは、その経験を事細かに語ることに熱中する。

(註3) 内的独白

たとえば「アエー、『彼』はいったい何をしてカラ〔アカシカの一種〕に向かって進んでいるのか」「様子を見よう。アッ!『彼』は以前から病んでいたかのように、休んでいるぞ」 ― ここで、牡のレイヨウ類を指示する代名詞を『彼』と訳したのは、性と数を精密に弁別するグイ語の人称代名詞の体系が、動物にもそのまま適用されるからである。

(註4) 対等な他者:ふるまいを面白がる

現地調査助手Tは、幼児のとき、トビウサギが二本脚で跳びながら逃げるのを初めて見て抱腹絶倒したという。また、Tの父Nは、あるとき罠にかかった小型のレイヨウスティーンボックが小さな角を振り立てて向かってきたので、大笑いしながら撲殺したという。私は調査助手Tから意表をつくような「面白がりかた」を教えられた。雨季になると、砂の中から胴体がまっ黒で脚が朱色の、巨大なオニヤスデがうじゃうじゃ現われる。あるときTが言った。「こいつは、おどかすとクソをもらすことを知ってるか」「知るもんか」。すると、彼は地面に腹ばいになり、砂の上を這っているヤスデの頭部に口を寄せ「わあーっ」と絶叫した。逃げ去ってゆくヤスデは、小さな糞の粒をあとに残していた。これには、私も、腹をかかえて笑った。

(註5) 【ズィウ】死のお告げ

ツチブタの背中の毛が丸く禿げていたとか、夜行性のセンザンコウが真っ昼間に地面の上で仰向けになって眠っていたといった例がある。

[COLUMN 1] 鳥のお告げ

カラハリで今までに80種ほどの鳥類を同定しているが、雨季に長期の調査を継続できさえすれば、もっと種類数は増えるであろう。鳥に対するグイの精緻な認識は、次のような多様な言語活動となって開花している
(a)姿の「見立て」と鳴き声の「聞きなし」
(b)鳥に呼びかける歌
(c)鳥がもたらすメッセージの解釈
(d)鳥の習性や形状の起源を説明する民話
(e)鳥がキャラクターとして活躍する神話

ここでは、(c)鳥がもたらすメッセージの解釈と、(e)鳥がキャラクターとして活躍する神話の例を挙げてみよう。

(c)罠を仕掛けているときにアカカンムリノガンが鳴きながらそばを飛ぶと、もうその罠には絶対に獲物が入らないので、グイはあきらめて作業を中断して家に帰ってしまう。その一方、原野を歩いているとき、このノガンが茂みの中から鳴いているのを聞くと、「ハゲワシが近くを舞っている」ことを知らせてくれていると思う。頭上に広がる空をくまなく見渡し、ハゲワシの姿を発見しようとする。その下に、ライオン、ヒョウ、チーターなどの食い残しがあるかもしれないからだ。

(e)キャンプの子どもたちが迷子になって遠い土地で「人食い」(神話的な存在)に捕まった。人食いは、子どもたちに毎日、蝿を食べさせたりして、飼っていた。ツルハシガラス(漆黒のカラス)がこの子たちを救出して脇の下に隠しもち、キャンプに飛来した。最初に訪れた家で「脂を分けてくれ」と頼んだが、その家の女はカラスを邪険に扱い、家の中の焚き火の灰を外に捨てにゆくときに、カラスの肩に灰をこぼしたりした。だが、他の家の女たちは皆、快くカラスに脂を与えた。カラスが腋の下に脂をたっぷり塗りつけると、隠されていた子どもたちがつるんと滑り出てきた。迷子になったわが子を心配していた母親たちは驚喜して駆けつけた。だが、カラスは邪険にされた家の子だけを翼の下に抱えて空高く舞い上がり、その子を落とした。母親が駆けつけると、頭の骨が割れてもう死んでいた。その女が嘆き悲しむ横で、他の女たちはカラスを敬った。



3.咬むもの(パーホ)の原型としてのライオン

だが、グイは、動物がときとして人に危害を加える恐ろしい存在であることを身にしみて知っている。弓矢猟の標的となる大型偶蹄類が<コー-ホ>(食う-もの)と総称されるのに対して、人に害をなす動物は<パー-ホ>(咬む-もの)と呼ばれる(図3-1)。「猛獣」のほかに、毒ヘビ、サソリ、毒グモなどがその代表である。ここで、認知科学の領域で発展した「プロトタイプ理論」を援用しよう。この理論では、人間は動植物や人工物を含む、この世界を構成する様々な事物を「放射状カテゴリー」に類別することによって認識しているとする。たとえば「鳥」というカテゴリーの中心には、スズメ、ハトといった「典型例」が位置し、ダチョウ、ペンギンなどは周辺的な位置を占める。パーホという民俗カテゴリーは、この放射状カテゴリーという概念にぴったり当てはまる。その中心に位置するパーホのなかのパーホこそが、ライオンである(図3-2)。

(図3-1) <パー-ホ>(咬む-もの)の例

「パーホ」の一員であるワイルドキャットを今まさに打ち殺そうとしているところ。この動物は「パーホ」の中でも恐れるに当たらない存在である。

(図3-2) 放射状カテゴリーとしての〈パーホ〉の模式図

中心(プロトタイプとしてのライオン)から離れるほど、「咬むもの」の危険性は低くなる。
※グイの民俗カテゴリーについてもっと知りたい方は[COLUMN 2]へ。

ライオンの特別な位置を浮かびあがらせるために、もう一種の猛獣ヒョウについて述べよう。ある年長男性は、ヒョウと格闘したことがあり、今でも咬まれた傷跡が腕に残っている。不意に遭遇すれば、ヒョウは十分に人間を殺傷する力をもつ。だが、同時に、美麗な毛皮をもつヒョウはグイにとって稀少価値の高い獲物でもある(註6)。狩猟の経験談のなかにしばしば「ヒョウをやっつけた」という逸話が出現する。これに対して、「ライオンをやっつけた」話は、後述する凄惨な例を除けば皆無である。ちなみに、ヒョウとよく似たチーターは、怖れるに足りない相手である。現地調査助手Tは、チーターを延々と追いかけ、そいつが疲労困憊して動けなくなったところに追いついて撲殺した実績をもつ。
 

(註6) ヒョウを狩る

この地域では、19世紀ごろからバントゥー系の言語を話す農牧民カラハリ族がグイと半ば共生的な関係を育んできた。彼らは、馬と鉄砲をもち、足跡の探索に秀でたグイの男を雇い、ヒョウを狩った。動物保護区の周囲に住む白人の農場主もヒョウの毛皮を珍重するので、グイは自ら密猟したヒョウの毛皮を持参し、その見返りに斧や煙草といった貴重な物資を獲得することがあった。

[COLUMN 2] 動物の民俗分類

動物に関するグイの民俗分類はかなり複雑である。従来、認識人類学では、世界のさまざまな民族が動植物を分類する仕方には、共通した階層構造があると論じられてきた。動物界を例にとれば、{ドウブツ}という「唯一始発点」の下に{ケモノ、トリ、サカナ、ムシ}といった「生活形」が並ぶ。さらに{ケモノ}の下には{イヌ、ネコ、ウシ、ウマ、ヤギ、ヒツジ、ウサギ、トラ ・ ・ ・ ・ ・}といった「属的」なレベルがある。グイでも<ゼラ>(トリ)は、明確に「生活形」に対応した語である。

(図C2-1) 従来の認識人類学の動物分類の例


しかし、グイには{ドウブツ}に対応するような唯一始発点は存在せず、むしろ、きわめて「実用的」なカテゴリーによって分類がなされる。人類学者の田中二郎は、そのカテゴリーを<コー-ホ>([肉を]食う[ための]-もの)、<パー-ホ>(咬む-もの)、<ゴンワ-ホ>(役立たずな-もの)の三つに類別した。順に、「食用になる動物」「人間に危害を加える動物」「無害だが食用にも適さない動物」ということになる。さらに、彼は、これらのカテゴリーの境界が曖昧であるとした。たとえば、手負いのレイヨウ類が鋭い角を振りかざしてハンターに逆襲してきたら、<コー-ホ>であったはずの動物が<パー-ホ>になる。これ以外に、<オン-ホ>(食べる-もの)という一般的なカテゴリーがある。おもに食用植物に対応するとしたが、食べられる昆虫やウシガエルに似た大きな蛙なども含む。

(図C2-2) 田中二郎によるグイの動物分類

認識人類学での動物分類が整然とした階層構造をなすのに対し、田中の考えたグイの動物分類は、生活に則した実用的なカテゴリーからなる。


さらに、言語学者の中川裕はこの田中の見解をシンプルなモデルでまとめなおした。つまり、グイの動物に関する民俗分類は、「食べられるか」という軸と「咬むか(害をなすか)」という軸によって四象限に分割される。<ゴンワハ>(役立たず)という述語は両方の軸で「否定」を表わす。<コーホ>とは、ふつうは猟の獲物としてもっとも重要な七種類の大型偶蹄類をさす。「食べられ、かつ咬まない」動物としては、<コーホ>の他に<ツァー>(肉)、<カウ>(罠の獲物)といったカテゴリー名がある。前者は、ヤマアラシ、トビウサギ、ウサギといった中・小型の齧歯類を含むが、後者は、罠によくかかるスティーンボック、ダイカーという二種の小型レイヨウ類だけを含む。また肉量の多いツチブタやイボイノシシを「もう一つの<コーホ>」「大きな<カウ>」などと呼んだりもする。
 

(図C2-3) 中川裕によるグイの動物分類

(*本図は中川の理論に基づき、著者が作成したもの)
食用か否か、凶暴か否か、という2つの軸によって、4象限に分類される。
なお、本文中では「役立たずなもの」を<ゴンワホ>と呼んでいるが、この図では中川の分類に従い、述語の「役立たず」を<ゴンワハ>と表記している。昆虫類、サソリ、ムカデ、毒グモについてはグイ語表記を割愛。



4.ライオンに殺される

私が収録した語り[COLUMN 3]のなかで、もっとも衝撃的なものは、人間がライオンに殺された事件である。つい最近収録した逸話を以下に紹介する(図4)。 ゴイクアという男が妻と共に暮らしていた。妻は夫の婚外性関係を疑って嫉妬に狂い、彼を呪詛した。「あんたはエランド(大型のレイヨウ)を仕留めて食うだろうが、ライオンがきっとあんたを襲うわよ」。しばらくして、ゴイクアはエランドに矢を射当てた。翌日、ガーガバという男と二人で獲物に追いつき、とどめを刺した。解体していると日が暮れてきたので、その場で火を起こして野営した。すると肉の匂いに惹かれて、牡ライオンが近づいてきた。眠りこけたゴイクアは、ライオンに肩を咬まれ引きずって行かれそうになったが、かろうじてガーガバに救出された。ちょうど近くに廃屋があったので、二人はその中で夜を過ごすことにした。ところが家の中で焚き火を燃やしていたのにもかかわらず、ライオンは屋内に跳びこんできて、ゴイクアの首すじに咬みついたのだ。ガーガバはひきずり出されそうになるゴイクアの体をひっぱりながら、片手で矢筒を探りあてると、ライオンの前肢をつかんで持ちあげ、腋の下に深ぶかと毒矢を突き立てた。ライオンは爪でガーガバの頭の皮を引き裂き外へ跳び出したがすぐに倒れて死んだ。朝になるとガーガバはキャンプへ知らせに戻り、男女が総出でやってきた。ゴイクアは、首すじを食い破られて息絶えていた。ゴイクアの妻は夫を呪詛したことを恥じ、エランドの肉のほうに目を向けようともせず、人々が勧めても食おうともしなかった。

(図4) 語りを記したフィールドノート

左側に原文、右側に対訳。文字をもたないグイの言葉を全文転写するのは苦難の仕事である。

[COLUMN 3] 人間がライオンに殺された話

本文で紹介した事例以外にも、私は以下の2つの逸話を収録し分析した。
 

(1)現地調査助手Tの祖父の場合(Tの父Nの語りから):

Nが青年のころの話。被害者はNの父親。父親は、ある朝、彼のイトコにあたるスクータという男と連れ立って出かけた。夕暮れどきに、スクータ一人が逃げ帰ってきた。彼は父親とは別れて、一人でトビウサギ猟をし、帰途に「木の水」(木のウロに雨水が溜まったもの)を飲みに行った時、その木の下で子育て中の牝ライオンと出くわした。トビウサギ猟に使う長い竿をかざしてなんとか撃退したが、後ずさりする拍子に肩から狩猟袋〔小型のレイヨウスティーンボックの皮で作られ、弓矢、堀り棒、火起こし棒など、原野での活動に必要な道具一式が入っている〕が滑り落ちてしまったという。この話を聞いてNはスクータを非難した。「父さんだって、そこへ立ち寄るかもしれないじゃないか。どうして、どこかで父さんを待ちうけて連れ帰らなかったんだ?」。いくら待っても父親は帰ってこなかった。心配しながら夜を明かした。翌朝、Nはスクータをせき立てて、「木の水」のほうへ行ってみた。木の幹に何やら茶色いものがひっかかっているのが遠くから見えた。それは父親が当時愛用していた上着〔おそらく外界からもたらされたレインコートと思われる〕であった。だが、スクータが「あれは俺の狩猟袋だ」と言い張るので口論になった。すると人の声を聞きつけた牝ライオンが、木の下から姿を現わし突進してきた。Nは先頭を切って逃げた。遠くまで走りスクータの哀願の叫びを聞き、やっと立ちどまった。「待て!おまえはおれを見捨てるのか!」。さらにその翌日、今度は忠実に父親の足跡をたどると、ぐるりと回って結局、ライオンによって踏みしめられたケモノ道と合流した。そこからあの木のほうを遠望すると、たくさんのハゲワシが舞っていた。そこでついに父の死を確信したのである。

初めてこの話を聞いたとき、私は、原野の「死のかたち」に深い衝撃をうけた。愛する家族が、朝出かけたきり帰ってこない。遺体さえ見つからない。ただ、遠くからハゲワシの舞う姿を見つめ、その下に、愛する人の恐怖と苦しみがあったことを推測するのだ。
 

(2)若い第三夫人の場合(老齢男性Qの語りから):

カマギ(故人)は変わった男だった。弓矢猟はあまり得意ではなかったが、小まめに猟に出かけては、ヤマアラシ、トビウサギといった小型の獲物をたくさん持ち帰った。彼は、人々から「愚か者」とみなされていたが、妻が3人もあり、とくに若い第3夫人トンテベを溺愛していた。あるとき彼は仲間の男2人と猟に出てダチョウの卵3つを持ち帰った。それぞれ1つずつを取り、焚き火の熱い灰で焼いてオムレツを作った。だが、第一夫人は、夫の取り分が1箇だけだったので不貞腐れた。カマギは妻をひどく罵倒した。「掘り棒みたいな唇をした醜い女のくせしやがって!」。すると彼女は言った。「あんたがめとって喜んでいる娘っ子は今に襲われるわよ」。カマギはその「呪詛」をせせら笑った。しばらく経った雨の夜のことだった。第3夫人トンテベは語り手Qの家を訪れ、Qの妻から臼を借りて自分の小屋に持ち帰り、野生のメロンを搗いていた。カマギは肉を第2夫人の小屋で煮て、トンテベの小屋に持参した。彼はトンテベの腰に自分の両脚を絡ませるようにして横たわり、口の前でナイフを使い、肉を切り取っては食っていた。そこへ牡ライオンが侵入してきた。ライオンは、彼らのいる小屋の戸口からそっと中を覗きこんだ。だが、カマギは、それを犬と見間違えた。「このキャンプに犬を飼っている人なんていないから、だれかが犬を連れて訪問してきたのかな?」(カマギはかくも愚かだった!)。トンテベのほうは、戸口に背を向けていたので、ライオンにまったく気づかなかった。ライオンは、小屋の周囲を一回りしてから、やおら戸口から中へ跳びこんできた。背後からトンテベの肩にがぶりと咬みついた。カマギは、助けを求めることもせずに、妻からライオンを引きはがそうと躍起になり、小屋の中をぐるぐる回った(カマギはかくも愚かだった!)。ライオンが妻を小屋の外へ引きずり出したところで、やっとカマギは我に帰り、叫んだ。「ライオンがわれわれを殺す!」。これを聞きつけたQは狩猟袋をひったくって外へ跳びだし、矢をつがえてライオンを狙ったが、妻を救おうとしてライオンともつれあっているカマギに当たりそうで、射ることができなかった。人々が集まってきて騒ぎ立てるので、ライオンはあきらめて、雨の降りしきる夜の闇の中へ消えていった。トンテベはひどく出血していた。この災厄に怖れをなして、翌朝には、みんなよそのキャンプ地へ引っ越した。重症のトンテベを夫が背負って歩いた。新しいキャンプ地で、人々は懸命にトンテベを介抱したが、弱ってゆくばかりだった。ある日、Qは妻と共に採集に出かけ、牡のツチブタを見つけた。撲殺する瞬間、大量の精液を洩らしたので、びっくりした。この獲物をキャンプに持ち帰ると、トンテベは危篤状態になっており、翌日、息をひきとった。ああ、ツチブタがあんなに精液を流したのはズィウ(死のお告げ)だったのだ ・ ・ ・ ・ ・。



5.女の力

この物語の軸になる因果関係は、<妻が夫に「ライオンに襲われるぞ」と言ったから、そのとおりのことが起きた>というものである。だが、もし夫が妻の婚外性関係に嫉妬して妻を呪詛したとしても、それはなんの効き目もないという。[COLUMN 3]に掲載した「第三夫人がライオンに殺された」という例でも、第一夫人の呪詛こそが事件の原因として措定されている。夫婦喧嘩をはじめとして、体力において劣る女が男の暴力の犠牲になることは、グイの社会でも珍しいことではない。また、グイの男たちは女の身体を「汚れ」の源とみなしたり、女と性交渉をもつことを「女を狩る」と表現したりもする。女の呪詛が男を脅かすという考え方からは、男の身体的優越や男性中心的なイデオロギーに拮抗する、女が揮う「見えない力」への畏怖を読みとることができる。「呪詛」によってライオンを呼び寄せたとき、女は共同体の内部の秩序を撹乱するライオンと通じ合う、恐るべき存在となるのだ。

6.言語ゲームの境界で

私たちが身を浸している<近代>の枠組みは、ある災いの原因を呪詛、妖術といった「超自然的」な要因に帰する考え方を「非合理的」として排斥してきた。だが、私の「理屈」が「合理的」に聞こえるのは、私とあなたが同一の「言語ゲーム」の中で同じ「ことばの使用法」に従っているからにすぎない(註7)。この合意の根拠は、「われわれ」が「生活形式」を共有していることのなかにしか求められない。同様に、グイは、「呪詛」ということば=行為の用法を組みこんだ言語ゲームを演じ、しかもそのゲーム全体は、原野を遊動する彼らの生活形式に根ざしているのである。

私は以前、拙著『会話の人類学』(京都大学学術出版会)の末尾に次のように書いた。「「言語ゲーム」の規則などまったく共有していない<咬むもの>に殺されることもありうる空間の中を歩き続けること。グイの生はそのようなものであった」。最近になって、このように見てきたグイと動物たちとの関係を「コミュニケーション域」という概念で捉えなおそうとした。グイに限らず人間は、「ことばが通じる」と想定できる、他者たちの集合を心に抱いて生きている。もっともその境界は曖昧なものだが。動物とは、そのようなコミュニケーション域の外部に位置する他者である。 ところが、この捉え方を長年お世話になっている「コミュニケーションの自然誌」研究会で話したところ、列席者たちから「ライオンが言語ゲームの規則を共有していないと決めつけるのは軽率なのではないか」という批判を浴び、目を見開かされた気がした。そういえば、上で述べた凄惨な話以外にも、グイはライオンと遭遇した体験談をじつに嬉々として面白おかしく語るではないか。

ある年長者は、ライオンに咬まれた脛の傷跡を見せてくれた。彼は、夜眠っているとき、小屋の中に顔をつっこんできたライオンにあやうく引きずり出されそうになったので、自由になるほうの足でそのばかでかい顔を蹴とばしながら「カイテ!カイテ!」〔グイ語で犬を追い払う言葉。日本語の「シッシッ」にあたる〕と叫んで撃退したのだそうだ。その思い出を笑いながら楽しそうに語ってくれた。さらに別の年長者は、早朝に長く伸びた木の影の中に佇む牡ライオンの後ろ姿を、大型のレイヨウのゲムズボックと見間違え、あやうくその尻の穴に槍を突き立てるところだったという。気づいたライオンが彼の連れの男のほうに向かっていくと、剛胆な連れはライオンの顔を殴りつけ、狩猟袋を投げつけた。その袋をしばらく背中に担いだまま、ライオンは走って行ったという。時に、獲物を仕留めたばかりのライオンを見つけると、大勢でワアワア騒いで追い払い、その獲物を横取りすることさえある(図7-1)。

(図7-1) オオミミギツネを走って捕まえた少年

グイは自らの力で動物と向かい合い、切り結び、生きている。

ライオンが人間を凌駕する力を具えた他者であるからこそ、そのライオンと対峙し、わたりあい、生き延び、ときにはそれを打ち負かすという経験のなかに、ギリギリの愉悦が漲っているのではなかろうか。ライオンとの駆け引きにおいて、グイは、やはりある種の「言語ゲーム」[COLUMN 4]をかれらに投げかけていると考えられる。もちろん、ライオンが人間の投げかける「ゲームの規則」を共有するなどということはありえないのだが、人間の想像力は、いつも、物言わぬ他者のふるまいのなかに、自分にとって了解可能な意味を見出そうとする。

動物保護区内の定住地に住んでいた頃、ライオンはよくグイの家畜を襲った。再定住計画を住民に受け入れさせるために、政府は「保護区の中にいるからライオンの被害に怯えなければならないのだ」と説得した。それに対してある老人は述べた。「昔からライオンとおれたちは同じ土地で暮らしてきた。われわれは一緒に造られたのだから、怖れるわけにはいかない」(図7-2)。

(図7-2) 夕日に照らされた草の家の前で踊る少年と少女

彼らとともに暮らした記録は、私たちに多くの事を教えてくれる。

人間よりも強い他者と出会い続ける。少なくとも、その経験は人間を謙虚にする。私は「だから日本人も、ツキノワグマに重傷を負わされたり、ヒグマに食い殺されたりする可能性を引き受けるべきだ」などと主張したいわけではない。ただ、私たちが忘れてはならないことが一つある。たかだか1万年前までは人類のすべてが狩猟採集民だったのだ。つまり、人類は、もともと「自分よりも強い他者」と切り結びながら生きてきたのだ。その原点を思い起こすとき、「人間」のこのどうしようもない傲慢さに、少しは風穴が開けられるのではなかろうか。
 

(註7) 言語ゲーム 

自らの正当性を信じて疑わない「合理主義」は、それぞれの社会に固有な「言語ゲーム」の差異を無視するという誤りを犯している。言語ゲームとは後期ウィトゲンシュタイン哲学の中心をなす概念である。言語を操ることこそ人間性の本質であるというのは広く受け容れられている見解である。では、言語の本質とはなにか-それは、首尾一貫した「意味論」に従って、この世界の「真理」を精確に写しとる体系である。西欧の思想を支配してきたこのような言語観をウィトゲンシュタインは覆し、言語はその「使用」のなかにしか存在しない、と喝破したのである。

[COLUMN 4]  コミュニケーションについての考え方

本文の背景にあるコミュニケーションについての考え方を補足しておく。コミュニケーションの前提になるのは、主体とは区別される他者の存在である。ふつう主体はその他者に自分とは異なる心があると想定している。主体は自分の心の中にある何らかの「情報」を他者がわかり、同様に、自分もまた他者の心に抱かれている「情報」がわかるという期待を他者に向けて投げかける。もっと簡潔にいえば、「ことばが通じあう」ことへの期待こそコミュニケーションの本質である。しかし、主体は、そのような期待がなくても、他者のふるまいや姿形から立ち現われる何らかの「顕著さ」に思いを籠めることがある。たとえば、アフリカのサバンナに広く分布するベルベットモンキーは、ムクドリが猛禽類に対して警戒音を発するのを聞くと、空を見上げるという。このサルとムクドリは「通じあう」ことを期待しているわけではない。本文で言及した「交感の回路」とは、より正確に言えば、非対称的な「思い籠め」のことである。それに対して、「言語ゲーム」とは、本来、同じ「コミュニケーション域」に属する主体と他者とのあいだで取り交わされるやりとりに適用される概念である。だが、私たちがコミュニケーション域の外部に存在する他者に対しても思いを籠め、しかもその「思い籠め」を自ら認識し、仲間と互いに語りあうのだとしたら、私たちは「ある種の」言語ゲームをその他者に向かって投げかけていることになる。  

 

菅原和孝(すがわら・かずよし)

1949年東京都生まれ。京都大学大学院理学研究科博士課程修了。理学博士。北海道大学文学部助手、京都大学教養部助教授、同総合人間学部助教授・教授を経て、2003年より京都大学大学院人間・環境学研究科教授。

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