クモの分子発生生物学

オオヒメグモの雌と卵のう 卵のうの中の卵

動物の進化を知るための比較発生生物学
 ショウジョウバエの分子遺伝学によって、「体の形作り」を支配する様々な遺伝子や分子が明らかになってきたが、それらの多くは私たちヒトを含めた脊椎動物でも共通に存在し、同じような役割を果たしていることがわかってきている。しかしその一方で、ショウジョウバエと脊椎動物の間に歴然とした違いがあることも事実である。「体の形作り」における動物間の違い (多様性) は進化の過程でどのように生じたのだろうか? 「門」(例えば、節足動物門)や「綱」 (例えば、甲殻綱、昆虫綱) でくくられる現在の動物分類群は、いつどのような動物から、何をきっかけに、どのように変化して地球上に誕生することになったのだろうか? 私たちの研究室は、このような動物の多様性と進化の問題を中心的な研究課題としている。
 この研究課題に取り組むには、動物間の共通点を把握した上で、「違い」を理解することが必要不可欠である。「違い」は比較することによってわかるわけだが、あまりに違いすぎると何と何を比較すべきなのかが分からなくなる可能性がある。そこで、研究を論理的に、かつ客観性をもって進めていくためには、何と何が比較可能なのかを慎重に検討しなければならない。

なぜクモなのか?
 私たちは現在、ショウジョウバエと比較するために、オオヒメグモを研究に用いている。私たちがクモを扱っている理由として主に次の3つが挙げられる。(1)クモ (鋏角綱) とショウジョウバエ (昆虫綱) は系統発生的位置関係から言えば遠くもなく近くもなく、そのためにショウジョウバエで蓄積した知識を有効に活用しながら節足動物の祖先的な形質を調べることができる。(2) オオヒメグモは一匹あたり一度に200-300個の卵を産み、その産卵をだいたい1週間おきに行うので、実験材料である胚を安定的に得ることができる。餌としてはショウジョウバエとコオロギを与えている (動画1)(3) クモは初期胚の観察が容易であり、原腸陥入や体節形成などの、「体の形作り」に重要な現象を解析することが可能である (動画2)

動画1: オオヒメグモvsショウジョウバエ 動画2: オオヒメグモ胚の発生

例えばどんな違いがあるの?
 クモとハエは卵の形から大きく異なります。クモの卵は外見上全く対称な球形であるのに対し、ハエの卵はかなり非対称な形をしており、外見だけからでもどちらが前で後ろか、どちらが腹で背中かを知ることができる。クモ胚では、前後、背腹の向きがわかるようになるのは胚発生がいくらか進んでからである。クモの胚発生ではまず、(地球に例えると)北半球にあたる部分を覆うように、キャップ状の細胞シートが作られる。このような北極を中心とした対称な形は、クムルスと呼ばれる細胞層の肥厚が出現し、移動することによって崩れ、次第に前後と背腹の向きがはっきりとしてくる。クムルスの隆起した細胞層の内側には、約10個の間充織様の細胞(仮にクムルス内部細胞と呼ぶ、写真右の星印)が存在する。表層上皮細胞は基底面からこのクムルス内部細胞に向かって細長い突起を伸ばしている。クムルスの移動に際して、表層上皮細胞とクムルス内部細胞との間で緊密な情報のやりとりが行われているように見える。

クモの胞胚 矢印が移動中のクムルス AtDppがクムルスで特異的に発現

私たちは、ショウジョウバエで背側を誘導することが分かっている重要な分泌型シグナル分子Dppに相当するクモの遺伝子(AtDpp をクローニングし、この遺伝子がクムルス内部細胞で特異的に発現していることを明らかにした。表層上皮細胞とクムルス内部細胞との間で、AtDppを介した細胞間のコミュニケーションが行われている可能性が考えられる。ここで最も興味深いことは、そのシグナル分子を発現している細胞の性質やふるまいがクモとハエでは極端に異なっていることである。ハエ胚でDppを発現している細胞は上皮形態を終始維持しており、胚内部に入って長い距離を移動するようなことはない。この違いは重要な意味を持つと考えられるが、どうしてこんな違いが生じたのかを理解するにはまだまだ研究が必要である。

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