分子生物学の勃興の時代に

人は必ずある時と場所に生まれ、生きるのですから、その人生が時代とともにあるのは誰にとっても当たり前のことでしょう。私の場合、生物学の研究を目指すなかで、分子生物学の勃興期に遭遇したこと。もう一つは、女性に対する社会の考え方が転換してく時代を生きたこと。この2つの時代の変化のなかで、自分がどう生きるかを問い続けてきたように思います。そのなかで夫岡崎令治と出会って共同研究できたのは幸せでした。

1953年、ワトソン、クリックが遺伝情報を担う物質であるDNAの二重らせん構造を発見。DNAの構造と複製の機構は、今では高校の教科書にも載っており、向かい合って並んでいる2本のDNA鎖がほどけて、それぞれが鋳型になって新しいDNAの鎖が作られ、情報が伝えられることは、多くの人が知っている知識です。でも、当時の実験科学者として、実際にそれがどのようにして起きるかを知るために自分で理論を組み立て、実証していくのは、今では想像もできないほど難しいことでした。

ですから、夫の岡崎令治と私が、DNAの複製についての新しい考え方を出した時には、世界中のDNA研究者の注目を集め、複製が不連続に行われていくことを示すDNA断片は、「オカザキ・フラグメント」と名付けられるオリジナルな発見ができたのは、本当に幸せだったと思っています。

大学院1年。結婚前に家族と。

簡素に結婚式を挙げた。
名古屋YMCAで。

アメリカ留学が決まった頃。
研究はいつも一緒だった。

生物学への関心

戦後、女学校から新制の中学、高校に切り替わった頃、父は蒲郡の海辺の病院を任されており、時々遊びに行っては、きれいな海で泳ぎ、顕微鏡を覗かしてもらいました。日本に入ってきたばかりの抗生物質によって炎症が治っていく様子を標本で見た時には、医学ってすごいと驚きました。講演会にも連れていってもらい、木原均先生の種なしスイカの話や、椙山正雄先生のウニの受精の話などを聞き、生きものの仕組みに興味をもったのです。

戦後の民主主義、男女平等を素直に受け止めた世代ですから、国立大学に進学することを当然として勉強しました。男女にかかわらず自立すべきと考えていた両親でしたが、一方で家事や育児は当然女性の仕事と考えていました。理学部に進学したいという希望は名古屋市内という条件つきで許されました。女性が研究者として自立できるとは考えられない時代だったのです。

52年、名古屋大学に入学、生物学科4年の時に、伊勢の臨海実験所で、椙山先生のもとで卒業研究している時に出会ったのが、岡崎令治です。彼は、発生学の先端におられた山田常雄教授の研究室で、イモリのオーガナイザーの誘導因子を突き止めようとしていたのですが、それは当時は技術的に不可能な課題でした。2年先輩の大澤省三さん(名古屋大学名誉教授、元生命誌研究館顧問)の感化で、分子生物学的研究に転向しようとしていた頃でした。新しい挑戦に燃えている彼の話に触れて、幼い頃からもち続けた生きものの仕組みに対する興味が大きく広がるのを感じました。分子生物学との出会いです。

翌56年、令治が研究補助員をしていた山田研究室の大学院生になり、5月に結婚。山田先生は寛容にも令治の分子生物学への転向を許してくださり、私もその共同研究者となることを許されたのです。令治は研究のことしか頭にない人で、重要な課題を決定的実験によって解決することをモットーとしていました。私はディスカッションの相手になり、実験を組み立てる道を探りました。当時の日本は、女性がポストを得るなど考えられない時代でしたから、研究ができるだけでも幸せだったのです。

この年、A.コーンバーグ(アメリカ、59年ノーベル生理学賞受賞)がDNAの複製に関わる酵素(DNAポリメラーゼ)を発見、この酵素を使って試験管の中でDNAを合成してみせました。衝撃でした。2年後には、DNAの2本の鎖が分かれてそれぞれを鋳型として、新しい鎖が作られる(半保存的複製)ということが証明されるなど、DNAの構造と複製に関する報告が次々と出ました。世界の分子生物学の水脈は、泉となって噴き出し、確実に大河となることを予想させていました。アメリカに留学中の大澤さんからは、頻繁に手紙が来て、その息吹が手にとるように伝わってきました。

私たちは、DNAの複製の仕組みを明らかにすることが、今、最も本質的な生物研究だと思いましたから、まず身近なウニを使って研究を始めましたが、すぐに分子生物学のモデルとなる大腸菌を使うのがよいことに気づきました。幸い、杉野幸夫さん(武田薬品)と共同研究することができ、新しい生化学の技術を学びました。最初にやったのは、細胞内のデオキシヌクレオチドがDNAを作るヌクレオチドの前駆体かどうかを見ようというものでした。当時、やっとT(チミン)に放射性標識の入ったチミジンが手に入るようになったので、それを目印にして解析を進めて、思いがけず新しいヌクレオチド糖化合物を発見しました。

この論文が機縁となって令治はアメリカ・ワシントン大学のストリミンジャー博士から誘いを受け、幸い二人ともフルブライト留学生となることができたので、私も博士課程を休学して留学しました。

62 年、スタンフォード大学の生化学部門のメンバー(後列中央が岡崎夫妻、2列目左から3人目がコーンバーグ。

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アメリカへ

60年、船での渡航の最後の時代でした。フルブライト留学生の一行は、氷川丸に乗って太平洋を渡りシアトルに上陸、汽車でセントルイスに行きました。人々の暮らしも、研究室も、日本とは天と地、国力の差にびっくりです。ワシントン大学はミクロの解析技術はすばらしく、ラオリー教授の開発したマイクロピペットを使うと、ほんの少しの実験材料で正確な解析ができるのです。

1年3カ月後に、スタンフォード大学のコーンバーグの研究室に移りました。渡米前に、DNA複製を学びたいと手紙を書き、山田先生、早石修先生、江上不二夫先生の推薦状のおかげで受け入れられることになっていたのです。

コ-ンバーグの研究室は、DNAポリメラーゼの生化学的研究の世界の中心でした。私は、枯草菌DNAポリメラーゼの精製に取り組みました。女性が男性と同じに扱われ、私の身分はリサーチアシスタントでしたが、セミナーにも参加できる研究者としての処遇を受け、非常に力づけられました。ここで身に付けた生化学的技術や知識、考え方が、その後日本で研究していく大きな力となったのです。

コーンバーグには、“Don’t waste your thinking with dirty enzyme.”と常に言われて、酵素を徹底して精製することの重要性をたたきこまれました。そして試験管内での実験ですから、生体内での実験を好む令治とはよく議論がありました。1年3カ月の間、令治は複製に関したいろいろなことを手がけながら、結局チミジンキナーゼの研究をまとめました。in vitro(試験管内)系とin vivo(生体内)系を融合させる感覚の重要さに目覚めたことが後の不連続複製の発見に繋がったと思います。

名古屋大学化学科の鈴木旺先生が令治を助教授にと呼んでくださり、帰国することになりました。令治は自分のスタイルの研究がしたかったのです。私は女性により展望があるアメリカに留まりたかったのですが。

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ヒト染色体から、テロメア領域(安定化に関わる)と、セントロメア領域(染色体の均等分配に関わる)を取り出し、薬剤耐性の遺伝子(人工染色体の入った細胞を他の細胞から区別するため)とを繋いで前駆体をつくる。これを培養細胞に導入して人工染色体を形成させる。

細胞内のヒト人口染色体。(矢印)赤と緑の蛍光色素で染めている。青く染まっているのはヒト染色体。

岡崎フラグメントの発見

63年帰国、新しいラボの立ち上げです。私は、博士課程を修了し、出産。翌年学術振興会の奨励研究員として研究を再開、65年に助手となりました。

ちょうどこの時期、DNAの複製機構について逐次的合成という新たな情報が出され、いくつかの理論的問題が浮かび上がってきました。複製中の染色体がを放射性物質で標識すると、Y字型に二重鎖がほどけ、同一方向に複製が進むように見える。ところが、試験管内の実験では、DNAポリメラーゼは5’→3’方向にしかヌクレオチドの重合反応を行わないのです。DNAの二重鎖は、塩基の並ぶ方向が逆で、複製の方向も逆になるはずなのに、なせ同じ方向に進んでいけるのか。この謎の解明が、私たちの大きなテーマになりました。

3’→5’方向に反応を進める酵素が発見されていないだけなのかもしれないという説もありましたが、私たちは、巨視的には同じ方向に複製が進むように見えるが、小さいレベルで見ると、じつは3’→5’方向の鎖は逆向きに不連続な複製を小刻みに繰り返しており、それを繋いでいく形で、複製が進むのだと考えました。

そこで、細胞に放射性チミジンを取り込ませ、合成の方向を解析することにしました。でも複製は、細胞内で毎秒1000ヌクレオチドという猛スピードで進んでいます。そこで、低温にして反応スピードを下げ、標識時間を数秒という短い時間にするという作戦で、標識したチミジンがDNA分子のどの末端に取り込まれるかを見る実験をしたのです。その結果、1000~2000塩基対の短いDNA鎖が検出できました。まず、小さいものを作ってそれを繋げるという不連続複製を示すものでした。

最初は、抽出の時に短くなったのではないかと疑われ、否定的な声が多かった。反論の理由はいくつかありました。不連続に複製されているとすると、常に新しい合成を始めなければなりませんが、DNAポリメラーゼでは開始させることができません。それなのに、開始のための先導配列(プライマー)が見つかっていない。さらに、新しくできた短鎖を一本に繋ぐための酵素も見つかってはいない。また、3’→5’への合成酵素がある可能性をは否定されていないなど、どれももっともなものです。

短鎖が本当に働いていることを証明するにはどうするか?枯草菌などほかのものでも、不連続複製の可能性を示す結果を得て、確信をもったので、67年、東京で開かれた国際生物化学会で発表し、さらに、ラーク博士(カンサス大学)に呼ばれて半年アメリカに滞在、その間ホッチキス博士(ロックフェラー研究所)の力添えで、『PNAS』(Proceedings of the National Academy of Science, U.S.A.)に論文を出し、世界に知られることになったのです。滞在中、嬉しい発見が出されました。DNA同士を繋ぐ酵素、DNAリガーゼが大腸菌やT4ファージで見つかったのです。新しくできた短鎖を繋ぐものとして予想していたものでしたので、さっそく標識実験を行なったところ、DNAリガーゼが働かない条件では長鎖の形成が抑えられて短鎖が蓄積し、働く条件では短鎖が連結してDNAの長い鎖が複製されたのです。やった!です。

68年、コールドスプリングハーバーのシンポジウムに招かれ、令治が発表、大きな評判を呼びました。メセルソン(ハーバード大学)が、複製フォークの分岐点にイチジクの葉を置いて「ここが謎だ」と言ったのを受けて、「今、それは明らかになった」と葉っぱをはがしてみせ、聴衆を沸かせたというエピソードを、私は日本にいて後で聞いたのですが、あの時の誇らしい気持ちこそ、研究者だから味わえるものです。私たちが新生短鎖と呼んだDNA断片は、その後、岡崎フラグメントと呼ばれ、定着しました。

70年、内藤記念科学振興賞を受賞した令治博士と受賞式で。

73年、国際生化学会で招待講演をした令治博士とストックホルム・ウプサラ大学で。アメリカ留学以来、2人で海外に行くことはほとんどなく、恒子博士は家を守った。

74年、プライマーの仕事をしたときのチーム。

RNAプライマーの実体は?

DNA複製の不連続モデルは一応は認められたものの、開始反応の機構が、最も本質的な問題として残っていました。なかなか手がかりがつかめなかったのですが、その頃、レトロウィルスでRNAをプライマーとしてDNAが合成されていることがわかり、これがヒントとなって、RNAがDNA鎖合成反応のプライマーだという仮説を立てたのです。

不連続複製のシナリオは、ほぼ描けました。プライマーRNAによる合成開始、DNAポリメラーゼによるDNAの合成、RNA除去、DNAポリメラーゼによるギャップの充填、DNAリガーゼによる短鎖の連結・・・・・・。

当然次のステップとして、このプライマーRNAの実態を明らかにすることが求められました。しかし、ここで技術的に行き詰まり、反論や批判を浴びることになったのです。

こうした時期に、73年、広島で被爆していた令治は白血病を発病、私は2人目の子供を出産、育児に追われながら、病気の彼とともに解析に明け暮れました。75年3月、アメリカ、カナダに出かけ、新たな展望を話し合いましたが、これが最後であることは誰もわかっていませんでした。

8月、最後まで研究のことしか話さなかった令治は、亡くなりました。夫の死は、同時に共同研究者を失い、研究室のボスを失うことでしたし、子供にとっては父親を失うことでしたから、ここで普通は何かを諦めなければならない状況であり、周囲は、研究をやめて父なき家庭での母親の役割に徹するように勧めました。

しかし、その後の人生を決めたのは、「お母さん、家にいなっくていいから今の仕事を続けて」という小学生6年生の息子の言葉と、亡くなったその日に書かれたコーンバーグの手紙でした。「一番得意とする研究を続けなさい。社会とのつながりが大切です」。仕事は混乱しており、子供の生活も心配でした。しかし、私は、コーンバーグのこの適切なアドバイスに力づけられ、研究を続けることを選びました。

翌年、助教授となりました。プライマーRNAの実態を明らかにしようとする気持ちは、研究室の若い人たちにも私にも、執念に近いものでした。解析が困難を極めることは誰の目にも明らかでしたから、あえて挑もうとする研究者は世界でも多くありませんでした。このまま引いたら不連続複製は実証されない。私たちにしかできないことでした。

令治の死の翌年、DNAの修復課程でも短鎖が検出されるという報告から、岡崎フラグメントがそのまま不連続複製を示すことにはならないという反論が出され、さらに窮地に追い込まれました。泣きっ面にハチです。

4~10塩基と非常に短く、すぐに分解され、しかも一つの細胞の中に10個程度しかないRNAを山ほどあるRNAの中から探す作業です。研究室全員の血のにじむような試行錯誤の果て、ようやく分離法を確率して、プライマーRNAの構造を決定し、78年、コールドスプリングハーバーのシンポジウムで発表しました。ここで、令治と始めた不連続複製のおおかたの証明が認められたのです。会場で、どうしてプライマーがあると信じたのかと質問され、私たちは一日たりとも、それがないと思ったことはなかったと答えました。ばかげているほど困難な仕事というものがあるものです。しかし、私たちはいつでももうあと一歩だと考えていました。

75年、コーンバーグ夫妻と。

93年、名古屋大学の退官記念講演。

2000年。ユネスコ・ロレアル・ヘレナ・ルビンスタイン賞の第1回を受賞。左はロレアル社会長。右は松浦晃一郎ユネスコ事務局長。アジアの女性科学者で、1人選ばれた。

人工染色体

岡崎フラグメントが認められた後も、複製開始機構についての疑問を一つずつ潰していきました。そのうちバクテリアだけでなく真核生物に関心が湧いてきたのです。

複製起点は、取り出して自律的に複製させることで初めて実験できるのですが、真核生物の場合は、核のない原核生物と違って取り出すのが難しい。そこで、分配に関わるセントロメア領域と複製起点とを人工的に組み合わせて、細胞中に複製維持させることにしました。言葉を換えれば、人工染色体(YAC)の試みが成功していましたから、これを哺乳動物、それもヒトでやってみようと思ったのです。酵母とは違い、哺乳類のセントロメアは巨大で、一筋縄ではいかなかったので、その構造の手がかりを得た時は、本当に嬉しかった。

テーマを変えるのは、新しい手法や実験技術をマスターしなければならないので、大変なことですが、この時も共同研究者に恵まれ、ヒトの人工染色体(HAC)形成ができました。新しいベクターへの応用など、さまざまな用途があり、これから研究材料として面白くなりそうです。

かつて女性は、研究の面では、補助的な存在と見られるのが当たり前でした。育児を疎かにして研究などをしている、何をしているのだろうという世間の風潮がありました。そういうなかで子供を見てくださるという実質的な助けがどれほどありがたかったか、本当に周囲の人たちに助けられてここまできたと思います。今では、若い優秀な女性は、もっとスマートに研究と生活を両立させるでしょうし、そう思った時にはかなえられる社会になっています。すばらしいことですね。

いつも目の前にしなければならないことがあり、そうするしかなかったのですが、一つひとつの選択の場面で諦めなかったこと、これが今の成果を導いたのだと思います。

2001年。紫綬褒受賞を記念して。お祝いに駆けつけた仲間たちと。

2001年。岡崎フラグメントを記念して名古屋大学に岡崎記念講義室ができた。