北海道の自然に囲まれて

生まれは東京の永福町ですが、三歳の時に空襲を逃れ祖母の果樹園のある札幌郊外の藤野へ母に連れられ疎開しました。1000本のリンゴの木と四季折々を彩る野の花や山川、そしてトンボ、セミ、バッタ、チョウ、ホタル、ミツバチなどが飛び交うファーブルの昆虫記さながらの自然に囲まれてのびのびと育ちました。

我が国の死因のトップが結核だった時代です。小学校の近くに結核の療養所があり、通学の道すがら、夏は馬車、冬は馬そりを使った霊柩車に立ちどまって手を合わせたことを覚えています。小学一年生の秋に急性肺炎にかかり高熱にうなされる日が続きました。心配した祖母が、療養所の院長を通じて進駐軍からペニシリンを手に入れてくれ、週一回の注射を三ヶ月続けてなんとか治りました。当時はとても高価な薬でしたが、それまではほとんど死ぬとされていた病気が治ったという体験から、子供心に生死や医療について深く考えざるを得ませんでしたね。

地元の中学校に通ったのですが、たまたま夜間高校が併設されており、そこの先生が昼間は中学生を指導してくれたのです。そのおかげで、田舎の学校にしては充実した勉強ができました。修学旅行に出かける前に、『奥の細道』を熟読させ、芭蕉ゆかりの地である平泉中尊寺や山形の山寺を訪ねるという具合なのです。音楽の時間にモーツアルトの弦楽四重奏を生で聴かせてくれた東京芸大出身の先生にピアノを習ったりもしたんです。もっとも、グラウンドの野球が気になって身が入らず、叱られてばかりでしたけれどね。いい思い出です。

高校は、北海道で最も伝統がある札幌南高校に進学しました。ここは、道内各地から親元を離れて下宿をする生徒が多く、中には好き勝手する者もいました。進学校とはいえ自由な雰囲気で、勉強だけでなく仲間から外の世界のことを教えてもらい、ここでもよい思い出を作りました。

東京の永福町の自宅で家族とともに(1歳)。

北海道の祖母の果樹園で自然とともに育った(本人:右端)。

札幌南高校の体育祭で(本人:右から2人目)。

医師をめざす

父が小児科医だったので、医師の道へ進むのが自然の成り行き、父の母校である北海道大学医学部に入学し、ドイツ語研究会に入りました。当時は、医学部で最初に学ぶ解剖学の教科書がドイツ語でしたし、カルテもドイツ語で書くという時代でしたから、医学の習得にドイツ語が欠かせなかったのです。一方、家庭教師のアルバイトにも精を出しましたし、夏には医学生向けに開放されていた生化学研究室で、ワールブルグ検圧計を使って呼吸商呼吸商生体内で栄養素が分解されてエネルギーになるまでの酸素消費量に対する二酸化炭素排出量のこと。単位時間当たりの二酸化炭素排出量 ÷ 単位時間当たりの酸素消費量で求められる。を求める実験をしました。ここでは再現よくデータを出すことの重要性という科学の基本を知りました。

実は、学部に進んだ頃から医学の趨勢はドイツから米国へ向かっていたんですね。先輩に「もうドイツ語を勉強しても仕方ないよ。留学するならアメリカだ」と教えられ、目標を米国に変えました。米国で臨床医学を勉強したいと思い、臨床、基礎医学、英語の三科目からなるECFMGの試験を受けました。難関でしたが運良く在学中に合格でき、春休みに二週間ほど米軍の病院で臨床研修をしました。その頃はちょっと生意気でしたね。病院にいた大学卒業したばかりの米国人医師にコレステロール代謝について質問したんです。実はその前に北大でコンラート・ブロッホ博士(ノーベル生理医学賞受賞)の講演があり、彼の最新の論文を読んだばかりだったものですから、彼を試してみたくなったのです。すると思いがけないことに、駆け出しの医者である彼がその最新論文を読んでおり、しかもその内容をきちんと理解していたんです。驚きました。臨床医も基礎医学をしっかり学ぶ米国の教育に感心し、これはしっかりしなければと思いました。

ただ、米国での臨床研修を終えた先輩が、医師としての訓練はみごとだったが、基礎研究をする余裕はなかったと言うんです。医学部を卒業して北大病院でのインターンをしていた私は、多くの患者と接しながら、病気のしくみの理解が必要だ、それには基礎医学の知識が不可欠だと実感していました。そこで、米国での臨床研修はあきらめ、日本で博士課程への進学を決め、医学部の生化学教室の門をたたきました。生化学教室の平井秀松先生(当時北海道大学教授)は、現在は肝癌の腫瘍マーカーとして知られるαフェトプロテイン(AFP)αフェトプロテイン(AFP)妊娠早期の胎児にみられる血清蛋白の一種。健康な成人の血液にごく微量しか含まれず、原発性肝癌の患者のおよそ70%の血液で増加するため、肝癌の腫瘍マーカーとして用いられる。などの胎児性抗原の研究で活躍していらした方で、期待で胸を膨らませながら研究人生の一歩を踏み出したのです。

一方で、米国での臨床研修を終えた先輩は、医者としての訓練は受けても基礎研究をする余裕はなかったと言っていました。当時、医学部を卒業して北大病院でのインターンをしていた私は、多くの患者と接した経験からも、病気のしくみの理解には基礎医学の知識が必要だと実感していたので、米国での臨床研修はあきらめ、日本で博士課程に進学することを決意しました。基礎医学を志すからには病気で苦しんでいる人を助けることにつながる研究をしたいと思い、医学部の生化学教室の門をたたきました。教授の平井秀松先生(北海道大学名誉教授)は、現在は肝癌の腫瘍マーカーとして知られるαフェトプロテイン(AFP)αフェトプロテイン(AFP)妊娠早期の胎児にみられる血清蛋白の一種。健康な成人の血液にごく微量しか含まれず、原発性肝癌の患者のおよそ70%の血液で増加するため、肝癌の腫瘍マーカーとして用いられる。などの胎児性抗原の研究で活躍しており、私は期待で胸を膨らませながら研究人生の一歩を踏み出したのです。

大学祭でゲーテの「ファウスト」のメフィスト役(中央)をトイツ語で演じた。ドイツ語研究会では他にもビヤホールでギター伴奏のドイツ歌曲や学生歌の合唱だけに加え、シュカルトシュピーレというドイツのトランプなどを楽しんだ。

臨床から基礎医学へ

はじめの三ヶ月は生化学の基礎的なユーブング(ドイツ語で練習という意味)と称して実験技術をみっちり教えこまれました。“よく遊び、よく学べ” がモットーの教室で、春の山菜採り、夏の海水浴、秋のキノコ狩り、冬のスキー、など、研究以外の生活も充実した日々でした。夕方からは酒豪が集まって議論をしました。時代もよかったんですね。

研究者一人に一テーマというのが研究室の方針で、私に与えられたのは、蛋白質のアルカリ処理によって出てくる硫化水素を定量し、硫黄を含む未知のアミノ酸を探すというものでした。まず、SH基SH基水素化された硫黄のことで、含硫アミノ酸のシステインなどに含まれる。の定量の工夫から始めたので、硫黄の有機化合物を学ぶ良い経験にはなりました。ところが、研究会での発表を聞いた蛋白質化学で著名な先生が平井先生に「また学生さんに五〇年も前の仕事をさせているのか」と言っているのを聞いてしまったんです。ショックでしたね。でも当時新しく出たアーネスト・ボールドウインの『Dynamic Aspect of Biochemistry』という本を読むと、生化学研究の重要性はよくわかるので、生化学からは離れたくないと思いました。ありがたいことに、大阪大学蛋白質科学研究所の堀尾武一教授(当時大阪大学教授)のもとで、酵素学の実験を学ぶ機会を得て、本格的な生化学研究の面白さを知りました。ミトコンドリアに結合する酵素ヘキソキナーゼを研究し、半年間で論文を書きあげたんです。ところが、堀尾先生はなかなか論文を見てくださらず、一年後に同じ内容の論文がよその研究室から発表されてしまいました。がっかりです。のんびりした時代だったといえばその通り。そのよさもありますが、若者の論文をお蔵に入れてはいけません。

阪大で半年間酵素学を学んで北大に戻ったところ、客員教授としていらしていたウィスコンシン大学教授ハロルド・F・ドイチ先生が共同研究者に指名して下さいました。ヒト由来の血清蛋白質の精製、結晶化で有名な方です。土日は学位論文のための研究をし、平日は赤血球の炭酸脱水酵素のアイソザイムアイソザイム生体内で同じ化学反応を触媒するが、蛋白質の組成や構造が異なる酵素のこと。を研究するという生活で、酵素の同定、精製、結晶化の技術を徹底的に身につけました。当時は、血液に含まれるアイソザイムの比率の変化が疾患の診断に使えるのではないかとの期待から、盛んに研究されていたのです。

米国留学前の壮行会に羅臼にてシマホッケの大漁。

グルタチオンとの出会い

学位論文も平井先生に面倒なテーマを出されては大変と、先手を打って「肝癌の発癌過程におけるグルタチオンと関連酵素の研究」を提案しました。グルタチオンは三つのアミノ酸からなるトリペプチドで、SH基をもつ物質としては生体内で最も多く存在します。このSH基を利用して、細胞内を傷つける活性酸素などを還元し取り除くのです。これまで研究してきた硫黄化合物のSH基の生化学を用いて、病気による酵素の変化を明らかにしようというテーマですから、平井先生はもちろん承諾して下さいました。

マウスに発癌性物質のアゾ色素を毎日与えると20週ほどで肝臓に腫瘍ができます。その際、約六週間で一時的にグルタチオンの濃度が下がり、それから元に戻り、再び末期に下がるという動きが見られます。グルタチオンの濃度は合成酵素と分解酵素のバランスで決まるはずで、この変化に合成酵素と分解酵素のどちらが影響しているかが問題です。一週間に一度、ラットの肝臓の酵素の活性測定をするというくり返し。夜遅くまでやりましたね。その結果、グルタチオンの濃度が下がる時には分解酵素であるγ-GTPの活性が高まることが分かりました。癌学会で発表したところ、中原和郎先生(当時国立癌センター名誉総長)がポスターの前で足を止められて「昔、グルタチオンの研究をしたことがある。面白いから頑張りなさい」と肩を叩いて下さったのです。今でこそ健康診断の肝機能検査に欠かせない項目となっており、専門外の方もよくご存知の酵素ですが、そのときγ-GTPの研究をしていたのは日本では僕一人で、研究室でも肩身の狭い思いをしていたので、この励ましは嬉しかったですね。

ところが発表の翌年、γ-GTPが前癌病変のマーカーとなることをカナダのグループが発表すると、とたんに日本でも人気の酵素になり、二年後の癌学会ではγ-GTPに関する演題が100も登場したんです。もっとも、ほとんどが現象論の記述で、癌とγ-GTPを結びつけるメカニズムは分からないままでした。

研究室を渡り歩く

卒業直後に衛生学教室の高桑栄松先生(北海道大学名誉教授)が用意して下さった助手のポストを、平井先生が勝手に断ってしまわれたのです。「統計学や疫学はくだらん。」というわけです。一年間は研究生の身でしたが、二年目にまた高桑先生が誘って下さり、肝炎の治療で入院され弱気になっていた平井先生が統計学はやらせないという条件で許して下さいました。そこで、助手としてグルタチオンの仕事を始めたのです。その研究が認められて、グルタチオンやアミノ酸研究の第一人者であるコーネル大学のアルトン・マイスター先生の研究室へ客員助教授として一年間留学する機会に恵まれました。マンハッタンでの一年はあっという間に過ぎ、帰国の一週間前に論文を仕上げ、三日での校閲、二人掛かりの秘書によるタイプという周囲の協力のおかげで投稿にこぎつけました。その後、教室でセミナーをし、その足で母(二年前に九十九歳で天寿を全う)と妻正子と四人の子供たちとともにJFK空港へ向かうというスリルに満ちた体験をして米国を去りました。もう一年の延長もできたのですが、日本での職が決まっていたので、帰国しました。

北大に戻り、高桑先生が創設された大学院大学環境科学研究科環境医学教室の助教授になりました。しかしそこは生化学ができるところではありませんでした。幸い、癌に伴って変化する糖蛋白質糖蛋白質蛋白質中のアミノ酸の一部に糖鎖が結合した物質。真核生物の蛋白質の半分以上は糖蛋白質である。糖蛋白質の糖鎖を構成する糖の種類は多くないが、わずかな構造の違いが精密に識別され、生命現象を制御している。や糖脂質糖脂質糖の結合した脂質の事で、全ての真核細胞の表面に見られる。突き出した糖鎖が細胞認識の標識となっている。を研究していた北大癌研生化学の牧田章先生(北海道大学名誉教授)が糖脂質の合成酵素を研究する機会を与えて下さり、助かりました。糖鎖のついた蛋白質や脂質はそれまで扱ったことがなかったのですが、ここでよい指導を受けたことがその後の糖鎖研究に発展するのですから、人間って何が好運になるか分かりません。

コーネル大学生化学教室の同僚と。

家族と一緒に行ったニューヨークのコニーアイランド海岸で。

ホームランの瞬間。多いときには年10回もの野球試合をこなした。

グルタチオンから糖鎖へ

すでに、腫瘍細胞や肝癌組織ではグルタチオンが低下すること、それはγ-GTPの活性が高まるからであることは解明していたわけですが、癌化に伴って現れるγ-GTPは正常時のものと違うのだろうかということが気になっていました。当時、アルドラーゼやヘキソキナーゼには癌特有のアイソザイムがあることが知られていましたので、正常組織と癌の組織からγ-GTPを精製し、その蛋白化学的性質、抗原性、酵素化学的性質を調べました。ところが、予想に反してすべて同じなんですよ。つまり、アイソザイムの存在は否定されたのです。しかし、どこかに違いがあるはずだと粘って、ようやく見つけた唯一の違いが糖鎖組成でした。シアリダーゼでγ-GTPの糖鎖を分解すると、癌と正常組織とで違いが出たのです。当時は酵素の本体は蛋白質であり、糖鎖が変わったくらいで機能が変わるはずないとされていたので、自分でもすぐには信じられませんでした。

γ-GTPは複数の糖鎖が結合した糖蛋白質ですが、残念ながら私たちにはその糖鎖構造を詳しく解析する技術がありませんでした。そこへ、ありがたいことに神戸大学にいらした糖蛋白質の専門家の木幡陽先生(東京大学名誉教授)から、「γ-GTPの糖鎖を分析したいので、精製したものを送って欲しい」というお申し出があり、共同研究が始まったのです。こうして、マウスの腹水肝癌細胞から精製したγ-GTPは正常なものと糖含量が異なり、二本に分かれた糖鎖の枝分かれにN-アセチルグルコサミンが結合したバイセクティングGlcNAcという構造(バイセクト糖鎖と略)を多く含む特有の糖鎖構造があることを明らかにできました。糖鎖の枝分かれに一つ糖が付くというわずかな変化です。これには驚きました。癌とグルタチオンの関係を調べていたらγ-GTPにいきあたり、癌とγ-GTPの関係を調べていくうちにその唯一の手がかりが糖鎖とわかってくるという、思いがけない展開です。こうして私の興味は糖鎖生物学へと移ったわけで、研究の面白さはこういうところにありますね。

糖転移酵素クローニングの試行錯誤

一九八六年の初め、突然阪大医学部の教授選考委員から「最終候補の一人になっているが、選考された場合は就任しますか」との問い合わせがありました。儀礼的な話だと思っていましたら、二月に採用の連絡がきて本当に驚きました。それまで、同僚や後輩には内緒にしていたので、牧田先生が教室のメンバーに知らせたときの皆の驚きは大変なものでしたよ。なにしろ、阪大の生化学教室は古武弥四郎、市原硬、早石修、山野俊雄という歴代教授による多くの国際的な業績が生まれた場所ですから。

ところが、その阪大医学部は大阪市の中之島から吹田への移転を控えていたため修理もせず、エレベータもないという状態、機械はコンテナで運びいれました。教室にはゴキブリが所狭しと駆け回り、壁からは塵が落ちてきますし、机の引き出しには蛇の抜け殻があり、窓際の木には蛇がとぐろをまくという今では考えられない環境でした。それでも、さすが、医学部の共同研究室には最新の機器が並んでいましたから、研究環境としては恵まれていたと言えます。当時の糖鎖研究はDNA研究のような華やかな分野でなかったからでしょうか、学生にユニークな人が多かったのも幸いしました。

阪大に移ってからは、私たちが発見した癌化を特徴づけるγ-GTPに多く含まれるバイセクト糖鎖に注目し、それをつくる糖転移酵素GnT-IIIの精製にとりかかりました(図1)。酵素の活性測定法や精製法の開発から始めなければならず、なかなか成果は出ず、辛い時代でした。酵素がゴルジ体の膜に埋まっているので、可溶化する必要があり、量もわずかしかとれず、とても難しい挑戦だったのです。苦労しましたが、吹田キャンパスへ移る直前、GnT-IIIの活性測定方法を西河淳君(東京農工大学教授)が開発し、癌化に伴って100倍近くも活性が上昇することを明らかにしました。GnT-IIIがγ-GTPの糖鎖を変化させる主役であることが分かったのです。GnT-IIIの精製には数十μgの蛋白質が必要で、10kgのラットの腎臓を使うんですよ。この酵素の基質となる二またに分かれた糖鎖に対して親和性のある蛋白質を捉える方法で精製しようと試みましたが、なかなかうまくいきません。試行錯誤の結果、半年かかってやっと精製できました。続いて、アミノ酸配列の一部を明らかにし、GnT-IIIの遺伝子クローニングクローニング細胞のもつ膨大なゲノムの中から、特定の遺伝子領域に相当するDNAをとりだすこと。にも成功しました。実はこの酵素の遺伝子探しは世界三カ所で競っていたのですが、私たちは蛋白質の精製という正攻法によって成功したわけで、この報告ができた時はなんともいえぬ達成感がありましたね。

今では遺伝子の同定はコンピュータの前に座ってデータを引き出すという方法になりましたが、ゲノム情報がない時代は蛋白質という実体が唯一の手がかりでした。その後時間はかかりましたが、いずれも世界に先駆けて糖蛋白質の糖鎖合成に重要なGnT-V、GnT-IV、GnT-VI、α-1,6 fucosyltransferase (Fut 8)などの糖転移酵素をさまざまな組織から精製し、遺伝子のクローニングをしました(図2)。多くの研究者がすでに精製されていた酵素やゲノム情報に基づいてクローニングをしたのに比べ、全て自分たちで酵素を精製し、遺伝子の同定をしたことがユニークな成果につながったと思います。

阪大医学部生化学教室就任直後に教授室で。

Scientist Library:
季刊 生命誌 28号
『運・鈍・根 酸素添加酵素と睡眠』
早石修

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図1:バイセクト糖鎖を合成するGnT-IIIの反応例
GnT-IIIは二本に分かれた糖鎖の枝分かれにN-アセチルグルコサミンをつける。

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図2:研究室で同定した数々の酵素
糖鎖をつくるための酵素の分離、精製、遺伝子の同定を次々と行った。

糖鎖生物学へ

同定した糖転移酵素で糖を再構築する手法を使って、いよいよ生体内での糖鎖の機能を明らかにする研究を始めました。糖鎖は大きく分けて三つの生体物質、つまり、糖蛋白質、プロテオグリカン、糖脂質に含まれており、真核生物の蛋白質の半分以上は何らかの糖鎖が付いています。蛋白質は細胞膜の脂質二重層の中に深く埋もれており、糖鎖だけがにょきにょきと顔を出しているのですが、結合部位や枝分かれが多様で複雑であるうえに、扱える量が非常に少ない。この難しい研究対象に対して、迂遠なやり方かもしれませんが、糖転移酵素の標的となる蛋白質を一つ一つ同定することを第一に考えてきました。「莫大な数の糖蛋白質の中から一つや二つの標的蛋白質を捕まえたからってそれが何になるんだ。まるで宇宙の莫大な星のうちたった一つを指差すのと同じではないか」と揶揄する声もありました。しかし、私たちは分子をつかんでいる自信を大切にしていますし、最近は世界的にも認められつつあります。糖転移酵素をはたらかないようにすると、さまざまな糖蛋白質に影響するだろうと考えたくなりますが、実際には生体はしなやかに適応し、特定の糖蛋白質の機能だけに影響を与えているらしいのです。糖鎖は単なる飾りでなく、さまざまな生物機能の発信源なのですからその機能をみることこそ重要なのです。

実験室で学生とのディスカッション。

糖鎖構造から機能の解明へ

私たちは先に挙げたいくつもの糖転移酵素の遺伝子を同定しましたが、ノックアウトマウスノックアウトマウス特定の遺伝子がはたらかないように遺伝子操作されたマウスのこと。遺伝子破壊マウス。をつくって酵素のはたらきを調べる研究は、残念ながらほとんど外国に先を越されてしまいました。Fut 8だけが手つかずに残っていたので、これだけはなんとか自分たちで解明したいと思って調べたところ、残り物に福があったんですよ。これが一番重要で面白い遺伝子だったのです。

Fut 8は糖鎖の根元にフコースという糖を付加してコアフコースという枝分かれ構造をつくります。コアフコースのある糖蛋白質は普遍的にみられますから、Fut 8にはたくさんの標的蛋白質があるはずです。Fut 8のノックアウトマウスは、三日目で七割が死に、残ったものも成長障害や肺気腫を発症し、三週間ほどで死んでしまいました。肺気腫はヘビースモーカーの約二割がかかる病気です。日本でも潜在的な患者が520万人いるといわれ、原因究明と根本的な治療法が求められています。

肺気腫では、肺の細胞外マトリックスが分解され、肺胞壁が壊れることで肺胞がふくらんだ状態になり、酸素と二酸化炭素のガス交換がうまくいかなくなります。肺胞の細胞外マトリックスの合成と分解のバランスが崩れることが原因です。Fut 8のノックアウトマウスでは、細胞外マトリックスの分解酵素の発現が高まっていました。この分解酵素の発現は正常な肺胞では、TGF-βを介した細胞内シグナルによって抑えられています。実験の結果、Fut 8がTGF-β受容体の糖鎖にフコースをつけ、コアフコース構造をつくることが分かりました。つまり、Fut 8のノックアウトマウスでは、TGF-β受容体の糖鎖にフコースが一つないだけで、受容体が二量体になれず、TGF-βのシグナルを細胞内に伝えられなくなるのです。糖鎖遺伝子のノックアウトマウスを用いた研究はたくさん行われてきましたが、表現型の違いが見られないことが多く、これが遺伝学的な手法で糖鎖遺子の標的蛋白質を同定した初めての報告となり、世界の注目を浴びました(図3)。

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図3:Fut 8のノックアウトマウスの肺気腫発症機構
正常な肺ではTGF-β受容体の糖鎖にコアフコースがあることで、受容体が二量体を形成し、TGF-βと結合して細胞内の蛋白質(Smad2)をリン酸化(P)し、細胞外マトリックス分解酵素(MMP)の発現を抑える。その結果、細胞外マトリックスの合成と分解のバランスが保たれる。Fut-8のノックアウトマウスでは、コアフコースがないために細胞外マトリックス分解酵素の発現が高まり、肺胞壁が壊れて細胞が膨らんだ状態になることで肺気腫を発症する。

創薬への可能性

糖鎖は創薬の面でも期待されています。現在、臨床で用いられる蛋白質製剤のほとんどが糖蛋白質であり、癌や感染症などさまざまな疾患に関連して糖鎖の研究が広がっています。前述のように、Fut 8のノックアウトマウスは肺気腫を発症しますが、ヒトの肺気腫は慢性気管支炎と合わせて慢性閉塞性肺疾患(COPD)と呼ばれています。タバコや環境因子により肺が慢性的に炎症し、気管支の分泌液が増え、肺胞が破壊されることで気流閉塞を起こした状態になります。インフルエンザや細菌感染を併発すると急性増悪を引き起こして死に至ることもあり、世界の死因の第四位となっています。原因としてFut 8の活性が低下することや、肺胞を破壊する細胞外マトリックス分解酵素の活性が高まることが挙げられ、これらをターゲットとした糖鎖創薬を目指してCOPDの専門家の臨床医や企業と共同で研究を始めました。

現在臨床で使われている腫瘍マーカーもほとんどが糖蛋白質です。これまではマーカーの蛋白質部分の量の変化を測定するのが主流でしたが、癌に伴い糖鎖構造が変わることから糖鎖の変化を検出することも大切です。最近ようやく肝癌の血清診断としてフコースのついたAFPを検出する方法が実用化されました。私たちはこのAFPの糖鎖にFut 8がフコースを一つつけることで、コアフコースという構造をつくることを明らかにしました。他にも膵臓癌の診断に腫瘍マーカーの糖鎖の変化を検出する方法が試みられています。膵臓癌は沈黙の癌と呼ばれ、発見されたときにはかなり進行していることが多く、早期発見が難しいと言われています。私たちの研究では、例数は少ないのですが、早期でも三割の人からコアフコースのある腫瘍マーカーを検出できました。今後は例数を増やして有効性を検証していきたいと思っています。

つながりをつくる

2006年に定年退職した後も生化学工業のご厚意で寄附研究部門教授を続け、理化学研究所基幹研究所では若い人たちと研究を続けています。理研では、若手の人材育成も考え、糖鎖の世界的な研究をされた山川民夫(東京大学名誉教授)、鈴木邦彦(ノースカロライナ大名誉教授)、永井克孝(東京大学名誉教授)、小川智也(理研和光研究所長)の各先生たちに時々お越しいただき、若い人たちが順番に研究発表をする機会を設けています。阪大では生化学講座の後任の米田悦啓教授がリーダーの大阪大学GCOEプログラムのメンバーとして私も参画しています。この三月には七年間研究総括を務めた科学技術振興機構の糖鎖のCREST研究が終わりましたが、資金を得た研究者から多くの世界に誇る基礎的な研究や応用的な研究が多く生まれました。人の育成という形で貢献できたのは嬉しいことです。

私の経歴は、同じ大学でキャリアを積むことの多い日本人研究者の中ではだいぶ異色ですが、おかげで多くの優れた師や同僚と出会うことができました。これらの出会いや新しい発見に一期一会を実感しています。ゲノム解析をふまえて機能の研究をする時代に入り、蛋白質の半分以上は糖蛋白質であることから、糖鎖の重要性がやっと認知されてきました。糖鎖がDNAや蛋白質に続く「第三の生命鎖」として、生体内で重要な役割を果たすことが明らかになり、私たち糖鎖研究者もこれまでの「シンデレラの世界」からやっと「社交界」へのデビューが果たせたと張り切っています。糖鎖研究の先達が、研究条件に恵まれなかった戦前、戦後を通じて努力し、世界をリードしてくれたおかげです。糖鎖生物学は、酵素化学や蛋白化学、そして分子生物学、細胞生物学の技術を導入して進む分野であり、引き続き、日本が世界をリードしています。これを大事にしていきたいですね。

五年前に、国際ヒトプロテオームプロテオームある生物に含まれる蛋白質の総体のこと。機構(HUPO)の中にヒト疾患グライコームグライコームある生物に含まれる糖の総体のこと。イニシアティブという組織を立ち上げました。HUPOの会員は世界に三千名ほどいますが、糖鎖研究の強い日本でグライコミクスとプロテオミクスを兼ねた組織をつくるよう要請があったのです。第一回のワークショップでは質量分析による糖鎖解析の標準化についての研究を始めました。世界22カ所の研究室に私たちが精製した免疫グロブリンを配り、好きな方法で糖鎖を解析してもらいました。すると、20カ所でほとんど同じデータが出たのです。つまり、質量分析計を持ち、ある程度の知識があったら、どこでも同じように分析できるということです。第二回にはヒト血清の免疫グロブリンAを配布し、世界中で解析しました。こうして糖鎖の解析方法が確立されたので、これからの研究の進展が楽しみです。

指導者の義務として研究の方向性を示す必要がありますが、若い人は師を追い越すためにも、まずボスの言ったことを否定するぐらいのエネルギーが欲しいと思っています。ボスの言うとおりのデータがでても、そこには新たな発見は少ない。勇気がいることですが、データを揃えてボスに反論することが研究の第一歩だと思っています。私の研究室では私自身の学生時代同様、一人ずつ異なるテーマを持っています。同じテーマを大勢で研究すれば進行は早いかもしれませんが、それでは独立したときにボスの分身にしかなれません。早く親離れするためにも少しずつ異なるテーマを与えているのです。また、常に研究環境を変えることも大事だと思っています。新しい風を入れるのが研究そのものや研究室、さらには科学の発展に重要です。若い人にはぜひ同じ大学や研究室に留まることなく、武者修行をして欲しいですね。
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HUPOの中にヒト疾患グライコームイニシアティブを立ち上げ、田中耕一さん (前列左から4人目) ら質量分析の世界のリーダーが参加しました。(本人:前列右から6人目) この活動が評価され昨年HUPOから功労賞をいただきました。これは私だけでなく、大阪母子保健センターの和田芳直博士初め世界の多く御方々の多大な協力によるものです。

退官パーティーには多くの方が参加くださった。手前右から本人、山川民夫、後列左2人目から順に岸本忠三(生命59号)、早石修(生命誌28号)、永井克孝(東大名誉教授)、本庶佑(生命誌37号)の各先生

Scientist Library:
季刊 生命誌 59号
『研究の真髄を医療へ』
岸本忠三

Scientist Library:
季刊 生命誌 37号
『免疫のしくみに魅せられて ~何ごとにも主体的に挑む』
本庶佑