宮沢賢治、そして分子生物学との出会い

内科医の父は控えめな性格と強い倫理観の持ち主でした。軍医学校を良い成績で卒業したため、一番に南方の戦地に送られたそうです。かなり危ない目に遭いながら生還したと聞きました。多くは語りませんでしたが、人間が極限状態に置かれた時にどうなるのかをぽつぽつと話してくれたのを覚えています。そんな父の転勤で、幼少時に福岡県から香川県の津田町に引っ越しました。ひなびたところでしたが、本当に綺麗な海があり、浜には貝殻がたくさん落ちていて、朝早くに行くと漁師さんたちが地引き網を引いていました。町の裏には里山があり、家の近くには水の澄んだ小川が流れていました。網ですくうと、ドジョウやメダカやヤゴが採れたのを覚えています。とても幸せな時代でした。

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小学校3年生の時に福岡に戻り、大変なカルチャーショックを受けました。津田町は農業と漁業の町で誰も野球などしていなかったのですが、福岡に来てみると教室の話題は西鉄ライオンズの稲尾投手をはじめ野球の事ばかりです。学校が終わると家にランドセルを置いて、すぐに空き地に集まって野球です。それまで野球をしたことがなく、あまりに何も知らないので「近ちゃん、ほらフライ捕って。ボール見て」と友達が教えてくれました。最初はグローブを持っていなかったので、ゲームの時は攻撃側の友達が貸してくれました。いじめなんて考えられなかった時代ですね。今は集団で個人をいじめていますが、当時は小さい子供でも一人一人意志がしっかりとあり、集団対個人にはならなかったのです。この頃から、どういうふうに生きようかといつも考えている子で、高学年になって宮沢賢治宮沢賢治(1896-1933)岩手県生まれの童話作家であり詩人、そして仏教者。農業指導のかたわら創作活動を行い、独特の感覚と心情に満ちた詩と童話を残した。の作品と出会いました。

賢治は岩手県盛岡市花巻の豊かな農家に生まれ、理科に秀でていたのですね。彼は土地改良の勉強をしてそれを農民に伝える一方で、詩人・童話作家として多くの作品を残したわけです。例えば『グスコーブドリの伝記』は、1人の青年が冷害を防ぐために自分が犠牲になって火山を噴火させる話です。偉くなる、名をあげる、どこかの長になるということではなく、自分の能力をいかに発揮するかということで人は評価されるというのがその作品のテーマでした。社会とは個人の集まりであり、それに対して自分の能力を一番役に立つように使うことが重要なんだということです。賢治はいろいろな作品を通じてそれを書いているんですね。「どんぐりと山猫」など、洒落た小品で大好きでした。賢治を読んで、これでいいんだと思ったことを今でも覚えています。

中学、高等学校ともに地元の公立に進みました。ごく普通の学校でしたから、いろいろな家庭がありいろいろな人間がいる事を知らず知らずのうちに学びました。人間対人間の関係の大切さを確認した中学校での体験の1つに、ケンカの強い同級生の言う事に憤って、彼に殴りかかったことがあります。もちろんカウンターでバシッとやられましたが、それ以来彼とはとても仲良くなりました。

分子生物学に出会ったのは、高校生の時に読んだ3冊の本を通してです。1冊目は、生物担当の梅埜國夫先生が授業で紹介して下さったブルーバックスの『生命を探検する』(和田昭充監修、坂井孝之・小枝一夫共著)。これをきっかけにして、梅埜先生の同級生で九州大学で助教授をされていた山名清隆先生(九州大学名誉教授)の研究室を訪ねました。アフリカツメガエルを使って発生生物学を研究されていました。厚かましくも一介の高校生が先生ご本人に研究室を案内していただいたのを覚えています。ピペット洗浄器など見たこともないような器具があり、大学研究室の雰囲気を味わいました。次が、コンラッド・H・ウォディントンコンラッド・H・ウォディントン
【Conrad Hal Waddington】
(1905-1975)
イギリスの発生生物学者。ケンブリッジ大学を卒業後、後にエディンバラ大学・動物遺伝学研究所教授・所長を歴任。ニワトリ胚の培養やニワトリ胚のオーガナイザー移植など、先駆的な研究を展開した。また、遺伝学的手法を用いて、動物の発生における適応的進化や遺伝の問題を研究した。
の『生命の本質』です。発生生物学者ですがDNAや進化の話があり、しかも今後はシステムバイオロジーが重要になるだろうと書いてあったのです。この本は私に学術上の世界観を与えたといっても過言ではありません。ウォディントンが、後に一緒に研究をすることになった岡田節人教授の先生にあたることなどは知るよしもありませんでしたが。3冊目は、「こんな本もあるよ」と父が渡してくれた『生命の暗号を解く』(毎日新聞社編集)です。日本の黎明期の分子生物学者を扱ったドキュメンタリーです。両親は私の進路についてとやかく言うことはありませんでしたが、研究の道に進むことをそれとなく後押ししてくれました。この本には花房秀三郎先生(ロックフェラー大学名誉教授、大阪バイオサイエンス研究所名誉所長、故人)や野村眞康先生(カリフォルニア大学教授、故人)、そして後に恩師となる小関治男先生(京都大学名誉教授、故人)などが載っていました。これらの本との出会いから分子生物学に進みたいと思い、全国のいろいろな大学の情報を集めたのです。

生まれて5ヶ月の頃、父に抱かれて。内科医だった父は控えめな人だったが、私が研究の道に進むことをそれとなく後押ししてくれた。

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幼少期の頃、住んでいた香川県津田町の小川で。家の近くを流れるその小川には、たくさんの生きものが棲んでいた。網でひとすくいすると、メダカやヤゴなどがたくさん採れた。

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父から渡された『生命の暗号を解く』。父は私の進路にとやかく言うことはなかったが、私が分子生物学に興味を持っている事を感じ取ってくれた。

美術研究会を経て分子生物学へ

分子生物学を取り入れた新しい学科として生物物理学科が出来ることを知り、京都大学の理学部に入学しました。この頃に知り合ったのが、今でも付き合いのある仲村春和さん(東北大学名誉教授)、花岡和則さん(北里大学名誉教授)、荒木正介さん(奈良女子大学教授)、渡辺憲二さん(兵庫県立大学教授)、岡田清孝さん(前自然科学研究機構基礎生物学研究所所長)、坂野仁さん(東京大学名誉教授)たちです。子供の頃から絵を見るのが好きだったので、理学部に入学してからの2年間は、実はほとんど文学や美術鑑賞の世界に浸っていました。大学に入学したその年に、それまで東京の国立近代美術館の分館だった京都の国立近代美術館が独立し、会員になると無料で入館できました。その向かいには京都市美術館があって、二科展や独立美術協会展や小さな美術団体の展覧会が次から次へと開かれていました。生の絵をたくさん見られることが本当にうれしくて、授業を抜け出して展覧会ばかり観に行っていましたね。クラブ活動も、インド美術がご専門の上野照夫先生(京都大学名誉教授、故人)が顧問の美術研究会に入って、美術作品の見方を深く学びました。上野先生は戦後の京都の画壇にも影響を与え、インド美術ばかりでなく広く美術に通じた方でした。「雪舟は下手だ。中国の南宋の水墨画家の筆ははるかに自由だ」と厳しかったですね。美術研究会では、2回生になると卒業研究みたいなことをするんです。お彼岸に開扉される奈良の興福寺の北円堂を訪れて、本尊の弥勒如来像を運慶運慶(生年不明-1224)平安時代の末期から鎌倉時代の初期に活動した奈良の大仏師。作風は男性的で力強い表現と深い精神性が特徴的。代表作には快慶と共作の東大寺南大門の仁王像などがある。作と知らず観たのです。すごい作品で、運慶に強く引かれました。X線による仏像の透過撮影が出来るようになり、運慶の作品が伊豆など関東にもたくさんあることが分かり始めた頃でしたので、運慶の作品を全部見て研究報告しました。平安時代末期の変革期に、しかも京都の仏師がほとんどの仏像を造っていた時期に、奈良の運慶がとても新しい作品を作り出したことにとても感動しました。

2回生まではこんなふうに過ごし、分子生物学を真面目に勉強し始めたのは3回生からです。大学紛争のピークで講義がほとんどありませんでしたが、原著論文をむさぼり読みました。今もボロボロになったまま持っている論文集『Molecular and cellular aspects of development』や、F.ジャコブとE.L.ウォルマンの『細菌の性と遺伝』は全てのページを舐め尽くすように読みました。ジャック・モノーのフランス装の学位論文が手つかずであるのを大学図書館で見つけて、わくわくしながらペーパーナイフでページを開いていった思い出もあります。そして大学院は、『細菌の性と遺伝』の訳者の一人である小関治男先生(京都大学名誉教授、故人)の研究室を選びました。将来は分子生物学を使って動物の発生を研究したいと思い、まずは分子生物学的な研究方法と発想の習得を目指したのです。研究テーマは、生きものの形づくりを、遺伝子の制御から解けそうな対象を選びたいと考えました。名古屋大学の朝倉昌先生(名古屋大学名誉教授)の鞭毛の研究に感動し、大腸菌の鞭毛の形成を研究したいという思いを生意気にも小関先生に伝えたのです。すると、先生は「よろしい」とおっしゃった。

当時の小関先生の研究室には、私を含めて同期は4人いたのですが、第一期生だったので上級生はおらず、皆大きな顔をしてのびのびと実験していました。丹羽修身さん(元・かずさDNA研究所研究部長)は小関先生、坂野仁さんは志村令郎助教授(京都大学名誉教授、元・自然科学研究機構長)、岡田清孝さんは山岸秀夫講師(京都大学名誉教授)と志村令郎助教授にそれぞれついていました。私はというと、ときどき小関先生にアドバイスをもらいながら、基本的には自己責任で研究を進めていたのです。隣の丸山工作教授(千葉大学名誉教授、元・千葉大学学長、故人)の研究室に、鞭毛研究の朝倉先生の筆頭弟子の宝谷紘一先生(名古屋大学名誉教授)がおられましたから、そこにも出入りをさせてもらい研究を進めました。その結果、小関先生だけでなく、丸山研の助教授だった柳田充弘先生(京都大学名誉教授、沖縄科学技術大学院大学教授)とも共著の論文を書くことができました。論文はもちろん自分で書き、先生に手直ししてもらって自分で投稿していましたので、自活力が付きましたね。小関先生の寛容さのおかげで、大学院時代に様々な経験を積むことが出来たと思っています。けれどもこの時期になっても、まだ動物の遺伝子はリボゾームRNAなどしか解読されていませんでした。これでは話にならない、もうしばらく時を待とうと思いました。そこで、動物の神経の研究にも繋がるかもしれないと考え、外界からの刺激に対する応答を遺伝学的に解析できる細菌の走化性を研究しようと思いました。そのころ細菌の走化性と細胞内のシグナル伝達の研究を行っていた、ウィスコンシン大学マディソン校のジュリアス・アドラーの発想に感動しました。彼には会ったこともなかったのですが思い切って手紙を出し、小関先生にも推薦状を書いてもらって、Damon Runyon-Walter Winchell Cancer Research Foundation からの研究奨学金で、1976年の8月にアメリカに渡りました。

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京都大学の1回生の頃、美術研究会のコンパで、顧問の上野照夫先生(前列の左から5人目)を囲んで。上野先生からは、美術作品の見方を徹底的に学んだ。(本人:前列の左から3人目)

京都大学大学院の頃、小関研究室の実験台で。この頃は、大腸菌の鞭毛の形成を研究した。実験台の向かいには、小関先生の実験スペースがあった。

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小関研究室の同窓会で(1994年)。左から、助教授だった志村令郎先生、助手だった井口八郎先生、教授だった小関治男先生、同期だった丹羽修身さん、そして本人。

動物遺伝子のクローニング時代の幕開け

アドラーの研究室には米国だけでなくヨーロッパからもとても意欲的なメンバーが集まっており、誰が良い発想をして賢い実験をするかという意味での競争が激しかったですね。私は、大腸菌の糖類への走化性に関わるメチル基受容走化性タンパク質を同定しました。リボースとガラクトースに対する受容体からの信号を鞭毛に伝えるタンパク質で、それが働かないと糖への走化性が無くなることが分かりました。研究を進める上でのアドラーの言葉で印象に残っているのは、「つまずいて倒れた時に、そこにたまたま在った物をつかんで研究しては駄目だ」という言葉です。成り行きに頼る研究は駄目で、人生単位の研究目標に向かって進みなさいということです。彼は研究対象をショウジョウバエに変えはしましたが、今もひたすら走化性の研究の道を歩んでいます。私もそうありたいと思っていますし、彼を心から尊敬しています。アドラー研時代の空気を肌で感じた妻は、その後の私のさまざまな挑戦を支えてくれました。

在米時代に生活の面でもお世話になったのが、アドラー先生とも仲が良かった野村眞康先生(カリフォルニア大学教授、故人)ご夫妻です。野村先生はリボソームの構造と機能に関する研究の大家でした。野村先生は、結晶構造解析を行ったウィリアム・ヘンリー・ブラッグを尊敬する研究者の1人と言われました。ノーベル賞の受賞を過去のこととして、その後も常に新しいことを追い求めて、どんどん仕事をした偉大な人物だというのです。野村研のポスドクとして知り合ったスコット・ギルバート(スワースモア大学教授)は、発生の教科書をたくさん書いています。

この頃にやっと新しい制限酵素が次々と精製され、プラスミドベクターpBR322やファージベクターが使われ始め、イントロンが発見されるなど、動物遺伝子のクローニング時代の幕が開きました。まさにその時、京都大学の岡田節人先生(京都大学名誉教授、JT生命誌研究館名誉顧問)の助手に採用され、幸いにも動物での細胞分化の研究を始めることができたのです。

ウィスコンシン大学マディソン校で博士研究員をしていた頃。ジュリアス・アドラー(Julius Adler)教授の研究室で、大腸菌の走化性の研究をした。

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当時のアドラー研究室のメンバー。後列の右から2人目がアドラー教授、左から2人目は新井孝夫さん(東京理科大学名誉教授)。研究室では発想力が競われ、緊張感をもってこの時期を過ごした。(写真は帰国後に送ってもらったもので、本人は写っていない)

在米当時、住んでいたウィスコンシン大学マディソン校の宿舎。

教授室でのアドラー教授(1995年)。教授からは「研究者は人生を通して向き合える研究テーマを持つべきである」という信念を受け継いだと思う。彼は今でも第一線で研究している。

在米中にお世話になった野村眞康先生を囲んで(1979年、京都)。左から4人目が野村先生、6人目が小関先生、右から2人目が小関研で助手を務められた池村淑道先生、左端が本人。

水晶体を使った細胞分化研究の始まり

岡田研究室には、助教授として竹市雅俊さん(理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター長)、助手として安田國雄さん(元・奈良先端科学技術大学院大学学長)がおられました。岡田研の研究の中心は水晶体だったのですが、竹市さんは細胞間の接着因子・カドヘリンの研究を始めていました。カドヘリン分子が姿を現し、世に出て行く過程を身近で見ることが出来たのは刺激になりましたね。帰国直後は学生にもかなりの緊張感を求めましたから、最初に私についた阿形清和さん(京都大学教授)は大変だったでしょうね。ちょうどその頃に、化学物質5-アザシチジンを10T1/2という繊維芽細胞株に加えると、筋繊維のもとになる筋芽細胞に分化することが別のグループによって見いだされました。これは私にとって大きな出来事でした。5-アザシチジンの主たる効果はDNAのメチル化の抑制でしたから、細胞分化の研究をDNAの修飾の変化に注目して進めるのか、それとも転写制御に注目して進めるのかという選択肢に出会ったのです。いろいろ実験を試み、転写制御の方が発生の核心に迫れるだろうと考え、後に説明するδ-クリスタリンの発現を始めとする転写因子の研究を進めました。その後、1980年には最初のトランスジェニックマウスが発表され、その翌年には胚性幹細胞(ES細胞)胚性幹細胞(ES細胞)動物の発生初期段階である胚盤胞期に、胚の一部である内部細胞塊を取り出して培養された細胞株。体のあらゆる細胞に分化する性質をもつ。が作製され、動物の発生研究の新技術がどんどん生まれた時期でした。

岡田先生からは、研究テーマは何でも良いけれど、とにかく遺伝子を使って水晶体水晶体動物の眼にあるカメラのレンズにあたる組織。水晶体には重量にして30~50%を占めるクリスタリンという水溶性のタンパク質が存在し、透明度を保っている。に関する研究をしなさいと言われ、どのような調節によって水晶体が分化するのかという研究を始めました。これを細胞分化全体を理解する手がかりにしようと考えたのです。そこでまず、マウス細胞の核へニワトリ由来のδクリスタリン遺伝子を微量注入(マイクロインジェクション)しました。ほとんどの脊椎動物は水晶体の構成タンパク質としてαとβとγクリスタリンをもつのですが、ニワトリとハチュウ類はγの代わりにδクリスタリンをもっています。δクリスタリン遺伝子をもたないマウスの細胞にそれを注入したとき、水晶体でしか発現しなければ、制御は個別の遺伝子ではなく、分化状態に対応すると考えられます。この予想は見事に当たり、δクリスタリン遺伝子をもたないマウス細胞の中で、注入したδクリスタリン遺伝子が水晶体特異的に発現しました。分化状態に応じた遺伝子制御があることが分かったのです。この時、どうしてもマイクロインジェクションをしなければならず、岡田先生に買っていただいた装置を今でも大事にもっています。この実験は長男が誕生した頃に計画し、結果が得られたのは次男誕生の1ヶ月前でした。晴れ晴れとした気持ちでその誕生を迎えたことを覚えています。この研究は大学院生として参加した林茂生さん(理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター グループディレクター)の協力もあって、δクリスタリン遺伝子の発現を制御するエンハンサーが3番目のイントロンにあることを突き止めました。このエンハンサーは、後にSox2因子Sox因子HMGドメインをもつ転写因子のうち、ほ乳類でオスの性を決定するSRYタンパク質のHMGドメインと 60%以上の類似性をもつものをSox因子と呼ぶ。Sox因子群は、HMGドメインでDNAに結合する。によって制御されることが明らかになり、現在の研究につながっています。大学院の頃から望んでいた発生を遺伝子という切り口で見る研究がこうして具体化したのです。

岡田研究室で有り難かったのは、海外の研究者と自然に交流出来たことです。岡田研究室には、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞したジョン・B・ガードンや、キメラ動物を用いた研究によって京都賞を受賞したニコル・M・ルドワラン、そしてホメオボックスホメオボックス動植物の体の部域の前後の序列など、基本構造を決定する遺伝子群に共通する、約180塩基対の遺伝子配列。この配列がコードするタンパク質の部位をホメオドメインといい、DNA結合ドメインとして機能する。を発見したウォルター・J・ゲーリングらが度々訪れていました。こういった錚々たる研究者と直接会って話をする機会に恵まれ、一流の研究者の素晴らしい発想に触れることができました。私自身、ES細胞をもらうためにケンブリッジ大学のマーティン・J・エバンスを訪ね、その後、彼には岡田研が主催した北京での実験トレーニングコースに講師として参加してもらいました。このコースで、私は細胞へのマイクロインジェクションとトランスフェクションを指導しました。また、山田科学振興財団助成金による国際学会では、岡田先生と共同主催者を務めました。このように海外の研究者と交流して、国際感覚を磨いていったと思います。岡田研究室は海外と地続きでしたね。1979年秋には、岡田先生も学んだことのあるエディンバラ大学に共同研究のために滞在して、スコットランドの風土と文化を楽しみました。

岡田先生の指導は、各人の能力に応じたレベルの要求をされました。本人の自発性に任せ、細かいことはいちいち指導しません。ただ、些末な方向に進んでいると「待った」がかかります。岡田先生からの私への指導の例に、『Mammalian chimeras』(Ann McLaren著)から『哺乳類の発生遺伝学-胎児発生の実験的操作』(松永丈志訳)への翻訳文の全文チェックの指示があります。300ページにおよぶ原著を1ヶ月で丹念に読まなければならず大変でしたが、おかげでマウスの発生が一気に理解できました。

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ルース・クレイトン(Ruth Clayton)博士(写真)と共同研究のために、エディンバラ大学・動物遺伝学研究所に滞在した。エディンバラ郊外で。

イギリスのスコットランドにあるエディンバラ大学・動物遺伝学研究所。エディンバラ大学は、国内で6番目に長い歴史を持つ国立大学であり、エディンバラ市街はユネスコの世界遺産に登録されている。

岡田研究室の助手の頃、ニコル・ルドワラン(Nicole LeDouarin、フランス国立科学研究センター)と寿司を囲んで(1987年。本人:右)。ルドワランは、キメラ動物を使った研究によって1986年に京都賞を受賞した。

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岡田先生が主催したアジア分子生物学研究機構 (AMBO:Asian Molecular Biology Organization)コース(1987年、北京)。前列2人目がマーティン・エヴァンス(Martin J Evans、カーディフ大学)、4人目が岡田節人先生、5人目が竹市雅俊先生、7人目が本人。

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プログラム委員長を務めた国際発生生物学会(ICDB: International Congress of Developmental Biology)で、ウォルター・J・ゲーリング(Walter J Gehring、バーゼル大学、前列の左端)を囲んで(2001年、京都)。前列の左から2人目が岡田節人先生、後列の左端が会頭をつとめた竹市雅俊先生、2人目が本人、4人目が岡田瑛夫人。

細胞分化に関わる転写因子に注目して

1988年に、教授として名古屋大学理学部の分子生物学科に移りました。この学科では、岡崎恒子先生(名古屋大学名誉教授、藤田保健衛生大学客員教授)に大変お世話になりました。先生は物事を進めるときに全くブレがなく、人や学術組織の動かし方を学びました。教授の中では最初は私だけ歳が離れていましたので、次の若い教授がここに来たら楽しく研究できるよう雰囲気作りに努めました。その頃、出版されたばかりのヴィクター・ハンバーガーヴィクター・ハンバーガー
【Viktor Hamburger】
(1900 –2001)
ドイツ出身のアメリカ合衆国の発生学者。ハンス・シュペーマンの研究室で学位を取った後に、シカゴ大学のフランク・リリーのところでニワトリの発生に関する研究を行い、その後アメリカ合衆国で活躍した。神経発生学の創始者的な存在であり、彼の弟子のリータ・レーヴィ=モンタルチーニは、神経増殖因子の発見により1986年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。
の『The heritage of experimental biology – Hans Spemann and the organizer -』を読みました。この本は、実は私自身の研究に大きなインパクトを与えたものです。ハンバーガーはハンス・シュペーマンハンス・シュペーマン
【Hans Spemann】
(1869-1941)
動植物の体の部域の前後の序列など、基本構造を決定する遺伝子群に共通する、約180塩基対の遺伝子配列。この配列がコードするタンパク質の部位をホメオドメインといい、DNA結合ドメインとして機能する。
の弟子であり、ハワード・ハミルトンと共にニワトリ胚の発生ステージ表を作りましたが、神経発生学の創始者でもあります。彼はこの本でいろいろな研究を引用しながら、発生初期に中心的な役割を果たすとされていたオーガナイザー(形成体)は、概念的にも間違っていると、控えめではあるが述べているんです。発生には、まだまだ未解明な部分が沢山あることを確認して、心を奮い立たせたことを覚えています。

新しい研究室を出発させるにあたっては、助教授として参加してくれた高橋直樹さん(東京大学教授)の存在が大きかったですね。彼は当時ホメオボックス遺伝子の研究をしていたのですが、講演を聞いてこの人はすごいなと思い、それまでは何のつながりもなかったのに「その研究を私の研究室でやってもらえませんか」と頼んだのです。教授として研究室全体のテーマ設定や運営で試行錯誤していた時でしたから有り難かったですね。彼が来てくれたことで、私自身が新しい発想を学び、学生や他のスタッフも研究上の選択肢、価値観、そして判断の幅を広げられたと思います。アメリカでショウジョウバエで研究していた東雄二郎さん(愛知県心身障害者コロニー発達障害研究所部長)も助手として参加してくれました。後に、大阪大学時代の研究室に助手として佐々木洋さん(熊本大学教授)を、そしてERATOプロジェクトに高田慎治さん(基礎生物学研究所教授)を招いたのも、同じような発想によるものでした。

研究では、細胞分化に関わる転写制御について試行錯誤した結果、ES細胞を使って本格的にマウスの発生を始めました。マウスの実験を進めるにあたっては、花岡和則さんを始めいろいろな方に技術を習いました。ノックアウトマウスを成功させたマリオ・カペキが来日した機会をとらえて、名古屋大学に招いてセミナーをしてもらいました。京都大学の頃からのδクリスタリン遺伝子の研究を転写因子研究へと発展させるとともに、もう一つの転写因子であるN-mycN-mycMYCN遺伝子によってコードされる転写因子。N-mycによって制御される遺伝子群は、細胞周期や分化などに関わる。に関する研究も始めました。N-mycは、ES細胞と神経系原基で発現が高いので、現在ではSox2に委ねられている制御機能をN-mycに期待したのです。また、転写因子が発生過程を進める仕組みについていくつかのモデルを考え試しました。まず、単独の転写因子だけで細胞が状態を大きく変えるとは考えにくいので、「転写因子の間で緩やかなカップリングがあって、ある転写因子の発現量が変化すると、それに連動して他の転写因子も変化し、全体として細胞状態を変化させる」というモデルを考えました。もしそうであるなら、ES細胞などでN-mycの発現量を大きく変化させれば、ES細胞から出発する細胞分化は大きな影響を受けるはずです。ES細胞や、それと類似したテラトカルシノーマ細胞では、分化の際にN-mycの発現量が下がるのです。しかし大学院生の加藤和人さん(大阪大学教授)らと一緒に、外からN-myc遺伝子を導入して発現量を上げてみましたが細胞の分化は止まりませんでした。さらに、2倍体細胞のN-myc遺伝子を2つとも欠損させたダブルノックアウトES細胞を作って細胞を比べてみましたが、分化のパターンは全く変化しませんでした。これらのことから、私が最初に考えたモデルは正しくないということになり、では転写因子はどのようにして細胞分化を制御するのかという問いに戻ってしまったのです。後に、特定の転写因子の組み合わせが特定の細胞分化状態を規定するという答えが得られるのですが、そこに至るには水晶体分化をもたらすSox2とPax6の組み合わせを見つけるまで待たなければなりませんでした。

研究発表については、専門的な国際学術集会に積極的に参加しました。これによって、新たな国際的な人脈が自から育ちました。当時毎年出席していたのはマウス分子遺伝学会議で、後にSox2研究で共著論文を多数出すことになったロビン・ロベルバッジ(王立医学研究院(MRC) ロンドン)や、2人で相談して国際Sox会議を発足することになったピーター・クープマン(ブリスベン大学)、ES細胞操作のエキスパートだったアンドラシュ・ナッジ (マウント・サイナイ病院研究所) などとはこの会議で知り合いました。またクラウディオ・スターン(ロンドン大学, ダニー・ホイレブロック (ルーヴェン・カトリック大学)などとの付き合いも国際学術集会での出会いから始まっています。

名古屋大学でのマウスを使った研究が本格的になってくると、どうしてもスペースが足りなくなりました。その時、大阪大学の細胞生体工学センターから、「思い切りマウスを使った研究をやってください」と言っていただいたのです。大阪大学に転任するそのときに、私が水晶体分化の分子機構をテーマに代表者として応募したヒューマン・フロンティア・サイエンス・プログラム のプロジェクトが採択されました。初めて書いた長文の国際助成金の応募だったので、大きな自信になりました。

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名古屋大学理学部の分子生物学科に教授として活動した頃。右から3人目が岡崎恒子教授、右端が本人。岡崎恒子先生には組織の運営など多くを学んだ。

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名古屋大学の教授の頃、助教授だった高橋直樹氏(中央、現・東京大学教授)とハイデルベルグで。ハイデルベルグには、マウス分子遺伝学会議(Mouse Molecular Genetics)に出席するために訪れた。(1989年。本人:右端)

マウス分子遺伝学会議(Mouse Molecular Genetics)などの国際学会での活動から、国際的な人脈や共同研究が生まれ、Sox研究の国際的な連携の基礎にもなっている。写真は、淡路で開催した第2回国際Sox会議(2nd International Sox Meeting)に集ったSox研究の主要メンバー(2008年)。前列左からミカエル・ウェグナー(Michael Wegner、ニュルンベルグ大学)、ピーター・クープマン(Peter Koopman、ブリスベン大学)、ロビン・ロベルバッジ(Robin Lovell-Badge、王立医学研究院(MRC) ロンドン)。

名古屋大学の教授の頃、研究室の皆で行った信州のスキー旅行。(本人:左端)

新しい時代のための新しい研究科を

大阪大学に移ったのは1993年です。その時のセンター長は、松原謙一先生(大阪大学名誉教授)、立派な方でした。松原先生は、「若い世代にセンター長を譲りたい」とおっしゃってセンター長を退かれ、まずDNAの修復機構を研究されていた田中亀代次先生(大阪大学特任教授)、次に私が引き継ぎました。1998年にセンター長になると、微生物研究所のがん遺伝子を専門とする豊島久真男先生(東京大学名誉教授、大阪大学名誉教授)、蛋白質研究所の構造生物学の京極好正先生(大阪大学名誉教授、故人)などとも接する機会が出来ました。これらの先生方は権力ではなく智力で組織を動かしておられました。駆け出しのセンター長の頃はいろいろなアドバイスをいただき、どういう局面でどう決断するかを大いに学びました。一方で、研究室にはほとんど常に海外からのメンバーが研究に参加して国際色を与えてくれました。例えば、大学院生のシンシア・パルメス-サロマさんは今はフィリピン大学ディリマン校で教授となり、フィリピンの生体イメージング分野のリーダーとして活躍しています。ご主人のシーザー・サロマさんは、応用物理学科の河田聡研究室の出身で、フィリピン大学ディリマン校の校長としてフィリピンの物理学を先導しています。彼を、細胞工学センターの客員教員として数ヶ月間招いたこともありました。

細胞生体工学センターは10年の時限付きでしたから、10年ごとに新しい体制が求められます。私たちはそれを好機ととらえ、新しいスタイルの研究科を発足させました。それが生命機能研究科です。機能への注目の重要性を意識してこの名前にしたのです。当時は、大学の法人化への転換期で、京都大学や東北大学などに生命科学に特化した研究科が出来るなど、新しい大学院組織が全国に続々と誕生し始めていました。私たちは後発でしたから、それらの大学が抱えている問題点を分析し、より良い組織を作ろうと思いました。教育面では、大学院を5年一貫制にして、早ければ3年で博士を取れる仕組みにしました。また卒業までに他の研究室に行って研究することを必須としました。次世代の研究者が自主的に分野間をまたぐ研究領域を作ってくれることを願ってのことです。組織面では、外に開かれた組織を目指しました。この計画には、岸本忠三総長(大阪大学名誉教授、元・大阪大学総長)の強い後押しをいただき、城野政弘副学長(大阪大学名誉教授、福井工業大学学長)に助けていただきました。多くの学部や研究所にまたがる講座を編成し、医学系研究科から柳田敏雄さん(大阪大学特任教授、理化学研究所生命システム研究センター長、脳情報通信融合研究センター長)や長田重一さん(京都大学教授)が、基礎工学研究科からは、村上富士夫さん(大阪大学名誉教授、特任教授)たちが主力メンバーとして参加されました。組織が出来ての配置転換ではなくて、「私もやりましょう」という強い意志の下に皆が集まってくれたのです。新しい研究科発足の作業を担うにあたって、私自身大きな決断をし、2年間は学内を走り回りました。寿命が10年ほど縮んだかもしれません。けれどその中で、第一著者として下垂体が水晶体に分化転換しうるという、ゼブラフィッシュ変異体を用いた論文を1つ仕上げました。当時は、熱帯魚屋から買ってきた小さな水槽を教授室に置いてゼブラフィッシュを飼っていました。研究することで精神の安定を図っていたのかもしれません。その頃から、マウス、ニワトリ胚に加えてゼブラフィッシュも研究に用いるようになりました。動物それぞれに実験系としてすぐれたところがあり、いくつかの動物種を比較しながら使うことで、動物種に固有の現象と、共通の原理を知ることができます。

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大阪大学の細胞生体工学センターで同僚だった田中亀代次教授と。(2013年。本人:左)

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細胞生体工学センター長を務めた頃、大学院生のシンシア・パルメス−サロマ(Cynthia P Saloma、フィリピン大学、左から2人目)と、客員教授であったご主人のシーザー・サロマ(Caesar Saloma、フィリピン大学、左端)を自宅に招いて。(本人:右から2人目)

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細胞生体工学センターの横で、研究室のメンバーとバーベキュー・パーティー。(本人:右から3人目)

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春には、研究室のメンバーと恒例の花見。(2010年。本人:後列の左端)

メダカとイモリの力で日本の発生生物学の底上げをしたい

1988年から5年間の期限でERATOERATO(Exploratory Research for Advanced Technology)独立法人・科学技術振興機構が進める課題解決型の基礎研究プログラム。人を中心に置いたプログラムであり、プロジェクト名には研究総括者の名前を冠する。近藤寿人教授の場合は、「近藤誘導分化プロジェクト」。のプロジェクト、さらに3年半の発展・後継事業も進めました。このプロジェクトでは、自分の研究室とは独立したテーマで、日本の発生生物学を強化して潜在力を発揮させる研究を実施したいと考えました。日本の発生遺伝学に欠けていたのは動物の大規模な突然変異体のスクリーニングの実績でした。私自身、1980年に発表され、後に1995年のノーベル医学・生理学賞の対象となった、ショウジョウバエの胚発生の変異体の大規模スクリーニングの成果に大きな感動をもち続けていました。単に変異体から遺伝子がわかるというだけでなく、同じ調節のプロセスに属する変異体が関連した表現型を示すことから、そのプロセスの構成を予想できるからです。プロジェクトでは、メダカとゼブラフィッシュを変異体スクリーニングの対象としました。メダカについては、1921年に京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維学校)の教授だった会田達雄先生によって、遺伝的に雄の性が決定されることが示された輝かしい歴史があります。以来、科学的な知見が豊富に蓄積し、実験用に近親交配を繰り返したいわゆる純系もたくさんあるなど実験動物としての利点がいろいろあります。私自身、尾里建二郎先生(名古屋大学名誉教授、故人)がトランスジェニックメダカを初めて作られたときにお手伝いをしたので、なじみがありました。けれど、ゲノム学を基礎とした現代的な実験動物としての整備はまだまだ必要だと思いました。メダカのゲノムプロジェクトが開始されようという機運もあり、メダカのゲノム学にとっても多くの突然変異体は不可欠でした。鴨川沿いにある近畿地方発明センターに約6000個の水槽を置いて、10万匹のメダカを飼育し、突然変異体を数多く作りだして系統を確立したのです。その結果、生殖細胞の移動や神経の走行に関わる突然変異体、さらにゼブラフィッシュではなかなか得られなかった、脳の形成に異常をもつ変異体も多く得られました。これらの突然変異体の詳細を明らかにするために、個別の細胞を標識して、胚の発生過程の動きを追跡する技術と解析法も確立しました。加えて、データベースの構築と得られた突然変異体の系統保存・管理も行いました。この活動は、私の日本の科学に対する社会貢献と位置づけています。

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また、ERATOの活動の一環として、イモリの水晶体再生の若いエキスパートである水野伸彦さん(元・JT生命誌研究館研究員)と林利憲さん(鳥取大学准教授)を招き、水晶体再生にかかわる古くからの問題に挑みました。なぜ虹彩の最も背側の場所からだけ水晶体が再生するのかという問題です。答えは明快に出ました。幹細胞がその場所にだけ分布しているのではなく、虹彩からの水晶体再生に必要なWntシグナルWntシグナル分泌性の糖タンパク質であるWntが、細胞に作用することによって活性化される細胞内のシグナル伝達機構。動物の初期発生や器官形成において、細胞の増殖・分化・運動などに関わる。が背側だけで働くからでした。複数の場所から水晶体が再生して衝突するという不都合を避ける、自然が選んだ方法なのでしょうね。

携わった研究者の努力は勿論ですが、生きものの大規模な飼育・管理のために技術員や作業員が頑張ってくれました。事務参事の小野祐治さん(元・京都大学法学部事務長)や技術参事の岡本浩二先生(京都大学名誉教授)にお世話になりました。プロジェクトの終了近くに作った記録ビデオも力をいれ、台本の大筋は私が考えました。従来の科学映画は色調がきつく、科学におどろおどろしい印象を与えていると思い、色調はパステルカラーにし、小さな魚を映し出すわけですから、BGMは優しい音色の木管を主体にしました。スタジオにも出向いて、映像に合わせて音の切り替えを自ら提案するなど徹底しましたね。教育にも使いたいと思って。

ERATOプログラムで、10万匹メダカを飼育した鴨川沿いの近畿地方発明センター。(右奥の白い建物)

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ERATOプログラムでお世話になった小野祐治事務参事(左から2人目)と岡本浩二技術参事(右端)。(本人:右から2人目)

近畿地方発明センターには、10万匹のメダカを飼うために6000個の水槽を設置した。

10万匹のメダカを使って、突然変異体の大規模スクリーニングを進めた。

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ERATOプログラムの分化変異グループ。前列左端は、グループリーダーを務めた清木誠さん(現・英国Bath大学講師)。彼は、ゼブラフィッシュの突然変異体のスクリーニングの経験があり、このグループではメダカの大規模スクリーニングの指揮を執った。(本人:前列の右端)

一つずつ問題を解き明かしてゆく

さて、京都時代に開始した水晶体分化の転写制御の研究のことです。δクリスタリン遺伝子のエンハンサーを活性化する転写因子の一つがSox2であり、Sox2は他のクリスタリン遺伝子の活性にも関わることは蒲池雄介さん(大阪大学准教授)の実験で明らかになりました。1995年に発表したその結果からは、Sox2単独では下流の遺伝子を活性化できず、一緒にエンハンサーに結合するパートナー転写因子との協同作用によって初めて活性化することが明らかでした。そのSox2のパートナーを確定するにはさらに5年を要しました。蒲池さんが突き止めたそのパートナーは、視覚系の発生に中心的な役割を果たすことが既に知られていたPax6Pax6ペアードボックス領域を持つPax遺伝子群から発現される転写因子であり、眼の形成や脳の発生過程で重要な役割を果たしている。でした。Sox2とPax6の組み合わせは、単にクリスタリン遺伝子の制御だけでなく、水晶体の発生そのものを開始させる力がありました。Sox2とPax6を同時に外胚葉で強制発現すると通常は水晶体ができない場所に水晶体ができるし、網膜や下垂体から水晶体への分化転換もSox2とPax6の協同作用で説明できるのです。これで、水晶体分化のための転写制御機構には一つの結論が得られました。と同時に、転写因子による細胞分化の制御に関する一般的な機構を示していたのです。つまり、Sox2やPax6などの転写因子は他の因子と複合体を作ることで細胞分化を制御し、複合体のパートナー因子によって分化する細胞の種類が変わるのです。2000年に発表したこのモデルは、10年をへて多くの研究者に支持されるようになりました。iPS細胞iPS細胞体細胞に特定の遺伝子を導入することによって、ES細胞に近い状態を作り出すことが可能になった。近藤寿人教授らが見つけたSox2はその遺伝子の1つであり、iPS細胞を実現した山中伸弥教授(奈良先端科学技術大学院大学、現・京都大学)は、ジョン・B・ガードン(John B Gurdon)博士(ケンブリッジ大学)と共に2012年にノーベル物理学賞を受賞した。を作り出す4つの転写因子にSox2とOct4が含まれるのは、Sox2とOct4の複合体がES細胞やiPS細胞の状態を決めているからです。

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水晶体分化をもたらす転写因子が明らかになったのを機に、Sox2を中心とした研究に大きく舵を切りました。Sox2の発現が、体細胞組織分化を先駆ける神経板(脳や脊髄の前駆体)の誕生と対応していたからです。Sox2遺伝子には沢山のエンハンサー(遺伝子発現を制御する領域)が備わっていて、胚の中の位置や胚発生の段階ごとに違った環境に個々のエンハンサーで対応しながら、一定のSox2発現を実現しているに違いないと予想しました。その頃には、実験動物の全ゲノム解析の時代の到来を予期しながら、ニワトリ胚への遺伝子導入による新しい研究を始めました。仲村春和さんに学んだニワトリ胚の遺伝子操作法を内川昌則さん(大阪大学助教)が発展させました。そして、Sox2遺伝子を調節するエンハンサーが数十個あり、それが数百kbという広いゲノム領域に分布していることがわかりました。しかし、神経板ができ始める早い発生段階をみると、N1とN2の2つのエンハンサーだけが活性をもち、それぞれ胴部と頭部の神経系でのSox2の発現を調節していたのです。頭部(脳)と胴部(脊髄)で神経系のでき方が全く違うということです。これは、ニワトリでもほ乳類でも同じです。

ほ乳類では胚が着床して間もなく、体細胞全体の前駆体であるエピブラストから真っ先に神経系のもとが生まれます。着床前胚に対応するES細胞では、この発生段階を直接研究することはできません。2007年に、エピブラストを細胞株化したEpiSC (Epiblast stem cells)が発表されたので、早速それを使ってエピブラストから頭部神経系が生み出される機構を調べました。EpiSCにある条件を与えると頭部神経系だけが生み出されますが、それは、内胚葉系、中胚葉系、そして後部神経系への発生を強く抑える条件でした。つまり、他の発生経路を抑制することによって特定の組織の発生が実現されるのです。この仕組みは、ほかの組織がエピブラストから生み出されるときにも働く一般原理です。

最近、竹本龍也さん(大阪大学助教)と一緒に、胴部では神経系と中胚葉が体軸幹細胞と呼ばれる共通の細胞群から分化することも解き明かしました。具体的には、Sox2遺伝子が発現すると体軸幹細胞は胴部の神経系へと分化し、N1エンハンサーを抑制するTbx6遺伝子の発現がSox2遺伝子の発現を抑えると、体軸幹細胞は中胚葉へと分化するのです。つまり、2つの因子の力関係で分化の方向が決まるわけです。これは、従来の三胚葉説三胚葉説多くの動物の発生初期には、外胚葉・中胚葉・内胚葉からなる3層の組織構造がつくられる。三胚葉説では、この三胚葉に組織が分離することが細胞系譜の分岐の最初の決定機構であるとする。しかし、近藤寿人教授たちの研究によって、三胚葉は組織の解剖学的な位置を記述するものにすぎないこと、細胞系譜は、その細胞が現在どの胚葉にいるかということとは独立であることが示された。を再考させる画期的な成果と言えます。

発生への尽きぬ想い

研究を進めながら、教育を目的とする小さな国際会議を沢山開きましたね。国際化という漠然としたスローガンではなく、若い研究者たちが海外の研究者と直接対話出来るよう、そして日本を売り込めるよう気を配った会議です。例えば、2006年に当時、奈良先端科学技術大学院大学にいた高橋淑子さん (現・京都大学教授) と協力した合同シンポジウム、2008年に私が中心となって開催した国際Sox会議、2012年に仲村春和さんが中心となった国際鳥類学術会議です。

研究を進めていると、大きな壁にぶつかることがあります。その時は少し引いてその状況を眺めることにしています。山登りに例えるなら、目指したい頂に垂直登攀できないときには、遠くから地形を眺めてみるのです。あるいはベースキャンプまで降りてみて、より広い視点で全体を眺めてみるのです。すると、回り道だけれど確実に登攀できそうなルートが見えてきます。そのとき大切なのは目指す頂を決して見失わないことです。私は高校生の時に、動物の発生のしくみを解き明かすという山の頂に登ろうと思ったわけですが、その頃の技術ではなかなか難しかった。大学院の時に発生を研究している岡田節人先生の研究室にはすぐに入らずに、まずは遺伝子を扱う技術を身につけるために小関先生の研究室を選びました。

正式の教授職を退任した今でも実験をしていますし、去年の今ごろは特に実験に没頭する日々でした。自分で実験をすると、データを得た直後にそれを考察し、次の日はこうしようとその場で考えられるのです。スポーツ選手と同じで、緊迫感を持って試合に臨み、試合でしか得られないものを磨く必要があると思うのです。実験が終った後は、試合後と同じで実に爽快ですよ。体力では若い研究者に負けるかもしれませんが、それ以外は負けていないと思っています。高校生の時に本を通して分子生物学に出会って以来、分子生物学の手法を習得して発生の研究を始めるまでに15年ほどかかりました。そして、動物細胞の分化に関わる転写制御に注目し、発生の謎に挑み始めてからも随分経ちました。これからも、転写制御に注目して実験事実を積み上げ、発生の謎を着実に解き明かしたいと思っています。楽しみながら。

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マイクロインジェクション機能付きの顕微鏡とともに。岡田研究室の助手の頃に、細胞への遺伝子の微量注入のために日々愛用した 思い出の装置。

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生命機能研究科のいくつかの研究室と合同で、万博記念公園にある太陽の塔の内部公開を楽しんだ。(2005年。本人:前から2列目の右端)

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温泉街で知られる兵庫県・城崎町への研究室旅行。(2006年。本人:後列の左端)

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生命機能研究科の研究科長として、アカデミックローブを纏って学位授与式に臨んだ。(2008年。本人:最前列の中央)

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奈良先端科学技術大学院大学の高橋淑子さんと協力して開催した合同シンポジウムで(2006年)。右から高橋淑子さん(現・京都大学)、マリアンヌ・ブロンナー(Marianne Bronner)(カリフォルニア工科大学)、本人、浜田博司さん(大阪大学教授)

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実行委員長を務めた第2回国際Sox会議(2nd International Sox Meeting、2008年、淡路。本人:最前列のプレートの右)

共同議長を務めた日米合同発生生物学会(Society for Developmental Biology 69th Annual Meeting -Jointly with Japanese Society of Developmental Biologists)で、旧知のスコット・ギルバート(Scott Gilbert、スタンフォード大学)と。 (2010年、ニューメキシコ州のアルバカーキ。本人:右)

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仲村春和さん(中央)が中心となって開催した国際鳥類学会(International Chick Meeting)。約250人の出席者のうち6割は外国からの研究者だった。(2012年、名古屋。本人:壇上で挨拶)