子供時代

生まれは京都ですが、医者だった父の仕事の関係で山口県宇部市で小学校から高校までを過ごしました。小学校では家に帰ってすぐ遊べるように、授業中に教科書は自分で読んで、宿題もその場でやってしまい、先生の話など聞いていなかった。今大人になって思うと、さぞかし小生意気で扱いにくい生徒だったのでしょうね。先生の覚えはめでたいはずはない。とにかく、好奇心のかたまりでしたから、ラジオや時計の分解、組み立て、読書と面白いと思うことはどんどんやりました。本では、岩波の『科学の学校』が楽しかったですね。理科の先生が夏休みに大きな天体望遠鏡で土星のリングを見せてくれたのには感動しました。あまりに感動したので、小学校の卒業文集に将来は天文学者になりたいと書いてありますよ。

中学になると、俄然、勉強が面白くなった。勉強すれば模擬試験の順位があがる。どんどんあがるのが面白くて。2年生の時に、3年生の全国模擬試験を受け、県で10番以内に入ったので、ますます調子に乗りましたね。成果が見えることに夢中でした。この頃、将来英語は必要になるからという父の勧めで、ハワイから戻ってきた日系人の方に英語を習い始めました。高校卒業前まで続けたので、その後あらゆる場面で英語の心配をせずにすんだのは、大変ありがたかったと思っています。演劇部に所属したこともあるし、英語の弁論大会にも出たりと、自分ではそれほど目立ちたがりではないと思っているけれど、人前にでるのは嫌ではない方だったのかな。

小学生のころ。

中学生のころ。父の渡米前に家族で記念撮影。

高校生。運動会の仮装行列に参加した友人と。

分子生物学との出会い

大学への進路は、それなりに悩んで決めました。すぐにこれとは決められるものはなかったのですが、ただ1つ、人に雇われるのは向いていないということははっきりしていました。英語が得意だから外交官、弁護士にも興味がある、父の影響で医者、この3つで悩みました。外交官は当時の国際社会の中での日本の存在を考えると、あまり大きなことはできそうもない(笑)。弁護士は人を助けるといっても数が限られてしまう。伝記を読むのが好きでしたから、野口英世に惹かれて医者になって病気の原因などを発見できれば、多くの人の助けになると思って、京都大学の医学部に入りました。1960年です。

同期生に、基礎研究に興味がある学生が7~8人いて、彼等とは学問のこと将来のこと、あれこれ話した良い仲間でした。今も医学部の基礎研究を一緒に支えている中西重忠君(現・京都大学医学部教授)もその一人です。1年生の時、柴谷篤弘先生の『生物学の革命』(みすず書房)に出会いました。「やがてDNAの異常を外科手術のようにピンセットで治す日が来るであろう」と書いてあった。すごいと思いました。当時のDNA研究は大腸菌を使ってコドンが解明されようとしていた黎明期だったのです。柴谷先生はすでに分子生物学と医学のつながりを明言されていた。素晴らしい先見性ですね。おぼろげながら、分子生物学の研究を治療につなげられるのではないかと思い、その夏には父(山口大学医学部)の同僚だった柴谷先生を訪ねました。分厚い論文をわたされたけれどとても歯がたたなかったな。それが分子生物学との出会いです。京都大学では分子生物学という新しい学問についてのセミナーがさかんに行なわれていたので、せっせと参加し、将来への夢を掻き立てられました。

2年生になると、柴谷先生や父の勧めでアメリカから帰国されたばかりの早石修先生(京都大学名誉教授)の研究室に出入りするようになり、3年の頃には基礎研究者としてやって行こうと決めていました。

さまざまなことをした大学時代
クラス対抗レガッタ
音楽も。フルートを担当。右端。
ESSサークル。前列右端。
大学の卒業式に仲間と。
(左から5人目。左隣は中西重忠教授。)
早石先生と学会のパーティで。

研究はじめ

67年に博士課程に進み、当時早石研でNAD+(呼吸の酸化還元酵素の補酵素)の生合成の研究で有名となり、ロックフェラー大学でタンパク合成の仕組みの研究をされて帰国された西塚泰美先生(元・神戸大学学長)の指導を受けました。それまでも研究室にお邪魔して、実験のまねごとをしていたので、西塚先生が研究テーマを自分で考えるチャンスを与えてくれました。

ジフテリア菌に感染すると、粘膜障害や神経麻痺が起こるのですが、その原因はタンパク合成の阻害による細胞死だとされていました。タンパク合成の阻害にはNADが必要だという論文を新着の雑誌に見つけたので、このメカニズムを分子レベルで突き止めれば、ジフテリア感染の解明に貢献できると、セミナーで発表したところ先生が研究テーマとして認めてくれました。最初から自分が挑戦したいと思うテーマを選び、その研究を始めることができたのは幸せだったと思います。

実験をするには材料が必要。簡単には手にできないジフテリア毒素を東京大学医科学研究所から入手できたのもありがたかった。ジフテリア毒素に、NADのADPリボース部分をタンパク合成に必要なポリペプチド鎖延長因子(EF2)に移す酵素活性があることを突き止めました。その結果、EF2が不活化し、タンパク合成が阻害されるのです。10年後に百日咳やボツリヌス菌などでも同じような仕組みで、別のタンパク機能阻害が起こることがわかるのですが、それらの先がけとなった良い仕事ができたと思います。これが最初の研究らしい研究ですね。順調なスタートでした。

70年、大学紛争の波が京都大学にも押し寄せ、特に医学部は激しくて、建物は封鎖され、教授は建物には入れませんでした。私たち学生は入れるのですが、研究は1年間自己規制してましたね。主体的に問題を解決して研究を再開したいと思い、大学院学生のまとめ役をやりました。これは性格ですね、傍観者でいることができない。今も変わらないな(笑)。

この1年間は決して無駄ではなかったと思います。医者の教育は住み込み徒弟の見習い的なところがあり、当然そこにはヒエラルキーがある。ヒエラルキーがあると、どうしても人間関係に問題が起こりやすいですから紛争も医学部では激しかった。問題を解決したいという一心で、そのヒエラルキーの上から下までをじっくりと観察し、どんな人が信頼できるのかという自分なりの視点を獲得したのです。要は人ですから。ついでに政治的な場での身の処し方も学びましたよ。

西塚先生と学会のパーティで。
右は豊島久真男先生。

早石研時代、デスクの前で。

アメリカへ

それほど本質的な改革がないまま、学生側の勢いも弱まっていました。ふと自分自身のことを考えてみると、その頃は学位を取るのはタブー視されていましたから、学位はない。幸い論文はあったので、アメリカに行こうと思い始めました。これまではタンパク質相手の生化学だったけれど、DNAを対象にした分子生物学、しかも、バクテリアではなく、できれば哺乳類のDNAを研究したい。医学部ですから、治療への応用を意識していました。とはいうものの、当時は組換えDNA技術がまだ開発されておらず、クローニングの技術もありませんから、脊椎動物の遺伝子研究は夢物語だったのです。それでもなんとか脊椎動物の遺伝子を扱っているところはないかと探して、カエルのリボソーム遺伝子を研究しているドナルド・ブラウン博士のいるカーネギー研究所をみつけました。

本当にDNAを物質として扱い、多細胞の遺伝子を研究できるようになったのは逆転写酵素(RNAからDNAを合成する酵素)が使えるようになってからですが、日本に比べてアメリカはこの技術の広がりが圧倒的に早かった。その時期にアメリカに渡って最新技術を使って研究できたのは幸運でした。

アメリカ時代。

ブラウン博士と議論中。

抗体産生の謎への挑戦

脊椎動物には体を守るために免疫というしくみがあるのはよく知られています。外界からの様々な異物(抗原)に対し、特異的に結合する抗体タンパク質が血液中のリンパ球で作られ、抗原を体内から排除するしくみです。抗体遺伝子が、どのようにして抗原の多様性に対応しているのかが大きな謎でした。アメリカに留学していた70年代前半は、ゲノムに複数の抗体遺伝子がもともと存在するという生殖系列説と、本来は1つしかない遺伝子に変異が起きて多様性が生まれるという体細胞変異説の2つがあり、さかんに議論されていました。

ある時、ブラウン博士がセミナーで、リボソームRNA遺伝子の構造からの類推に基づき、生殖系列説の立場で抗体の多様性産生メカニズムについての仮説を話されました。リボソームはタンパク合成に必要なので、大量なタンパク質合成が必要な発生初期には、リボソームRNA遺伝子が増幅することが知られています。ゲノム内でリボソームRNA遺伝子が数百個並び、その間にスペーサーと呼ばれる少しずつ異なる似た配列が存在し、遺伝子とスペーサーが数百回繰り返していました。これと同じように可変部(V)と定常部(C)が交互に繰り返して存在するのではないかというのがブラウン博士の考えです。これを証明するにはゲノム内の遺伝子の数がわかればよい。ここから仮説の大切さを学びました。仮説は、検証可能な形で提出されなければならない、そうでなければ、単なる面白い話にしかなりませんからね。

免疫の問題を分子生物学で明らかにできないだろうかという興味は学生の頃から持っていたので、NIH(アメリカ国立衛生研究所)でマウスの抗体遺伝子を研究しているフィリップ・レーダー博士のもとでブラウン博士の仮説の検証に挑戦することにしました。ゲノム内の遺伝子の数はmRNAから放射線でラベルしたcDNAを合成し、それと変性させたゲノムDNAとの再会合の速度を測るという方法です。抗体は、長い鎖(Heavy chain:H鎖)2本と短い鎖2本が組合わさったY字型で、抗原に結合する領域(V)と定常部(C)領域があることはわかっていましたが、遺伝子がどこにあるか、どんな配列を持っているかなんてまったくわかっていない時代の話です。ブラウン説ではC遺伝子が多数存在するはずですが、体細胞変異説ではV-Cのセットが1個と仮定しています。遺伝子が多数あれば早く再会合しますし、一つしかなければ再会合は遅いのです。でも、配列がわかったDNAを扱う現在の研究のように、はっきりと、ある、ない、という結果が出ません。多数あるか、ないか、毎日2つの学説の間で揺れ動きました。でも、何度も繰り返しているうちに複数あるとは考えにくい速度で再会合するという結論になり、抗体定常部(C)の遺伝子はゲノム中に1つであるという結果に落ち着きました。一方V遺伝子の数は1個ではなく多数であるという結果が別のグループから得られていましたので、抗体の遺伝子には再構成があるのではないかと推測しました。当時、世界中で10グループくらいがしのぎを削って、抗体の多様性を生み出す分子メカニズムを解明しようとやっきになっていた。この問題は結局、抗体遺伝子がDNAレベルの再編成で多様性を生み出しているという実験的な証拠となった利根川進さん(マサチューセッツ工科大学:この研究で1987年にノーベル生理医学賞受賞)の遺伝子単離という見事な仕事によって、決着がつきました。レーダー博士を含めアメリカのグループは組換えDNAの自己規制中に、何もルールのないスイスの研究者にやられたという感じだったようです。でもこういう形で若い頃に、熾烈な競争の中に身を置いたことはとても勉強になりました。この体験も私のこの後の研究へとつながっていると思います。

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抗体の構造:抗体は、長い2本の鎖(H鎖)と短い2本の鎖(L鎖)が組合わさってできている。それぞれの鎖には抗原に直接結合する可変部(variable region=V領域)と、処理法を決める定常部(constant region=C領域)がある。

86年ににハーバード大学へセミナーに行った際にレーダー博士(右)と。

再び日本へ

帰国を決めた理由は2つ。1つは、アメリカで質の高い研究をした日本人はたくさんいるけれど、日本に戻ると総説をいくつか書いて、それでどこかに消えてしまう人が多い、そんな時代でした。そこで、日本発の良い研究をしてやろうという挑戦心が生まれたのです。もう一つは家族の問題。アメリカはやはりアングロサクソンの国ですから、そういう中で子供たちが育つことに不安を感じたのです。研究室では仕事だけが勝負ですけれど、日常ではちょっと買い物に行っても、差別に出会いましたから。

早石先生の紹介で東京大学医学部の真野嘉長先生のところの助手にして頂き「テーマは何でもよろしい、けれど質の高い研究をしてくれれば」というお言葉を頂きました。

でも、実際に戻ってみると、ないないづくし。お金はない、機械はない、試薬はない、材料もない。大変だと思いましたが、日本でも抗体遺伝子への問いを続けようと思い、その挑戦のために帰ってきたのですから、自分でいろいろな機器を手作りしました。実験に必要な系統のマウスを扱っている業者をやっと見つけたのだけれど、そのおじさんは小ゲージに入れた10匹くらいの純系マウスをそっと風呂敷につつんで大事に抱えて電車に乗ってくる。当時で1匹1000円、高いですからね。そのうちに、帰国前にアメリカに申請していた研究費が通り、お金の面での苦労は少なくなりました。アメリカ政府の科学に対する心の広さ、懐の深さはやはりすごい。感謝しています。研究者仲間にも世話になり、日本では手に入らない試薬や材料を無償でアメリカから送ってもらいました。メールもファックスもない時代、何々を何日の何便に乗せたという国際電報が届くと、受け取りによく羽田まで行きました。学生さんたちと4、5人の小さなグループで手作りの研究をしていたのですが、活気がありましたね。

東大時代に自宅の庭で家族と。

モデル提案時のラボのメンバーと。左から高橋直樹博士(現・奈良先端大)、川上敏明博士(現・ラホイヤ研究所)、清水章博士(現・京都大学)、本人。メンバーだった片岡徹博士(現・神戸大)は撮影者(?)だったためか残念ながら写っていない。

クラススイッチモデルの発見

日本ではH鎖を研究することにしました。H鎖は遺伝子が大きくて扱いが面倒ですから、誰も研究しないだろうと思ったのです。抗体には抗原を認識する可変部と抗原結合後の体内での処理方法を示す定常部があります。抗体を作るリンパ球B細胞は、多様な抗原を効率良く排除するために、最初にIgMというクラスの抗体を作り、その後に侵入する抗原の種類や侵入場所(粘膜:腸、気管)に応じて、IgEや、IgAなどの違うクラスの抗体を作り始めます。抗体のクラスによって、抗原結合後の処理方法が違うのです。このクラスを生み出すメカニズムを解明しようと思い、おじさんが抱えて運んでくれた高価なマウスに移植したミエローマ細胞から抗体のmRNAを精製し、cDNAを作って遺伝子の数を測定しました。

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クラススイッチ現象:抗体はリンパ球B細胞によって作られ、H鎖の定常部の種類により5つのクラスに分けられる。B細胞が最初に作る抗体のクラスは必ずMであるが、抗原の種類に応じて他のクラスの抗体を作るようになる。これをクラススイッチ現象と呼ぶ。

東大時代は通勤に電車で1時間半くらいかかっていたので、時間を有効に使うために座れる電車を選んでました。満員電車というのは意外と集中できるので、データ整理などは車内の仕事になっていましたね。

ある日、ミエローマ細胞の抗体遺伝子にはクラスによって違う欠失があるらしいことに気付きました。抗原結合後の抗体処理に関わる定常部の遺伝子は、遺伝子の一部を欠失させ、クラスを変えているのではないか。このモデルに矛盾がないようなH鎖の遺伝子の染色体上の順序を想定できたのです。興奮しましたね。家に戻って、ノートをひっくり返し、そのモデルと矛盾するデータがないか再度確認しました。それでも、矛盾は生じない。

翌日ラボに行って皆に話し、モデルを検証する実験を考えて、すぐに始めました。それがクラススイッチモデルです。このモデルは1978年にPNAS(米国学士院紀要)という雑誌に発表したのですが、その後でさらに『ネイチャー』のNews &Viewsで取り上げられて、国際的にも高く評価されたことで改めて嬉しかったですね。このモデルを最終的に証明するには、H鎖の遺伝子をクローニングし塩基配列を調べ、欠失を確認しなければならない。1977年に3ヶ月程、レーダー博士のところにクローニングの技術を習いに行きました。習ったばかりの技術を日本で行なうには、また手作りの連続です。この頃は夢中でしたね。抗体の遺伝子はゲノムに1個しかないのですから、大変でした。DNAを泳動したゲルで抗体のH鎖の遺伝子がとれたと確認できた時の嬉しさは、これぞ研究の醍醐味というものでしたね。これだから研究はやめられない(笑)。

H鎖定常部遺伝子群の構成と遺伝子欠失モデル

抗体のクラスの違いは、H鎖定常部の遺伝子配列の違いと対応するのではないかという仮説のもと、1978年に「抗体遺伝子欠失モデル」が提案された。

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1982年に検証されたDNA環状欠失

モデル提案後、DNAの塩基配列を調べたところ、C領域はモデルとほぼ同じ順番で並んでいた。また、欠失は各領域間のイントロン部分で起こることもわかった。
※当時は不明だったDクラスとEクラスの抗体遺伝子の存在も明らかになった。

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クラススイッチのメカニズム解明へ

遺伝子を手に入れてしまえば、後はやることは決まっています。配列を決めて欠失の確認をし、モデルが証明できました。クローニング技術を習いに様々な分野の人が研究室に来ましたし、私も電子顕微鏡写真の撮影のために、京都大学に行ったり、クラススイッチモデルをきっかけに多くの研究者との交流が広がりました。1979年、大阪大学に教授として移りました。阪大に移った頃から、論文の執筆と研究室の運営で忙しくて、自分では実験できなくなりました。この頃、37歳で教授は珍しくてマスコミの餌食にもなりましたから、その対応も大変でね(笑)。大阪大学は研究室の立ち上げにお金を貸してくれたのですよ。お前ならいつかどこからかお金を取ってくるだろうから、ゆっくり後で返しなさいということでね。日本ではちょっと珍しい懐の深さでしたね。ありがたかったです。こういう柔軟性がもっと欲しいですね。こういうことが研究を育てるんですよ。大阪大学には5年いて、その後は京都大学に移りました。

抗体の遺伝子がわかっても、実際にクラススイッチを起こすしくみはなかなかわからなかった。培養細胞で、クラススイッチさせなければならないのですが、まず、刺激を与えた時だけ高頻度でクラススイッチを起こす細胞はなかなか見つかりませんでした。分子生物学や生化学は比較的短時間でできますけれど、生物学になると時間がかかります。ここで焦ってもしかたがないので、じっくり時間をかけて材料を探しました。

望みのマウス細胞をようやく見つけ、クラススイッチをする時に発現する遺伝子を見つけました。それがAID(Activation Induced Cytidine Deaminase脱アミノ化酵素)で、この遺伝子を壊したノックアウトマウスを作って観察すると、そのB細胞はIgM抗体しか作らず、クラススイッチが起こらない。しかも、抗原に対する特異性をあげるため、抗体の抗原結合部位(V)にたくさんの変異が入るものなのですが、そのマウスでは変異がまったく起こらない。これは予想外でした。可変部(V)と定常部(C)の多様性を生み出す仕組みは、各々別だと考えられてきたのです。ところが、AID酵素は2つの反応を同時に制御している。この酵素はmRNAの塩基CをUに変換する酵素とよく似ています。現在、この酵素がどのようにクラススイッチに働いているかを解明しようと研究中です。モデルの提示が78年、AID遺伝子の発見は99年ですから、その間約20年。始めた頃に比べると免疫のしくみについてはずいぶん整理されてきたように思います。

その間にいろいろな遺伝子を見つけ、それがリンパ球の分化に関わったり、自己免疫に関与したりと今ではクラススイッチに限らず免疫全般に関わることに研究が展開してきています。免疫という生命現象として最高に面白く、また意味も大きい現象を着実に解明して来られたのは本当に恵まれていたと思いますね。その間、運もありましたが、やはり自分の疑問にこだわり、解析する問題の本質をきちんと見極めることを意識してやってきたことで成果があげられたと思っています。明らかになるにつれ、免疫には様々な生物の原理が凝縮していると思うのです。ですから、これから技術が開発されていけば、まだわからないことに新しい切り口が見え、免疫学を中心に生物の原理がわかるのではないかと期待しています。つまり、ますます面白くなってくると思っているわけです。今は、治療への応用にも積極的に取り組んでいます。若い頃の願い、もともとの出発点にやっと戻れました。

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H鎖のmRNAとクローニングしたH鎖遺伝子(DNA)を会合させ、イントロンの存在を示した電子顕微鏡写真。

テニスもするがやっぱりゴルフが一番。

京都大学の学祭で浅田彰氏と討論会。

還暦のお祝会で。プレゼントの赤いチャンチャンコを着ての御挨拶。

恩賜賞・日本学士院賞のお祝で夫人と息子夫婦と。

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ワインの写真:スペイン産の最高級ワイン1962年のベガシシリアのボトル。クラススイッチを起こす酵素、AID(Activation induced Cytidine Deaminase/脱アミノ化酵素)を発見した時に、祝杯をあげた。ボトルのラベルには皆のサインと日付が入り、教授室に大切に飾られている。

人を育てる

30年の間にたくさんの学生さんが育っていきました。日本の未来を荷なう若手が育ってくれることは重要ですから、論文も必ず自分で書いてもらうようにしています。時間はかかりますけれどね(笑)。1人1人の性質を見てアドバイスを与えてきましたが、なかなか難しい。自分が良い研究をするよりはるかに難しいことで、頭を悩ませ続けています。良い研究者を育てる方法というものがあれば、是非とも教えてもらいたいものです。

最近、研究者という職業を、生活の糧を得るひとつの手段として考える若者が増えています。生活の手段として研究を考えるなら、もっと他に楽に生きていける職業があるのではないかと思いますね。研究者の生活というのは、基本的に楽ではないし、研究の中に楽しみを見い出せない人には、とんでもなくつらい生活です。さらに最近はこまかい成果を早く、たくさんあげることの競争で、じっくり人を育てることができにくくなっているのではないかと気になります。研究者の本来の醍醐味とは、例えて言うなら、誰も見向きもしないわき水を見つけ、その流れを小川から大河にまで育てることですし、山奥の道なき道を分け入り、初めて丸木橋を架けることであり、決して丸木橋を鉄筋コンクリートの橋にすることではないと思うのです。研究は、好奇心を忘れず、勇気を持って困難な問題に挑戦し、必ずできるという確信を持って、諦めずに集中を継続することが大切です。その中でも「好きなことに挑戦し続けること(curiosity, challenge, continuation )」は基本だと思います。(文責:工藤光子)

相手が何を聞きたいか考えて発表するのがモットー。

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和服が好き。

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東大時代のお正月に。

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文化功労者の顕彰式。

ラボの皆と。
阪大時代、木曽へハイキング旅行。
1日目はセミナー。
京大時代。嵐山へお花見に。
能登へのラボ旅行での海水浴。