1967年の最初の調査で見つけた洞窟では人骨はいっこうに出ません。その後顔なじみのシリアの考古学者、スルタン教授から有望そうなフィールドを紹介され、共同研究を打診されたのが84年。87年に共同調査が実現し、共に腰痛持ちの僕とスルタンが杖をついて歩き回って見つけたのが、盆地の中にひときわ大きく口を開いた洞窟でした。奧に行くと、天井の一部が浸食されてできた穴(チムニー)を発見しました。チムニーを持つ洞窟からは、人類化石が発掘される可能性が高いことが経験的に知られています。私たちはこの洞窟を、クルド語で「二つの入り口」を意味する「デデリエ」と名付けました。そして6年後、そこで26年間の夢であったネアンデルタール人の骨についに出会ったのです。
現れたのは、子どもでした。通常の化石人類学では、特徴がはっきりと見える大人の骨が重視され、子どもの骨の研究例はあまりありません。しかしこの骨は、頭の骨から指の骨まで、ほぼ全部がそろっている世界で初めての発見例でした。これは、ネアンデルタール人という人類の特徴を知る重要な手がかりとなります。発掘され、きれいにクリーニングされた骨を見て僕は考えました。骨の専門家が見れば、これを見ただけで多くの情報を読み取り、優れた報告書を書くことができるだろう。しかしそれでは、僕を含めて多くの人にはこの子の生前の姿を想像することはできない。幼くして亡くなってしまった子どもの正体を何とかして知りたい。こうして、ネアンデルタール人の復活研究という前代未聞のプロジェクトを進めることになったのです。僕が骨の専門家でなかったからこそ始まったことです。
日本に骨を持ち帰り、東大でお披露目をしたあと、吉川弘之総長に「これから何をしたいの?」と尋ねられたので「骨を組み立てて歩かせたい」と答えた。「じゃあ東大でベストの研究者を紹介する」と言われ、翌日、精密機械工学が専門の木村文彦教授から電話があり、すぐに資料を見たいとやってきました。「精密機械の研究だけではなく、精密機械を使う人間の研究も必要だと常々思っていた。まさかネアンデルタール人から始めるとは思わなかったが」と言いながらも、すぐに協力を申し出てくれました。他に、情報工学、人間工学、三次元形状計測、光造形法、美術解剖学、彫刻の専門家の参加によって、復活への取り組みが始まりました。化石人骨が相手ではそれぞれの専門の従来手法がそのまま適用できません。専門家を結集すると言いながら、実はそれぞれの専門の枠を壊していかに柔軟な発想をするかが重要だったのです。学際という言葉がよく使われますが、自分の専門に固執する研究者がいくら集まっても総合的な見方などできるはずがありません。それまでは一つの専門家が見ていた課題に、いろいろな専門家が取り組む。そしてお互いの専門領域の壁がとれて自分たちのものの見方も変わっていく。これが結局は総合的なものの見方につながるのです。僕はこれを「学際研究」ではなく「循環研究」と呼ぶことにしています。一つの課題を巡って様々な専門研究が影響を与えあい、専門性がいっそう研ぎすまされると同時に、研究手法が汎用化されるというイメージです。こんなことを考えられたのも、ずっとフィールド調査の現場に出ていたのと、興味の対象をコロコロ変えていたからかもしれないと思っています。
復活プロジェクトは「循環研究」のおかげで順調に進み、子どもの正体が徐々に明らかになりました。歯は全て乳歯であり、その生え方から推定した年齢は2歳ぐらい。残念ながら性別の特徴を示す骨はまだ成長しておらず、男の子か女の子かは不明。膝をしっかりと伸ばして優雅に立ちあがってくれました。そして、木村研究室のコンピュータ上で現代の子どもと同じように歩く姿を見せてくれたのです。
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共同研究者スルタン・ムヘイセン博士(右端、現ダマスカス大学教授)。当時はシリア文化庁考古総局総裁を務めていた。中央はシリア文科相ナジャッハ・アルアタール女史。(左端:本人) |
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洞窟の奧に開くチムニー。明かり取りや、出入り口として便利だったのかもしれない。 |
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ついに化石が姿を現した。杖で骨を指し示すのはスルタン博士。(右端:本人) |
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発掘直後の状況。両腕を伸ばし、両足を曲げて仰向け状態で葬られていた。なお発掘資料は、株式会社日立製作所によるデジタル画像処理により正確に記録された。 |
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化石を借りて帰り、東大でお披露目。恩師鈴木先生も駆けつけた(左端)。右はメンバーの古人骨の専門家、百々行雄(現東北大教授)。(中央:本人) |
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