昆虫少年でもラジオ少年でもない少年時代

生まれは大阪の池田です。原っぱで野球をよくする、いたって普通の子供でしたが、病弱で小学校一年の時は約二ヶ月、二年の時は約1ヶ月休みました。でも、勉強はよくできたので、学校を休んだ後には、先生の家で次の授業の問題作りを手伝わせてもらったりと、とてもかわいがってもらいました。

先生の励ましもあって三年生になると学校を休むこともなくなり、虚弱児童から普通の子になりました。その頃、町会議員が参観する算数の授業で、120問も出された計算問題を2分で解き終わり、得意満面で手を挙げたのを覚えています。もちろん一番です。ところが、不思議なことに、先生が問題を読み上げて口で答える計算になると、どうしても別の子が一番なのです。眼から手へと耳から口へと、このどちらが得意であるかは生まれつきで、勉強したからよくなるものではないというのが実感です。

勉強は良くできましたが、好きではありませんでした。理科もです。当時理科好きといえば、ラジオ作りか昆虫採集に夢中になるのが普通でしたが、僕は両方とも全く興味がありませんでした。

最近、理科好きな子が減ったから理科好きを増やす教育が大事だと言われますが、僕は理科好きも生まれつきだと思います。昆虫やラジオが好きな子は、大人に教えてもらったというわけではなく、みな勝手にやっていましたから。ですから教育で理科好きが増えるとは思いません。理科好きは昔から少なかったのですよ。昆虫好きやラジオを組み立てる子なんて珍しいから、みなが感心して、あいつはすごいなと思うのです。

理屈っぽさは英語の授業で自覚

中学は豊中中学(現豊中高校)でした。英語の授業は不思議なことに、理屈から教える先生と直訳なんて大嫌いな文学風の先生とに分かれるのです。中学一年と二年のときは幸いにも理屈一本の先生だったから成績が良かったけど、文学的な先生に変わると成績が落ちてしまいました。僕はどうやら理屈っぽいのが合っているみたいです。この傾向は高校に入っても変わりませんでした。数学は皆理屈で教えるから、その差はわからないけれど、英語の授業は、先生によって教え方が違うので、自分が理屈っぽいのか文学風なのかを判別するのに有効ですよ。現在の僕の理屈っぽさは、英語の授業が裏付けていたということです。

15才まで池田にいて、中学四年生になるとき名古屋に引っ越し、熱田中学(現熱田高校)に転校して次の年に八高(名古屋大学の前身)に入りました。高校1年生の時の英語の先生が、理屈一本の人で、なぜかポアンカレの「科学の価値」(岩波文庫)という本を勧めてくれました。言われるままに買って、ものすごく難しかったのですが、最初から無理矢理読みました。科学至上主義で、技術や応用のことなんて全く書いてない。これが、僕のサイエンスの始まりです。その英語の先生も僕の理屈っぽさを見抜いていたのでしょう。本が好きではない僕がなぜ手をつけたのか、今でも不思議なんですがね。

理学部への進学は消去法の結果です。理屈っぽくて数学がまあ得意だけれど、体が強くない僕は労働には向いていないと思い、工学部はやめました。それで、理学部にしようと決心しました。理学部で一番まともなのは物理だと思っていましたから、東大の物理を受けました。口頭試問で物理が好きな理由を尋ねられましたが、正直に全く理由がないと答えました。こう言うと驚かれることが多いのですが。

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中学校の時に亡くなった先生を偲んで書いた作文。淡々とした文章に科学者としての片鱗を感じる。

統計力学との出会い

1942年の東大入学と同時に偶然見つけた下宿が「理科の家」です。理化学研究所に勤めている方が主人で、東大の理科系の人しか入れませんでした。下宿生は数学、物理、農学、工学など分野もさまざま、大学一年生から、大学院生はもちろん、助手の先生まで立場もさまざまな人が一緒に暮らしていたので活気がありました。いい下宿だから、なかなか離れていかないのです。そこの先輩から物理をやるのならぜひ読んだ方がいいと勧められた本が非常に適確でした。『ギブスの統計力学』や『デイラックの量子力学』などです。この『ギブスの統計力学』を一年生の時に読んだのが運命の分かれ道でした。全文をノートに写しました。もちろん全て英語です。ただ、少しずつ理解しながら最後まで読むことができても、結局はそこに何が書いてあるのか、全体としての目的や意味は分からなかった。そのわからなさが魅力でした。それだけスケールの大きな本だったのでしょう。そのノートは今でも大事に持っています。『デイラックの量子力学』の場合はハイゼンベルクとシュレーディンガーの比較の辺りで、前へ進めなくなってしまいました。難しすぎて、それ以上前進できなかったのです。とても最後まで読めません。こんな事情で統計力学に惹かれたので僕は大学の後期に小谷正雄先生(東京大学及び東京理科大学名誉教授・故人)のゼミに参加しました。そこでは合金の秩序無秩序転移の総説を読みました。ゼミの開始時間は決まっていなかったので、ゼミ仲間の4人が玄関口にある用務員さんの部屋で小谷先生の帰りを待ったものです。たいていは、待ちくたびれた夕方に小谷先生がやってきて、ゼミが始まります。学生が読み進めなくても、先生はうんともすんともおっしゃらないので、よく長い沈黙が続きました。それでも先生が「今日はここまでにしましょう」とは言われない。たいていは、ゼミで僕とペアを組んでいた大森荘蔵くん(哲学者・東京大学名誉教授・故人)が「じゃ、やめよう」って言いましたね。物理が面白く感じられるようになったのは、ゼミに入ってからです。統計力学の本を片っ端から読みましたし、ゼミに関係する原著論文も全部読みました。

統計力学のゼミの途中で勤労動員になり、日本無線という真空管を作っている工場に配属になりました。そんなある日、小谷先生が見舞いに来て、僕ら4人に真空管作りは大変だから、物理の理論を続けましょうと言われ、マグネトロンの発振理論がテーマになりました。真空管づくりから解放され、部屋で本を読んでいられるのですから、本当にいい身分でした。

第二次大戦の話になると必ず出てくる神宮外苑での学徒出陣の出陣式は、ちょうど兵隊検査が重なり行けませんでした。検査の結果、クラスで一人だけ完全不合格、兵役免除です。当時は理科系の学生でも卒業したら軍隊に入らなければならなかったのですから運が良かったと思います。おかげで名古屋大学の宮部直巳先生(地球物理学者・故人)の助手にすんなり就職できました。宮部さんは寺田寅彦門下で早くから地盤沈下を研究されており、地滑りが専門です。ガラス張りの箱の中に砂をつめて、片側の壁を取り去ったときにおきる砂の滑りを解析した研究の報告を寺田寅彦との連名で1928年に出した方です。非常におもしろい研究です。

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寺田寅彦と宮部直巳の地滑りの研究論文(1928)。

野外から実験室へ

戦時中ということもあり、たったの2年半で大学を卒業した後の名古屋大学での初仕事は、1944年12月7日の東南海大地震後の調査です。名古屋気象台の人と組んで2~3日かけて調べました。陸上の交通が断絶していたので、紀伊半島の伊勢から半島の突端までを船に乗って海の方から岬を回りながらの調査でした。入り組んだ入り江では波が高くなるから家は全部流され、中腹の家がようやく残っているくらいでした。残った家の柱の波の跡から津波の高さをしらべたりして、宮部さんに報告書を出しました。すると、すぐに引き出しにしまわれて、戦時中だったので正式な被害調査報告は出てないと思っていたのですが、何十年も後に気象台にガリ版の報告書があることを知りました。今でも見られるはずです。「三日前にネズミがさわいだ」「どこそこ湾で鰺が良くとれた」という土地の人の聞き書きなどがある、なかなか気の利いた調査もあって感心しました。どうやら生真面目な僕には洒落た報告書をつくる才能はないんですね。宮部さんは大沢くんはこういう仕事には向かんと実感なさったのでしょう。翌年の一月に起きた三河地震という直下地震の調査は頼まれませんでしたから。つまり、野外から研究室内への配置転換です。体が弱いので外に出すのが気の毒だと思われたのかもしれません。

研究室内では、校庭でかき集めた泥を試験管に入れて一日眺めるという、のんきな実験をしました。窓際に薄い泥水を入れた試験管を並べると試験管の中で上下にではなくて横むきに対流が起こって泥の粒子が回るのが見えるのです。よく観察すると、晴れた日には全体が回り、曇った日は対流がこまかく分かれている。泥を墨に変えるとよりはっきりと対流が見えました。窓側と部屋側の非常にわずかな温度差が原因だったのです。早速レポートを書いて宮部先生のところへ持っていくと「うん、そうかね」という調子で再び引き出しにしまわれてしまいました。宮部さんは1950年に東京に移ってしまわれたのですが、名古屋大学の理学部創立25周年の記念パーティー(1967年)で宮部さんに「大沢くん、あのときはデータを引き出しに入れたままにしてすまなかったな」と20年も前のことを言われた時には驚きました。そんなに長い間覚えていたのですから、宮部さんなりに気にしていたのでしょう。そんなこともあって、統計力学理論の仕事については勝手に論文投稿したり、学会発表していました。そのうち、泥では飽きたらずに、合成高分子の研究をやりはじめました。

後になって自覚するのですが、僕は宮部さんの影響で、非正統的物理学も面白いと思うようになっていたのです。宮部さんは寺田寅彦の弟子ですから、僕は孫弟子として寺田物理学の影響を受けたということになりますね。

疎開しながらの研究

昭和20年3月25日の名古屋大空襲で、三菱重工を爆撃するはずの飛行機が名古屋大学の近くに焼夷弾やら爆弾やらを落として行きました。焼夷弾で下宿は燃え、学生も一人死にました。その後すぐに理学部全体で疎開することになり、僕らのグループは信州の小諸へ行きました。小諸には爆弾も落ちて来ず、とてものどかだったので、戦争の事など全く気にせず即席の仮実験室で実験していました。中にはレコードをもってきた学生がいて、ベートーベンの作品132とシューベルトの「水車小屋の娘」をよく聞きました。不思議なくらい、優雅な世界でした。悪いことと言えば、栄養失調になったくらいです。8月に入って、広島に大変な爆弾が落ちたらしいという噂が耳に入ってきました。疎開前から名古屋大学では坂田昌一先生(名古屋大学名誉教授・故人)が原子爆弾の設計についてセミナーで話していらしたので、実現可能であることは知っていました。どうやらそれらしいというニュースが入ってきたのです。そして8月の15日に終戦の放送を聞きましたが、僕は特に感想もなく、その日も実験室でコロイドコロイド二つの相が混在したもので、第一の相の中に微小な粒子状の第二の相が分散している状態。生きものを構成する物質の大部分はコロイド状態にある。水溶液中に脂肪が分散する牛乳もコロイドの一種。の実験をしていました。当時の僕には不幸なことが自分の身に降りかかるという気持ちが全くなかったのです。戦時中に亡くなった父や兄、ほとんど寝てばかりいた母の分の運をもらって、自分は特別だと思っていたのです。戦争なんて、他人ごとだったんです。親戚中を眺めても僕はみんなの分の運をとってしまったような気がします。

コロイド科学から生物の物理へ

研究対象が泥、コロイドから合成高分子となり、次にコロイドは電荷をもっているからコロイドの研究の経験を生かして、電荷をもった高分子、高分子電解質の研究をはじめました。そこに転機が訪れたのが1949年。ウェルナー・クーンとアハロン・カチャルスキーが、ポリアクリル酸とポリビニルアルコールを混ぜてゲルを作って、酸につけると縮み、アルカリにつけると伸びることを示しました。われわれもそのマネをして同じゲルを作り、その伸縮を調べる実験を始め、自分なりの理論を作りました。これを人工筋肉の研究として、筋肉と神経の専門家の伊藤龍先生(名古屋大学医学部)にお見せしたところ、筋肉を研究していらした名取礼二先生(元東京慈恵医科大学学長)と引き合わせてくれました。これが生物学に足を踏み入れるきっかけです。名取先生は筋肉細胞を壊していき、どの段階で収縮やその制御の機能がなくなるかというようにマクロの方から実験をすすめていらしたので、僕らは筋肉を構成するタンパク質分子から、スタートして階段を上ってどこでどのように収縮機能が生まれるかをしらべることを目指しました。つまりミクロの方から攻めたのです。これを名取の階段と言います。名取先生が上からで僕らが下から、階層を貫いて筋肉を理解する試みでした。

ウサギの筋肉から抽出したアクチンで実験を始めたのが、31才の時です。電気冷蔵庫も超遠心機も低温室もないのにですよ。30代にしてようやく本当の実験を始めたと思いましたね。アクチンは球状の分子ですが、数珠状に集まると繊維状になります。大沢文夫・朝倉昌(名古屋大学名誉教授)・堀田健(名古屋市立大学名誉教授)・今井宣久(名古屋大学名誉教授)・大井龍夫(京都大学名誉教授)の5人で朝から晩まで実験しましたよ。実験に使うウサギを殺して筋肉をとるまで、筋肉からアクチンを抽出精製するまでの各手つづきを皆で分担して、とれたアクチンの性質をしらべる装置の受け持ちも決まっていました。僕はちょっと工夫をした粘度計を作り、アクチン溶液の粘度を調べました。大井さんは光散乱を利用して濁度を計り、今井さんが流動複屈折でアクチン繊維の並びやすさからその長さと量を調べました。朝倉さんは電気泳動で動く速さを調べ、堀田さんは浸透圧を測っていましたね。まさに5人での分業です。最初の論文が出たのが研究を始めてから5年後で、タイトルは「繊維状縮合としてのアクチンのG-F変換」です。昔は長期間論文が出なくても平気だったのです。のんびりとしたよい時代でした。水に溶かしたアクチンはばらばらの単分子で、G(globular)アクチンと呼びます。ここに塩化カリウムを加えて生理条件に近づけると、単分子がつながって繊維状のF(fiber)アクチンになる。その途中で何が起きているのかをしらべたのですが、水溶液中の塩化カリウム濃度を中間の濃度にしておいてアクチンの濃度あげていくと、ある濃度(臨界濃度)を境に単分子状のアクチンが繊維状になることが分かりました。水溶液中では臨界濃度の単分子のアクチンと繊維状のアクチンが共存していて、塩化カリウム濃度によって臨界濃度が変わることも明らかにできました。つまり、ばらばらな状態と繊維状態との間でアクチンが可逆的に変換しており、その中間の構造はないということが分かったのです。生体分子集合の動的平衡動的平衡巨視的には静止しているように見えながら微視的には動いている系のこと。例えば、化学反応では、反応物と生成物の量や濃度が一定に見えても、分子レベルでは反応物が生成物へ、生成物が反応物へと絶えず変換されている状態。状態を初めて示した実験です。

POLYELECTROLYTESに僕の高分子電解質の仕事をまとめました。日本人よりは外国人に人気がありました。絶版になったが、いい本です。
Thermodynamics of the Polymerization of protein(大沢、朝倉)も今でも広く読まれています。

研究室で小谷先生(左端)を含めてディスカッション。(正面:本人)

研究室仲間と乗鞍岳へ。(後列左から二番目:本人)

学会中のハイキング(右から三人目:本人)

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最初のアクチンの論文。5人の共著となった。図はばらばらのアクチンと繊維状のアクチンが水溶液中に存在し、動的平衡であることを示している。

生きもの研究の鉄則

ところが、かねてからアクチンの研究をしていたボストンのガーガリー(John Gergely)さんの研究室から全く反対のデータが出ました。中間的な塩化カリウムの濃度ではアクチン分子はみんな数個がつながった中間状態にいるというのです。ただ、他の研究室で違うデータが出たからと言って心配することはありません。生物研究では、実験手順が少し異なるだけで結果に影響することがままあるのです。例えば、アクチン溶液の調製には、ウサギの筋肉からつくった乾燥粉末に水を加えた後、ガーゼでアクチンを絞り出すのですが、この時の力加減が人それぞれです。力を込めて無理矢理絞ると、アクチンがたくさんとれますが、不純物が混じりやすくなります。一方、そーっとしぼると少ししかとれないのですが、不純物は少ない。このように、絞り方加減でその後の実験結果が左右されるのです。ですから、僕たちは実験の準備からすべて自分でやることを心がけていました。今や誰も信用しないけど、僕の実験時間の7割はビーカーや試験管洗いでした。最近は、人がやとえるので洗い物は自分でやらず、その時間を有効利用して論文を早く書こうという動きになっていますが、あまり良い風潮ではありませんね。1960年にはじめてアメリカに行ったとき、洗い物などをする実験の補助者を雇っているのを目にしました。

僕らの実験ではサンプルを自分たちで調製するのが鉄則でした。今は信用のおけるサンプルを注文できるとは思いますが、できれば自分の研究室で用意したいものです。共同研究は聞こえはいいけれど、データが違っていたときに原因を確認しづらいのです。
当時の僕らの気持ちは
1, 研究室は自分でつくるものである。
2, 研究装置は自分で作るものである。
3, 研究とはお金がなくてもできるものである。
というのでした。今でも本当に大事なことだと思っています。

1959年に最初の論文を出した後は、ウサギ以外の動植物にもアクチンがあるに違いないと考えて、1961年から研究を進めました。秦野節司さん(名古屋大学名誉教授)が筋肉細胞でない真正粘菌から、1966年にようやくアクチンを単離精製しました。高等生物ではない粘菌にも存在することが確かめられたので、おそらく全ての生きものの運動する細胞がアクチンを持つに違いないと実感しました。次に三木堆子さん(お茶の水大学名誉教授)がウニの卵を調べました。卵は運動器官ではないのに、細胞内にちゃんとアクチンがありました。細胞分裂に必要なのです。ウサギ、粘菌、ウニの卵と、ここまでの生きものの選択は絶妙だったと思っています。全生物、全細胞にあるということが言えますから。実は1962年には、大西勁さん(フィラデルフィア生物医学研究所所長)が赤血球と胸腺と葉緑体などからアクチンを単離していました。あんまり早すぎる発見だったので、注目されずに忘れられてしまったのですが、何年も経ってから再認識されました。

葛西道生さんと実験室にて。(右:本人)

忙しくてなかなか集まれない研究グループの面々。(左から4人目:本人)

朝倉昌さん(右)と名大理学部A号館で。(左:本人)

研究室のメンバーと。中央がアンドリュー・ハックスレイさん。(後列右から5番目:本人)

筋肉御三家が揃った仙台での生物物理学会年会。左が江橋節郎先生、で右が殿村雄治先生。(中央:本人)

柔らかい機械に行き着く

僕はラジオ好きな少年ではありませんでしたし、もともと固いイメージの機械は嫌いでしたからアクチンが柔らかいと思い至ったのは自然の流れかもしれません。1961年にはFアクチンがらせん状重合体であることを理論的に導き出しました。1963年には二重らせん構造をしていることが電子顕微鏡でハンソン(Jean Hanson)さんによって示されました。そのようなFアクチンは変形するはずで、それが運動に関係するのではないかという期待から、Fアクチンが柔らかいことを証明しようとしました。その後、朝倉昌さんがある条件ではFアクチンがATPを分解するということを見つけ、葛西道生さん(大阪大学名誉教授)が放射性同位体を用いてFアクチンの中のアクチン分子間の結合が切れたりくっついたりしている可能性をしらべました。そして、1970年に、藤目智さんが周波数一定のレーザー光をあてたドップラー効果でFアクチンの曲げの熱運動を検出することに成功しました。この実験からFアクチンが柔らかいということが明確になりました。ところが、筋肉収縮のメカニズムとしてFアクチンの上をミオシン分子がATPを加水分解しながら歩くように動いて力を出すというスライディングモデルを考えると、Fアクチンが固くないと都合が悪いので、Fアクチンがやわらかいということはなかなかうけ入れられませんでした。論争が続く中、1978年に朝倉さんらによって柔らかなFアクチンの姿が顕微鏡で直接見えるようになり、決着がつきました。百聞は一見にしかず。ここまで証拠が揃うと、世界中の研究者の態度があっという間に変わって、Fアクチンはアクチンという粒状のタンパク質分子どうしがつながっているのだから、柔らかいのは当たり前だという風潮になりました。ただし、なぜ柔らかい方がその上をミオシン分子がスライディング(すべり運動)しやすいのだろうかという難問が残りました。従来の機械のイメージはどうしても固い。それとは根本的に考え方を変えなければいけないと考えました。柔らかい方がいいという機械はどのようなものか。ここでは大きさも考慮しなければなりません。

アクチン分子は直径5ナノメーター(nm)、ミオシン分子は長さ20ナノメーター(nm)ぐらいです。(1nmは百万分の1mmです。)このくらいの大きさの機械を考えてみましょう。水の中ではこのような機械が使うエネルギーが水分子の熱ゆらぎのエネルギーと大差ありません。そこで機械の部品と水との間にエネルギーのやりとりがある。歯車がかみ合ったような固い機械はうまくはたらけないのではないか。そこでナノの世界ではエネルギー変換器は柔らかい、そして柔らかい機械では入力と出力の関係が1対1にきっちり対応していないという考えたのです。

そんなことを考えている時、バクテリアの鞭毛モーターで面白いことがわかってきました。鞭毛モーターは膜を介した水素イオンの流れでタンパク質分子のモーターが回転します。水素イオンの入力のエネルギーが小さくなって、熱ゆらぎのエネルギーとほとんど変わらなくても、鞭毛モーターは一方向に回転することが実験的に証明されました。理論的には熱ゆらぎによって水素イオンが出たり入ったりと行き来しているはずなのに、モーターは一方向にまわるのです。水素イオンのさかんな行き来を平均して回転につなげるという統計操作が鞭毛モーターの中に入っているということでしょう。もっともこれは僕の説ですけどね。こういった研究の中から「ルースカップリング」ルースカップリングナノメートルの世界で活躍するタンパク質などで作られた生きものの分子機械は入力と出力の関係が一定ではないという考え方。生きものの分子機械は小さいために入力のエネルギーと熱揺らぎのエネルギーがほとんど変わらないが、周りから絶縁することもなく水の中で常温で動く。分子機械が働く場合には周りの環境とエネルギーをうまくやりとりしていると考えられる。という概念が生まれました。

1978年の国際生物物理会議で。右から伏見康治さん、小谷正雄夫妻、寺本英夫夫妻、本人と奥様。

大阪大学の研究室メンバーでのボーリング大会。(前列右から3人目:本人)

1979年の熊谷・名取シンポジウムのパーティーで。右から葛西道生先生、ヒュー・ハックスレイさん、本人、丸山工作さん。

名取礼二先生(右)と。左は奥様。

いいかげんさ、ゆらぎ

西洋の人は固い機械しか機械と言わない。機械工学の先生がそう言っていました。入出力が「ルースカップリング」であるものを機械とはいいませんと言われてしまいました。機械の定義がそうなっているようです。機械の場合、歯車が滑って狂うことはあるかもしれないけれど、本来は一対一に対応するものだというわけです。これはワンパラメーターシステムといって、機械の中のある歯車の位置を決めると全体が一義的に決まるのです。このような、決定論的なものしか機械とは言わないのです。それを、われわれは勝手に機械という意味を広げてしまった。われわれの使う分子機械という言葉がその例でしょう。いまだに西洋の人は、ルースカップリングを支持するデータが出たときには、たまたま歯車が滑った(間違えた)結果だと解釈するのです。つまり、本質はタイトカップリングで時々間違えるという考えのようです。僕たちは本質がルースカップリングだと思っているのですが。思想としてかなり違うから歩み寄るのは難しいですね。

僕らの年代は西洋の動向を気にしません。戦後生まれの方が気にしますよね。世の中の風潮かもしれません。僕の生きている間にルースカップリングがどう受け止められることになるのか楽しみです。一方で、そんなに早くルースカップリングが世の中にうけ入れられては困るという気持ちもあるんです。ある日突然、世界中の研究者が当たり前のように語りだすと僕の独自性なんかなかったようになりかねない。世の中の大勢になってしまうと一人で頑張っていたことが忘れられてしまいますよね。孤軍奮闘の方が格好いいじゃありませんか。とにかく、このルースカップリングが生きものらしさのもとであると思いたいのです。

ちょっとつけ加えますと、僕らの研究室では分子機械の研究とは別にゾウリムシの行動の研究をしていて、行動にみられる自発性に興味をもちました。“自発性”も生きものらしさのひとつですね。ゾウリムシは自然環境の中で常にあちこち泳ぎまわって住みよい場所を探しています。それには自発性が大切なのです。細胞の中の分子のゆらぎをわざわざエネルギーを使いながら何段階か増幅して自発信号を作り、泳ぐ方向をときどきランダムに変えるのです。その自発信号を出す頻度を環境の変化に応じて制御します。

細胞のレベルでは入力と出力が1対1に直結していないのはむしろ普通のことです。分子機械でのルースカップリングの話と、細胞の自発性の話とは根っこでは関係があると思っています。

2002年の産業技術総合研究所(池田)での講演後の懇親会にて。右端は葛西道生先生で二列目右から2人目が柳田敏雄先生。(前列右から2人目:本人)