発想の天才か、技術の独創か

科学の世界の天才には、すぐれた直感力で他の人が気づかない隠れた原理を見つける人がいます。こういう天才には、技術的な限界など関係ありません。みんなと同じ研究手法をとりながらも、一人だけ正しいゴールに達してしまうわけなんです。

じゃあ天才でなければ新発見ができないかというと、そんなことはない。まず新しい方法を作りあげて、そこから新しい原理や概念を見つけるというやり方があるでしょう。これが僕の選んだ道です。既存の概念は既存の方法に基づいて築かれたものだから、方法論が独創的なら、既知の概念や原理を乗り越えられる可能性がある。もちろんせっかく新しい方法を考えたのに、結局は既存の概念の正しさを証明してしまうだけの場合もあるし、そもそも方法が作り出せるかどうかわからない。進み続けるには勇気のいる道だけれど、新しい方法で生命現象を論理的に説明するという課題に挑戦し続けてきたし、今もまだ続けています。

1歳の時。

研究への憧れ

子どもの頃の思い出は、大きな家かな。生まれ育った岐阜県の大垣市は城下町で、蔵や馬小屋まで備えた武家屋敷で育ったのです。姉さんがいたけど年が離れていたので一人っ子のように育ち、庭の池や花壇を見ながら、空想を巡らせるという子どもだった。

大垣は空襲で大きな被害を受けたけれど、幸い家は無事でした。しかし戦後の大きな混乱期、母は苦労したようです。そこで、子ども達には教育を受けさせ、何か一つの道に秀でた人物になって世に出て欲しいと願ったのですね。母の責任感の現れだったのかな。小さい頃からそんな母の期待を感じ、何か好きなことを見つけて、それを究めたいと思っていました。

僕の家は学者の家系ではなかったのですが、親戚には留学したり、大学の先生や研究者になる人が大勢いました。中でも叔父の中西香爾(現コロンビア大学教授)は当時名古屋大学の化学の助教授で、大学の研究室に連れていってもらったりもしました。学生と活発に議論する若い叔父を見て、研究者に憧れたのですね。子どもなりに考え、研究をして、さらに直接人の役に立つのは医者だろうと思いました。親戚に、医者が一人もいなかったというのも理由の一つですが。

中学生の頃。このポーズが素敵だと親戚から言われた。

香爾おじさん(左)とは今もよく会っている。京都国際会議場で。

親友との出会い

医学部を目指しはしたけれど、もともと僕は勉強一辺倒というタイプじゃないんです。朝早く起きてソフトボールに汗を流したり、土曜日の午後は化学教室を使わせてもらって友達と実験を楽しんだり、そんなことに熱中してましたね。京都大学を目指したのも、自由な校風のイメージに惹かれたから。

医学部の同期生にも、実は勉強は好きじゃないという連中が大勢いましたよ。もっとも今から考えると、みんな何かしら独自の能力を持っていた仲間でしたね。それがお互いに切磋琢磨して、自分の才能を開花させていく。そういう雰囲気が大学にはまだありましたね。

ここで知りあった仲間に本庶佑(現京都大学大学院医学研究科教授)がいます。彼とは40年来の親友。困っている時には助け合ってきたし、何より若い時からのつきあいの中で、お互いに何を目指して研究しているかわかっているという信頼感がある。本当に良い友に会ったと思っています。

自分の道を探り、将来がわからない時に、いろんな仲間と出会い、生涯の友人と出会うことができたのはとても恵まれていたと思います。こういうことが大事ですね。

後立山に登る。山頂での記念写真。

大学1年の時。学部対抗のボートレース。左から4人目にいるのは本庶君。(右端:本人)

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Scientist Library:
生命誌37号
『 免疫のしくみに魅せられて-何ごとにも主体的に挑む』
本庶 佑

基礎か臨床か

医学部入学の時から臨床医を目指しましたし、ポリクリ(病院実習)で患者さんを診たときも、臨床は面白いと思っていました。ただ当時は病気は記述の対象でしかなく、論理的に解釈できる段階ではなかったのです。患者さんに病気の原因を説明しようにも、神経障害とかウイルスとか免疫疾患とか、どれも同じような可能性を説明するわけです。論理にこだわりのあった僕には、居心地が悪くて。一方、同級生とよく論文の輪読会などをを行っていたので、がんとウイルスの関わりがわかったなどというわくわくすることが出てくるんですよ。そっちに惹かれましたね。

臨床医は患者さんを救うのが最大の使命で、その病気が論理的に説明できるかできないかは重要ではない。基礎医学を選べば、自分の力で病気の解明をめざせます。基礎か臨床かずいぶん悩みましたが、結局は、医学の研究をしその体系化をめざすのが合っていると思ったのです。

医学生時代の進路の悩みから40年たった今、この選択が間違っていたとは思っていませんし、基礎医学の発展にいくらかの貢献をしたという自負もあります。ただ、直接患者さんを治す道を選ばなかったことに全く後悔が無いわけではありません。医療の道を究め、患者さんの命を救う医師として活躍している友達を見るとやはりすごいと思います。肝臓移植を実現した田中紘一(現先端医療振興財団先端医療センター長)や、カテーテルの心筋梗塞治療を開発した延吉正清(現小倉記念病院院長)らはそんな同期生です。もし僕もその道に進んでいれば、やはり同じように患者さんを治すことに全力を傾けていたと思いますよ。成功したかどうかはわかりませんがね。

大学では医学部ラグビー部に所属。(前列左から3人目:本人)

京大病院の前で。基礎か臨床かで迷っていた頃。(右端:本人)

卒業記念は伊豆へ麻雀旅行。後列右端は本庶佑(現京都大学大学院医学研究科教授)、左端は延吉正清(現小倉記念病院院長)。(前列左端:本人)

医化学の道へ

基礎医学として興味があったのは、医化学でした。医化学はその名の通り、化学反応から人体のメカニズムを知る研究です。僕は考える時、具体的なモノ(物質)からイメージするタイプなんです。高校生の時も物理学は非常にイメージしにくかったのに対して、化学は大好きでした。それも、化学は物質から考えられたから。そこで、医化学の道を選んだのです。細胞内の複雑な代謝経路を制御する酵素の研究です。

当時の医化学講座は早石修先生(現大阪バイオサイエンス研究所名誉所長)を筆頭に10数人のスタッフを抱える大所帯でしたが、まもなく医化学第2講座を発足させ、その教授にドイツのマックスプランク研究所にいた沼正作先生沼正作生化学者・分子生物学者。神経伝達に関わるイオン・チャネルの解明に大きな功績を残した。京都大学在職中の1992年に逝去。を迎えることになっていました。本庶君は早いうちから基礎に進むことを決めて早石先生に師事していたので、沼先生がどんな方かも知らないまま、「お前が早石研に行くなら、僕は沼研に行く」と決めました。

沼先生が帰国するまでの1年間は助教授の橘正道先生(現千葉大学名誉教授)につきました。「生化学者は砲兵でも騎兵でもない。歩兵である」というのが持論の方で、毎日こつこつ実験するのが大事で、何の進展もない日を送るのは真の科学者ではないと、よく怒られました。心から若い人を育てようとされた方で、橘先生から生化学に必要な知識と技術を体系的に仕込まれたことのは本当にありがたかったですね。この時の経験から思うのは、大学院生の時に必要なのはまず手本を見つけてそれに習うこと。そこに自分のオリジナリティを後から加えなきゃいけませんけどね。

医化学講座の伝統のひとつに、早石先生がアメリカのコーンバーグ研に倣って始めた毎日のランチセミナーがありました。大学院生が最新の論文を読んで発表するのですが、早石先生を始めスタッフから厳しい質問を浴びせられ、現在行われている研究をあらゆる角度から検討することを求められるのです。真剣勝負であり、学生からは「早石道場」と呼ばれ恐れられていました。

僕がこの道場に参加し始めた時、助教授の方が3人おられ、それぞれユニークな質問をされるんです。橘先生は、論理展開に少しでも曖昧さがあるとすぐに指摘する。後に滋賀医大の教授になられた野崎光洋先生(現名誉教授)は、直感的におかしなところを見抜く名人。細胞内情報伝達の研究で世界中にその名を知られることになる西塚泰美先生(元神戸大学学長・故人)はめったに質問しないのですが、たまに口を開く時は、勉強してきた事が根底から崩れるようなコメントをされましたね。つまり3人は、研究者として必要な、論理、感性、発想のお手本だったわけで、若い時に素晴らしい教育を受けたと今でも感謝しています。

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Scientist Library:
生命誌28号
『 運・鈍・根 酸素添加酵素と睡眠』
早石 修

生化学を教わった橘正道先生(左から2人目)。先生に怒られて育った弟子達が今でもよく集まる。(右端:本人)

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Scientist Library:
生命誌44号
『酵素に恋して』
アーサー・ コーンバーグ

方法論の開発から始める

沼先生のドイツでの研究は、脂肪酸の生合成のメカニズムでした。もちろん代謝経路はほぼ解明されていました。しかし生きもので大事なのは、体に必要な物質が不足しないように、あるいは作りすぎないようにうまく調節することです。このとき酵素自身が受ける合成や分解の制御の解明が、生化学の次の目標となったのです。

そのためには、酵素のタンパク質としての性質を知る必要があるので、細胞や組織からそれを抽出し、精製しなければならない。沼先生が提案されたテーマは、脂肪酸合成に中心的な役割を果たす酵素を純化することでした。この酵素は活性を保ったまま抽出するのが難かしくて、誰も成功していなかった。いきなり難題が僕にまわってきたのです。

世界中の研究者にできないことを、何の工夫もなくやって成功するはずがないから、他の人とは違うやり方を見つけなくちゃだめだと考えました。例えば、酵素は一般的に熱に弱いので抽出は必ず低温室で行うものとされています。ここでひらめいたんです。酵素によっては、実際に体内ではたらく時の条件に近い方が安定な場合があるのではないか。そこで適当な条件下のもと室温でやってみたらなんと簡単に活性のある酵素がとれたんですよ。沼先生もびっくりして大喜びしました。

医化学教室の忘年会。中央に早石先生。左隣でグラスを持つのは沼先生。(右端:本人)

酵素から遺伝子へ

酵素の研究はとても面白かったんですが、これを続けても、大発見は出てこないだろうと思い始めたんです。だって、酵素が必要な時に作られる仕組みの基本は、酵素を作る遺伝子の制御が関わるわけでしょ。大腸菌では遺伝子制御の仕組みがわかってきていましたが、その他の生物では全然。大学院の4年間が終わったら、次のテーマは遺伝子だと決めていました。

本当はすぐにでも動物の遺伝子を研究したかったのですが、遺伝子組換え技術はまだなく、遺伝子の研究ができるのは大腸菌だけです。「大腸菌では将来の職は世話できない」と沼先生から忠告されましたが、自分で決めた道なので、思い切って留学しました。大腸菌とそれに感染するファージで面白い研究をしていた、NIH(米国立衛生研究所)のアイラ・パスタン博士のポスドクになったのです。最初に正直に、自分は遺伝子の研究がやりたいだけでずっと大腸菌をやるつもりはないと告白すると、アイラも医学部の出身で、俺も実は将来はがんを相手にしたいのだと語ってくれました。二人とも同じことを考えていたことがわかり、たちまち意気投合しました。それ以来、今でも師弟を越えた関係が続いています。

留学中の1972年にポール・バーグポール・バーグアメリカの分子生物学者。1980年ノーベル賞化学賞受賞。が遺伝子組換え技術を発表し、「これからいよいよ動物の遺伝子工学の時代だ」と、新しい時代が開けるという感じでわくわくしました。永住ビザをとってアメリカに残る所だったのですが、思いがけず沼先生から助教授で戻ってこないかという誘いがあったんです。全国に医科大学が新設され、先輩のスタッフが次々に教授として転任していったのでたまたま空きができた。沼先生も、僕が動物の遺伝子研究をやりたいことは知っていましたので、助教授ならある程度独立して研究できると思い帰国しました。

米国科学アカデミーのパーティでパスタン博士(右端)と再会。なお夫人のリンダ・パスタンさん(中央)は著名な詩人である。

ホルモン合成の謎に挑む

動物の遺伝子研究といっても、具体的には何をするのか。アメリカにいる間にたくさんセミナーを聞きに行って、何をやってはいけないかははっきりしていました。赤血球のヘモグロビン、抗体分子のイムノグロブリン、膵臓ホルモンのインスリンの3つは、超一流の研究室がしのぎをけずっていました。本庶君は留学中にイムノグロブリンの研究に魅せられ、帰国後もこれに挑戦し続けましたが、僕の場合、大腸菌からの転向ですから、日本でゼロから始めて勝てる見込みはありません。

遺伝子工学という新しい手法の利点がもっとも発揮され、未知の原理が明らかになるかもしれない分野は何かと考えた続けた結果、内分泌学に決めたんです。ホルモン遺伝子の解析です。理由は3つ。当時遺伝子をとるには、まずmRNAを純化してそれを鋳型に合成したDNA(cDNA:cDNA相補的(comple-mentary)DNAの略。細胞内ではたらくmRNAを鋳型として逆転写酵素を用いて合成できる。真核生物のゲノムDNAはタンパク質の情報がイントロンで分断されているので、mRNAの情報を元に合成したcDNAで遺伝子操作を行うことが多い。)を操作する必要があるけれど、内分泌系の組織は特定のホルモンを盛んに合成しており、mRNAを集めるのが楽だということ。ホルモン分泌は必要に応じて行われるように厳密に遺伝子発現が制御されていること。さらに、多くのホルモンが小さなタンパク質(ペプチド)としてはたらくにもかかわらず、最初に合成される前駆体タンパク質はかなり大きいらしいというのが謎であること。従来の生化学的手法では最終産物の小さいタンパク質のことしかわからず、前駆体の構造はわからなかったのです。

神戸大学の井村裕夫先生(元京都大学総長)が、脳の下垂体で作られる副腎皮質刺激ホルモン(adrenocorticotropic hormone;ACTH)は、かなり大きい前駆タンパク質から切り出されて39個のアミノ酸を持つペプチドになるという研究をされていました。このACTH遺伝子をクローニングクローニング細胞の持つ膨大なゲノムの中から、特定の遺伝子領域に相当するDNAをとりだすこと。することを目標としました。

Nakanishi's Structure

最初に、牛の下垂体からmRNAを集めて、無細胞系でのタンパク質合成を試みました。無細胞系とは、コムギの胚芽細胞などタンパク質合成を盛んに行っている細胞の抽出液にmRNAをまぜる方法です。こうすれば抽出液に大量に存在するタンパク質合成装置がmRNAを読み取り、タンパク質を合成してくれます。しかもコムギにはACTHの前駆タンパク質を分解する仕組みはないので、全長のタンパク質が得られるはずです。日本ではまだ誰もやっていない手法で、色々探したら日清製粉に麦芽があることがわかり、実験に使うのは数グラムで十分なのに、何キログラムも送ってくれました。

麦芽の無細胞系でちゃんとACTHの前駆タンパク質が合成できたことは、井村先生からいただいた抗ACTH抗体で確かめることができました。この実験で、ACTHはその7倍の大きさのタンパク質から作られていることがはっきりわかったので、その前駆体の構造を知るために、いよいよ遺伝子のクローニングです。毎日毎日、数十頭の牛の脳から小さい下垂体を集めてACTHmRNAの純化を行いました。

クローニングはまだ日本では実用化されていない段階で、本庶君だけが東大で試みていた。そこで彼に相談すると、「急いでいるか?」と聞くんです。実はインスリンのクローニングに成功したグループがACTHに取り組み始めたらしいと聞いていたので、競争になりそうだと答えると、「本庶研ではクローニングに必要な試薬を1から準備している最中だ。手伝うことはやぶさかではないが、俺と一緒だとお前は負けてしまう。それよりもアメリカに行って一流の研究室と組め」と言うのです。本当に必要なアドバイスをくれる親友は、大事な存在です。遺伝子クローニング技術の開発者の一人であるスタンフォード大学のスタンリー・コーエンスタンリー・コーエンアメリカの生化学者。に共同研究を申し入れ、単身アメリカに渡りました。

行ってからわかったのですが、実はスタンフォード大学で成功したクローニングは、ミトコンドリアDNAなど大量のDNAサンプルが用意できるものだけで、少量のmRNAからcDNAを作らなければならない場合はうまくいっていなかったのです。結局、自分で試行錯誤。4ヶ月間必死に頑張って、なんとか成功したときは、嬉しかったけれど、正直疲れ切ってましたね。

スタンフォードでクローニング技術が実用のレベルに達したのは、僕が極めて精密に条件を検討し、実験手順を標準化したのも大いに寄与したと思っています。もちろんスタンフォード大学の研究環境も素晴らしかった。豊富な技術を持った助手がついてくれたり、他の大学で成功した方法についての情報がすぐにメモで廻ってきたりするのです。本庶君の言ったとおり、日本ではクローニングを進めていたら国際競争には勝てなかったと思います。

こうしてACTHのクローニングに成功し、ホルモンの前駆体タンパク質の構造を遺伝情報だけから決めたので、世界中が注目しました。世界で初めてですから。もっとも、クローニングの過程で遺伝子配列に間違いが生じるかも知れないと当時は考えられていたので、発表した前駆体タンパク質のアミノ酸配列が正しいかどうかはまだわからないという意見もありました。内分泌学の研究者はACTH前駆体の配列と言うのを避け、”Nakanishi’s Structure(ナカニシの提唱した構造)”と呼んでいましたね。

ACTH遺伝子の構造が明らかになったことで、ホルモン合成の重要な原理がわかってきました。小さなホルモンを作るのにまず大きな前駆体ができるのには理由があるんですよ。前駆体の構造を詳細に見ると、似たようなペプチドが何個も含まれていたのです。これらのペプチドが一斉に前駆体タンパク質から切り出されることで、体全体が速やかに一定の方向性の制御下に入るという巧妙な仕掛けです。

新しい手法を適切なテーマに投入することで、生命現象の新たな原理を発見するという狙いはみごとにあたったと思っています。方法論が独創的な研究を生むという持論を実証でき、この業績が認められて新設の講座の教授に昇進したわけです。

1979年、世界に先駆けて副腎皮質刺激ホルモンのクローニングに成功した。沼先生(前列左)を筆頭に、研究に携わった仲間達と喜びの記念写真。(前列右:本人)

沼先生の怒り

当時の研究体制では、教室を出て行く時はそこでやった仕事は残して、新天地では新しいテーマを開くというのが一つの不文律になっていました。新しい研究室には実験台しかない状況でしたが、教授になったからにはゼロから始めなさいということです。

最初のテーマには、痛みを感じる時に分泌される神経ペプチドであるサブスタンスPサブスタンスP脳および腸管組織に存在し、血圧降下と腸管収縮作用を示す生理活性ペプチドの1群。最初に粉末(powder)として単離されたのが名前の由来。を選びました。ACTHの成功例から考えて、サブスタンスPの遺伝子をクローニングして調べれば、きっと新たな神経ペプチドが発見できる。そうすれば、痛みのメカニズムがより詳しくわかるだろうと思ったのです。

この狙いも的中し、サブスタンスPとよく似た神経ペプチドを発見し、これをサブスタンスKと名付けました。この研究も世界的に高く評価され、新しい研究室を無事スタートしたとほっとしたのですが、ある時、沼先生から「君を教授にしたのは、あんな研究をしてもらうためではない。もっと新しい道を進むべきである」と言われました。これには僕もむっとしました。独立後は厳しい環境下で誰の手も借りずに成果を出した。従って色々言い訳はできるのですが、実際にこの研究がACTHの時に作り上げた方法論の二番煎じだということは自分自身が一番よくわかってたんですよ。それを容赦なく指摘されたから、余計腹が立ったんですね。

沼先生は、存命だったら間違いなくノーベル賞をとった方です。一方で、沼先生がクローン化した遺伝子を他の研究室に配らなかったために、科学者社会への貢献が低いという批判がありました。それは的はずれだと思っています。沼先生の若い時代、日本の研究環境は欧米と比べて著しく不利であり、沼先生が拓いた研究がいつのまにか欧米の研究室で徹底的に進められてしまうという痛い目に何度もあっておられた。そういう体験があって、日本で独創的な研究を進めるために守らなければならないものは守ると決断されたのだと思っています。

僕の世代でようやく研究資金もそれなりに得られるようになり、設備も整ってきましたが、それも先輩研究者が頑張ってくれたおかげです。そんな苦労をしてきた先生だからこそ、僕の研究姿勢が甘くなったと批判し、科学として一流ではないと強く指摘したのだと思います。沼先生は、科学者として本当に純真な方だったと今も思い返します。

晩年の沼先生。医化学教室の屋上で、大文字の送り火を見ながら議論した。

遺伝子探しの新手法

自分が本当に取り組まなければならない独創的な研究は何か、ずいぶん考えました。これまでに知られていたサブスタンスPと僕の発見したサブスタンスKは、似たような組成の神経ペプチドですが、その作用の速度が違い、反応性には差があることがわかりました。ということは、これらの神経ペプチドと結合する細胞の受容体は異なっているのではないかと推測できます。

当時ペプチドの受容体の正体は全くわかっていませんでした。サブスタンスPとサブスタンスKをよりどころに、その受容体探しをしよう。新分野への挑戦です。それまでは、神経ペプチドに結合する細胞膜のタンパク質を精製するというやり方ばかりで、まったくうまくいっていませんでした。「神経ペプチドの遺伝子を反対側からよんだのが受容体の遺伝子であり、それが生物学的に意味のある仕組みだ」などという何の根拠もない仮説を出す一流の研究者までいたくらいです。

ACTHの時は、ホルモンのmRNAを大量に作り出している組織が利用できたので、望みの遺伝子が取れたのだけれど、神経ペプチドの受容体にはそんな具合のよい組織はありません。新しい方法論を考えなくちゃダメなんです。

細胞からとれるmRNAが数千種くらいあるとして、その100倍くらいのcDNAを作れば、確率的に少なくとも一つは目的の遺伝子があるだろうという予測は成り立ちます。実際に沼研究室にいた時、50万個のcDNAを集めた「cDNAバンク」を作り、非常に発現量の少ない遺伝子を取ることには成功していました。ここから、特定の神経ペプチドに反応する受容体をどう探すかです。

イギリスのエリック・バーナードという研究者が非常に面白い実験をしてたんです。脳細胞から集めたmRNAをカエルの卵に注入すると、卵の中で脳ではたらくさまざまな受容体分子が作られて、卵細胞の膜に埋め込まれる。この卵に神経伝達物質を作用させると、神経細胞で起こるのと同じ電気的な反応が見られるんですよ。面白いでしょう。これだと思いました。

cDNAバンクからmRNAを合成して卵に注入し、その卵がサブスタンスPやサブスタンスKに反応するかどうかを試せばよいのです。cDNAバンクを分画してその作業を繰り返し、受容体遺伝子を探す。論理としては上手くいくはずですが全く新しい実験手法ですから実際にどうなるかはわからない。大学院生の一人に「一発あててみる気はあるか」と言ってやってもらいました。4年かかりましたけれど、ついに遺伝子にたどりつき、サブスタンスPとサブスタンスKはそれぞれ異なる受容体に結合することがわかりました。神経ペプチドが細胞に作用するメカニズムを分子レベルで初めて明らかにできたのです。

教授になった頃の一コマ。苦労して遺伝子が取れると、実験をした研究員に試験管を持たせ、ここに入っているぞと記念撮影。

受容体探しのヒントを得たエリック・バーナード博士。ロンドン大学を退官した時の記念国際会議で。

方法論が新しいテーマをひらく

サブスタンスPは、そもそも痛みを引き起こす物質として突き止められた分子で、生理現象の解明が出発点でした。僕たちの研究はそれが細胞に作用する詳細なメカニズムを解明することはできたのですが、受容体が見つかってもなぜ個体は痛みを感じるのかという根本的な問題は、今もまだよくわかっていないのです。分子生物学の限界ですね。そういう時は、一定の成果で区切りをつけることも重要です。これが科学なんです。

ただ、僕たちが開発した未知の受容体を探す方法を応用すれば、機能をもつ分子ということはわかっているのに、メカニズムがわからないために足踏みしている研究は進展します。脳の神経細胞間の情報伝達の多くを担っている神経伝達物質の一つ、グルタミン酸グルタミン酸アミノ酸の1種。脳の中で中心的な興奮性の神経伝達物質としてはたらく。グルタミン酸受容体はファミリーを形成しており、1989年に最初の1つがクローニングされていたが、脳の発達や記憶・学習などに重要な役割を果たすと予想されたNMDA型受容体は不明なままだった。がまさに当時そのような状況でした。

研究室のみんなは、グルタミン酸の受容体を明らかにしたい、と言うんです。でも、我々の方法は公になっていたんですから、世界の一流の研究者がグルタミン酸の受容体のクローニングを試みていることはよく知っていて、僕自身は躊躇しました。でもまだ誰も上手くいっていないという沼先生からの情報もあり、それなら十分な経験がある僕たちが勝てるかも知れないと思い、挑戦しました。苦労しましたが、グルタミン酸受容体のうち、生理学的に重要性がわかっていたNMDA型という受容体に加えて、生理学的意味が全くわかっていなかった代謝型という新しいタイプのグルタミン酸受容体をクローン化するのに成功した。1991年のことです。

自分の中ではグルタミン酸受容体のクローニングは、神経ペプチド受容体のクローニングの延長線上にあるものという認識でしたが、グルタミン酸受容体のクローニングの反響は神経ペプチド受容体発見とは桁違いでした。科学の業績に対する評価は、必ずしも新しい原理の発見や独創性に対するものだけではなく、主流にいるかどうかということが大きなわかれ目となると思い知りましたね。科学の世界はオンリーワンならいいとよく言われ、それはそれで間違いではないんでしょうけど、科学の主流のナンバーワンになることの重要さをあらためて認識しました。

グルタミン酸受容体の研究を報じる『ニューヨーク・タイムズ』紙。「脳ではたらく重要なタンパク質の遺伝子がクローニングされた」と見出しがついている。

グルタミン酸リセプターの遺伝子がはたらいている細胞を染めたラットの脳の断面図。神経科学で最も権威のある教科書の表紙を飾った。

僕の研究スタイル

次に、グルタミン酸受容体がクローニングできて初めて可能となる神経科学の主要な問題に取り組みました。その一例を挙げると、目で光を感じるメカニズムの謎です。

網膜の視神経には、光が当たると刺激を伝えるものと、逆に光が当たらなくなると刺激を伝えるものの2種類があります。明暗をはっきりと識別するための巧妙な仕組みですが、この両方にグルタミン酸が関わっているんです。同じ分子がなぜ違う刺激の情報としてはたらくのか。これが、明刺激と暗刺激をそれぞれ受けとる神経細胞で発現しているグルタミン酸受容体の違いであることを明らかにしました。この発見をもとに最近、遺伝性の夜盲症には受容体の変異が原因となっているものがあることが海外の研究者によって突き止められました。

またグルタミン酸と行動の関係を知ろうと、小脳の運動制御に関わる特定の細胞だけを殺す手法を開発し、運動障害を起こしたマウスを観察しました。この処置を施すと、すぐに運動障害が出るのだけれど、不思議なことに時間が経つとだんだん治ってくる。運動を制御する細胞はグルタミン酸受容体のはたらきを抑制する物質を出しており、これを壊すと抑制がきかず神経が興奮しすぎて運動障害となることがわかりました。しかしこうなった時、神経はだんだんと受容体の活性を低下させ、抑制物質のない状態でも適切な運動刺激を伝えられるようになるんですよ。すごいですよね。これが、脳の可塑性の正体の一つだったわけです。ただしやはり正常なバランスには戻らず後遺症が残り、1分間に10回転する回転板は乗ることができても、20回転になるとついていけなくなるんですけれど。

今も、神経伝達物質やその受容体という物質の方から論理を組み立て、記憶などの謎を解き明かす研究を続けています。そして課題を上手く解くための新しい方法論を常に模索しています。僕の場合、1つのテーマにこだわるのではなく、得られた成果から、より論理性のある研究が展開できるかということにこだわったのです。そこで自分の納得できる原理が見つかれば、さらにその先を進める。その分野の専門家から見ると取り残しが多くあると見られることはもちろんありますが、それを承知の上で方法論を組み立てながら原理を追いかけて行った。「あれが中西の研究スタイルなのだ」と評価される一貫した自分のやり方を通してきたと思っています。(文責 山岸敦)

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今も体を動かすのが好き。学生時代からスキーは毎シーズン楽しんだ。

 

1995年、ブリストル・マイヤーズ スクイブ神経科学賞授賞式。

2000年、全米科学アカデミー外国名誉会員に選出。ワシントンDCで行われた記銘式にて。ちなみにこの記銘帳の筆頭は第16代米国大統領リンカーンである。

京都大学でのセミナー風景。かつて自分が受けたような、厳しい指導を心がけている。

研究室での還暦祝い。甘党なので60個のシュークリームを用意してくれた。

5つの研究部門をもつ大阪バイオサイエンス研究所。その1つを所長自ら率いている。

人々との関わり合い-中西重忠

今回で52回目となるサイエンティスト・ライブラリー。これまでの登場人物を振り返ると、さまざまな研究者の関わり合いが浮かび上がります。人々を通して、研究の歴史を振り返って下さい。

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