世代

DNA研究を基本にして生き物の構造や働きを調べたり、その相互関係や進化を考える分野は、今日の分子生物学の中でもとくに重要な位置を占めています。私は、大学院からこれに関わった第一世代の一員です。日本の分子生物学ができあがっていくところに居合わせたのは、幸せだったと思いますね。

生物に興味をもったのは、植物を研究していた父親の影響でしょう。時々連れて行ってもらった研究室は、見慣れないガラス器具や装置があって、シーンとしており、日常を離れた清涼で厳粛な世界でした。朝顔のつるを無理やり逆向きに巻き付けても、必ず元に戻って左巻きになる。「なぜ?」と聞くと親に褒められたからかな。これで豚の木登りになったのでしょう。なぜ?が癖になり、今もそれが続いています。

東京生まれですが、小学校2年の時に戦争が始まってどんどん爆弾や焼夷弾が落ちて来るので、鳥取や新潟へ疎開しました。始めの頃は川遊びや木登りを楽しんでいましたが、後半は勤労奉仕で過ごしました。小学校6年の時は、いつもお腹をすかせて、ツツジの花や、イナゴまで食べていました。でも、家に帰りたくて駅をフラフラしている下級生をなだめる役もしなければならず、悲しがっている暇はなかった。人はいざとなればしっかりできるものです。

戦後、東京に戻ると、見渡すかぎりの焼け野原に焼けたトタン屋根の掘っ立て小屋があちこちにあって、そこに人々が生活していました。雑草を食べ、吹き出す水道管の水を使って。東京は丘の多い町だという強い印象とともに、人間は何があっても対応できるものだと思ったものです。戦争はむなしいものですが、都会だけしか知らない子どもにならず、さまざまな体験をしたことはよかったと思っています。

その時はそんなものかと思っていましたが、思春期を過ごしたのは、社会の制度も考え方も、教科書も、めちゃめちゃに変わる時代でした。

金沢大学時代。休日にサイクリングに行った(左から3人目)。

九州大学時代。九重山の頂上で(右上)

当時まだ珍しかったマイクロピペットを使って実験中。

分子生物学に出会う

生き物への興味は持ちつづけていました。高校時代、タバコモザイクウィルスが結晶するという話を生物の先生がしてくださって、生命が結晶になるとは!と感激しました。そこで、物質から見る生命に関心が向いたのです。ところが、1952年、大学に入ってすぐに読んだ『核酸』(江上不二夫・柴谷篤弘著)という本には、核酸は遺伝子かもしれないし、排泄物かもしれない、なんて書いてあった。53年にはワトソン=クリックのらせん構造の発見があったのですが、日本の大学生にはそんな情報は伝わってきません。何もわかっていないなら、この研究をしたいと思って、渡辺格先生の研究室に入りました。

格さん(先生は誰にもそう呼ばれていた)は、駒場の古い建物(今の東京大学先端技術研究所の前身。手製の超遠心分離機が作動するたびにがたがた揺れた)に陣取って、日本ではまだ誰も始めていない学問をやろうと張り切っていたのですが、なにせお金も器具も情報も不足の時代です。充分だったのは意欲と時間ですから、研究室の誰彼を捕まえては話相手をさせていました。何ヶ月も遅れて送られてくる論文を読んで、大事なものは丸ごと書き写し、学生同士も本当によくディスカッションしたものです。驚くようなことが次から次に湧いてきた時代でしたし、自分たちでわいわい作っていく楽しさがあった。貧しかったけれど、あの頃は、学問を本当に楽しめたという気がします。

研究テーマは、DNAの複製でした。分子生物学が生命体のもつ「情報」というものに挑戦を始めた時代です。二重らせんの情報がどのようにして子どものDNAに伝えられるのか。今では教科書に詳しく書いてありますが、当時は何もわかっていませんでした。アメリカから苦心して格さんが手に入れた大腸菌のファージが材料でした。でも、DNAやタンパク質を抽出したり、分析する機械は何もない。材料を作ると、それを入れた魔法ビンを背負って、機械を使わせてもらうためにあちこちの研究室や大学を歩き回りました。外から見たら毎日遠足に見えたかもしれませんね。

ファージの生活環

λdvはもとのλファージのゲノムのごく一部でできている。

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医学部へ

大学院を終えると、金沢大学医学部の高木康敬先生の教室の助手になりました。先生はアメリカでDNAの研究をして帰国したばかりのバリバリ、ファージを用いた遺伝学をやっている最先端の場でした。私にとって医学部とのつながりはこの時に始まり、人間の分子生物学が生涯のテーマになったわけです。ここでは分子生物学の大きな推進力となった「モデル生物」を使った研究-その当時は、ファージを材料にした研究-を日本にも根づかせようと、ファージ講習会もしました。校長は、当時超一流の研究しかしない富沢純一さん。ダメもとと思いながらも頼みに行ったら、「うん、やろう」と快く引き受けてくださって本当にうれしかった。分子生物学の中心的研究者のほとんどはここに集まり、育ってゆきました。高木研の人たちはそのお世話で大変でしたね。

高木先生と一緒に九州大学に移ってまもなく、DNAの半保存的複製で有名なハーバード大学のメセルソンの研究室に留学して、組換えのメカニズムを研究し、さらに3年後には、複製そのものを制御するしくみの研究がしたくて、λ(ラムダ)ファージ研究のメッカだったスタンフォード大学のカイザーの所へ移りました。

ハーバードには、ワトソンや、塩基配列決定法を発見したギルバートや今のアメリカ科学アカデミー総裁のアルバーツがいました。何かというとパーティーをし、情報を交換しあった仲間で、後の研究人生に大きな影響を与えられました。

スタンフォードでは、望み通りλファージに取り組みました。教授室の隣の小部屋で実験、実験、実験。λファージのDNAの一部が自然と切り出されて自己増殖することを見つけました。DNAの複製に必要なのは、その生物がもっているDNAのすべてではなく、とても小さな領域が自己増殖の単位で、ほかのDNAはそれに引きずられて増えるのだということを初めて証明したもので、たいへん話題になりました。この小さなDNAにλdv(ラムダディヴィー)と名を付けました。控えめで、感情をめったに外に表さないカイザーが「コングラッチュレーション」と大きな声で言ってくれた時は感激しました。じつはこの最小単位はプラスミドだということもわかったのです。ファージ、つまりウィルスとプラスミドという細胞内の寄生者がじつは共通であるのだという発見は、メカニズム研究一辺倒の分子生物学の中で、生き物の関係や歴史を考える研究もあるということに気づかせてくれました。

λdvのDNAの 電子顕微鏡写真
左下に見えるのがλdvのDNA。2つのDNA分子が隣り合わせで見えている。一方はねじれてくしゃくしゃ(閉環状)になっている。右上に見えるのは、比較のために入れられたφ×174というファージのDNA。
λdvは2つのDNAが1つになって”ダイマー”として存在している。

遺伝子組換え

1972年、ポール・バーグのDNA組換えの論文を見た瞬間、はっとしました。そこで使われているのは私が見つけたプラスミドλdvだったのです。試験管の中でSV40という動物ウィルスとλdvを結合させ、組換えができたと書いてありました。しかし、それを細胞に戻して働かせることは慎重に言及していない。動物の遺伝子を大腸菌の中へ入れられる方法なんてそれまではなかったのですから、それで何が起きるのか・・・慎重になる気持ちはわかります。でも、まさにそのことが学問としてとても重要だということが明らかでした。カルシウムで処理した大腸菌にDNAを入れる技術はあったのですから、大腸菌の中で動物の遺伝子を増やせるはずです。

すぐその論文を手に高木先生のところに駆け込みました。先生は、人間を扱わない研究は医学の研究ではないという医学部の風潮の中で、DNA研究を病気の研究に結びつけられないかとずっと悩んでいましたから、これで人間の研究がやっとできる、すぐ始めようということになりました。慎重さは大事だけれど、こんな素晴らしい方法を使わないわけにはゆかない。

組換えに必要な酵素のうち、制限酵素EcoR1については、それをもっているボイヤーは出し渋ったのですが、実際に扱っていたヤマモトさんが種になる菌を送ってくれました。しかし、もう一つの重要な酵素リガーゼが1年たってもできない。その間に、カエルの遺伝子をプラスミドに組み込みバクテリアの中で増やすことができたという論文が出ました。これを見かねて、スタンフォードで一緒だった安楽泰宏さんがリガーゼをポンと寄贈してくださった時には、本当に感謝しました。まずはバクテリアの遺伝子の断片を組み込みました。遺伝子組換えの日本での第1号でした。

組換えDNA技術で、カエルやハエやネズミはもちろんヒトの遺伝子を取り出して増やし、解析できることになったのですから、生命研究は、とてつもなく大きく飛躍したのは当たり前です。

75年、ポール・バークが、組換えDNA実験のガイドラインを作ろうと、アシロマ会議を招集し、日本代表として呼ばれました。帰国後、きちんとガイドラインを作って早く実験をしようと働きかけたのですが、研究者の反応も鈍く、官庁もなかなか動いてくれない。明確な科学政策をもち、基礎力を付けていくことは、この国では本当に難しいという経験をしました。それでも格さんたちの努力で日本のガイドラインもできあがりました。

アメリカから帰国後書いた『プラスミド』。ちょうど組換えDNAが話題になった頃で、よく読まれた。

DNAチップの一部
マウスの小脳での遺伝子の発現を調べている。cDNAと赤い色素をハイブリダイゼイションさせ、赤く見えるのがもっとも強く発現していることを示している。青いところは発現していない。

肝炎ウィルス

75年大阪大学医学部に移って自分の研究室をもつことになった時、人間の遺伝子の研究をしようと強く思い、医学との共同研究を始めました。医学部にある病気や人体に関する知識の集積はものすごいので、共同研究によって分子から生体までつなげようと考えたのです。当時はこの考えはまだ一般的でなかった。胃酸を出させるペプチドや消化管ホルモン、肺ガン患者の血液の中にたくさん出てくるアミラーゼの遺伝子を取り出して研究していたところ、科学技術庁からB型肝炎のワクチン作りの話が来て、熊本の化血研と一緒に仕事を始めました。

B型肝炎ウィルスは、人間とチンパンジーにしか感染しないうえに、危険なので研究が難しい。そこでプラスミドにウィルスDNAを入れて大腸菌でワクチンの基になるタンパク質を作らせようというわけです。ところがさっぱりできてこない。そのうち、動物細胞でなら、うまくゆくことがわかりました。そこで、動物細胞に近い酵母にねらいを付けたら成功。これも世界で初めてです。酵母の研究をしていた東江昭夫さん(当時大阪大学助教授)に必要なDNAをもらえたのがありがたかった。研究には優れた仕事をしている人との協力が重要だと痛感しました。

当時の実験室は、まさに廃屋で、ロッカーや実験台、椅子など皆拾い物、バーから捨てられるウィスキーのビンを試薬ビンとして使っていました。そんな中で宮之原厚司君が、「先生、なんだかできたごたる」と九州弁で言ってきました。酵母で肝炎タンパクができているというのです。彼は控えめに言ったのですが、データを見れば一目瞭然。今度はこちらが先生の立場で、「おめでとう」。教室の人もみんな一緒に大喜びしました。

日本での人間の遺伝子研究に先鞭をつけ、医学と分子生物学の間に風穴を開けてきたつもりです。

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酵母菌に作らせたB型肝炎の成分。
a:コアタンパク
b:表面抗原。これがワクチンになる。

ヒトゲノムプロジェクト

82年には、阪大の細胞工学センター(現細胞生体工学センター)に移り、人間の遺伝子の研究を続けるうちに、10万と見積もられた遺伝子が身体のどこでどう働いているかを調べることに興味が移ってきました。膨大といっても有限の数の遺伝子のcDNAをどんどん調べることで、脳、筋肉、肝臓などの組織にどんな遺伝子が、どの程度働いているかを見るもので、体内の遺伝子地図、ボディマップづくりです。

人間の遺伝子の研究をしていることにワトソンが目をつけたのでしょう。半ばは彼にそそのかされて、半ばはその予想されるインパクトがあまりにも巨大なことがわかっていたので、ヒトの全塩基配列を解読しようというヒトゲノムプロジェクトに関わることになりました。このプロジェクトは、アメリカをはじめ、イギリス、フランスなどでも進められることになりましたが、国際協力の重要性から、88年に設立されたヒトゲノム研究機構(HUGO)の副会長をつとめました。

組換え実験が始まった時は40歳でしたが、この時は50代になっていましたし、組換えDNA実験に対しての日本の鈍くてばらばらな対応に苦い思いをした経験から、ゲノム研究には、こんどこそオールジャパンで整然と参加して、教育や研究やそれをサポートするしくみを作ることが必要だと思い、推進役を買って出たのです。研究者は、そういうことには基本的に保守的だし、社会、とくに企業や官庁は関心が薄い。そういうなかでも、尊い仲間ができ、一生懸命一緒にやってくれて少しずつ動き出しました。

生物学はそれまでプロジェクト研究なんてしたことがない。中心になるところを作るのが、大きな目標でした。情報、配列決定のセンター、教育トレーニングの場のほか、企業研究やプレスとの交流の場作り、などです。しかし、各省庁ごとに小さいものができて、日本全体として作り上げることにはならなかった。残念です。

それでも、ゲノム解析プロジェクトの成果は計りしれない。全体像を掴もうとする過程で、生命のメカニズムの研究や、その応用はとんでもない広がりをもつようになります。何よりも生命の研究に、情報科学を避けて通れないという、研究スタイルの変化が起こります。生命誌とも関係が深い、進化や生物の相互関係などもどんどんわかってきます。ゲノムの配列決定は研究の完成ではなく、スタートです。壮大な生命の理解方法がだんだん確立していき、視野は広がっていく。人間とは何?生命とは何?という問いが具体的に立てられるようになってきたのは素晴らしいと思います。

細胞工学センターで。焼肉パーティー。

還暦のお祝い会。

退官の日

DNAチップのこと

研究者もある年齢になると若い人の世話をしたり、国の研究の方向を考えるのが役割ですね。でも自分で研究する喜びにまさるものはありません。奈良先端科学技術大学院大学に移ったのを機に、cDNAの解析で作るボディマップに、時間軸を入れて臓器形成の際に遺伝子がどのように働くかを見ていこうとしているのですが、実験をやるやると言いながら時間がとれないのが残念です。

一方、このような研究に膨大なデータ処理手法を導入し、コンピュータで視覚化しながら何万という遺伝子の変化や働きの調節を捉えることのできる、DNAチップを開発するベンチャー企業を立ち上げました。新しい研究には、技術の開発が大きな推進力となります。日本の生命研究は一般にこれが不得手で、DNAチップの場合もアメリカから高額で購入しなければならない。それなら自分たちでつくってどんどん作ってもらおうと思ったのです。相変わらずだなと自分でも思いながら。DNAチップによって情報をどんどん引き出し、次の研究の戦略を考える。これからは、そのような情報生物学が重要になるはずです。

λdvやB型肝炎ウィルスワクチンの研究がうまくいっていた時は、うれしかったけれど、より複雑な問題を研究できるようになり、λもB型肝炎ウィルスも研究者は消滅中です。科学ってそういうものですね。精いっぱいやったことが、ずっと引き継がれて生きているかというと、かならずしもそうではない。しかし、これから必要と思うことをやるというのが私の考え方、というより癖と言ったほうが当たっているかな。

渡辺格さん、高木先生、ワトソン、アルバーツなど、人生に大きな影響を与えてくれた人との出会いはすべて偶然です。テーマもたまたま巡ってきたと言ってもよいかもしれない。でも、偶然は必然になる、DNAの研究を仕事とするようになり、命について考える機会に恵まれたことは幸運でした。楽天的なんですね。失敗しても平気だと思うから、これが重要だと思うことに首を突っ込んできたら、日本の分子生物学の初めの時代を歩くことになりました。それなりの苦労もありましたが、やはりよい時に生まれたと思っています。

この頃、研究している人々はものすごく忙しそうですね。心を亡くすことが日本の将来に悪い影響を与えないように、政治家や企業人の思いつきで、研究があまりにも型にはめられてしまわないようにと願っています。