一すじの道

クロード・ベルナールの「実験医学の原理」を山口知子先生と一緒に翻訳する機会にめぐまれました。1542年、コレージ・ド・フランスの教授だったベルナールが著した名著であり、医学と生物学の原理をこれほどみごとに述べたものはないと思います。はじめに出版された「実験医学序説」に続く総集編ともいえます。「実験医学が遭遇する障害は生命現象の複雑性にある」と言いながら、この困難を「不可能という言葉で結論づけてはならない」と言っています。現在は知識偏重ですね。生命科学とはなにかを根本から考えさせてくれる本として学生にも研究者にも読んで欲しいと思っています。

この本の扉に東山魁夷の「道」を使わせていただきました。この絵を語る「夏の早朝の草原の中に、一すじの道がある。遍歴の果てに、新しく始まる道。絶望と希望が織り交ぜられた心の道」という言葉がすばらしいでしょう。科学に通じますよね。そこでこの後に「医学や生命科学は奥深くなかなか目標へ辿り着くことは難しい。ある時は希望を感じながらも絶望の淵に立たされたり、まさに遍歴の道である。医学・生命科学を志す若き諸君にこの一すじの道を力強く進んで欲しい」と書きました。それに東山魁夷の絵のブルーが好きなんです。東山魁夷とシャガールのブルー。実は中学生の頃絵が好きで描いていたのですが、その時好んで使っていたのが、あの微妙なブルーの色合いだったことにあとで気がつきました。今考えていることの原点が子ども時代にあったと気づくことがよくあります。

「実験医学の原理」

自分の目で見る、考える

生れたのは昭和20年3月3日。祖父の代から東京なのですが、第二次大戦の終戦直前でしたので、祖父、祖母両方の里である長野県に疎開し、そこで生れました。駒ヶ岳の楚で、本当の田舎でしたが、教育熱心な所です。生れて間もなく戦争が終り、幸い東京中野の家が焼けなかったので、すぐ東京へ戻りました。ですから実際に育ったのは東京ですが、長野には故郷を感じています。両親も祖父母も亡くなり、もう長野へ行くこともないのですが、自然に親しむ気持はありますし、駒ヶ岳などなつかしい気持で見ます。

実は母の妹が女高師(今のお茶の水女子大)出身で高校の生物の先生だったんです。専門は植物。小学校に行く前から植物採集に誘われ、子供用の胴乱を持って出かけました。しかも駒ヶ岳などかなり本格的な山へ。生物学との最初の出会いは植物なんです。国立博物館の先生が一緒の場合もあり、その先生や叔母が植物図鑑を見て、「今採ったのはこれとこれの間の新種だ。新しいものが見つかった」と言うんです。教科書や辞典は全て決定されていることが書いてあると思い込んでいたのに、そうじゃないんだ、新しいものがあって、しかもそれを自分で見つけることができるんだということがとても印象的で、これが研究をしたいと思う気持につながったのかなと思います。こうして叔母に誘われて幼稚園から高校までつれていってもらいました。長男なので、しっかりするようにと期待されての教育だったのかもしれません。

植物の中でも苔が気に入って、庭に水を流し、泥遊びも兼ねて湿気のある場所を作り、集めてきたいろいろな苔を育てるのに苦労しました。苔ってきれいでしょう。実は殷や周に始まる中国の古い青銅器が好きなのですが、2~3千年かけてできたこの色、苔と同じでしょ。仕事で疲れた時、眺めていると心が落ち着くんです。歴史を感じ、自分が長い時間の流れの中にあることを感じます。すると頭が切り替えられて新しい発想が生れるんです。

小学校の時の思い出としては心理学を専攻していた叔父が恐竜の本をくれたことも心に残っていますね。4年生の時でした。小さい時には、恐竜は世の中に存在しない恐いものという印象だったのですが、この本で地球上の生物として恐竜と人間とが連続していることを知って、ちょっとふしぎな気持になりました。ちょうど感受性のあるよい時期をみはからってくれたんですね。

もう一つ、小学校の先生が理科好きの子どもを集めて、理科教室を開きその回ごとにあるテーマで実験をやらせてくれました。一クラスで一人ずつでしたけれど。いくつかの区立の小学校が集まると同学年で十数名になりました。モーターや変圧器をつくったり、蛙の解剖をしたり海へ採集に行ったり。本当に楽しかったし、自分で考えることの面白さを知ったんですね。忘れられません。人選は担任の先生の判断にまかされて、理科好きのこれはと思われた生徒を一人選ばれたわけで、今こんなことをやると特別扱いと言って抗議が出そうだけれど、こういう教育こそ大事だと思います。

中学は母親の希望で慶應の普通部に進みました。ここがまた自由でユニークな教育。歴史の授業は生徒一人一人がある地域を選び、そこの産業から文化までをとことん調べるんです。僕は中国の華北でした。こうやって一つのことを徹底的に調べることを身につければ、それ以外のことも同じように調べられるわけでしょ。それと夏休みが一ヶ月半と長かったので、台所の外に自分でトタン屋根を作って雨天でも大丈夫な工作室にして、一枚の大きなトタン板を金切りバサミで切り、ペンチでくの字型の柱を作り、ハンダづけをして、自由に回転できてバケットも遠隔操作で自由に開閉できるようにしました。起重機です。楽しかった。この延長で工学部に入るつもりだったんです。そのとき、寝ている時にアイディアがわくことに気づき枕元にメモを置く癖がつきました。今でもやっています。

小学校3年生頃。

中学校(慶應普通部)入学。

中学一年生の夏休みに制作した起重機。労作展特賞を受賞した。

脳への興味

ところが、高校の時母が病気になって医学への関心がわきました。医学部へゆくと基礎研究もできるし、臨床医にもなれることがわかり、自由な選択ができるので、医学部へゆくことにしました。慶應の医学部の内部進学は、20クラスある各クラスから一番だけを入れたのですが、幸い医学部にすすめました。植物ばかり見てきて動物はあまり扱ったことはなかった、それが突如解剖でしょ。しかし、動物もおもしろいことがわかりました。これまで知らなかっただけだったんですね。基礎医学は面白かったです。生理学、生化学、薬理学、解剖学・・・それに当時日本で初めて慶應に医学部の中に分子生物学教室ができたんです。渡辺格先生。まったく新しい分野の講義を聞いてわくわくしました。

生理学は加藤元一先生。単一神経線維を分離し、神経伝導に関しての不滅衰伝導学説を打ちたてられた方です。エネルギーは減衰するはずだという反対も強く、万国(現在の国際)生理学会での供覧実験をやって証明したというすごい方です。もう一人が林髞先生。興奮性物質としてグルタミン酸、抑制性物質としてGABAを初めて脳で証明した方です。パブロフの「条件反射」を日本へ導入された先生であり、昭和19年に著された「大脳生理学」はすばらしい本です。とにかくよい先生に恵まれました。このような先生方の講義を聞いているうちに、臨床医でなく研究者になりたいと思うようになったのです。とくに脳の研究に興味をもちました。他の臓器は体の恒常性の維持の為に一つの個体の中で働いていますけれど、脳はそれだけでなく、音、光などを耳や目をアンテナとして外界の情報を集めて,脳内で処理してアウトプットを出す。更に体内の器官をコントロールしたり、個体間のコミュニケーションを可能にさせる、面白いと思いました。脳の基礎研究をしたいと思うようになったのです。基礎研究に向いているかどうかわからない。科学的な思考の能力を確認するために都立大の夜学の講義に参加させてもらって化学や物理の講義を聞き、これなら大丈夫と思えたので大学院へ進学しました。おふくろはがっかりしてましたけれど。折角医学部へ入ったんだから臨床医になって欲しかったんだと思います。

当時の慶應での脳研究には電気生理学と生化学という二つの方向がありましたが、脳のはたらきを物質のレベルで調べることに興味をもちました。生化学が好きだったので、物質を手にする方が向いていると思いました。機械好きだったこととつながっているんでしょう。そこで塚田裕三先生の教室に入りました。生化学と言っても1970年代の初め、やっと多細胞生物が扱えるようになり、神経細胞の培養法を探している時代でした。脳については何もわかっていないと言ってもよかったのです。そこで、ラットの大脳を構成する二種類の成分である神経細胞とグリア細胞を大脳から分離するという基本から始めました。それも蔗糖の濃度勾配を用いて分離する方法の開発からです。もう一つ塚田研の研究対象にミエリンがありました。脊椎動物の神経細胞の軸索はミエリン鞘で絶縁されているから活動電位がす早く伝導されるわけですし、しかもミエリンはグリア細胞がつくります。今ではそれらが、脳の高次機能障害、精神障害とかかわることがわかってきて、誰もがその重要性を認めています。でも当時は、神経細胞にしか目がいっておらず、グリアとかミエリンとか言っても何それっていう感じだったんです。今考えると最先端に触れていたわけですが、分子生物学会でミエリンの話をすると、それまで会場いっぱいだった人がぞろぞろ出て行っちゃうんですよ。悲しかったですね。

その他塚田研では毒物を与えて個体の発生異常を見るという研究もしていました。それを見ていたので、生化学という分子を扱う研究をしながらも細胞、組織、臓器を意識しながら、発生という観点から全体を見ることの重要性を意識する癖がつきました。この影響は大きく、今もこの考え方が基本になっています。物質を分離して調べるのは大事だけれど、個体全体を見なければだめです。そして、細胞や個体を見ていく方法としてミュータントマウスがあると気づいたんです。正常を知るには異常を知るという方法が有効だということです。

高校1年生の英語会で「夕鶴」を英語で演じる。(左端:本人)

大学院生の頃。

フランスへ

周囲の人から、そろそろ海外へ行ったらと言われ、当然、研究室の先生方の知り合いのところ、つまりアメリカをすすめられました。私もアメリカの方にしか目が向いていませんでした。ところが家内が「アメリカはお金をかけてブルドーザーのように力で動く。論理的にていねいに考えるのはヨーロッパ、とくにフランスだ。文化と科学が融合しているところでないとだめ。」と言い、アメリカ行きに強く反対したんです。マーシャル・ニーレンバーグ、フロイド・E・ブルーム、ジャンピエール・シャンジューに手紙を出したら、全員来てもいいと言うことでしたが、シャンジューだけがすぐ来いと連絡が来ました。シャンジューは、J・モノーの弟子で、ネガティブフィードバック(酵素反応による産物が多くなると酵素を阻害する)現象をみつけ、アロステリックモデルを提唱した人で、その延長上で筋肉のアセチルコリン受容体に注目した研究をしていました。更にそれを脳の中枢機能の研究につなげたいと考えてミュータントマウスでの研究を始めたばかりだったのです。

当時の分子生物学では、遺伝子を探し、その塩基配列の解析をすることが最先端科学とされていて、競争がありました。でも多くの場合、それだけなんです。ところがシャンジューは物質から個体までをつなげるモデルを考えていたわけです。僕も物質だけでは終りたくないと思っていたので、この人のところしかないと思い、当時フランス語はまったくできなかったのですが給費留学生の試験を受けて・・・語学試験は実は白紙で出したんですけどね(笑)。1976年です。シャンジューはモノーの陰に隠れていますが、すばらしく知的な人で、多くの面で影響を受けました。フランスへ留学することをすすめてくれた家内に感謝しています。留学した時には研究室のほとんどの人がアセチルコリンの受容体を研究していたのですが、僕はミュータントマウスの解析をしました。以前は神経細胞とグリア細胞を分離して、その生理化学的性質を調べましたが、とり出したものを調べているだけではだめだと思い、特定の神経細胞がない動物の脳を調べれば個体レベルでその神経細胞の性質を調べられると考えたのです。当時、プルキンエ細胞が変性していたり、プルキンエ細胞のシナプスができないという表現型をもつさまざまなミュータントマウスが発見されていたので、それらの生化学的解析をしました。分子と形態と行動に異常があるわけで、これこそ全体と分子を関連づけて見られる対象だと思ったからです。

フランス・パスツール研究所で学ぶ。

家族とともにフランスにて。

「P400はミコにまかせる」

ここでどんな分子に注目するかが重要なわけです。実は僕、高校の終りから、医学部生時代に物理化学の中でも界面化学が好きで膜が面白いと思っていたんです。当時オパーリンのコアセルベートや江上不二夫先生のマリグラヌール、生命の起源が話題になっていて、細胞にとって大事なのは膜だとわかってきてましたね。そこで、膜タンパクにしようと思いました。細胞内のタンパク質を電気泳動で分離すると、水に不溶性の高分子タンパクとして得られるのがだいたい膜タンパクです。溶け出してくる小さいタンパク質は全部捨てて、膜に注目して追いかけて行って見つかったのが、ものすごく分子量の大きいタンパク質でした。P400と名づけられていたタンパク質で、今も僕の研究の基本になっています。小脳のプルキンエ細胞に異常のあるミュータントではこのタンパク質が激減していますから、これは大事なタンパクに違いありません。

1978年、慶應に戻ったのですが、そこに阪大の岡田善雄先生から蛋白研に来ないかという誘いがかかりました。今度は家内は「よく考えてね。」という反応でした。二人の子供をかかえていて東京にいて欲しいということだったのでしょうが、そのまま慶應に居続けると古い人間関係の中に埋れそうでしたし、新しい空気を吸う必要があると思ったので思いきって家族には申し訳なかったのですが、単身で動きました。蛋白研ですからタンパク質の研究には最適でした。まず、ミエリン研究を始めたのですが、たまたま日本生化学会に招待されて来日されたシャンジューにP400の研究を続けても良いかと相談したら、「P400はミコにまかせる。一週間前にグリンガードからP400を続けているかと聞かれたばかりだ。頑張れ。」と言ってくれました。勝手にやらなかったこと、そしてわざわざ自分にきいてくれたことをシャンジューは喜んでくれて、その後もよい関係を作れてよかったと思っています。アメリカではP・グリーンガードがP400と似たような小脳のリン酸化タンパク質を研究していてかなりの成果をあげていることがわかりました。S.シュナイダー教授もジェネンティック社と共同でほぼ同様の性質をもつIP3に結合するタンパク質の研究をしていました。P400の研究を急ぐ必要が出てきました。ところが、このタンパク質が手強いんです。SDS存在下で加熱・変性させて一晩放っておくとバンドが消えてしまいます。これは本当にタンパク質なのかと疑いながら仕事を続けていました。

ありがたいことに阪大にタンパク質に強い先生がいて、プロテアーゼにはその位の条件ではかえって活性化されるものがある、よっぽどのことがないとプロテアーゼは変性しないと教えてくれました。扱うのは難しいけれど頑張ろうと思ったのは、P400が欠けていてプルキンエ細胞のシナプスがないミュータントでは樹状突起がたくさん出たままで未熟なんです。生れた時のまんま。しかもプルキンエ細胞の変性脱落している小脳ミュータントでもP400はない。発生の面からみても進化からみても面白い。これは僕の興味の原点です。

幸い、前田信明(現東京都神経研部長)、古市貞一(現理研脳センターチームリーダー)、宮脇敦史(現理研脳センター副所長)という優秀な若者が来て仕事を進めてくれました。P400以外にも色々と研究をしており、池中一裕(現生理研教授)、三浦正幸(現東大薬学部教授)、岡野栄之(現慶大教授)、柚崎通介(現慶大教授)もいました。学部の学生時代に岡野はがんの研究が大事だと言っていたのを、これからは神経の時代だと何度も言いきかせて生理学教室へひっぱったのをおぼえていますよ。研究にはよい仲間が大事です。

ミエリンの研究などで大きな成果が出る一方でP400には苦労しました。でも、89年にやっとP400は糖タンパク、リン酸化タンパクであることがわかり、結局IP3レセプターとわかったんです。その遺伝子もとり、アミノ酸配列をきめました。P400のモノクローナル抗体をとり、発現ベクター系で小脳のcDNAライブラリーをスクリーニングして全長をクローニングして全塩基配列をきめました。それまでにとれていた遺伝子の中で二番目に大きかったんです。結局、グリーンガード、シュナイダー、スドホフらも同じものを追いかけていたことになりますが、彼らに先んじることができました。

阪大へ転任直前に慶応大学の学生と懇親。

大阪大学タンパク質研究所でのスタート(前列左から3人目:本人)

シャンジュー先生を蛋白研にお迎えして。前列右から本人、シャンジュー先生、佐藤了所長。

1985年に来日したシャンジュー先生と。左は分子イメージングを開発した柳田敏雄教授。(現大阪大学教授)

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Scientist Library:
季刊 生命誌 58号
『生命現象の基本にゆらぎを発見』
柳田敏雄

P400を追いかけたライバルのジョンズ・ホプキンス大学のソロモン・シュナイダー先生と。

軸足を決める

細胞外からの刺激を受けて細胞内で生産されたIP3(イノシトール3リン酸)がIP3レセプターに結合すると細胞内でCa2+が放出されるわけで、これは大事なタンパク質です。ただその名前とはたらきはよく知られており教科書にも載っているんです。がっかりしましたね。苦労して同定したタンパク質が既知のものだというのですから。白状しますと半年ほどうつ状態でした。IP3レセプターを発見して構造と性質を決めたと誉められ、すばらしい仕事だと新聞に載ったりするんですけれど、本人は長い間かけて探したのに新しいものでなかったなんてと落ち込みました。ミュータントマウスの解析から、P400は細胞の生存に必須であり、シナプス形成に重要な分子だろうと考えていたのです。研究をしていると、外から見ると順調に見えている時でも悩みが多いものです。それを外に出さないようにして、考え続けることが大事だと思います。実はそういう悩んでいる時が研究を大きく展開させる上で大切な時でもあるわけですから。

そこで冷静になって考えてみたら、IP3レセプターが細胞内のどこにあるか、実際にどうはたらいているのかはわかっていないことに気づいたんです。それを明らかにしようと思いました。まず、局在などわかっていない分子のはたらきを調べるため、ミュータントマウスで欠落していたP400に本当に特異的なモノクローナル抗体を作りました。前田君が2年半かけたのです。とても時間がかかりましたけれど、この抗体に関しては絶対に正しいという自信がありました。扱っている分子や現象には自信を持てることが大事で、確実なものをもつ必要があります。何かあってもいつでもその確実なところに戻れるようにしておくことです。これがないとしっかりした研究はできません。学生の時やっていたバスケットでは、軸足をきめないとダメで、これがふらふらしていると反則になります。研究でも同じでしょう。P400の場合は確実であると自信を持っていた抗体でつかまえたものですから、自信がありました。幸い、この抗体を用いて、IP3レセプターは小胞体に局在することを示すことができたのです。精製したP400はIP3結合活性をもっており、そのタンパク質を脂質二重膜にとりこませるとCa2+のチャンネル活性が出ます。IP3レセプターはCa2+チャネルなんです。

細胞内情報伝達系を解明された西塚泰美先生(元神戸大学学長)と。イギリスにて。

大阪の大和屋にて会席。左から山村雄一先生(阪大総長)とアイソザイム研究の先達C.L.マーカート先生、荻田善一先生(富山大学教授)。

IP3レセプターの研究の広がり

実はこの研究をしていた頃の裏話があるんです。P400を研究している時、MAP2というタンパク質が神経細胞の骨格に関わるものとして登場し、海馬の機能と関係することがわかり流行の一つになっていました。特に遅延性細胞死という現象の非常に良いマーカーでした。海馬の働きといえば記憶、脳の高次機能ですから魅力です。僕らは精製してアミノ酸配列もきめていました。これを武器にものすごい競争の中へ入ろうかと思っていたのですが、色々な事情からそこで止めました。もしあの時MAP2の方に移っていたらと思うと恐くなります。もしそこに研究室の力を注いでいたらP400に集中して研究はできませんでしたから。研究にはこういう分れめがあるんです。

そういうところを乗り越える時に思うのですが、研究は一人ではできない、仲間を作らなければいけません。幸い僕の研究室から40人近く教授や研究室のヘッドが出ているのですが、よい仕事をしてもらうために大事なのはその人の持っている能力とテーマを合わせることです。大学院生がきた時は、最初は放っておいて様子を見ている。どんな本を読んでいるかとか、誰とどんな話をしているかとか。はじめはこれをやれとは言わないで、何気ない顔をして観察しているのです。そしてテーマを決めたら、今の研究室でIP3やCa2+に関する研究をしていればかなりのレベルの研究ができ、注目される成果が出るので、それにつなげるようにしながらその範囲では何をやってもよいと言うんです。ただ、やりたいと言ってきたものが、長い経験からやらない方がいいと判断できる時は止めますけれどね。こうやっているといい仕事が出てきます。

ある病気の治療法の開発などというテーマをきめてしまうと行き詰まりますよ。最近こういうテーマのきめ方が多いのが気になります。基礎を固めてそこから広がる方法をとらなきゃ。Ca2+は生命現象の基本に関わっていますから、研究対象は神経に止まりません。実は同じCa2+の流れでも細胞膜を通して外から入って来る流れと、小胞体膜を通して細胞質へ出ていく時とではCa2+の働きが違うんです。小胞体から出ていく方はゆっくりしたCa2+の振動をつくります。これは受精にも関わっています。IP3の阻害抗体を入れると精子が存在してもCa2+の波は起きません。この振動が、受精後の4~8細胞期に胚の背側と腹側を決めることもわかってきました。Ca2+波を研究するには材料選びが大切です。さらに、脳のことを知るためには脳以外のことを知らなければなりません。私の研究室では脳以外のこともかなりやっています。

最近IP3レセプターの三次元構造解析を始めました。「構造を見たい」という学位をとったばかりの研究員がいて、彼は4年間論文なしで頑張って、生きたタンパク質の精製に成功しました。やっと専門家からすばらしいと言われた構造が見えるようになったところです。Ca2+の有無で構造が試験管の中でアロステリックに変り、可逆的に変換するんです。生きたままのタンパクの動きが捉えられた、とても面白い成果です。最近の研究は、目的指向で自由な研究が許されない状況になっていますけれど、いい仕事は自由な発想のもとに色々な試みをしている中から予想もしない大きなものとしてでてくるのです。

併任して務めた基礎生物学研究所。
(前列中央:本人)

基生研と蛋白研の合同スキー旅行。
(右から4人目:本人)

1991年大阪科学賞を記念して。
(前列中央:本人)

ストックホルムのカロリンスカ研究所にて神経ペプチドの研究者トーマス・ヘックフェルト教授と。

分子から発生、病気との関わりへ

阪大から東京大学医科学研究所に移り、脳研究のグループを持つことになった時、小脳の顆粒細胞に多量に発現している遺伝子を見つけ、これが亜鉛と結合するタンパク群だったのでZic(zinc finger protein enriched in cerebellum)と名づけました。マウスで5つ(Zic1~Zic5)見つかったのですが、これがそれぞれ興味深い現象と関わっているんです。たとえばZic1は小脳のパターン形成、更にZic2は立体視にも関わっていました。Zic2をノックアウトしたマウスには脳室の左右を分ける中隔がありません。Zic3は左右の決定を司るようで、カエルを用いてこれを右側で発現させると心臓や内臓の位置が逆転しました。面白いでしょ。最初に、脳は臓器の一つであると捉え、体全体を見ていくという考え方を話しましたけれど、まさに神経形成と体のパターン形成が密接に関わっているわけです。Zicは今は理研脳センターの有賀純チームリーダーががんばって展開しています。IP3レセプターもZicも基本的なはたらきをするタンパク質ですから当然分子に障害がおきると、様々な機能障害を起こし、病気に関わるわけです。IP3レセプターのノックアウトマウスをつくると強度な小脳失調を呈します。IP3レセプターにも I、II、III 型と3種あるのですが、II 型、III 型をノックアウトして、ダブルノックアウトマウスをつくると、自己免疫疾病の一つであるシューグレン症候群に近い症状が出ます。II 型、III 型は外分泌機能に重要な役をしているので、目が乾燥したり、唾液分泌障害を起こすのだと思います。これがまさにシューグレン症候群、この病気のモデルになると思います。シューグレン症候群の患者さんの血清では50%以上IP3レセプターの抗体が陽性なので、モデルという考え方が成り立つと思うのです。今までは外分泌機能に関わるということは全く考えていなかったのですが、もしかしたら I 型も外分泌に関わるかも知れないと思い、その様な目で調べるとやはり神経伝達物質の放出に関わることがわかりました。すなわち I 型は、神経成長因子(BDNF)の分泌に関わることが明らかとなり、これは自閉症と関係するようです。

2000年東大医科研教授室にて。後ろに立つのは科学において「新しい道を切り開くこと」を表現したブロンズ像「勝利の女神」。後に理研に寄贈した。

慶応医学国際賞を同時に受賞したフォルクマン博士ご夫妻と。授賞式にて。

カレッジ・ド・フランスメダル受賞の晩餐会。向かって右隣はシャンジュー教授。

神経化学会のメンバーとテニスを楽しむ。(後列左から2人目:本人)

細胞の中の森

ロンドンから留学してきている若者が、IP3レセプターは、シグナリングハブだって言うんです。ハブ空港と同じで、あらゆる経路がここを通過している感じなんですね。ハンチントン病に関わるタンパク質のハンチンチンもここに直接結合しますし。ハブと言いましたけれど、細胞によって発現しているタンパク質は違うわけで、それがどのように組み合わさるかにより細胞の特異性がきまってくると思います。

こういう現象を見ているうちに細胞の中のイメージがわいてきたと思うのですが、それは細胞内は広い野原ではなく「森」です。Ca2+の動きを見ていると、外から入ってきたものと小胞体から出たものでは作用が違うということがはっきりし、そこには大きな意味があることもわかってきました。細胞の中にはたくさんの「木」、つまり分子があり、Ca2+はそれぞれとぶつかり、それによって異なる作用を出す。細胞を構成する分子の種類や数を考えただけでもその複雑さに圧倒されますけれど、それが草原のように広がっているのでなく森を作っているので、一つ一つの分子のはたらき方、つまり作用はより複雑になるわけですね。ここで最初のベルナールに戻るわけです。複雑だからと言ってめげてはいられないというのが今の気持です。

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正常な細胞では、細胞外刺激に対してIP3受容体を介して放出されたCa2+が正常に振動し、正常な細胞機能を維持している。ところが、外的要因によってIP3に撹乱が起きると、Ca2+振動が撹乱するため、分子、細胞、個体各々において病態を引き起こす。

ゴードンカンファレンスにてカルシウム研究者が集まる。(左からサンテラ博士、カラフォリ博士、ベーリッジ博士、本人)

シャンジュー先生との還暦のお祝いの会で。(パスツール研究所にて)

アクアポリンを発見してノーベル化学賞を受賞したピーター・アグレ教授と。チャネルタンパク質を研究する仲間。

ICORP共同研究者 アニータ・アペリア先生(中央)

2005年のゴードンカンフェレンスで、これまでの特別講演者に贈られたおそろいのトレーナーを着て集合。

研究への姿勢

よい共同研究者に恵まれてここまで楽しく研究ができたのは本当に幸せでした。若い人たちを育てる立場になり、時々自分の若い時を振り返ることがあるのですが、とてもよい時代だったと思います。若い人は皆、それぞれ能力をもっているので、それぞれの能力にあった環境をつくってあげると人は育ってゆきます。慶應で世界的な研究が行なわれていて、多くの刺激を受けたことを思い出します。渡辺力先生のエピゾーム(細菌の中で独立の増殖する因子で、溶原性ファージ、プラスミドなど)の発見。高野利也さんや深沢俊夫さんの制限酵素研究。網膜での三原色説を証明した冨田恒男先生。実は僕は大学院の4年のうち2年間で学位論文のための仕事を終え、残りの2年間は渡辺格先生の所に入りびたっていたんです。RNAレプリカーゼの発見をした春名一郎先生もいらっしゃいました。名札も作ってもらって。この時の両先生からの影響は大きいですね。留学先でのシャンジュー先生もとてもすばらしかったし。人間として尊敬できる、こういう影響を若者に与えられるようにしたいと思っています。

教科書に書いてあることがすべてではなく、それを覆すことができるのが科学の面白いところだと伝えたい。あらゆる可能性を考えて実験を組み、それでもなお思いがけないことが出てきた時には、それを素直に受け止める感性が大事です。そして、とことん追いつめていく執着心、それを若い人達に持って欲しいと思っています。

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デスクの周りにはシャガールの絵や自作の絵。徹底した観察眼はスケッチにも表れている。

「ネイチャー」のエディターを迎えて。

医科研の仲間たち。理研脳センターの現在の仲間とともに。

学士院賞受賞記念の祝賀会にて多くの弟子に囲まれて。