偶然に導かれて自然免疫へ

免疫と言われて思い起こすのは、一度かかった病気にはかかりにくい現象でしょうか。これは免疫の一面を捉えたにすぎず、本来、免疫には二つの大きな柱があります。一つは、自然免疫、病原体や花粉などの体内に侵入した異物を無差別に食細胞が食べる現象です。もう一つは獲得免疫、抗体などで病原体を狙い撃ちにします。僕が研究を始めたのは、獲得免疫の研究が華やかな時で、特異性を持たない自然免疫は、下等動物のみで重要な役割を果たすだけの過去の遺物としての扱いでした。そんな中で、思いかけず自然免疫が自己と病原体を認識していることを明らかにできただけでなく、抗体をつくるのにも必要であり獲得免疫とつながっていることも見つけることができたのです。新たな分野を開拓できたのは本当にうれしいです。これらの発見は「偶然」というのがぴったりで、予想していたことではありません。得意とする分子生物学の手法をどんどん取り入れていたら運良くたどり着いたというのが実感です。新しいものが好きという子供の頃からの性格が功を奏したのでしょうね。

興味の対象はあちこちに

生まれは東大阪です。小学校から帰るとランドセルを放り出して友達と遊びに出かけるのが日課でした。近くの原っぱや川で、それぞれの季節に見られるめずらしい昆虫をとっては、友達と品評会をしました。魚を飼うのも好きでしたね。金魚やコイ、それから熱帯魚は、生き餌を喜ぶので近くの川でとったミジンコを与えていました。幼稚園の頃にテレビが家庭に入ってきた世代ですので、テレビにも夢中でした。特に「スタートレック」「コンバット」「ミステリーゾーン」やアメリカの漫画が好きで、知らず知らずのうちにアメリカ文化に触れていたんでしょうね。今でも同年代の国内外の研究者とテレビ番組の話題で盛り上がります。他にも漫画、名作や伝記を読んだり、将棋や囲碁をしたり、釣り、切手集めに夢中になったり…。とにかく興味が広かったのです。勉強よりも遊ぶことが好きで、小学4年のころは、親からはよく「勉強せなあかん」と言われていましたけど。高学年になると結構自分でも勉強が好きになり、中学校からは真剣に勉強して、地元の進学校、高津高校に入れました。自由と創造をモットーにし、公立にしては私服通学の高校でしたから、学生運動も盛んで、授業や卒業式の妨害などもありましたが、気にせず勉強を続けました。大学で何を学ぶかは随分と悩みました。影響を受けやすい性分で、丹下健三や黒川紀章に憧れて建築家なろうと思ったり、テレビの「検事霧島三郎」を見て法学部へ進もうと考えたり、研究者になりたいと思って理学部を考えたり、なにかと体調を崩して病院通いをしていたので、病気を治す医者に憧れたりと焦点定まらずでした。結局、医学部にしたのは、自分の才能と照らし合わせた上での消去法の結果です。医者になろうと決意して、地元の大阪大学に進学しました。

満1歳のお正月。

5歳の頃に弟と(左:本人)。

高校時代の友達は勉強の良きライバル。卒業後も一緒に旅行をする仲。

医者を志す

阪大は学生運動の最後の砦になっており、教養課程の時は、あまり落ち着いて勉強できませんでしたね。2年生の冬頃からは休講ばかりで、単位がとれずにやきもきしましたが、なんとか3年の夏休み前に進級できてほっとしました。専門課程に入ると、2年間の基礎医学に続いて臨床医学を2年間学びます。まずは基礎として解剖学、生理学、生化学を学んだのですが、生化学は苦手でした。代謝経路を暗記するばかりでちっとも生きものらしくない。体内の現象をみる生理学や病理学の方がはるかにおもしろかったですね。

阪大医学部では基礎配属といって、4年生の秋から4ヶ月、興味のある研究室で研究の手伝いや、論文を読み込む機会があります。迷わず免疫の研究室(北川正保教授腫瘍発生学教室)を選びました。大学に入った頃に、石坂公成先生が免疫の過剰反応であるアレルギーの原因が抗体IgEにあることをつきとめたことが新聞・雑誌などでよく取り上げられていたことと、これまで病院でアレルギー体質といわれてきたので、アレルギーに興味を持っていたことが要因です。

国家試験に合格後は、まず1年間大阪大学で研修医として働きました。免疫を学びたかったのですが、臨床でできる免疫の治療法はステロイド剤を処方することくらいです。それに比べて循環器は、エコーや心電図やカテーテルなど、さまざまな機械を利用しながら診断・治療できる。技術を学べる所に魅力を感じてそちらを選びました。2年目は就職先を自分で探す必要があったのですが、のんびり屋だった僕は就職のことなど考えず、友人を心配させていました。ぎりぎりになってあわてて、求人欄にぶらさがっていた市立堺病院に電話で問い合わせたら、向こうから駆けつけてくれたんですよ。よほど人手不足だったらしく、そのまま病院まで連れていかれました。あっけなく仕事は決まりというわけです。

一般内科を担当し、胃カメラや心エコーなど何でもやりました。職業としての医者を体験した貴重な2年間でしたが、仕事の合間をぬって免疫学の本を読みながらいつか大学に戻ろうと考えていました。患者を診ていると病気って全然わかっていないと実感させられるんですよ。分厚い医学の本は、「こういう状態の場合病気です」という表現型の例が記述されているだけで、病気の原因やメカニズム、治療法も書いてないものばかりです。病気を治すのが医者だと思っていたのに、治すすべがない医療現場の現実に耐えきれなくなりました。2年目には、臨床と基礎研究を合わせて病気のしくみを明らかにしようと、大学で二足のわらじを履く決意をしたのです。研究の対象を、臨床医として体験した循環器にするか、現象として興味を持っていた免疫にするかで迷いましたが、新しい道へ進もうと思い、免疫を選びました。リンパ球にB細胞とT細胞の2種類あることがわかり、免疫学の黎明期とも言える時代でしたから、何か面白そうなものが隠れていると感じたんです。

大学の友人たちとスキー旅行。

大学5年生の頃。夏休みを利用して北海道にて病院研修(右端:本人)。

Scientist Library:
季刊 生命誌 35号
『免疫とアレルギーのしくみを探る』
石坂公成

免疫の教科書。医師になってからも独学で勉強していた。

臨床医を経て基礎へ

大学に戻ったのが1980年で、ちょうど、岸本忠三先生が阪大医学部の修士課程の教授となられたところでした。アメリカの石坂公成先生のところでT細胞の出す因子がB細胞に抗体を作らせることを実証した岸本先生の下で、免疫を研究したい一心で研究室の扉をたたきました。ところが、4月1日に研究室に行くと、先生は僕を本庶佑先生の研究室(阪大遺伝学教室)へ連れて行ったんです。これまでの免疫学は細胞を対象とした解析が中心で、僕もT細胞とB細胞の相互作用を研究したかったのですが、岸本先生はより深い理解のためには遺伝子を明らかにする必要があると考えたのでしょう。そのために僕を送りこんだというわけです。遺伝子クローニングの技術が普及し始め、分子生物学が急激に存在感を増していた頃でしたから。本庶研で目にした最先端の分子生物学は、学部時代に生化学は代謝経路の暗記だと思い込んでいた僕には全く新しい学問にみえました。

免疫グロブリンの再構成免疫グロブリンの再構成免疫グロブリンは、重鎖と軽鎖ともに可変部と定常部があり、可変部はいくつかの部分に分かれる。可変領域は、ゲノム上に並ぶ断片的な遺伝子を「切断・再結合」することで再構成される。を研究していた本庶研に、僕は「リンパ球の一種であるプレB細胞にウイルスを感染させてできる腫瘍の解析」というテーマを岸本研から持ち込み、杉山治夫先生(現大阪大学医学研究科教授)とペアを組んで実験しました。彼は豊島久真男先生のところで、トリの白血病ウイルスの研究にかかわった経験があり、腫瘍をつくるのは彼が、そこで遺伝子の再構成が行われるかどうかを解析するのが僕でした。

当時、医者の気分が抜けきれていなかった僕は、白衣の下にネクタイを締めて実験してたんです。銀染色したフィルムをのぞき込む時、高価なネクタイを何本もダメにしたことを思い出します。この頃、「審良は小さなピストルでいっぱい撃つのは得意だが、大きな大砲を撃つことはないだろう」とある先生に言われたことがあって、自分でもそれが的外れでないと思え、結構ショックだったんです。自分は研究者には向いていないのではないか、大した研究者になれないのではないかという悩みを抱えながらのスタートでした。

本庶研にいた2年間、データが出ると、杉山さんと2人でいつもディスカッションしていました。自由に研究できたおかげで、実力がついたかもしれませんね。特定のDNAの塩基配列を検出するサザンブロット法で免疫グロブリンの可変部の再構成を解析していると変なバンドが出てくるんです。バンドのパターンが変わるということは再構成することを意味するわけですが、当時、腫瘍では免疫グロブリン遺伝子の可変領域の再構成は自然には起きないと考えられていたんです。何かの間違いかなと思いながら、杉山先生と話しているうちに、ひょっとしたらどんどん再構成しているのではないかと思い至ったのです。多くの人から「コンタミだよ」とあしらわれましたが、それでも杉山先生は「絶対にコンタミはしてない」と粘りました。コンタミでないことを証明するには細胞を単離して、寒天培地で培養してみるしかないと奮起して実験してみたところ、それでもバンドのパターンが変化していました。親の細胞と共通のバンドを一つ持ちながら、もう一つは違うバンドなる亜系がどんどん出てきたんです。感動ひとしおで、二人で大喜びしましたよ。この実験から、多様な免疫グロブリンの生み出す抗体の重鎖の可変部分の再構成の順序が分かり、研究を始めてわずか2年で論文が科学誌「ネイチャー」に載りました。その後、一年ほど経ってから、mu鎖から他の免疫グロブリンへクラススイッチすることを見つけ、今度は「セル」に投稿しました。これで、研究者に向いていないのではないかという心配もふっきれて、基礎研究にのめりこんでいったんです。

Scientist Library:
季刊 生命誌 59号
『研究の真髄を医療へ』
岸本忠三

Scientist Library:
季刊 生命誌 37号
『免疫のしくみに魅せられて-何ごとにも主体的に挑む』
本庶 佑

本庶先生(前列右から4人目)を囲んで集合写真(本人最後列左から2人目)。

Scientist Library:
季刊 生命誌 23号
『がん遺伝子を追う』
豊島久真男

分子生物学の手法を磨く

本庶研での2年間の後は、プレB細胞株のクラススイッチの研究を続けながら岸本研に分子生物学の実験設備を立ち上げました。丁度その頃、細胞株に遺伝子導入の研究がはやっていました。岸本研に移ってからは、そのような研究を始めました。特にB細胞に免疫グロブリンを発現させるのは大変でした。リン酸カルシウム法を使ったり、大腸菌をプロトプラストにして融合させたり、針でDNAを注入したりとあれこれ試しました。遺伝子導入による表現系の変化をどうしても確かめたかったんです。

そうこうしているうちに大学院を卒業し、次のステップとして留学を考えていたら、カリフォルニア大学バークレー校の坂野仁先生が研究員を募集しているという情報が岸本研に入りました。利根川先生のところで、画期的な業績を上げ、免疫グロブリンの再構成のしくみの研究をしている方で、自分の研究とつながっているので志願しました。戻ってくる場所の保証もない片道切符でしたけれど、岸本先生を初め研究室のメンバー全員が伊丹空港まで見送りにきてくれて、心強かったのを覚えています。

坂野先生は研究室に夜の9時頃来て朝の5時頃帰る、昼夜逆転生活をしていました。だから僕と会うのは夜の2時間ほど。実験している僕の横に座って、実験のディスカッション以外に自分の過去の経験、研究者としての心構えなど役立つ教訓を聞かせてくれました。2年間で、免疫グロブリンの再構成が起こるために必要な最小配列を決定して、帰国直前に書き上げた論文は科学誌「サイエンス」に載りました。実は最初の1年半はT細胞受容体のエンハンサー領域を見つけようとして頑張ったのですが、論文はどこも通らずにお蔵入り。僕は未練たっぷりだったんですが、坂野先生が研究には引き際も肝心だと説得してくれて、テーマを変えた結果うまくいったのです。ここで一つ学びましたね。

アメリカへの留学の際、研究室全員が伊丹空港までに見送りに。

Scientist Library:
季刊 生命誌 63号
『常に問いを立て続けて—免疫・嗅覚・そして次は』
坂野 仁

6000匹のプレッシャー

アメリカでの研究が軌道に乗り始めた頃に、「助手のポストが空いたから帰ってこい」という岸本先生の声がかかりました。日本に戻るチャンスはそうあるものではありません。岸本先生からの期待も感じて帰国を決意し、大阪大学に新設された細胞工学センターの助手になりました。当時、初代所長の岡田善雄先生松原謙一先生を初め、そうそうたるメンバーが集まっており、隣の研究室はインターフェロンで有名な谷口維紹先生でした。研究室のトップ同士のいい意味でのライバル意識が強かったのです。よそで「ネイチャー」、「セル」などに論文が出ると研究室の中で「今日の岸本先生、えらい機嫌が悪いな」「隣で出たんや」などと話し合ったのです。お互い高めあうという意味ではいいプレッシャーで、本当にレベルの高い研究所でした。

岸本研ではIL-6の作用を中心に研究をしており、僕はこれまで培ってきた分子生物学の手法でIL-6の転写制御を明らかにすることにしました。細胞内のシグナル伝達やサイトカインの遺伝子発現を見ようと思ったのです。当時、流行していたサウスウエスタン法を用いて、1年半ほどでIL-6の誘導に関わるNF-IL6をクローニングできました。その後、IL-6が誘導する遺伝子の制御にも興味を持ちました。IL-6応答エレメントには、2種類あって、IL-6、IL-1さらにはLPSに共通に応答するエレメントとIL-6だけに応答するエレメントが報告されていました。前者は、NF-IL6と判明しましたが、後者は、まだクローニングされていませんでした。そこで、その分子のクローニングをするため、タンパク質の精製から始めました。IL-6を注射したマウスの肝臓をすりつぶし、核のタンパク質をとりだしてから、DNAモチーフ配列と溶液中でくっつくタンパク質を単離します。ここに高濃度の塩を入れるとDNAからタンパク質がはずれて、結合していたタンパク質が精製できるのです。こうして得られるタンパク質はわずかなので、アミノ酸末端配列を決めるにはマウス6000匹が必要でした。一日200匹が精一杯ですから、3カ月間毎日、学生たちと作業しました。「広島のカキの養殖屋さんの気分ですね」と言われながら、明けてもくれても、ネズミから肝臓を取り出して氷につけるという作業を繰り返したのです。こうして集めたタンパク質を電気泳動で分離して、目的のバンドをカッターナイフで切り出します。ここで失敗したらこれまでの苦労が水の泡と学生たちは及び腰だったので、切り出しは僕がやりました。6000匹と思うと手が震えましたよ。得られたバンドを、留学時代に知り合いになった東レ基礎研究所の成戸昌信さん(現東レ常任理事)のところに送ってアミノ酸配列を決めてもらいました。未精製であったため、得られたアミノ酸配列を報告されているアミノ酸データベースと照らし合わせても、それらしいものは見つからず、唯一10アミノ酸程度の怪しい断片だけが残りました。このアミノ酸から予想されるDNA塩基配列をつくり、ファージに組み込んだマウスのゲノムライブラリーを利用して、遺伝子全長をとることを試みました。本当に新しい遺伝子かどうか解析が終わるまで不安と緊張の連続ですが、結果を見た瞬間にふきとびました。IL-6のシグナル伝達に関わるSTAT1STATファミリーシグナル伝達と転写活性化の双方にはたらく分子。これまでに7種類が報告されている。非活性化状態では細胞質にいるが、リン酸化を受けると活性化し、核内で転写因子としてはたらく。というタンパク質と似たDNA配列が見つかったのです。この分子はその後「STAT3」と名付けられました。学生と一緒にそれはもう大喜び。こういう瞬間を味わえるのが研究者の醍醐味ですね。

それから間もなく、ハワイの学会に出席した岸本先生から国際電話がかかってきました。STAT1をクローニングしたグループが、STAT3についても発表しようとしているというのです。もう大慌てで論文をまとめ、2ヶ月ほどで科学雑誌「セル」に載りました。彼らはデータベースを用いてSTAT3を見つけ、ほぼ同時期に「サイエンス」に載りました。冷や汗をかきましたが、間に合ってよかった。6000匹のマウスの成果が無になったら泣くに泣けませんから。

ノックアウトマウスでスクリーニング

6000匹のマウスの実験で力を出し切り、岸本研でできることはやり尽くしたという思いでした。細胞工学センターに入ってから10年近く経っており、そろそろ自分の研究室を持ちたいという思いが頭をもたげてきた頃、阪大第3内科の出身で、岸本先生の先輩にあたる東野一彌教授(当時兵庫医科大学内科学教授)からの誘いで、96年に兵庫医大生化学の教授になりました。移ってからは、自分で手を動かすことは止め、テーマを考え、研究室の進む方向を考えることに専念しました。正直、研究環境や資金面の不安がありましたし、周りからも心配されました。そんな中、竹田潔くん(現大阪大学医学系研究科教授)が学生仲間をまとめ上げ、「連れて行ってください」と言ってくれたのです。こちらから、ついてきてくれとは言いにくい状況だっただけにうれしかったですね。

43歳になろうとしていたし、せっかく独立したわけですから、一刻も早く自分のテリトリーを見つけたいと思いました。そこで始めたのがノックアウトマウスを用いた研究です。以前、ある遺伝子の機能確認のために作ったノックアウトマウスが、予想とは異なる表現型を見せたことを思い出し、表現型から遺伝子の意味を探索しようと考えたのです。そこで、新しい研究室では、ノックアウトマウスを色々作って面白い現象をスクリーニングすることにしました。幸い、CRESTという大型研究費が設置され、それを得ることができたので、最初抱いていた資金の心配はなくなりました。ノックアウトマウス作成施設は、その翌年、文科省の私学ハイテクリサーチ・センター整備事業に応募し採択され兵庫医大に設立されましたが、それまでは、大学の同級生で、岸本門下の吉田進昭君(当時大阪府立母子保健総合医療センター、現東京大学医科学研究所教授)のところで作らせてもらいました。

ノックアウトマウスを色々つくると言ってもとっかかりが必要です。岸本研で苦労して発見したSTAT3から始めようと考えました。白血病のM1細胞をIL-6で刺激するとマクロファージに分化するのですが、その時STAT3のはたらきを阻害するとマクロファージへ分化しなくなることがわかっていました。そこでSTAT3の下流の因子がマクロファージへの分化を制御しているのではないかと考え、それを調べたいと思ったのです。当時、M1細胞をIL-6で刺激するとMyDシリーズMyDシリーズ骨髄性白血病細胞M1をIL-6で刺激した際に、短時間に誘導されてくる一連の遺伝子群(Myeloid Differentiation=MyD)という遺伝子のmRNAが増えることが知られていました。そこで、MyDシリーズの遺伝子を片っ端からノックアウトしていったところ、IL-1のシグナルの下流ではたらくMyD88という遺伝子に行き当たりました。これをノックアウトしたところ、予想通りそのマウスはIL-1に反応しなくなりました。たまたま兵庫医科大でクローニングされていたIL-18もIL-1の仲間だったので同様に調べてみたら、これにも反応しませんでした。つまり、IL-6やIL-18のシグナルは、細胞内でMyD88を介しているのです。

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マウスの初期胚に特定の遺伝子を壊したES細胞を注入し、ノックアウトマウスを作成する。

自他を認識する自然免疫

ここで研究は一段落するはずだったのですが、学生が意外なデータを持ってきました。岸本門下の先輩にあたる中西憲司先生(現兵庫医大学長)の研究室では、LPSという菌体内毒素の研究をしていて、それを注射したマウスは1~2日で死んでしまいます。兵庫医大では、LPSを注射して増加するタンパク質としてIL-18を見つけていたので、LPSをMyD88のノックアウトマウスに入れたら何か変化が起きるかもしれないと考えたんですね。そしたら死ななかったのです。しかし、なぜかIL-1やIL-18のノックアウトマウスだと死んでしまう。LPSの受容体は、IL-1やIL-18の受容体以外の分子であると考え、IL-1受容体ファミリーを片っ端から調べましたが、この狙いははずれでした。

どうしたものかと考えていたところ、97年に、アメリカでショウジョウバエのTollにそっくりなToll様受容体(TLR)がヒトに存在する報告が出たのです。実はそれまでは、ショウジョウバエのTollに対応するのがほ乳類のIL-1受容体ファミリーと思い込んでいたので、IL-1受容体ファミリーを一所懸命調べていたんですよ。でも、ヒトにTollに似た受容体があるのなら、これがLPSの受容体なのかもしれませんよね。

そこで、学生に毎日のように出されるゲノム情報から相同性の高い遺伝子を検索させて、12個のTLR遺伝子候補を探し出しました。そして、これらを片っ端からノックアウトしていったのです。

こうして、LPSを認識する受容体がTLR4であるとわかったのが98年の夏でした。この時、すぐに論文を出せば良かったのですが、よい論文にしようとちょっと色気を出したのが仇となって、タッチの差でアメリカのグループに負けてしまいました。彼らが先に出すとは思っていなかったのでショックでした。アメリカにいたら彼らの情報も入ってきたでしょうに。世界と対抗するためには意識して情報収集しなければいけないと痛感しました。

でも、僕らはTLR全種のノックアウトマウスを手にしているという利点を活かして、次の展開で勝とうと考えました。12種全てのTLRについてのリガンドを決めようと奮起したのです。リガンドを見つけるという作業は本当に大変です。わかってしまえばとても簡単なことですが、それまでは何をしていいかわからない。地道に1つずつ可能性をつぶしていくしかありません。実際には、MyD88のノックアウトマウスから取り出したマクロファージに通常だったら反応するはずの細菌成分などをあれこれかけて、反応しなかった成分だけをTLRのノックアウトマウスに試しました。ノックアウトマウスをふるいとして利用したわけです。アガリスクや、漢方薬などありとあらゆる物質を試して、苦労はしましたが次々とリガンドを見つけていきました(表)。 中でも、運良く見つけたのが、CpGDNAというウイルスや細菌に特徴的なDNAです。当時CpGDNA受容体は、細胞表面ではなく細胞質にあるというのが定説でした。僕らはその定説を知らなかったことが幸いして、CpGDNAを試してみたらTLR9が反応したんですよ。後にTLR9は外側の細胞膜ではなく、細胞内で細菌などを分解するエンドソーム細胞小器官の膜にあることがわかりました。マクロファージが細菌やウイルスをエンドソームに取り込んで消化し、出てきたDNAを検知するというメカニズムもわかってきました。よくできたしくみですね。知識がないと重大なことを逃す危険があるけれども、あり過ぎてもまた逃すという、学問の難しいさであり、面白さでもあることを実感できた研究でした。実はCpGDNAは既に免疫反応強化物質としてアメリカのベンチャー企業が研究していたのですが、そのしくみはブラックボックスだったんですね。僕たちがそこを明らかにしたわけです。

病原体のDNAがTLRによって認識されるという事実は、免疫研究者の間に騒ぎを起こしました。マクロファージの関わる自然免疫は、非特異的な貪食作用と考えられてきたのに、ほ乳類が自分のDNAと外来の病原菌のDNAを分別しているとすれば、これまでの考えが根本から覆されるからです。TLRファミリーは10数種あって、それぞれが異なる病原体成分を認識し、ファミリー全体では、細菌からウイルスまであらゆる病原体を認識します。どれも重要な役割を持っており、興味深い遺伝子ファミリーの姿が見えてきました。

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TLR受容体のリガンド一覧。TLRノックアウトマウスをふるいとして利用し、次々にリガンドを見つけていった。

高松宮妃癌研究基金学術賞の授賞式にて。寛仁親王殿下の御前で。

学士院賞のポスター前で両親と。最近10年の論文の引用回数は、免疫学分野でトップ。

自然免疫と獲得免疫をつなぐ

免疫の全体像は描き尽くされたと思われていたのに、TLRをきっかけに自然免疫の防御のしくみが巧みな新しい姿で見えてきました。僕たちはTLRのリガンド探しと平行してTLRファミリーのシグナル伝達経路の全容や生体内での役割も明らかにしたのですが、その中で、自然免疫が獲得免疫を活性化するということもわかってきたのです。例えば、インフルエンザウイルスに感染すると、そのウイルスを中和する抗体ができますが、その抗体の産生にTLR7が必須であることを明らかにしました。TLR7ノックアウトマウスにインフルエンザウイルスを感染させても、抗体もできませんでした。また、インフルエンザワクチンの作用もワクチンに存在するRNAが重要で、TLR7を活性化することによること、ウイルス抗原だけでは、自然免疫からの獲得免疫が誘導されないことを証明しました。つまり、ウイルスのRNAがTLR7を通して自然免疫を活性化して、その結果、獲得免疫も活性化するということなんです。精製したワクチンよりも、不純物が混ざったワクチンの方が効くというのですから驚きです。獲得免疫と自然免疫がこれほど密接に関わっているとは研究を始めた当初は予想もしていませんでしたが、効果的なワクチンを作るための基礎概念を確立することができて、医師を目指した人間として満足です。その後は、TLR以外の自然免疫のしくみを調べており、細胞内でウイルスのRNAを認識する2本鎖RNA受容体の役割を、ノックアウトで証明しました。現在は、細胞内の2本鎖DNAセンサーを見つけようと、世界としのぎを削っています。

米国科学アカデミーの調印式の後でアインシュタイン像の前で。

免疫学の全体像を描くために

これからの時代は、医学と工学、情報などのさまざまな分野を融合していかないと新しい概念を生み出すことは難しいでしょう。分子生物学や発生工学は、生体内から取り出した培養細胞による知見がほとんどです。生体内での免疫細胞の時間空間的な振る舞いを知るには生体内を知るイメージング技術やシステムバイオロジーを取り入れる必要があります。これは新しい技術を取り入れ続けてきた経験からの実感です。そこで、生命機能研究科で一分子イメージングの研究を展開している柳田敏雄教授と組んで、文部科学省のかかげる世界トップレベル研究拠点プログラムに免疫学フロンティア研究センターとして応募しました。大阪大学の名誉がかかっているというプレッシャーもかかり大変な思いをしましたが、おかげで異分野の専門家が集まる組織をつくることができました。2007年に始めたのですが、イメージング技術を免疫学に応用するにはまだまだ問題も残っています。動き回る培養細胞をどう観察するのか、顕微鏡も市販のものではなく、自前で開発する必要があります。MRIで生体内の免疫細胞の様子を観察する取り組みも始めています。

常に新しい技術を取り入れてきたと言いましたが、変えない点もあります。ノックアウトマウスの表現型から面白い現象をスクリーニングするという基本は変えていません。特に免疫の現象だけにしぼっていることも。発生生物学的にとても面白い現象が出ても深追いはしません。一度、論文をまとめたことがあるのですが、酷評されてこりごりなのです。以来、免疫以外については専門家にお任せすることにしました。ノックアウトマウスをたくさん作る手法に関しては、周りからは何をやりたいのかわからないと言われ続けましたが、気にせずに続けています。おかげで、最初は断片的でバラバラに見えた分子も、研究を続けていくうちに、相互に関連をもつことがわかったりして、自然免疫の総合的な姿を捉えることができました。一見、無関係な所に関係を見いだすのが研究の醍醐味ですよね。これからもわくわくするような、新たな発見を探し求めていきたいと思います。

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免疫学フロンティアセンターの自然免疫研究室にて。新しい技術を取り入れながらもノックアウトの手法を使った偶然の成果を狙いたい。

免疫学フロンティアセンターの開所式(左端:本人)。

Scientist Library:
季刊 生命誌 58号
『生命現象の基本にゆらぎを発見』
柳田敏雄