8人の子を育てた母

出身は沖縄県の那覇市、にぎやかな8人兄妹の4番目です。天妃国民学校に入った年に太平洋戦争が始まりました。3年生の夏にサイパンが陥落し、南西諸島の住民に疎開命令が出され、家族で鹿児島へ疎開することになりました。このとき勧業銀行の職員だった父は、那覇支店の帳簿を守るためにひとり沖縄に残り、地上戦に巻き込まれて38歳という若さで帰らぬ人となったのです。「さっさと逃げればよかったものを」と、母は後々まで恨みごとを言っていましたね。疎開先の九州もたびたび空襲に見舞われ、町が焼けるたびに逃げました。最初にいた川内(薩摩川内市)からは空襲の直前に逃げ出して田舎へ避難し、熊本の隈府(菊池市)に引っ越したりと、生きた心地のしない日々でした。終戦を境に、教科書を墨で真っ黒に塗りつぶす作業をさせられたときは、既成の権威を盲信することだけはするまい、と子供心に思ったものです。

沖縄に戻れたのは終戦から1年後のことです。戦後の何もない生活を経験した人は誰もがそうでしょうが、お互い助け合う精神と、自分のことは自分でするという自立心を植え付けられました。父という支えを失いながらも、母は8人の子供を育て上げて全員を大学に送り出してくれました。母にはリーダーとしての素質があったのか、戦後に女性仲間を集めて、そのまとめ役として外部と交渉し、仕事を請け負っていたようです。それでも家計のやりくりは大変だったのでしょう。あのころは夜の何時に目を覚ましても、ミシンを踏んだり洗濯をしたりする母の姿がありました。兄妹の誰一人として頭が上がりません。私たちにとって、いつまでも自慢の母です。

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幼少のころ、家族に叔母や従妹を交えて撮った写真。母(右端)は女手一つで8人の子供たちを空襲から守り抜き、戦後の貧しい生活の中で子供たちを育て上げた(本人:左端)。

漁師に聞いた「酔う魚」の話

体を動かすのが好きで、高校では軟式テニスに熱中しました。高校3年の7月に最後の試合を終えたとき、受験勉強を始める前にしっかり遊んでおこうと思い、友達と沖縄本島の北にある伊平屋島に遊びに行くことにしたのです。幼い頃から海で生き物を観るのが大好きだったのですが、今思えばこの夏の経験が、生涯をかけて取り組む研究テーマ、海の毒との出会いでした。

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伊平屋島は青い海とサンゴ礁に囲まれた小さな島で、毎日海に潜って生き物を見たり魚を釣ったりして、高校最後の夏休みを満喫しました。サンゴ礁の海は大小の水路が無数に通っていて、潮の流れが複雑です。潮の状態は島の漁師がよく知っていますから、「今日の潮はどこへ流れますか」と毎日尋ねて話をするうちに仲良くなり、海の生き物について色々なことを教わりました。ある日、「サンゴ礁のあの辺りで獲れた魚を食べると、酔うことがあるから気をつけろよ」と教えてくれたのです。なぜ魚に「当たる」と言わずに「酔う」というのか不思議に思って聞いてみると、その場所で獲れた魚を食べると、100尾に1尾くらいの確率で二日酔いのように体がだるくなるからだといいます。3日寝ていれば治るので大した中毒ではないが、奇妙なことに、その間冷たい水に触れると感電したようなショックと激しい痛みが走るというのです。さらに面白いのは、それが獲れる場所がまるで生き物のように数年周期で移り変わっていき、その場所の魚は種類を問わず酔う魚になるということです。もしかすると毒を作っているのは魚自身ではなく、魚が食べる海藻か何かかもしれない、と漁師は話してくれました。このとき、海に潜む毒の正体に好奇心をかき立てられたのを覚えています。

高校生の頃、学校の鉄棒で大車輪をしているところ。スポーツ万能だった。筋肉質で体が重かったことが、海に潜るのに向いていたのかもしれない。

コロンブス以来の謎に挑む

海が好きだったことと、漁師の話が心に残っていたこともあり、大学は東京大学農学部の水産学科を選びました。大学で調べてみると、「魚に酔う」症状は、サンゴ礁が発達した世界中の地域に見られる「シガテラ」という中毒症状で、コロンブスの時代から記録されている有名な魚介中毒だと分かりました。しかも、原因毒がどんな物質で、どんな生物がそれを作り出しているのかが未だに謎だというのです。これは面白いと思っていたところで、同じ水産学科の檜山義夫先生がまとめた「南洋有毒魚類調査報告」という本に出会ったことも刺激になりました。檜山先生たちが太平洋戦争直前のサイパンで遂行したシガテラ調査の報告書で、島民への聞き取りやマウスでの試験によって、70種以上もの魚の毒性を調べ上げていました。開いてみると見覚えのある魚がたくさん載っていて、沖縄で見たり釣ったりしていた魚の多くが毒化する可能性があると知って驚いたのです。ますますシガテラに興味が湧き、休暇で沖縄に帰るたびに漁協を回って、中毒魚の種類やそれが獲れる海域などについて聞き取り調査を始めました。檜山先生に調査の話をしに行くと、「シガテラの研究は面白いから頑張りなさい」と励ましてくれました。

大学院に進んでシガテラの研究を続けたいと思い、最初は檜山先生のいる生物学系の研究室に進もうかと考えました。しかし当時の生物学は、分類学や形態学など生物の特徴を記述する研究が中心で、分析的に物事を明らかにしようとする学問ではなかったのです。魚が毒化するメカニズムを突き止めたかったので、化学からのアプローチが面白いのではないかと思い、水産化学研究室を選びました。ここでシガテラ研究を本格的に始めることになったのは、意外なきっかけからです。当時の沖縄県はまだアメリカの統治下にありましたから、県の出入りにパスポートが必要でした。修士課程の最初の春休み、東京に戻るときにパスポートの発行が遅れ、新学期に半月ほど遅れてしまったんです。「どこを遊び歩いていたのだ」と、研究室の橋本芳郎教授はカンカンに怒っていました。遅れたのは僕のせいではないのにと膨れっ面で席に戻りましたが、その際、遅れた時間を利用して行ったシガテラ調査のメモをお渡ししておいたのです。するとメモを見た先生が、「これは面白い!」と大喜びしました。海軍出身の橋本先生は、戦時中に南洋の島に行っていたのでシガテラをよくご存知で、沖縄でもシガテラ調査ができると知って小躍りしたのです。折しも東京では南方から入ってきた魚でシガテラが発生し、聞き慣れない中毒に注目が集まっていたところでした。また、橋本先生は遅れの原因がパスポートだと分かるとすぐに、「すまん。怒ったのは俺が悪い。」とおっしゃいました。東大の教授が、大学院に入りたてほやほやの学生に頭を下げたのにびっくりしたのと同時に、その潔さに感銘を受けましたね。そして、「すぐにでも沖縄に行こう」と意気込む橋本先生と共に、本格的なシガテラ調査に乗り出すことになったのです。

大学時代に出会った名著『南洋有毒魚類調査報告』。南洋魚の原色図版とともに、毒のある魚の種類や中毒症状、毒を含む内臓の取り除き方まで詳細に記述してあった。

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一緒にシガテラ研究を始めた恩師の橋本芳郎教授と(左)。私の結婚式で仲人をしてくれた(本人:右)。

シガテラ研究の先駆者たちとの出会い

橋本先生と沖縄で調査を始めたのはいいのですが、シガテラを化学的に研究するには、少しの試料を集めたくらいでは間に合わないことがすぐに分かりました。シガテラを発症する魚は100尾に1尾程度と少ない上に、その1尾に含まれる毒性分もごく微量ですから、詳細な化学分析ができるだけの量を集めるのは気の遠くなるような話だったのです。そんな時、同じ悩みを抱えたハワイ大学のショイヤー先生が東大を訪ねてきました。当時ハワイ大学はシガテラ研究をリードしており、ショイヤー先生のグループは世界で初めてシガテラ毒物質の単離に成功して「シガトキシン」と命名するところまでこぎ着けていました。しかし試料が足りなかったことや当時の測定技術の限界から、詳しい化学的性質や発生源を解明するには至っていなかったのです。以来アメリカと協力して試料採集や抽出法の開発を行うようになり、1976年には共同研究での働きが認められ、WHO(世界保健機関)の顧問としてシガテラ多発地帯の仏領タヒチに派遣されることになりました。最初に依頼を受けたハワイ大の共同研究者ホカマ先生が「フランス語ができないからタヒチはごめんだ」といって、代わりに私をWHOに紹介してくれたのです。フランス語は読むくらいなら何とかできましたし、ゴーギャンが魅せられた美しい島々への憧れもあり、「行けば何とかなります」と言って二つ返事で渡航を決めたのです。ところでこれが大きな転機となりました。

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日本、アメリカ、仏領ポリネシアの共同研究では、シガテラ研究の先駆者たちが揃った。リーダーのハワイ大学バナー先生(Albert H. Banner:中央)、シガトキシンの命名者ショイヤー先生(Paul J. Scheuer:右端)、橋本先生(左から二番目)、タヒチのルイ・マラルデ医学研究所のバグニスさん(Raymond Bagnis:右から二番目)。

ゴーギャンの島で掴んだシガテラの起源

タヒチのルイ・マラルデ医学研究所には様々な分野の専門家が滞在し、大規模に多種類の生物を採集していましたが、シガテラの起源となる生物は見つかっていませんでした。私は少し視点を変え、同じ種類の魚で毒を持つものと持たないものは何が違うのかを、じっくり見比べることから始めたのです。マウスを使って、タヒチの様々な地域から送られてきた藻食魚サザナミハギの毒性を見ていくと、ガンビエル諸島という地域の個体の毒性が特に強いことが分かりました。その消化管を開いてみたところ、見たことのない直径0.1mmくらいの円盤型の藻類がたくさん入っていることに気付いたのです。現地の状況を確かめるべく、すぐにガンビエル諸島に飛びました。

ガンビエル諸島は仏領ポリネシアの東端、ムルロア環礁近くに位置する絶海の孤島群で、美しいサンゴ礁と豊かな海の幸に恵まれています。しかし私たちが訪れたときは魚介類なら何を食べても当たるというほどにシガテラが頻発しており、島民は缶詰で生活している状態でした。海底を調べてみると思った通り、例の小さな円盤型の藻類がたくさんいたのです。これは新属・新種の渦鞭毛藻渦鞭毛藻
単細胞藻類の一群。縦方向と横方向に2本の鞭毛を持ち、渦を巻くような動きで泳ぐことから名付けられた。有害藻類となる種が多く、赤潮の原因生物としても知られる。
で、海藻に付着して生育するという、今までにない性質を持っていることが分かりました。ガンビエル諸島(Gambier)と円盤(disc)のような形、そして毒(tox)を持つであろうことから、Gambierdiscus toxicusと命名されました。実はG. toxicusの大繁殖の引き金になっていたのは、サンゴ礁の開発工事でした。ガンビエル諸島最大の島、マンガレバ島の山頂には水爆実験をモニタリングする観測所が建設され、島に港を作るために海底を掘ったことで辺り一帯のサンゴが死に絶えてしまったのです。サンゴの死骸表面に石灰藻が生育し、その石灰藻にG. toxicusがびっしり付着していました。

G. toxicus がシガトキシンを持っているかを確かめるため、さっそく採集作業にかかりました。海に潜って採取した死サンゴの表面をブラシで掻き落とし、日本から持ってきたふるいでふるい分けてG. toxicusを手にしました。タヒチのシガテラ研究の第一人者レイモンド・バグニスさんや、鹿児島大学教授の井上晃男さん(現・鹿児島大名誉教授)と一緒にひたすら地道な作業を続けました。

海底の死サンゴの採集には、タヒチ随一のダイバーで漁師のジャック・ベネットさんが大活躍してくれました。彼と大親友になって、兄弟の契りまで交わしたのはかけがえのない思い出です。実は、彼は危ないところを救ってくれた恩人でもあるのです。ガンビエル諸島に来て日が経つにつれ、私と井上さんは毎日変わらぬコンビーフの生活に我慢ができなくなってきました。どうしても魚が食べたくなり、「少しくらいなら大丈夫だろう」と食べたのです。その時ベネットさんがすごい剣幕で「やめろ!」と腕を掴んで止めてくれたのです。二口ほど食べただけだったのに、翌日雨に打たれるとピリピリ痛むシガテラ特有の症状が出ましたから、彼が止めてくれなかったらどうなっていたか分かりません。

そんな苦労をしながらかき集めたおよそ400gのG. toxicusからは、狙い通りシガトキシン0.75mgが抽出できました。ついに、シガテラの起源となる生物を手にしたという思いでしたね。G. toxicus を大量に培養して精製すれば、分析に十分な量のシガトキシンを手にすることができるはずです。試料を持ち帰り、期待に胸を膨らませながら培養を開始しました。ところが、培養したG. toxicusからはシガトキシンが検出されません。培養条件をいろいろ変えてみても、世界中の研究グループが試しても、G. toxicusはシガトキシンを生産してくれませんでした。毒物質の大量生産はおろか、毒を作っているのは他の生物なのではないかという憶測や批判が飛び交うことになり、原因究明は再び遠のいてしまったかのように見えました。
シガトキシンが検出できない理由としてすぐ思い当たったのは、培養に使ったG. toxicusがすべて、1個の細胞から出発したクローン株だったということです。管理の手間を省くため、持ち帰った株のうち成長の良い1株のみを残して他は処分してしまったのです。微生物を扱った経験が無かったため、株の遺伝型によって生産する物質が違うかもしれないということに気付かなかったのです。大規模な採集と培養にはそれなりの資金と人員が必要ですから、すぐに再調査には乗り出せません。結局10年後に再び準備を整えてシガトキシンの生産株を見つけ出し、ようやくG. toxicusがシガテラの起源であると証明できたのです。

最初の失敗は苦い教訓でしたが、海底の渦鞭毛藻が中毒の原因として無視できない存在であることは確信が持てました。そこで再調査を行うまでの10年間、さまざまな種類の底性渦鞭毛藻に視野を広げて毒性を調べてみると、思いもよらず、他の中毒の原因物質や、未発見の新規物質が次々と出てきたのです。だから10年は無駄な時間ではなかったと思っていますよ。

サンゴ礁に棲む藻食魚のサザナミハギ。体にさざ波のような模様があるのが特徴。この魚の消化管から、シガトキシンの発生源と思われる藻類(G. toxicus)を初めて発見した。

ガンビエル諸島最大の島、マンガレバ島。島の山頂には水爆実験のモニタリングセンターがあった。

ガンビエル諸島の海底。白いサンゴの死骸が辺り一帯を覆っていた。死サンゴの表面に石灰藻が生育し、G. toxicusの繁殖しやすい条件が整っていた。

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石灰藻の表面を覆い尽くすG. toxicusとその拡大図(右下)。渦鞭毛藻のG. toxicusは大型の海藻に付着して生育するが、海藻から遊離して泳ぐこともある。

記載論文を書いた福代康夫さん(現・東京大学特任教授)は当初、私の名前をとってG. yasumotoiと命名しようとしたが、「有毒生物に自分の名前がつくのはごめんだ」と言ってtoxicusにしてもらった。

サンゴからかき落とした藻類の混合物から、数種のふるいを使ってG. toxicusをふるい分ける、井上晃男教授(左)とレイモンド・バグニス博士(右)。

タヒチ随一のダイバーで親友のジャック・ベネット氏(右)と。海の調査では、ダイビングパートナーとして常に行動を共にした(本人:左)。

初めて資金助成をしてくれたトヨタ財団の成果報告書。シガテラ研究で最も苦労したのは資金集めで、様々な国際機関へ直接支援を頼みに行った。この報告書は世界中で反響を呼び、3回も増刷された。

G. toxicusに近縁な底性渦鞭毛藻Ostreopsis siamensis(左)や、Prorocentrum lima(中央)も、魚介類中毒の原因物質を生産していることを発見した。赤潮の原因となるAmphidinium klebsii(右)からは、強力な抗カビ成分を発見した。

ついに見えたシガトキシンの姿

G. toxicusからすぐには毒を得られなかったこともあり、シガトキシンの化学構造の解析には、高濃度に毒を蓄積している肉食魚のドクウツボを材料とすることにしました。再びベネットさんと一緒に海に潜ってドクウツボを捕獲し、10年かけて830尾(およそ4トン分)を集め、その内蔵125kgから0.4mgのシガトキシンを抽出しました。底性渦鞭毛藻の調査で化学構造の解析にはかなりの経験を積んでいましたが、シガトキシンはこれまで誰も扱ったことがない巨大分子だと分かっていましたし、試料はたった0.4mgしかありません。構造解析には周到な計画と思い切った判断の両方が必要でした。助手の村田道雄くん(現・大阪大学教授)と共に、まず元素組成の推定を入念に行い、分子式C60H86O19だと確かめ、さらに当時最先端のNMRNMR(核磁気共鳴)
磁場に置かれた原子核に電磁波を照射したときに起こる、エネルギーの共鳴吸収現象。またはこの現象を測定する機器を指す。共鳴が起こるときの電磁波の強さから、原子間の化学結合状態を推定でき、化合物の構造解析に用いられている。
とコンピュータシミュレーションを駆使して化学構造を推定しました。ところが構造式が分子式と合わず、どうしても炭素が8個足りません。分子の立体構造が柔軟に動くために見えなくなっているシグナルがあるのではないかと考え、NMRを-20℃に冷却して分子の運動を抑えてみました。すると、炭素8個と酸素1個からなる大きな環が分子の中央に浮かび上がってきたのです。この9員環を真ん中に、はしごのようにいくつもの環が連なった巨大なポリエーテル分子、これがシガトキシンの姿でした。G. toxicusから藻食魚、そしてウツボなどの肉食魚へと、食物連鎖を通じて多くの生物にこの毒が移行していたのです。

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さらに驚いたのはシガトキシンの種類の多様さでした。シガトキシンには、基本骨格が類似した23種類もの同族体があったのです。隣の研究室の大類洋教授(現・東北大学名誉教授)らが分析に有効な試薬を作ってくれたり、日本電子株式会社が最先端の質量分析機器(FAB-MS質量分析計
イオンの質量を測定する装置。MSと表記する。検出したイオンをさらにヘリウム原子との衝突などで壊し、標的分子に特有な構造部分を検出する機器をFAB-MSまたはLC-MS/MSと呼び、化合物の化学構造の解析に用いられる。
)を開発してくれたりと、新しい技術のおかげで、たった5μg以下の試料で副成分23種全ての構造を、立体構造まで含めて明らかにできました。例えばドクウツボのシガトキシンは、ウツボ体内で酸化されることによって、G. toxicusにあるシガトキシン同族体と比べて毒性が約10倍も高くなっていたのです。ドクウツボは、通常ならすぐ体外に排出される強い毒を蓄積していても、自身は中毒しないようなのです。G. toxicusから出発したシガトキシンが、食物連鎖を通じて多様に形を変えて生態系をめぐっていることが見えてきました。シガテラとの出会いからおよそ40年の歳月を経て、ついにその全体像が明らかになったのです。

シガトキシンを抽出するために採集したドクウツボ。

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シガトキシンの化学構造。たくさんの環が連なった形は「はしご型」構造と呼ばれる、海洋生物の化合物に特有の構造。分子中央の9員環と7員環(枠内)は、配座交換によって立体構造を変化させ、ちょうつがいのように分子を折り曲げる。近年、この柔軟な構造が毒性の発現に深く関わっていることが分かってきた。

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G. toxicusとウツボから抽出されたシガトキシンの構造を比べると、ウツボのシガトキシンは分子の両端が酸化されている(枠内)。なぜウツボがシガトキシンの毒性を強めて蓄えるのかは解明中だが、フグのように積極的に毒を防御などに利用する兆候は見られていない。

シガテラ研究の途上でフグ毒の謎が解けた

少し話は戻りますが、シガテラ研究の途上でフグ毒の謎が解けたこともお話ししましょう。タヒチに派遣される少し前、橋本先生の紹介で東北大学の金田尚志教授(元・東北大学名誉教授)の研究室に移り、魚の油脂の分離や構造解析のお手伝いをすることになりました。シガテラ研究は東北大では毛色の異なるテーマでしたのに、金田先生は何も言わず続けさせてくださったのはありがたかったですね。ところで、フグの毒性は地域によってばらつきがあることが知られており、東北地方で試しに調べてみると、三陸沿岸のフグに特に毒性の強いものが多いことが分かりました。フグ中毒が日本人になじみのあることは、「ふぐ汁の 我生きて居る 寝覚かな」と蕪村が詠んだくらい大昔からのことでしょう?それなのに未だに毎年中毒者が出ているのは、地域や個体の間で毒性のばらつきが大きいために、「これくらいなら食べても大丈夫」という経験則が通用しないからなのです。実は、シガテラの毒性を調べる目的で沖縄やタヒチの様々な魚介類の毒性を試験している時に、いくつかの生物から微量のフグ毒成分・テトロドトキシン(TTX)が出てくることに気付いていました。生物の種類を問わず毒が出てくることや、地域や個体で毒性にばらつきがある点はシガテラの発生状況と似ていましたから、フグ毒TTXはフグ自身が生産しているのではなく、食物連鎖を通して蓄積しているのではないかと考えました。

しかしフグは食物連鎖の高位にいますから、TTXを作る生物を探るのは難しいのです。そこで謎を解く鍵として思いついたのは、南洋に生息するカニでした。フグと同じTTXで中毒を起こすことのあるウモレオウギガニが、石灰藻を主食としていることを以前から観察していたのです。予想した通り、ウモレオウギガニが食べる石灰藻ヒメモサズキからTTXが検出されたので、最初はこの石灰藻がTTXの起源なのだろうと考えました。しかしヒメモサズキに含まれるTTX濃度は夏季を境に大きく増減するので、海藻に付着している見えないバクテリアが真犯人なのではないかと考え直しました。そしてTTXを生産するバクテリアShewanella algaを発見したのです。実は学生がこのバクテリアを培養して放置していたものからTTXが検出されたという幸運があったのですが、嫌気状態、つまりいじめた状態だと毒をたくさん作るということが後に分かりました。魚介類の毒の源として、渦鞭毛藻ではなくバクテリアが出てくることは予想していませんでした。毒を持つ生物の多様さに気付かされましたね。

魚類の油脂の分析をお手伝いした、東北大学の恩師・金田教授と。

フグ毒成分テトロドトキシン(TTX)の立体化学構造。小さな分子だが、非常に複雑な立体構造をしている。

フグ毒の謎を解く材料となったウモレオウギガニと、その餌となる石灰藻のヒメモサズキ。調べてみると両方からTTXが検出された。

ヒメモサズキから発見した、TTXを生産するバクテリアShewanella alga。この発見がきっかけで、フグ毒の原因としてバクテリアが注目されるようになり、TTX生産バクテリアが他にも何種か見出された。

七つの海を駆け回る

シガテラやフグ毒の研究で成果を挙げてきたことで、「あの男に頼めば何とかしてくれる」という評判が立ったのでしょうか。1990年代ごろから、世界のどこかで魚介類の食中毒が起きるたびにWHOや大学などから調査の要請が来るようになりました。タヒチやフィジーなどの離島への海外出張届があまりにも多いので、「本当に研究に行っているのか」と教授会でいぶかしがられたほどです。世界中のほとんどの島に行ったと思いますね。

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ウミガメの集団食中毒が発生したとの知らせを受けて、マダガスカルに行ったときのことは忘れられません。中毒現場はとんでもなく奥地で、首都アンタナナリボから飛行機で地方に飛び、さらに現地で調達した四輪駆動車で砂漠を横断して現場に向かったのです。辿り着いたのはひっそりとした海辺の村で、私たちが足を踏み入れた途端、好奇心いっぱいの子供たちが飛び出してきたのにはびっくりしました。そのとき中毒の発生からすでに2か月が過ぎていましたが、地中深くに埋められていたウミガメの食べ残しを何とか掘り起こし、大事に大学へ持ち帰りました。実験室で悪臭に耐えながら抽出・精製を行い、毒物質リングビアトキシンAを検出しました。この物質に見当をつけられたのは、現地の子供たちの「最近海に入ると、体がかぶれるんだ」という証言のおかげでした。リングビアトキシンAは皮膚に触れると炎症を起こし、経口摂取すると中毒を起こします。ウミガメの大好物のアマモに付着したシアノバクテリアによって、この毒物質が作られていたのです。

フィリピンやフィジーでよく見られるのはイワシ中毒です。イワシを一匹食べ終わらず、まだ尾が口の外に出ている間にもう症状が出るといわれるくらいの強烈な中毒です。さまざまな集落で聞き取り調査をしてきましたが、子どもが釣ってきたイワシを家族で食べて、一番大きいのを食べたお父さんが亡くなったという話や、飼っていたニワトリや猫がイワシの食べ残しを食べてすぐに死んでしまい、中毒だと気付いて吐き出したがもう手遅れだったというような話が各地にあります。原因はずっと不明でしたが、ある村でイワシ中毒が起きたのとほぼ同時に、隣の村でカニ中毒が起こったのを目の当たりにしたとき、はたと気付いたのです。カニに蓄積されているパリトキシンという毒物質は、イワシ中毒とそっくりな中毒症状を起こすことがあります。底性渦鞭毛藻の一種がパリトキシンを作ることはシガテラ研究のときに確認していましたから、イワシも海底の渦鞭毛藻からパリトキシンを取り込んでいるのかもしれません。中毒患者の食べ残した、たった1個のイワシの頭をマダガスカル・パスツール研究所で手に入れて、祈るようにして分析し、予想通りパリトキシンを検出することができた時は嬉しかったですね。

中毒の原因を解明するには、現地の人々からの情報が欠かせません。特に漁師は海のことは何でもよく知っていますよ。フィリピンの漁師にイワシ中毒のことを聞いてみると、「釣ったイワシのエラを開けてみて、泥が入っている種類は海の底の藻類を食べているから危険だよ。そんなの当たり前じゃないか。」と言うんです。そこまで知っていたのかと驚きましたね。高校生のとき伊平屋島で初めて出会った漁師も、ずいぶん物知りだったのを思い出します。実はフグ中毒もウミガメ中毒も、あの漁師に教わったことから解決の糸口をもらったのだなあと今思います。

魚介類中毒の現場は、都市から遠く離れた島がほとんどです。行き先に衣食住の保証があるかどうかも分からないまま駆けつけるのですから、大変な仕事だと周囲には言われます。でも私自身は苦労と思ったことなんてありません。現地の人と生活を共にして、海に入るのは、またとない素晴らしい経験ですから。彼らのためにも中毒の発生予測を少しでも可能にしたいと思っています。

そういえば、身をもって発見した中毒も一つあります。金田研究室では、夏休みにみんなで海に遊びにいくのが恒例行事となっていました。夜に民宿で麻雀をしている時、おかみさんが差し入れてくれた茹でたムラサキイガイ(ムール貝の一種)を食べて、みんな下痢をしてしまったのです。普通の人ならただの食あたりで済ませるでしょうが、よく茹でてあったのに中毒になったので、過去に報告例のない貝毒だと気付いて調べました。シガテラ調査で見てきた底性渦鞭毛藻の一種が、下痢性中毒の原因となるオカダ酸という物質を作ることを発見していましたから、原因はすぐにピンときました。東北沿岸の海中に渦鞭毛藻Dinophysis fortiiを見つけ、オカダ酸の同族体を作っていることを速やかに突き止めたのです。D. fortiiは、海水中にほんの少数存在するだけで貝を毒化させる厄介者です。自身で光合成をせず、他の鞭毛藻を捕食するタイプの藻類だったのには驚きましたね。小さな渦鞭毛藻の生態は個性に富んでいます。

四輪駆動車でマダガスカルの砂漠を横断し、ウミガメ中毒の現場に向かうところ。

ウミガメの集団食中毒の現場となった、マダガスカル島の海辺の村。

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ひっそりした村かと思いきや、大勢の子供たちが飛び出してきた。子供たちの証言も、毒物質特定の手掛かりとなった。

イワシ中毒の聞き取り調査をしたフィリピンの民家。この家でイワシ中毒が起きる3日前に隣村でカニ中毒が起き、両者の関係性に初めて気づいた。

毒性の高いコブウロコオウギガニ。属名のDemaniaは「悪魔(demon)」に由来し、猛毒であることに因んで名付けられた。

マダガスカルで手に入れた、中毒患者の食べ残しのイワシ。二個のうち一個から、カニ中毒の原因と同じ毒物質、パリトキシンを検出した。

イワシ中毒について詳しく教えてくれたフィリピンの漁師たち。

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スペイン・ヴィゴ大学のロドリゲス・バスケス教授(Jose Antonio Rodoriguez Vazquez)と。東北の民宿で発見した貝中毒と同じものがスペインでも発生したため、貝毒分析のノウハウを教えた。

最大にして最強の毒への挑戦

実はシガテラの症状は非常に多様で、まだまだ多くの謎を残しています。私が最初にタヒチでサザナミハギを調べたときに発見し、この魚の現地名「マイト」に因んで名付けたマイトトキシンもその一つです。

マイトトキシンは魚介類にごく微量に含まれていることがあり、シガテラとよく似た症状を引き起こします。非タンパク系の天然物の毒としては最強の物質で、注射をすればたった1mgで100万匹のマウスを殺すほどの威力です。中毒を引き起こす生理的なメカニズムは完全に解明されていないのですが、非常に低い濃度で細胞膜のイオンチャネルイオンチャネル
細胞膜に存在し、細胞内外へイオンを通過させる機能を持つ部位。細胞内外の電位差や、固有の伝達物質を感知して開閉する。神経細胞などの情報伝達に重要な役割を担う。
を操作し、細胞内にカルシウムイオンを流入させる作用があります。またマイトトキシンは毒性が強いだけでなく、分子量3422という、シガトキシンを遥かに上回る大きさの分子なのです。化学構造の解明も一筋縄ではいきませんでしたが、多くの研究者の協力を得て実現することができました。

まず分析に適した大きさにするため、巨大分子を3つのフラグメントに分割し、NMRと質量分析計でそれぞれの化学構造を推定していきました。この過程は助手の村田道雄くんが中心になって頑張ってくれました。最終的な全構造の確認には、NMRの2次元スペクトルをZ軸に沿って裁断してシグナルを取り出し、断面図をつなぎ合わせて構造を再現する手法を使いました。つまり、断面図をつないで人体の立体を再現する、医療用CTスキャンと同じ原理です。この分析のために一週間、最先端のNMRを貸し切って連続運転させました。長期間、安定した磁場を保つことができたのは、分析に協力してくれた日本電子株式会社の技術力のおかげです。さらに立体構造は東大理学部の橘和夫教授が部分合成で再現してくれたことで分かりました。こうして10年がかりでやっと見えてきたマイトトキシンの姿は、32もの環が連なった鎖状の骨格の分子でした。 実はこの物質を作り出しているのが、他ならぬG. toxicusだということも分かりました。G. toxicusはシガトキシンやマイトトキシン、他にも多くの複雑な物質を作り出しているのです。渦鞭毛藻の生合成の仕組みには驚嘆させられます。

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マイトトキシンの化学構造。天然物としては最大の化合物で、10年がかりで化学構造を明らかにした。

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テニスの合間に一休み。東北大学の共同研究者たちはテニス仲間でもあった。大類洋教授(左から二番目)、宮沢陽夫教授(右から二番目)、大島泰克教授(現・東北大学生命科学研究科教授:右端)。(本人:左端)

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G. toxicusが作り出す様々な物質。シガテラの原因となるものや、抗カビ性を持つものがある。

海の毒に向き合い続けて

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シガテラ研究は、いよいよジグソーパズルの最後のピースをはめ込む段階に来たと思っています。長い間、人類にシガテラを発症する魚を見分ける術はなく、発生時期や場所も予測できませんでした。今、それらを可能にする実用的な方法を開発しているのです。

シガテラを発症する魚貝を化学分析で判断できるよう、大阪府立大やFDA(アメリカ食品医薬品局)と協力して、毒性を評価する世界共通の指標を作ろうとしています。そのためにシガトキシンの標準品を精製して、国内外の12機関に提供を開始しました。標準品はいわばメートル原器に相当するもので、全ての分析の基準になるのです。これはシガトキシン類の構造を最初に明らかにした自分の役目であり、恩返しでもあると思っています。

また離島や都市から離れた漁村で高度な分析はできませんから、シガトキシンを簡易に検出できる検査キットが必要です。東北大の平間正博先生のグループと、シガトキシンに反応して発色する抗体を作ろうとしています。シガトキシンには多種多様な同族体がありますから、一つ一つに対応する抗体を調整しなくてはなりません。沖縄や奄美、ハワイ、タヒチを駆け回り、さまざまな魚種のシガトキシン組成を分析して、実用的なキット開発に役立てようとしているところです。体力と気力が続く限り研究して、中毒を少しでも減らしたいという思いです。

いっぽうでは、まだ結末を見ていないパリトキシンの海中の起源を探るべく、パリトキシン同族体のスペクトル解析に熱中しています。パリトキシンやマイトトキシンなど、渦鞭毛藻が作り出す物質は巨大で複雑な構造を持ち、毒性も非常に強いものばかりです。学会講演後に最もよく受ける質問は、「こんなに複雑な物質を、渦鞭毛藻は何のために作っているのですか?」というものです。でもこの問いにはまだ答えることができません。今思い描いているのは、これらの物質が渦鞭毛藻の細胞内の情報伝達を担っているかもしれないということです。パリトキシンもシガトキシンも、マイトトキシンと同様に、摂取した生物の細胞のイオンチャネルに作用することで毒性を発揮しますから、これらの物質が海の生物のイオン透過に関わっているのではないかと思うのです。柔軟な立体構造を持つ点や、親水・疎水基を持つ点は、私たちの体で情報伝達を担うペプチドホルモンペプチドホルモン
体内の情報伝達を担うホルモンの一群。成長ホルモン、インスリンなどがある。
に似ています。生命が進化の途上で捨ててきた非効率的な仕組みを、彼らはまだ残しているのかもしれませんし、逆にこの仕組みを独自に獲得したことが、彼らの進化の行き止まりになったのかもしれません。突拍子もない仮説だと思うかもしれませんが、次に挑んでみたい大きな謎です。

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日本農学賞・読売農学賞を受賞したとき。娘(右端)が持っているのは卒業生たちがお祝いにプレゼントしてくれたテニスラケットで、現在も愛用している。

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日本学士院賞・恩賜賞を受賞したとき。天皇皇后両陛下に、海の生物の毒についてご説明した。

LC-MS/MS(質量分析計の一種)で、シガトキシンの同族体を一挙に検出できる手法を開発した。グラフの一つ一つのピークが、異なるシガトキシン同族体に対応する。

昨年(2014年)の学会でのスライドの一部。海中に多数存在する毒物質パリトキシン(スライド中央)の同族体を解析し、その起源を探るための手法を発表した。

海をカンバスに絵を描きたい

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フィールドの生き物から面白い現象を見つけ出すには、既成の考え方にとらわれない発想力が大切です。これは余談になりますが、中西香爾先生(現・コロンビア大学教授)は手品がお得意なので、学会でのあだ名は「マジシャン・ナカニシ」。僕は手品はしませんが、誰も見たことのない生物や化学物質を海から取ってきて、微量の試料で化学構造を解明するのが手品のようなので、「マジシャン・ヤスモト」と呼ばれることがあるんですよ。学生時代に化学の道を選びましたが、生き物が大好きなのは幼い頃から変わりません。いろんな生き物の食性や生活史を観察し、考え続けていたことが、他の人にはない発想につながったのかもしれません。

化学と生物学の両方に足を置いてきましたが、どちらの分野でも良き仲間に恵まれました。巨大かつ複雑な化合物の分析は、これまでにない挑戦の連続でしたから、切磋琢磨しながら一緒に技術を作り上げてきた化学者仲間には感謝の言葉もありません。また私の化学的な業績を、生物学者の仲間たちが高く評価してくれたことも嬉しかったですね。彼らが創設してくれた、国際有害藻類学会の「Yasumoto lifetime achievement award」はとても誇りにしています。有毒藻類の分野で功績を挙げた研究者を表彰する制度です。第一回の受賞者は、渦鞭毛藻の分類・生態・進化を網羅する大著を記したテイラー教授(前・ブリティッシュコロンビア大学教授:Max Taylor)、その後の受賞者は、アメリカ・ロードアイランド大学のスメイダ教授(Theodore J. Smayda)、東大の福代康夫教授など、私の敬愛する研究者ばかりです。授賞式のときはいつも感謝と誇りの気持ちで胸がいっぱいになります。

日本でのシガテラ研究を最初に始めたので、僕自身は学閥に属したことがありません。教え子の就職先の面倒を見たこともありませんね。学生には、「みんなと同じことをやっていると、いつまでも比べられてつまらないよ。お互い違うことに取り組んで、かつ良い仕事をしなさい。」と言っています。結果的に大学の教授や助教授になった卒業生はたくさんいますが、みんな自分の力で新しい分野を切り開いています。私の役割は、フィールドから面白い材料を持ってきて学生に渡す運び屋みたいなものでしょうね。

私は海の生物が毒化するという過程を通じて、海の自然現象の全体像を知りたいのです。私以外の兄妹はみんな絵を描くのですが、画家がカンバスを前にして全体像を構想するように、私も自然現象を前にしてどういう調査や分析が必要かを考えるのです。すると、自ずと化学も生物学も入ってくるので、僕の研究は博物学だとよく言われます。毒物の化学構造や生態学的起源、生理作用、生物の生活史など、様々な事柄でカンバスが少しずつ埋まっていき、一枚の絵になるのです。それを他の研究者が見て、「これはヤスモトの絵だな」と分かるような研究がしたいと思っています。もちろん、全ての研究を一人ではできませんから、色々な分野の専門家のところへ押し掛けていって、「面白い材料がありますよ。一緒に研究しませんか?」と持ちかけてきました。私が見つけてきたものは、化学構造も生理作用も独特なものばかりだったので、色々な人が興味を持ってくれたのはありがたかったですね。この分野に関しては、私たちが一番進んでいるという自信がありましたから、貴重な試料もどんどん提供し、実験のノウハウも教えました。国籍を問わず世界中の研究者と一緒にやってきたので、今では大きな広がりになっています。それでもまだまだ分からないこと、知りたいことがいっぱいです。大きな全体像を描くほど、次から次に不思議なことが出て来るものですから、楽しくてやめられないのですよ。

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スペインのヴィゴ大学で名誉博士号を授与されたとき。ヴィゴ大学とは現在も共同研究を続けており、日本との行き来に忙しい日々である(本人:右)。

スウェーデンのカルマール大学で名誉博士号を授与されたとき(本人:左)。

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「Yasumoto lifetime achievement award」の授賞式では、渦鞭毛藻をかたどった木製のトロフィーが授与される。2002年の受賞者スメイダ教授(左)は、赤潮に代表される、藻類のブルーム現象(大量発生)の原因や生態系への影響を明らかにした(本人:右)。

沖縄タイムス賞を受賞したとき、96歳の母に授賞式の代理出席をしてもらった。母は100歳で亡くなる直前まで元気に出歩き、海外旅行や陶芸品の収集を楽しんだ。

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大人になった兄妹8人で母(前列中央)を囲んで。兄妹の中には建築家になった者、政治家の妻になった者や染織研究者になった者もいる。旅が好きで芸術を愛する点は全員に共通していて、これも母の遺伝だと思っている(本人:後列右から二番目)。