季節の便りはどこだろう

静岡市を南北に流れる安倍川の河口からまっすぐ23.5キロ北上した山あいに10軒ほどの小さな集落があります。僕はそこで生まれました。まわりは茶畑とミカン畑、山林で、家から少し下りると幅500メートルほどの河川敷が広がり、そこが僕の遊び場でした。昔は本当にたくさんの魚がいたので川の岸辺に石を積んでトラップを仕掛けるだけで、遡上する魚を簡単に捕まえられたのです。時にはウナギも見かけましたよ。毎日夢中で遊ぶうちに魚からカエル、さらには昆虫と多様な生きものの世界への関心が広がっていきました。

小学校1年の時、担任の先生が「季節の便りを探そう」という課題を出してくれました。僕の家は学区の一番南、春も夏も一番早くやってきます。「ホタルブクロが咲いた」、「ヤマユリが咲いた」と一番乗りで報告できるのが嬉しくて、身の周りの自然を一生懸命に観察するようになりました。うまくおだてられたというのかな、非常に単純な性格なのです。ある時、もらったメジロを家で飼いはじめたことで、鳥への愛着が芽生えました。今は野鳥の飼育は全面禁止ですが昔は県知事の飼養許可があれば飼えました。餌は庭で育てた青菜と、川で採ってきた魚の干物を朝夕の度にすり鉢ですりつぶした「すり餌」。それをもって近づくと「早く食べたい」と言わんばかりにバタバタと羽ばたくのです。手間暇かけて世話するうちにメジロのしぐさがどれもこれも、かわいくてしかたがなくなってきました。

初夏のある日、ブルーグリーンの美しい鳥が家のすぐ裏にある神社の大杉に巣を掛けているのに気づきました。小学校5年の頃だったかな。広げた翼にある白い斑紋から、図鑑でブッポウソウだと突き止めました。その繁殖地が各地で天然記念物に指定されている渡り鳥です。珍しい鳥が近くに来ていることが嬉しくなり、図鑑をますますよく見るようになりました。春の繁殖期は河原で巣の探索です。ヒバリの巣は見つけにくいので、ジグザグに草地を歩いて探しました。セグロセキレイは石の隙間に巣をつくると気がつき、河原の石を剥がして似たような隙間をつくってみたら、ちゃんとそこに巣をつくってくれたのです。庭の木に掛けた巣箱にはシジュウカラやヤマガラが訪れ、屋根の下の隙間にはキセキレイが巣を造りました。冬には空き地に木の実を置くとジョウビタキ、ルリビタキやツグミなどの渡り鳥がやってきました。とにかく鳥の暮らしを近くで見ていたかったのです。

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生まれ故郷(最前の小集落)。家の近くに安倍川の本流と支流が合流する広い河川敷があった。

手作りの銛(モリ)と箱メガネを手に川遊びに熱中した。

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毎年 4月になるとツバメがやってきて家の中に巣を作るので、出入りのためにガラス戸のガラスを1枚外した。

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小学校6年、かわいがってもらった杉山安吉先生と。

さえずりをたよりに山道を

高校時代は生物部です。チョウ好きの部員が多く、週末はよく先輩と採集旅行にでかけました。夏合宿で追ったのは金属のように輝く翅をもつミドリシジミ類です。高い所を飛ぶので、5本つなぎの釣り竿の先端にネットをつけて用意しました。大きな登山リュックを背負って、ヒーヒー言いながら山道を登り、チョウを見つけた瞬間にみんなで突っ走りました。「いたぞー!」って、荷物の重さを忘れるほど夢中でしたね。

仲間とチョウを追う日々でしたが、もちろん鳥のこともずっと忘れずにいました。でも生物部には鳥好きがいなかったのです。双眼鏡やカメラ・望遠レンズが高価だったので、当時は今より鳥好きがごく少なかったのです。僕も初めは簡単な双眼鏡しかもっていませんでしたが、時間がいっぱいあるので、近づいて肉眼で見るのを楽しんでいました。遠くで鳥の鳴き声が聞こえるとさっと山を駆け上って近づくのです。ラジオで放送していた「季節の小鳥」の鳴き声や、図鑑に書いてあるキキナシを暗記して、「ポッピリリ、ポッピリリ、ピリリッコ、ピリリッコ、- – -」と転がすように鳴くキビタキ、「ツキ、ヒ、ホシ、ポイポイポイ」と鳴くサンコウチョウなど、さえずりをたよりに山の中で様々な鳥たちと出会いました。

進学先を決めたのは高校1年の時です。遺伝学者の木原均先生が学校にいらしてコムギの祖先を探るゲノム分析のお話をしてくださったのです。その理論は当時の僕には難しく、正直、よく分からなかったのですが、講演の後に木原先生が隊長をつとめた「京都大学カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊」のドキュメンタリー映画を上映してくださり、それに魅了されました。自身の学説を検証するためにアフガニスタンへと赴き、探していたコムギの祖先種を見つけたときの木原先生のうれしそうな顔。こういうことが人生で一番楽しいんじゃないかと感じました。チョウや植物の野外採集をする研究者の姿にも憧れました。僕は田舎から町中の進学校に進んだので、同級生の賢さに驚いていました。みんな小説はいっぱい読んでいるし、音楽や映画にも詳しくてませていたのです。僕の田舎には図書館も映画館もない。知っているのは鳥の鳴き声と魚の捕まえ方ぐらいだと弱気になっていました。でもこの日、自分が好きなことなら大丈夫、野外で生きものを見ることだったら負けないぞと思えたのです。

中学は軟式野球部。長嶋・王の時代だったので男子は野球部にはいるものだと思っていた。(本人:後列左端)オフ・シーズン(93月)にほぼ毎日約8kmのランニングをして足腰が丈夫になったことが、後に長年野外の調査研究活動を続けるのに役立った。

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鳥を追いかけていた高校1年生のころ。

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高校1年生の春休み、仲良しの友達3人で出かけた真富士山の山頂にて。(本人:右端)

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高校3年生の夏、生物部で出かけた山梨県櫛形山でのチョウ採集合宿(その一つの班)。顧問の中村浩三先生と。(本人:前列左端)

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高地にすむミヤマシロチョウ(地表で吸水中)。生物部で採集・観察したチョウの記録は静岡昆虫同好会の会報『駿河の昆虫』に投稿された。この会報は過去の環境を知る資料とし今も活用されているそうだ。

一番好きなことをしよう

1967年、京大農学部農林生物学科に入学しました。鳥の研究で食べていけるとは思えなかったので趣味として続け、害虫防除を専門とする農業技術者になろうと考えていたのです。3月下旬に京都へ出て、自分で鳥の勉強をしようと、さっそく大学生協の書籍部に向かいました。最初に買ったのはシジュウカラの生態と行動についての『鳥類の生活』という本です。次に見つけたのが『アホウドリ』、3月31日発行のできたてホヤホヤ、2,000円の本でした。お金が足りず次の仕送りまで我慢することにしましたが、生協の在庫は1冊だけ「もしかしたらライバルがいるかも」と心配でしたね。4月末に仕送りが入ると急いで買いに行き、連休中に何度も読みました。この時、いつか自分の目でアホウドリを見たいと思いましたが、その繁殖地は定期船が通っていない絶海の孤島。まさか自分がこの鳥の保護に関わるとは夢にも思いませんでした。

農学部には生きもの好きが多く、クラス仲間と北山や比叡山、琵琶湖周辺を歩き回り、仲間からいろいろ教えてもらいました。時代は大学闘争の只中にあり、2年生の頃からそれが激化していきました。秋、英語の授業中に窓の外で突然ヘルメットを被った学生同士が角材での殴り合いを始め、石が飛んできて教室のガラスがピシッと割れて騒然とした風景が記憶に残っています。授業を続けられる状況ではありません。その後70年安保闘争も始まり、授業はなかなか再開されず、時間をもてあました僕は、69年から大阪湾の埋立て地、南港でシギ・チドリ類の保護活動に参加し始めました。今は海遊館などがある地域ですが、昔は住吉浦という干潟でした。シベリアからオーストラリアなどへと長い渡りをするシギ・チドリ類は、栄養補給のため日本列島を訪れます。渡りの中継地点のひとつだった南港は、埋立てと工場排水の影響で汚れていました。赤茶色の水が泡立って風に飛ばされ車道の隅にたまっていましたし、泡は草にも付着していました。この状況を危惧した大阪市立自然科学博物館(現在の大阪市立自然史博物館)初代館長の筒井嘉隆さんが代表となり、野鳥の調査と保護活動をボランティアで行っていたのです。他のメンバーはみな仕事をしていたので、授業のない僕は一番時間がありました。平日の朝、京都を出て鳥を観察し、帰りに世話役の方に状況を報告しました。こうした運動の結果、大阪南港野鳥園ができました。

4年生の5月下旬からようやく授業が再開され、昆虫学研究室で個体群生態学の勉強をしました。個体数や集団の構成の変化を追う、数の生態学です。ふり返ると、ここで身につけた解析法が僕の生涯の研究を支える基礎となっています。大学院から思い切って理学部の動物生態学研究室に移りました。大学闘争に巻き込まれ、世の中が大きく変わっていくと感じていた僕は、何が安定な道かはわからない、せっかくだから一番好きな鳥の生態を研究しようと決意したのです。5年間鳥と一緒に生活しようという気持ちで大学院生活をスタートしました。研究テーマは小鳥の仲間、キセキレイの繁殖行動です。ある朝、学内で鳴き声に気づき、さえずりをたよりに近づくと図書館の倉庫のよろい戸に巣を見つけたのです。職員の方に許可をいただき、観察を始めました。よろい戸の木の窓をガラスに交換し、小さな穴があいた黒い布をかぶせて、そっと巣を観察できるようにしたのです。親鳥がヒナを世話する姿を目の前で観察し、卵やヒナの重さを定期的にはかりました。まるで実験室のような野外、理想的なフィールドでした。繁殖期には毎日鳥よりも先に起き、鳥よりも遅く寝る生活です。毎年同じスポットで観察を続け、巣を作るところから、繁殖、産卵、巣立ちまで、詳細に観察しました。繁殖は1年に2回です。1回目が3月から5月のはじめ、2回目は梅雨にかかるのでうまくいかず子育てを途中でやめてしまうこともありました。繁殖期を終えると鳥好きの仲間とセミナーを自主的に開いて勉強したり、探鳥会に出かけたりしていました。5年かけて論文にまとめようと思っていたのですが、3年目で思いもよらない転機がおとずれます。

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大学12年生のころはよく仲間と自然観察に出かけた。比叡山から京都の大原へと抜ける道での記念写真。(本人:左端)

鳥を見に出かけた比叡山の鳥獣保護区。

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琵琶湖に浮かぶ竹生島でサギ類の観察。

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南アルプスの北岳に登山。学部・大学院時代、南アルプスに登山に出かけた。

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初めて撮影したライチョウ(南アルプス上河内岳で)。

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シギ・チドリ類の保護活動に参加した大阪南港にて。

偶然の出会いに導かれ

73年5月7日、観察していたキセキレイが巣立ち学内でのんびりと過ごしていた僕は、廊下で動物学教室の田隅本生先生とすれ違いました。先生が「イギリス人の鳥類研究者が来ているから話しに来ないかい?」と声をかけてくださったのです。こうして田隅先生の研究室でお会いしたのがランス・ティッケル博士です。博士は、イギリス海軍の協力で伊豆諸島鳥島に上陸し、絶滅のおそれがあるアホウドリの状況を調査した帰りに京大に寄られたのでした。アホウドリは大部分の時間を海の上で過ごし、繁殖のために日本列島の南にある無人島を訪れます。鳥島はその主な繁殖地でしたが、19世紀末に人間が羽毛採取のために島に上陸して大量捕獲したため、個体数が激減したのです。500万羽が捕獲されたといわれ、一度は絶滅宣言がされましたが、1951年に島の気象観測所の職員がわずかに生き残ったアホウドリを発見し手弁当で保護活動を始めたのです。僕が大学入学当初に買った本『アホウドリ』はその中のお一人、藤澤格さんが執筆されたものでした。1965年、火山噴火のおそれがあるために観測所が閉鎖され、鳥島が再び無人島となりました。以後8年間、誰も上陸していなかったのですが、その状況を打ち破ったのがティッケル博士です。そのお話を直接伺って、その行動力とイギリス海軍の協力に驚きましたね。

ティッケル博士と会って以来、アホウドリへの関心がぐんぐん高まっていきました。でも僕はまだ大学院生ですし資金もありません。博士の調査の後、きっと日本の研究者が調査をするだろうと期待していましたがそのような計画は上がりませんでした。思い切ってティッケル博士に手紙を書き、勉強したいから論文の別刷りを送ってほしいと頼みました。こうして手紙のやりとりをするようになり、「アホウドリは日本で繁殖する鳥だ。その鳥の研究と保護は君のような若い日本の鳥類研究者の仕事ではないか」という博士の言葉に背中を押され、保護研究の道へと進むことを決めたのです。この決意には南港での野鳥保護活動の経験も大きく影響しています。公害で人間も鳥も大変な目に遭っている。公害で大変な人を助けようと一生懸命努力している人はいるけれども、鳥のために活動している人はほとんどいないというのが当時の実態でした。鳥の保護はアマチュアのやることであって、大学の教員は保護活動ではなく、学術探求に専念するものだというのが常識だったのです。今では保全生物学や保全生態学という学問分野がありますが、その時はまだそのような分野は確立されておらず、小さな研究会やシンポジウムが開催されている程度だったのです。

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南から見た鳥島。中央の丸い山頂部の下に崖で囲まれた狭い斜面があり、そのほぼ中央にアホウドリのコロニーがある。

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研究室にてフィールドノートを広げ、調査結果を説明。

ちゃんこ鍋料理店で行われた日本鳥学会大会(於:東邦大学理学部)の懇親会。

絶海の孤島・鳥島へ

鳥島は伊豆諸島の最南部にある直径約2.5キロの島で、東京から南に580キロ離れた海上に浮かんでいます。アホウドリは毎年10月上旬に島にやってきて1組のつがいにつき1つの卵を産卵、つがいで協力して子育てをした後、翌年5月ごろ北部北太平洋を目指して渡りの長い旅に出ます。1976年11月、東京都の漁業調査指導船「みやこ」に便乗し、初めて鳥島へと向かいました。伊豆大島から27時間の道のりで、初日はベッドから起き上がることさえできないほどの船酔いに襲われました。翌日、鳥島に近づくにつれ海が穏やかになり、初めてアホウドリを双眼鏡で観察できました。 船よりも早く飛翔するので、あっという間に視界から消えていくのです。昼過ぎにようやく鳥島に近づき、繁殖地の前で15分間停泊してもらいました。この間、必死になって観察を続け、卵を抱く親鳥、求愛ダンス中のつがい、上空を飛翔する個体などの数を計測し、コロニーの状況をカメラで撮影しました。観測した個体数は68羽、後から写真で卵を抱いているつがいの数を確認し40〜45組と推測できました。当時、アホウドリの詳しい生態はほとんどわかっておらず、保護活動のためにはまず、死亡率や繁殖開始年齢などを知る必要がありました。それがわからないと集団の個体数の推定すらできないからです。調査のためには、上陸して個体識別用の足環をつけて継続観察をする必要があります。「みやこ」の船長に海がおだやかだったら上陸したいと頼んであったのですが、この時は波が高くて上陸は断念せざるをえませんでした。

幸運にも翌年の3月、鳥島上陸の機会を得ました。東京都八丈支庁が20年ぶりに鳥島を調査することになり、鳥の専門家としてチームに加われたのです。鳥島では、かつて気象観測所があったエリアがベースキャンプとなります。そこから約1時間、崖の上からの落石と、打ち寄せる波に注意しながら険しい道を進み、僕は初めてアホウドリの繁殖地である燕崎を訪れました。絶滅の危機に瀕しているのだから、鳥たちは悲しそうにしているのかと勝手に思っていましたが、凛として元気よく、時々互いに喧嘩をしてなわばり争いしていました。さっそくヒナの数を数えると、たったの15羽しかいませんでした。次の日、コロニー周辺を歩いている時にアホウドリの死体をみつけました。ティッケル博士が以前に足環をつけた4歳の鳥が2羽、それより年齢が進んだ鳥が1羽、そして4羽のヒナでした。3日間調査を続け71羽の若鳥・成鳥を確認できましたが、何より気がかりだったのは、ヒナの数の少なさです。みんな大人になるわけじゃないですからね。半分くらいが大人になれるとしたら8羽程度です。メスはそのうち半分なので、4羽か5羽。親の世代も死んでいくだろうから、このままほっておいたら個体数は増えないと暗い気持ちになりました。産卵後、無事に育つことができない卵やヒナの割合が高いという予想ができます。そこで、コロニーを見回すとその中央部から草がなくなり、火山灰がむき出しになっていました。斜面になっているコロニーでは草が生えていないと、安全な巣がつくれません。卵が巣からころがり落ちたり、崖から吹く突風でヒナが吹き飛ばされたりすることも考えられます。コロニーに適量の草を植えれば、丈夫な巣がつくれるようになって、卵もいっぱい生まれたくさんのヒナが巣立つに違いない。このような問題解決のアイディアはすぐに思いつきました。しかし、その時はまだ自分の就職すら決まっておらず、工事資金などありませんから考えていただけです。

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初上陸の時、アホウドリのヒナと(19773月)。

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鳥島のベースキャンプから繁殖コロニーへ向かうため約100mの崖を降りているところ。

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ヒナに足環をつけるため、黒い布を持って近づき、被せる。

苦難の日々

調査から帰るとうれしい電話がありました。東邦大学理学部海洋生物学研究室の助手に就職が決まったのです。冒険主義が評価されたのでしょうか。「アホウドリの保護研究が続けられる」とホッとしました。とにかく鳥島で観測を続け、繁殖成功率の低下をデータとして役所に示して保護計画を実行しなければいけない。放置すればアホウドリは本当に絶滅してしまうかもしれない。強い思いと解決のためのアイディアはあるのに、3回目、4回目、5回目の航海ではいずれも鳥島に上陸できず、「みやこ」の船上から観察ができただけでした。結局、はじめの3年間で鳥島に上陸できたのは2回、現地で野外調査ができたのはわずか4日間だけだったのです。絶望的な少なさです。つのる焦りを解消するために、アホウドリに関する文献を読み漁りました。他にやれることがないので、勉強でストレスを解消していたのです。

79年に環境庁が希少鳥類のモニタリング調査を5年に1回の頻度で実施することになり、アホウドリも調査対象になりました。調査を委託された日本野鳥の会に協力して、八丈島から漁船をチャーターして鳥島に向かいました。それ以降、11月に産卵数調査、翌年3、4月に巣立ったヒナの数の確認と足環標識という、年2回の鳥島上陸調査を継続して行うようになりました。若い頃はお金がなくてチャーター代の工面には本当に苦労しました。科研費ももらっていましたが、チャーター代のほうがそれよりはるかに高いんですよ。鳥に関する翻訳や原稿の執筆などでお小遣いを稼ぎ、生活を切り詰めて工面していましたが、年2回分は無理です。1回は「みやこ」に便乗させてもらっていました。

鳥島での調査と提案を続けたかいがあり、環境庁・東京都が鳥島のコロニー保護のための植栽工事の実施をついに決定しました。解決すべき問題があっても、それに税金を使って取り組むべきか、正確なデータがないと行政も判断が難しいのですね。問題が起きてから対策の実行まで5年はかかるというのが私の実感です。81年と82年に2回ハチジョウススキの株をコロニーに移植する工事を実行しました。6年間の追跡調査の結果、予測は的中して移植前に平均44%だった繁殖成功率が67%に上がり、1年に巣立つヒナの数(巣立ちヒナ数)は50羽を超えました。研究に取り組んで10年、ようやくしっかりとした成果をだすことができて喜んだ矢先に、新たな問題に直面することになります。

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コロニー保全のための砂防・植栽工事を担当した八丈島の造園土木会社、大勝組のみなさんと。(本人:右端)

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八丈島の民宿の主人、小崎保さんと。鳥島へ向かうときはいつも八丈島を経由しており、79年から毎年同じ民宿を利用している。

デコイ大作戦

87年の秋、鳥島のコロニーがある燕崎の斜面で地滑りが起きました。その後、泥流が頻繁に営巣コロニーに流れ込み、移植したススキは泥流に埋まって枯れてしまったのです。卵やヒナも泥流の犠牲になり、繁殖成功率は再び40%台に低下してしまいました。もし、斜面で再び地滑りが起きれば、コロニーは壊滅の可能性すらあります。この事態に対処するため、砂防と植栽によるコロニーの保全管理が必要だと環境庁に提案しました。この時も、実際に動くまでにはやはり5年ほどかかりましたが、保全工事の結果、繁殖成功率は以前の水準へと回復し、98年4月に巣立ちヒナ数が100羽を超えた時はホッとしましたね。

しかし、コロニーの保全工事だけでは地滑りの脅威から完全に逃れることはできません。鳥島のアホウドリ集団の保護には、島内の平坦で安全な場所に新しいコロニーを形成する必要があると僕は考えました。燕崎から離れている元気象観測所の周辺に、より安全で繁殖活動に適した場所がありました(図1)。乱獲される以前は、沖から眺めると島全体が白くみえるほど全域にアホウドリが生息していたと記録が残されています。人間を恐れて断崖絶壁へと逃れた臆病な集団だけが生き残り、かつて人間が出入りしていた気象観測所の周辺は繁殖に適しているのにアホウドリが寄り付かなくなってしまったのかもしれません。コロニー移設の手法として、デコイ(実物大模型)と音声を使った誘導法があります。これが鳥島での保護にも有効なのではないかと提案しました。この話をラジオ放送でたまたま聞いていた、野鳥彫刻家の内山春雄さんがデコイ製作を始めてくれました。デコイにはヌマスギ(落羽松とも呼ぶ)という年輪があまりなくて加工しやすいやわらかい木を使います。もともと高価な素材ですから、体長が大きいアホウドリのデコイにはかなりコストがかかったと思います。でもありがたいことに全部ボランティアで製作してくださったのです。僕はビデオ映像や写真を渡し、とくに誘引効果のある「求愛姿勢」を作ってほしいとお願いしました。内山さんは原型のレプリカの量産に必要な鋳型製作費まで用意してくださったのです。作業は山階鳥類研究所に託し、ご自身は野鳥彫刻の技術の研修のために渡米されました。

その後、山階鳥類研究所との協力で10体のデコイを制作し、91年に鳥島での野外実験で誘引効果を確認しました。その結果を環境庁に伝えたらアホウドリの保護計画について議論してくれることになりました。92年には41体のデコイを設置し、翌年には50体に増やしました。その時には、求愛音声を再生して本格的に「デコイ作戦」を始めました。音声装置の音量を調節していると、早速、若鳥がデコイの上空を旋回し着陸したんです。しばらくすると数羽の若鳥が飛来し、着陸して求愛ダンスを始めました! 翌年には音声を2種類交互に流すよう改良し、デコイの増設もしました。音声装置の設計・製作は三洋電機が担当してくれました。始動から3年目、ついに1組のつがいが初めて新コロニーで産卵したのです。第一関門突破です。幸先のよいスタートだったのですが、その後、新コロニーで繁殖するつがいが増えない時期が続きます。音声を1分半のくり返しから30分単位に変え、デコイの数を徐々に増やしていくなどの改良を重ね、飛来する個体数が増えたと思うとまた減少するという時期が5年続きました。この間、最初につがいになった1組が毎年、1個ずつ卵を産み続けてくれていました。しかし、もしつがいの片方が死んでしまえばまた振り出しにもどるのです。まさに綱渡り状態、きつかったですね。2002年あたりから飛来する個体がようやく増えてきました。2004年には新たに3組が営巣し、合計4組が産卵、4羽のヒナが無事に巣立ちました。デコイ作戦開始から12年かけてついに新コロニーが確立したのです。その後、新コロニーは急速に拡大していきました。新しいコロニーで最初に産卵したつがいは17年連続して産卵し13羽のヒナを育てましたが、オスが先に亡くなってしまいました。つがいの絆が非常につよい鳥なのです。アホウドリはつがいの片方が亡くなるとすぐには新しい相手とつがいになりませんが、幸いこのメスは1年で再婚しました。個体標識をして長期間、継続調査してきた結果、このようなアホウドリの繁殖生態も徐々にわかってきました。繁殖開始年齢は平均7歳と遅いのですが、僕が確認した最高齢は38歳と非常に長寿で、典型的な少産少死です。巣立ち後の死亡率はほぼ一定で、毎年4.5%ほどです。繁殖年齢未満の個体数と繁殖つがいの個体数を足し、成鳥の繁殖参加率約80%を組み込むことで、鳥島のアホウドリ集団全体の個体数変化をかなり正確に推定できるようになりました。

デコイ作戦により確立した新コロニー。

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1:鳥島のアホウドリの営巣地

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従来コロニーがある燕崎の斜面(2017年11月)。移植した草は根づいたが、泥流を止めることは困難。

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鳥島での調査の帰りに「みやこ」の船上で。漁業資源調査や海洋観測という本来の任務に加え、アホウドリ調査のために10年間(197611月~19863月)ご協力いただいた。

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鳥島での調査に日本テレビが同行し、ヒナの巣立ちをカメラに収めた時の記念写真(19895月)。バブル期にはテレビ局の取材が多く、船のチャーター代を工面していただき大変助かった。

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コハクチョウの巣を探す東海テレビの番組取材でシベリアのツンドラを訪れた(19877月)。

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シベリアにて。通訳のアレクサンドル・ベリコフさん、カメラマンの長谷雄哲也さんとヘリコプター・パイロットの帽子とジャンパーを借りて記念写真。

第二の繁殖地、尖閣諸島

かつてアホウドリの繁殖地は鳥島以外にもありました。尖閣諸島にも毎年十数万羽が飛来し繁殖していた記録が残っています。しかしここでも人間の乱獲により、およそ105万羽が捕獲されてしまったのです。1939年から1963年の間に5回の調査が行われましたが、アホウドリの姿は観察されなかったため、これらの島ではアホウドリは消滅したと考えられていました。しかし、1971年に琉球大学の池原貞雄教授を団長とする学術調査団が、南小島の断崖の岩棚で12羽のアホウドリを再発見したのです。ただ、ヒナの姿はなく、その後の2回の調査でもヒナは見つかりませんでした。

尖閣諸島ではアホウドリのヒナが育っていないのでしょうか。88年、僕は南小島の上空で小型ジェット機から双眼鏡による観察を行う機会を得て、7羽のアホウドリのヒナを発見しました。さらに南小島に上陸し、91年に10羽、92年に11羽のヒナを観察しました。そして2001年にはヒナ24羽を観察し、さらに翌年には南小島で32羽、北小島で1羽のヒナを確認し、ここでは50〜55組が繁殖し集団の個体数はおよそ250羽と推定しました。尖閣諸島でも個体数が確実に増えていたのです。

鳥島では77年から毎年ヒナに足環をつけ(上陸できなかった78年を除く)、持参した足環が足りなかった1個体と、標識する前に飛び立ってしまった3個体を除いて巣立ったヒナすべてに足環がついています。そこで、鳥島から尖閣諸島集団へ移入した個体がいないかと調査しましたが、これまでのところ観察されていません。一方、鳥島では比較的若い未装着個体が観察されています。金属足環の脱落は考えにくいので、尖閣諸島からの移入個体ではないかと考えています。鳥島のアホウドリの羽毛からミトコンドリアDNAを採取し、遺伝学的解析を行った結果からも尖閣諸島集団から鳥島集団への遺伝子の移入が裏付けられました。また、鳥島集団は近親交配による悪影響が心配されていましたが、遺伝的多様性が保持されていることもわかりました。

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池原貞雄教授と海上保安庁のヘリコプターで尖閣諸島の上空からアホウドリ集団を調査した(19805月)。

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尖閣諸島南小島での上陸調査にて、朝日新聞社の米山正寛記者と(19924月/森下東樹 撮影)。

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南小島でも生き残ったアホウドリたちは断崖絶壁の岩棚で営巣していた。

新たな問題-混獲と鳥島噴火

鳥島集団の個体数は99年5月に1000羽を超えましたが、順調な個体数の回復にともない新たな問題も出ました。非繁殖期を過ごすアリューシャン列島周辺やベーリング海でのはえ縄漁業の釣鉤にアホウドリが捕獲され死亡するという報告が目立ってきたのです。アホウドリの個体数増加と、漁業活動の拡大が原因です。自国の海域で起きたこの事態を重く受け止めたアメリカ政府が研究集会をひらき、僕も参加することになりました。ここでは海上での保護方針だけでなく、将来の研究課題も議論されました。そして2000年、アメリカの「生物種保存法(Endangered Species Act:ESA)」の絶滅危惧種にアホウドリが指定されました。研究集会の成果です。ESAは非常に影響力の強い法律で、場合によっては産業もストップさせることができます。対象種になると策定した保護計画を公開して広くコメントを求め、5年に1度その計画の進捗確認と見直しを行います。アメリカの法律に基づく活動ですが、オーストラリアや日本からもメンバーを集めて国際再生チームを編成し、最善策を練るのです。そういうところがアメリカは太っ腹で、必要があれば繁殖地である日本の活動にもお金を出してくれます。この資金は、アメリカのはえ縄漁業組合の事務局長がワシントンD.C.でのロビイ活動で政府から獲得してくれました。さらに彼らは現場ではえ縄の被害を減らす対策を練り、ロシアで混獲があったと聞けば、現地に出向いて指導します。生きものに国境など関係ない、漁師も研究者も保護に関わるメンバーはみなそう考えて活動をともにしてきました。

国際的な協力の下で保全活動が進められることとなった矢先の2002年8月11日、鳥島が63年ぶりに噴火しました。ニュースを聞いた瞬間、気が動転しました。鳥島全域が火山灰に覆われたら、アホウドリの保護活動が振り出しにもどってしまいます。幸運にも噴火の規模が小さく、アホウドリが鳥島を離れている非繁殖期だったこともあって直接の被害はなく、火山活動は終息に向かいました。噴火の3ヶ月後、「アホウドリ再生基本計画」について国際再生チームでの議論により、日本側は営巣地、アメリカ側は非繁殖期の採食海域での取り組みが主な役割分担となりました。また、火山ではない安全な島に繁殖地を形成する計画も盛り込まれました。候補地となったのが、小笠原諸島の聟島(むこじま)です。火山噴火のおそれや領土問題もなく、1930年代にはアホウドリが繁殖しており、再びアホウドリが飛来している様子も確認されていたのです。聟島では、アホウドリの繁殖ができるだけ早く始まるように、デコイと音声装置による誘引だけでなく、鳥島で生まれたヒナを運んで、調査員が巣立ちまで育てるという、より積極的な取り組みも決まりました。これは、若鳥が海上で数年間暮らした後、幼い頃に育った場所へ戻るという行動特性を生かした方法で、世界で初めての挑戦です。巣穴で繁殖する鳥の保護には使われていましたが、外で育つ鳥は生まれた場所を覚えるのが早いので難しいと考えられていました。ヒナがあまりに小さいと自分で体温調節することができないうえ、人間を間違って親と認識してしまう可能性もあるので、その限度である生後1ヶ月目の移動を決め、5年かけて計70羽のヒナをヘリコプターで運びました。中には生まれた鳥島に戻ってしまう個体もいましたが、一方で鳥島から聟島へと自発的に行く個体もいます。聟島から巣立った最初のヒナは聟島に運ばれた個体と、鳥島から自発的に行った個体がつがいになって生まれました。

アホウドリ再生基本計画でたてた絶滅危惧種解除の条件のひとつは、小笠原諸島で75組のつがいが繁殖して、年6%の割合で個体数が増えることです。これは実現するのはだいぶ先かなと思っていますが、鳥島のアホウドリの個体数が今後も順調に増えていけば、これからも自発的に聟島に移住する鳥が出てくるのではないかと期待しています。

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シアトルのウッドランド・パーク動物園(Woodland Park Zoo)にて北太平洋はえ縄漁業組合のソーン・スミス事務局長と(1997年9月)。

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アホウドリの観察のためアラスカのアリューシャン列島を訪れた時、乗組員のキーヴィン・ベルさんと(1988年9月)。調査船Tiglax(アメリカの国鳥ハクトウワシを意味)に乗船して、ダッチハーバーからホーマーまで航海した。

万歳!

僕が保護活動を始めた当初、鳥島のアホウドリ集団の個体数は推定で200羽足らず。増加率は15年で2倍になる程度ですから、維持の努力を続けたとしても2000年に500羽余り、2025年に77歳まで生きても1600羽という計算になります。自分が生きている間に2000羽に到達するのは難しそうだと、悲しい気持ちになっていました。しかし、積極的保護に取り組めるようになって繁殖成功率が上がり(図2)、鳥島集団は年率7.72%で指数関数的に成長してきました。とくに最近の10年間をみれば、年率9.13%、倍加期間は7.93年です。僕は定年退職後も「個体数5000羽、つがい数1000組」を目標に保護研究活動を続けてきました。

2018年3月24日、八丈島から鳥島へ 124回目の調査に向かいました。上陸初日は船着場から荷物をあげるだけで丸1日かかります。30個ほどの荷物を40メートル上のベースキャンプまで上げなくちゃいけませんから。二日目にベースキャンプから近い新コロニーで、三日目に燕崎の従来コロニーでヒナの数を観察し、鳥島集団の個体数がついに5000羽に到達したことを確認しました。このシーズンだけで688羽のヒナが巣立ったのです。42年かかったけれど、こんなに嬉しいことはありません。万々歳です。

これまでアホウドリの保護活動に本当にたくさんの方にご協力いただきました。「アホウドリ基金」、「静岡アルバトロスの会」を通して、多くの方から寄付もいただきました。「アホウドリ基金」は自分で郵便局に振替口座をつくり細々とはじめた基金です。お返しは用意できませんでしたが、応援してくださる方々が徐々に支援の輪を広げてくださいました。小学生がお年玉を送ってくれたこともあります。「今回は受け取るけれども、これは大人がしなければいけないことなので今回だけで大丈夫です」と手紙を書きました。「アルバトロスの会」は高校時代の長藤利夫先生が「あいつ苦労しているから」と同期生などによびかけてつくってくださった会です。度重なる試練がありましが、アホウドリの個体数が増え、保護の成果を目に見える形で示すことができたことがたくさんの方からの応援につながったのではないかと感じています。


124回目の鳥島上陸調査で使用したフィールドノート。

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図2:調査開始からのアホウドリの繁殖成功率の推移。繁殖年度は産卵する秋からヒナが巣立つ翌年の初夏までをさし、ここでは卵が産まれた年を基準にしている。

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成鳥のつがい

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ヒナ

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従来コロニーの様子(手前は泥流の跡)

美しく、立派なオキノタユウ

かつて日本の様々な海域で観察されていたアホウドリには多くの地方名が存在します。そのひとつが山口県日本海沿岸地方でつかわれていた「オキノタユウ(沖の大夫)」で、沖にすむ美しく立派な鳥という意味です。陸上ではすぐに飛び立てないため、人間に容易に捕まえられたことから名付けられた「アホウドリ」という失礼な名前で呼ぶのはもうやめて、「オキノタユウ」という名を復活させることを僕は提案しています。

2018年11月、125回目の鳥島上陸調査で僕のもうひとつの目標である「つがい数1000組」に到達する見込みです。これを見届けて、鳥島への毎年の調査を終了します。9年後に鳥島集団は1万羽に到達するでしょう。僕はその時79歳。船上から双眼鏡で鳥島をながめ、たくさんのオキノタユウの姿を観察したいと願っています。

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ヒナに餌を与える親鳥

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羽ばたき練習をする巣立ち間近いヒナ

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大空を滑るように飛ぶオキノタユウ。空気抵抗を減らすため、脚は腹部の羽毛の中に収納している。