40才からの葉緑体ゲノム

40才の時に、新しく葉緑体のゲノム研究をはじめました。遅咲きです。私の世代の優秀な研究者は30代で教授になりましたから、早くにテーマを決めていたわけで、この研究を80才まで続けて遅咲きを挽回したいと思っています。

小さな村を転々と

愛知県岡崎市で生まれました。小さな頃は虚弱児で、日露戦争に従軍した祖父は、「この子は兵隊検査には受からない。村の恥だ」と嘆いたとのことです。大東亜戦争が始まった頃、牧山村(現蒲郡市東北部)の幼稚園に、ついで国民学校に入学しました。岡崎市内から引っ越してきたので、村の子供と違った服装をしていたうえ、ひ弱だったのでよくいじめられ、田畑のあぜ道を逃げて帰ったのを覚えています。入学後すぐに、教師であった父の転勤で三谷町(現蒲郡市東部)へ引っ越しました。遠浅できれいな砂浜と松林が続く県内屈指の海水浴場があるいい場所でしたが、1年後には戦時下で海水浴禁止となってしまいました。体育は軍事訓練になり、棒切れ(鉄砲のつもり)を担いで行軍の練習をさせられました。

3年生にはまた転校し、最初に入った牧山の国民学校に戻ったのです。学校に隣接する校長住宅に住み、今度はいじめられることもなく過ごしました。その年の8月には無条件降伏となり、それに続いたのは極度の食糧不足でした。家族5人を養うため、父は実家である幡豆郡豊坂村(現額田郡幸田町)に移住する決断をし、また転校です。

実家は家も庭もかなり広く、庭には柿、夏みかん、ザクロ、梅などがあり、畑で野菜をつくりました。学校から帰るとすぐ畑作業の手伝いです。小麦、大麦、トウモロコシ、サトウキビから大豆、空豆、落花生、胡麻などほとんどの作物を栽培しました。ほどなくして弟と妹が生まれ、家族は7人と大所帯になりました。ヤギやウサギを飼い始め、餌となる草を刈り取って干す仕事もしました。畑の草取りを辛抱強くした体験から、単調で延々と続く作業を何とも思わない性格になりました。今は植物は研究対象ですが、当時の私にとっての植物は、敵(雑草)か味方(農作物)かにわかれていましたね。

父は典型的な明治っ子でして、謹厳実直で無口でした。読書好きで、実家には農家に不似合いなほどの本がありました。百科事典を発見し、父の秘蔵物を盗み見る感じで、目的もなく開いた頁の項目を読みふけりました。分子、原子、原子核をよく読みましたね。中学一年生のときに、湯川秀樹博士が日本人で初めてノーベル賞を受賞したのをきっかけに、科学者の伝記をむさぼり読み、「自分も科学者になりたい」と強く思いました。この思いは以後もぶれることなく、志望先に悩むことはありませんでした。

父の母校である県立岡崎高校に入学しました。受験競争などないのどかな時代でした。私は化学が一番好きで、大学生向けの化学の古本を買って読んだり、「理化クラブ」に入って、放課後友達と化学実験を楽しんだりしました。片道1時間半かかる通学が、体力の無い私にはちょっと辛かったですけれど。

初年は名大化学科受験に失敗し、次年に、最も人気の無い生物学科に合格したのですが、両親は喜んでくれましたよ。大学の近くに下宿したのですが、それを期に、妹弟の養育費のために百科事典を売ったと後で知りました。私が使っていたことを知っていて、私のいる間は置いておいてくれたのですね。

3才の時。岡崎に住んでいた頃。

敗戦後に住み始めた、豊坂村野場地区。なだらかな山の北側にある部落で、周囲は田畑に囲まれていた。現在も、ほぼ昔のままの風景である。

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1956年頃、農家であった母屋の庭にて家族と。左の父と右の母の間に妹と弟の4人。(本人:カメラマン:右上)

植物生理学から分子生物学へ

名古屋大学での同級生はたったの3人。4年生になっての各講座への配属の時は、化学的な色彩の強い太田行人助教授(名大名誉教授)にお願いに上がりました。学生を採ると自分の実験時間が減るとおっしゃって、しぶしぶの許可でした。研究室に入りまず驚いたのは、誰もが「太田さん」と言って、「先生」と呼ばないのです。さすがに私は「先生」と呼びましたが、生物教室は非常に開放的で、話しやすく、楽しい研究の日々でした。

当時は学生運動が激しかった時代でした。日米安保条約の改定に加えて、大学の管理体制などを批判する紛争も広がり、名古屋大学でも「講座制」講座制・研究室制講座制は教授を頂点として、助教授、助手2人の計4人の教官、その下に大学院生、卒業研究生が続く。人事権や研究の決定権を教授が持つため、研究テーマを絞り団結して進めることができるが、新しい研究テーマを生み出しにくくする制度とも考えられている。一方、研究室制は教授、准教授、助教と大学院生、卒業研究生で構成され、どの役職の人も等しく独立した研究者としての扱いを受けるため、実力主義の傾向がある。を壊す運動が起こりました。物理学教室では坂田昌一先生(故人)が「研究室制」を実行されていましたので、生物教室も教官と学生の話し合いの結果、それに倣い、植物第一と第二講座は研究室制を採用し、助教授の太田先生が研究室のボスになりました。太田先生は、生化学的手法によるマメの発芽の研究をされていました。隣の動物第三講座(動物発生学)では、岡崎令治・恒子夫婦がDNAの複製を、RNAからタンパク合成(翻訳)を大澤省三さん(名大名誉教授・元BRH顧問)が研究されていました。太田先生も共同研究をされていましたので、自然に私も分子生物学に興味を持ち始めました。上下関係も少なく、私のような学生でも第三講座に行って実験をしたり、話をしたりできるという自由な雰囲気の中で、研究とはこんなに楽しいものかと思いましたね。

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私の研究テーマはマメの発芽時の呼吸でした。先生はご自分の実験で忙しく、日常は何も言われませんでしたが、データがある程度まとまって報告に行くと親切に助言して下さいました。卒業論文は英文で書くので、論文を読み、使えそうな英文をノートに書きとどめました。体力が無いので、〆切のある事は早めに準備する習慣がついていたのです。太田先生が、私が英文で書いているのを見て「和文で書いてくれればいいんだよ。学生の英語はわからないから」と言い捨てて出て行かれたんですよ。でも、とにかく書き上げ、おそるおそる先生に提出した翌日、先生が勢いよく部屋に来られ「杉浦君、君の英語はすべて解るよ」と言って下さいました。とても嬉しかったですね。卒論発表の後、先生が丁寧に修正して下さり、日本植物学会のジャーナル「植物学雑誌」に投稿しました。1961年1月、私の学術論文第1号が出た時には、その達成感に感激しました。一方、数ヶ月遅れで図書館に届く米国のジャーナルを見ると分子生物学が急速に進歩していることがわかり、焦りを感じました。

ある日、大澤さんが、「分子生物学に興味を持っているんだったら、日本ではだめだ。私のアメリカの友人が日本人を欲しがっているからそこに行きなさい」と声をかけてくださいました。修士の学生という若さでアメリカへ行く決心がつかず、太田先生に相談したところ、「君が行きたいなら行ったら」と言われました。難題は両親の説得です。母は弱い体を心配しましたが、父は黙ったまま。私はこれを了解と解釈しました。父は旧制中学卒業後、高等工業学校に進みたかったのに、授業料のかからない岡崎師範学校に行かざるを得なかったという自分の体験から、子供には自由に進路を決めさせたかったのだと後で知りました。当時、海外旅行は自由化されておらず、ビザ取得に1年かかり、持出せる外貨は200ドルまででした。丁度父が退職しましたので退職金を借りて片道切符を買い、1963年8月に羽田から米国に向かいました。

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入学の頃に、教養部(滝子キャンパス)の正門を入った所にて名大理学部生物学科同級生3名と。右が高井成幸君(佐賀医科大学名誉教授)。中央が久野光造君(元武田薬品工業中央研究所員)。

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3年次の「植物野外演習」で行った木曽駒ヶ岳の山頂(2,956m)にて。必須科目のため、生まれて初めての登山。幸い、右の久野君と左の高井君は山男だったので、助けてもらいながら、一合目より植物採取しつつ1日かけて登った。

太田行人先生。

大学院に入学して、本格的な実験が始まった。

1963年8月、羽田空港から米国へ出発直前。痩せていた。

ススムと出会う

イリノイ大学アーバナ校は、シカゴの南に広がる穀倉地帯の小さな大学町にありました。町は緑が多く閑静で、人々は素朴で親切でしたし、広大なキャンパスでした。キャフェテリアの食事はどれも美味しく、日本に居た時のもやもやした気分が一気に吹き飛び、ああ来て良かったと感じました。入ったのは植物学部のハーバート・スターン教授(故人)の研究室で、そこには先生の片腕である堀田康雄さん(名大名誉教授)が居られ、公私共にお世話になりました。

スターン先生は、ユリの花粉母細胞を用いて還元分裂還元分裂(還元的分裂)減数分裂の際、対合した相同染色体およびその一部が娘核へ分配される分裂のこと(体細胞分裂の際もまれに起こる)。の機構を生化学的、分子生物学的手法で解析し、大きな成果を出されており、当時は教科書の執筆やワシントンへの出張で多忙でした。研究テーマも堀田さんと相談して好きな事をしなさいとのことで、還元分裂の過程でのタンパク合成能の変化を調べる事にしました。植物学部の隣の建物が微生物学部で、分子生物学の大御所スピーゲルマン教授(故人)の元に、助教授の林多紀さん(カリフォルニア大学名誉教授)が居られ、研究の相談にのっていただきました。

半年後に、今後のことを考え留学生向けの英語コースを受講しました。これは有益でした。多少なりとも正しい英文が書けるようになったのは、この時の英文法コースのおかげです。しかもここで学生として登録されたので、留学生係やYMCAからの誘いで、ホストファミリーができ、米国人の学生達と友人になれました。ここで、米国人の考え方や生き方を知る事が出来ました。

1年半程たった頃、林さんから、カリフォルニア大学サンディエゴ校で研究室を持つ事になったので、ポスドクとして来ないかと誘われました。私は大喜びでしたが、まだ成果を出していなかったので悩みました。でも、堀田さんが取りなして下さり、スターン先生の許可を得て移ることができました。この頃は、体力がかなり付き、性格も外向的になっていましたので、車に家財一式を積み、TVドラマでお馴染みの「ルート66」で6日かけてカリフォルニアに移りました。1965年7月です。カリフォルニア大学サンディエゴ校はできたばかりで周りは砂漠、何もありませんでした。

林さんは、大腸菌の培養から始めて、分子生物学的技術の基本を丁寧にかつ厳しく伝授してくださいました。自分の研究室を開設したばかりのやる気満々の若い助教授からの技術習得という好機はなかなか得られるものではありません。ポスドク第1号の特権でしたね。この経験はそれ以降の私の研究を支えています。林さんは「大腸菌に感染する最も小さなウィルス(バクテリオファージΦX174)を試験管で造る」という明確な目的を持っていました。この方法でウィルス形成の機構を解明し、日本での定年に合わせて退職すると明言し、実際その通りにされました。私は、そのために必要な大腸菌を用いた試験管内でDNAからmRNAを経てのタンパク質合成系の開発を任されました。こんな大きな仕事を任されて嬉しかったですね。日本での研究のように、決まった実験をすればある程度予測できるデータが出るというものではないので大変でしたから、半年程かかって何とか開発できました。それを改良し、ΦX174の複製型DNAからのコートタンパク質の合成系が帰国ぎりぎりに出来上がりました。ホッとしました。この研究の続きは大学院生に任せました。

隣の研究室には若い日本人学生ススム(利根川進さん)がいて、2人共独身でしたから、すぐに仲良くなりました。ほどなく、ススムは林研に移ってきました。実験をしかけた後、車に乗って海岸へ行って泳ぎ、実験装置が止るころ戻ってきて、何食わぬ顔をして実験をするという若い時ならではの毎日。楽しい思い出です。大学の在るラホヤ(スペイン語で宝石という意味とか)は綺麗な海岸のある小さいけれど美しい町で、私はダウンタウンの端に下宿しました。ススムとは週末にこの美しい海岸で一緒に過ごしたり、近くのメキシコまでドライブしたりして楽しみました。イリノイ大学に続いてここでも大いに青春を謳歌したわけです。

イリノイ大学のスターン(Herbert Stern)先生。

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1963年頃、植物学部が入る博物学ビルの裏出入り口(温室に通じる)にて、スターン研のメンバーと。右が堀田康雄さん。中央がスターン先生、その他はポスドク、院生とテクニシャン。(本人:カメラマン)

スターン研で本人。大学生活にも慣れ、毎日が楽しい。

下宿先の老夫婦。車でカリフォルニアに向う直前に、色々と注意してくれた。

1965年7月、アリゾナの酷暑の砂漠にて。

カリフォルニア大学サンディエゴ校の林多紀さん。オフィスにて。

実験データを計算尺を使って処理中。利根川さんの机は写真の左側にあった。

帰国

私の滞米中に、大澤さんは広島大学に移られました。助手のポストがあると言われ、1966年10月に帰国して広大に行きました。同じ頃、助教授の高浪満さんも米国から帰って来られ、暫くは高浪さんのお手伝いをすることになりました。高浪さんが開発したポリヌクレオチドキナーゼ(PNK)ポリヌクレオチドキナーゼ(PNK)DNAやRNAの5’-OH末端にATPのリン酸を添加しADPをつくる反応を触媒する酵素。核酸の標識に使用される。を使ってRNAの端に放射性リン酸を付加し、末端側の塩基配列を決定するという手法で、様々なRNAの分析をしました。これが私にとって塩基配列決定の元年となりました。ほどなく、京都大学化学研究所(宇治市)に新設された分子生物学部門に高浪さんが教授として移られ、1年程して私もそちらに合流しました。大澤さんのお手伝いをせずに移る事となり申し訳なく思いましたけれど。

化学研究所では、有機合成化学の若手の助けを借りて、当時は市販されてなかった各種ヌクレオチドの有機合成に取り組みました。生物学科ではすべて水溶液の反応を扱うので、無水反応にびっくりしましたが、分野が広がり自信ができました。

国立遺伝学研究所(静岡県三島市)に新しく分子遺伝部ができ、三浦謹一郎(故人)部長からカイコのウィルスRNAの構造分析をしようと誘われ、室長として移りました。私はPNKの精製とRNA分析を分担し、三浦グループによるキャップ構造の発見キャップ構造真核生物のmRNAの5’ 末端のヌクレオチドにメチルグアノシンが結合した構造のこと。mRNAの安定化、翻訳やスプライシングの効率化、核外輸送に役立つ。を下支えしました。PNKの精製は難しく、私が多くの研究者の供給元になりました。三浦さんから、数年の間に自分のテーマを見つけろと言われながら、大腸菌のRNA合成を主とした核酸関連酵素の研究をしていました。

広島大学の大沢研のピクニック。右手前が大沢さんで、他の3人は名大からきた大学院生。(本人:カメラマン)

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京都大学の高浪研一同。手前右から2人目が高浪さんで、その左が本人。

人とは違う研究を

ところで、1976年に大きな転機が訪れました。スイスのバーゼル免疫学研究所のススムから、PNKを分けてくれと言われ、たまたま渡欧する人に託しました。ほどなく彼から手紙が来て「最近、遺伝子単離技術が開発されたらしいのだが、大腸菌の使い方を忘れてしまった。マサヒロ、ちょっと手伝いに来てくれないか」とありました。一度も行っていないヨーロッパにぜひ行ってみたかったですし、昔の遊び仲間のススムだからと気楽な気持ちで、夏3カ月行くことにしました。

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30時間かけてバーゼルに着くと、翌朝「すぐ研究室に来い」と言うのです。そして、「とにかくおれの研究の話を聞け」と言われ、時差ぼけで半分寝ながら聞いていましたが、実験ノートのデータを見て椅子から転げ落ちそうになりました。ゲノムという不変のはずのものが変わるという現象の発見を熱心に説明してくれていたのです。その重要性に気づき、「これはノーベル賞ものだよ」と言ったのを覚えています。彼のノーベル賞受賞はこの10年後でしたね。この時、ススムが「研究所仲間との議論の中から自分の発見が生まれた」と言ったのが強く印象に残っています。

彼の研究室で大腸菌を扱えるよう準備している時に、バーゼル大学で、アーバー教授(のちにノーベル化学賞受賞)主催の欧州人を対象とした遺伝子操作技術の講習会がありました。講習会には出席できなかったのですが、夕刻に開催される世界中の遺伝子操作開発中の研究者のセミナーにはススムと一緒に行きました。10日間ほどでしたが、「目からうろこ」とはこのことかと思いましたね。遺伝子操作でそんなことができるのか。日本という辺境の地にいて何も知らなかったということに気付いたのです。DNAから特定の遺伝子を取り出せる時代になりつつあったのです。今まで自分は何をやっていたのだろうと一気に落ち込みましたね。大腸菌での分子生物学という最先端研究をしているのだという自信がもろくも崩れたわけで、もう研究はやめようとさえ思いました。でも、思い直して大腸菌での研究をやめようと決断したのです。これで気分が大分よくなり、何を対象にするかを考え始めました。

ススムは、実験中以外は机に向かって腕を組みじっと考えていました。研究者は考えることが一番重要ということに気付かされましたね。頭の中ではわかっていたことですが、彼の姿を見てそれを実感しました。これまでは上司や先輩の研究を引き継いでいたにすぎなかったのです。

テーマをきめる時は、知りたい生命現象を決め、それに最適の研究材料、ついで有効な研究方法を考えていくのが普通です。ところがこの時は、大腸菌をやめようとまず決め、研究方法は遺伝子操作を使わなければ意味がないというところから始まりました。しかも、欧米の先輩たちと同じことをやっても、太刀打ちできません。彼らとは違うことをやろうと考え、あるDNAが全体(ゲノム)としてどのような構造を持っているかを調べようと考えました。これは誰もやっていません。まず小さなゲノムを使うことを決めました。ミトコンドリア、大腸菌ウィルス、葉緑体のDNAなどです。ミトコンドリアと大腸菌のウィルスは競争になると思い、植物にしかない葉緑体を選びました。分子生物学者で植物を扱っている人は、一人も知らなかったので、これなら日本でもできるとここまで決めて日本に帰りました。

はじめは遊びのつもりで来たスイスでしたが、観光はしませんでした。このバーゼルでの3カ月間が、私の研究人生に最も影響を与えた時でした。

1976年夏の3ヶ月のスイス滞在中のバーゼル大学にて、利根川さんと。(本人:右)

新しいテーマ ―葉緑体ゲノムー

当時、葉緑体や光合成の研究はホウレンソウを使っていました。八百屋で手に入りますし、葉が柔らかく、葉緑体を取り出しやすかったのです。遺伝研に帰り、植物遺伝学者である友人に「ホウレンソウを研究するよ」と言ったら、「それだけはやめておけ」と言うのです。「ホウレンソウはすべて雑種だから、DNA研究には違う材料がいいぞ」とのことでした。そこで純系である栽培タバコに決めました。

当時、日本専売公社(現日本たばこ産業株式会社)は、タバコの栽培を許可制にしており、研究者には保証されたタバコの種を無料で提供していました。三島や名古屋ではタバコは栽培していないので、近くからの花粉で受粉し雑種ができる可能性はありません。遺伝学研究には幸運なことでした。早速、当時使われていなかった温室を借り、タバコの栽培を始めましたが、ひょろひょろです。日当りが悪く、冷暖房装置もないので難航しました。そんな時、遺伝研の研究者が通りかかり、にやにやしながら私の顔を見るわけですよ。分子生物屋が何を血迷って植物なんか栽培するのか。そのうちにやめるだろうと思って、見ていたのです。

なんとか栽培を続け、DNA解析を始めましたが、現在と違って必要な機器や試薬は市販されていません。幸いPNKをはじめ多くの酵素は既に精製して保存していました。標準DNAの精製も、放射性同位元素で標識したATP合成も、これまで何度もこなしてきたことですのでお手の物でしたね。ただ、DNA解析装置は、既存の装置を改修したり、新しい装置をつくったりと大変でした。手に負えない難しい装置は設計図を引いて理化学機器屋につくってもらいました。

タンパク質分画用のゲル電気泳動槽で用いるガラス管を買ってきて、DNA分画に都合のいいサイズの管(15cmぐらい)をつくり、DNAを分画するのです。電気泳動分画が終ったゲルをガラス板の上へ出し、それを暗室の中へ持っていって紫外線灯の下に置きます。見えたDNAのバンドを鉛筆でスケッチして、その紙を実験ノートに張りつけました。こうして、目的の遺伝子を持つDNAを単離したのです。すべての装置が整っている今の研究者には想像もできないでしょうね。テクニシャンの楠田(鈴木)美枝さんと二人です。彼女を夕方頃に帰し、私は構内の官舎で夕食をとり、また夜中まで実験するという生活をしていました。その後、楠田潤君(元国立感染症センター室長)、ついで、研究員として篠崎一雄君(理研環境資源科学研究センター長)や内地留学してきた大学院生と少しずつ人が増えていきました。

その後、DNAの塩基配列決定技術がハーバード大学で開発されました。マキサム-ギルバート法マキサム-ギルバート法以前行われていた塩基配列を決定する化学的手法。G、G+A、C、C+Tの配列を特異的に切断する反応液に解析したい塩基配列をさらす。その後にポリアクリルアミドゲル電気泳動装置にかけると、DNA断片は大きさによって並び、配列の解読が可能となる。です。その論文を見て、出入りの理化学機器屋に2枚に切ってもらったガラス板をクリップでとめてアクリルゲルをつくり、この上と下に電気泳動槽をつくって電気を流しました。近くの日曜大工店で買ってきたアングルを壁に張りつけ固定し、DNAの塩基配列を決める装置を自作したのです。こうして、初めて葉緑体DNAの塩基配列の一部を決めることができました。この中のどこかに遺伝子が入っているはずです。でもどこにもデータがありませんから、遺伝子とその産物であるRNA両方の塩基配列を決めない限り、遺伝子として同定できません。

そんな中でとにかく葉緑体のリボソームRNA遺伝子を単離し、研究会で発表したところ、「何の役にも立たない遺伝子ですね。何でこんなものを単離したのですか」と批判されました。薬品づくりに役立つ遺伝子だけが研究対象の時代でしたから。次に、遺伝子と遺伝子を繋ぐスペーサーの塩基配列も決めたところ、「一体どうしてそんなことをやったのか」と言われ評価は散々でした。当時はゲノムの全体を見るという考えが一般的ではありませんでしたからね。ただ、遺伝子を扱う技術やそれに必要な酵素やDNA、分析装置を持っていたので、多くの研究者から技術を教えて欲しい、酵素やDNAを分けて欲しいと頼まれることは多かったです。

三島市の国立遺伝学研究所で、二人で葉緑体DNAの研究を始めた。鈴木美枝さん(後に楠田夫人)。(本人:右)

壊れかけた古い温室で育てた貧弱なタバコ(Nicotiana tabacum var. Bright Yellow)。

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三浦研の一同。遺伝研名物の桜の下で。前列右から2人目が三浦さん。左端が添田栄一君(元理研副主任研究員)で塩基配列決定に助言してもらった。後列の右が篠崎君で、その左が山口和子さん(後に篠崎夫人、東京大学教授)。左端が高岩文雄君(農業生物資源研究所チーム長)で、その右が楠田君。最初に葉緑体DNAの塩基配列決定に着手。(本人:前列左から2番目)

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平板ゲル電気泳動装置(① ②)と塩基配列決定装置(③ ④ ⑤)の設計図。市販品がなかったので、理化学機器屋に造ってもらった。後に彼らが市販を始めた。

ゲノム全体から遺伝子を探す研究へ

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1981年頃名古屋大学から、組換えDNA実験施設を造りたいので協力してくれと頼まれました。それが縁で、82年9月に太田先生の後任教授に選ばれ、83年3月末に名古屋に移り、篠崎君らと一緒に「遺伝子解析」グループを開設しました。遺伝子に関心のある学生が次々と研究室に入ってきて、葉緑体DNAの解析に参加してくれました。やっとパソコンが1台入ってきました。制限酵素でDNAを切断した断片をクローニングし、制限酵素地図を作りながら、DNAの一部の配列を決め、遺伝子候補が見つかればその転写(RNA合成)を調べる。この作業が延々と続きました。これらを集計して、全体をつなぎ合わせ、とうとう全体が見えた時はやはり嬉しかったですね。葉緑体DNAの全構造が決まり、15万5,844塩基対でした。名人でも1度に1サンプル100塩基くらいしか決められなかった時代です。葉緑体ゲノムを研究テーマと決めてから10年以上経っていました。

DNAには環状のものと線状のものがあり、線状DNAの場合は左右の端の構造を決めるのが難しいのです。葉緑体DNAが環状だったのは幸運でした。それまでの論文では「葉緑体DNA」という言葉を使っていましたが、全塩基配列とそこから推定される遺伝子の機能を調べ上げてた1986年の論文で、初めて「葉緑体ゲノム」という言葉を使いました。その論文にはゴミとかジャンクとか言われていたスペーサー部分も小さなタンパク質の情報を持っている可能性があること(ORFという)を記載しました。

これを皮切りに、今までDNAを調べても光合成はわかりっこないよと冷ややかな目で私たちを見ていた研究者が、一斉に遺伝子やゲノム研究を始めました。私達の葉緑体ゲノム研究の一番の成果は、従来の「目的の遺伝子を探し出して(単離して)塩基配列を決める」という発想を逆転し、「まずゲノム全体の塩基配列を決め、そこから目的の遺伝子を見付ける」というプロセスのほうが簡単だということを世に示したことです。この研究から、1990年以降、さまざまなゲノム計画が進むことになりました。
1976年にこの仕事を始めた頃は、私が定年をむかえるまでの23年間で完成できればよいと思っていましたが、10年で一応完成しました。この時代の生物学にはプロジェクト研究は無かったので、著者23名という論文は初めてだったと思います。定年までまだ13年もあります。次は日本特産のイネの葉緑体ゲノムの全塩基配列を農学部の平井篤志さん(東大名誉教授)と一緒に決めました。愛知県で育種された「日本晴」で、これは2年間で決めました。この頃、自動DNAシーケンサーが入ってきましたが、私達は全て手作業でやり終えたのです。1990年代以降に始まる、日本の農水省主導による国際イネゲノムプロジェクトでも、「日本晴」が使われました。2004年のイネゲノム解読の完成版では葉緑体ゲノムの項を書き、著者の一人となりました。

1991年初めにドイツの友人から、ドイツアカデミーの「メンデル・メタル」受賞の連絡があり、4月に来るように言われました。湾岸戦争が始まって渡航規制の通達があった時でしたが、ドイツは安全ということで出席しました。1652年創設のドイツ、オーストリアとスイス北部のドイツ語圏の唯一の科学アカデミーとして創立されたアカデミーであり、授賞式にはヴァイツゼッカー・ドイツ大統領も出席される格式のあるものです。メンデル・メダルは、メンデルの遺伝の法則発見100周年を記念して1967年に設けられ、東洋人としては、私が初めての受賞者と聞き驚きました。その後、私達は、1986年に発表したタバコの配列を1998年と2005年に修正し、これは精度の高い塩基配列として国際的な葉緑体の基準ゲノムとなっています。

話は戻って、遺伝研で葉緑体を使い出した1978年頃、木村資生先生(故人)が「ラン藻(光合成細菌)が葉緑体の祖先だという説があるよ。ラン藻も使ったら」と教えて下さいました。そこで、ラン藻と他の葉緑体の遺伝子の塩基配列を比較したところ、非常に類似性が高く、分子レベルでこの説の正しさを証明しました。1990年代に入り、千葉県のかずさDNA研究所の設立にあたった高浪さんのお手伝いをしました。当初ヒトのcDNAの解析を始めましたが、「この仕事は際限ないから、何か短期間でケリのつくものはないか」と聞かれ、ラン藻を提言しました。建物の完成まで研究員と技術員を名大に預かり、まずラン藻ゲノムに慣れてもらいました。ラン藻ゲノムは葉緑体ゲノムの20〜30倍もありましたが、かずさ研の人海戦術で短期間に決めることができました。その論文でも共著者のひとりになっています。

 

名古屋大学で、やっと大きな研究室を持てるようになった。(本人:中央)

1986年8月、西ベルリンで開かれた欧州生化学会連合大会にて。タバコ葉緑体ゲノムの全塩基配列と発現について発表。

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遺伝子と遺伝子の間のDNA配列(スペーサー)は、ゴミとかジャンクみたいなもので配列を決める意味はないと思われていた。しかし、我々はゴミの配列も決めていくと、新しい遺伝子が次々と発見された。

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1991年4月、ドイツのハレ市におけるメンデル・メダル受賞式にて。式にはワイツゼッガー・ドイツ大統領も出席。

葉緑体遺伝子の発現

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タバコを材料にして良かったことは2つあります。ひとつは、1993年に米国のパル・マリガ教授がタバコで葉緑体形質転換法(葉緑体ゲノムに遺伝子を入れたり除いたりする方法)を確立したことです。彼は、あなた方の全塩基配列があってこその成功だと言ってくれました。この分子遺伝学的手法により、タバコを用いて葉緑体遺伝子の機能が次々と明らかになっていきました。20年後の今でもこの手法は高等植物ではタバコでしか使えません。次に、タバコは容易に栽培でき葉緑体を多量に得られるので、分子生物学的手法が利用しやすかったことです。葉緑体の起源はラン藻なので、その遺伝子発現は大腸菌と似ていると考え、誰も詳細な反応解析をしていませんでした。大腸菌でのRNA合成やタンパク合成を研究した経験のある私は納得できず、タバコを用いて分子生物学の基本である「試験管内で正確に発現する反応系(無細胞系ともいう)」を開発することにしました。廣瀬哲郎君(北大教授)が、半年程でタンパク合成系を開発してくれ、その後、彼は2年程かけ、RNAエディティング系も開発しました。後者はタンパク合成系に比べ単純なので、欧米で色々な植物やミトコンドリアに広く応用されています。

2000年に名大を定年退職後、名古屋市立大学と椙山女学園大学を経て、また名大に戻ってきました。今は廣瀬君の系にスプライシング系も加えて葉緑体遺伝子の発現反応の機構解明に取り組んでいます。国際的にも無細胞系の開発は名古屋グループに任せておけという風潮で競争相手もありませんので、楽しみながらゆっくりやっています。

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1996年12月に研究室のメンバーが還暦を祝ってくれた。前列の左側は、杉田護君(名古屋大学教授)、杉田千恵子さん、若杉達也君(富山大学教授)と左端の廣瀬哲也君(北海道大学教授)、中列の中央がサンジャイ・カプール(Sanjay Kapoor)君(デリー大学准教授)、福田雅一君(琉球大学准教授)とその左の守口和基君(広島大学准教授)、後列の右から2人目は、ジョン・スズキ(Jon Y. Suzuki)君(米国農務省研究官)、その左は湯川泰君(名古屋市立大学教授)、ひとりおいて左はイワン・ボヤデフ(Ivan Boyadjov)君(ブルガリアより)。(本人:中央、本人の左:妻)

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試験管内で葉緑体のタンパク質合成を正確に行えるようになり、次々と新しいタンパク質合成の開始の機構が明らかになってきた。

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葉緑体のmRNAの一部のCがUに変る現象を「RNAエディティング」と呼び、コドンが変るため、合成されるタンパク質のアミノ酸配列が変る。試験管内でRNAエディティングを正しく行えるようになり、反応機構が明らかになった。

よき指導者と友人達

名大からはじまって6回研究室を移りました。上司はそれぞれ個性的な方で、すべての人から多くを学びました。共通して言えることは、どの上司も国際的に名前の知られた人ばかりで、研究グループは非常に開放的だったということです。自由に議論でき、移るたびに友人が増えていき、彼らともよく議論しました。私が名大に戻ってから、大学院生は北海道から九州まで各地から来てくれましたし、外国からは10ヶ国26人の方々が加わってくれました。私の研究は、これらの人々と力を合わせてやった結果です。

私が葉緑体を使い始めた頃は、「植物分子生物学」とか「ゲノム科学」という言葉はなく、研究を続けていくうちに少しずつ広まっていった新しい分野です。これら新分野の誕生に関われたことを幸運に思っています。現在、ゲノム科学は先端的な科学であり、これをやるのは格好いいことになっていますが、若い人には、自分が研究室を持ったらまだ名前のない分野に向かって突き進んでくださいと言いたいです。それには多くの経験があればあるほどいいです。研究室も変わってください。自由に議論できる開放的な雰囲気を楽しんで下さい。一たん自分で研究テーマを決めたら、あとは流行を追わず、それを長く続けてください。これが成功の秘訣だと思います。

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2006年8月に、オーストラリアのアデレードで開かれた国際植物分子生物学会議に於いて。シンポジウムで葉緑体のタンパク質合成の機構の講演後にコアラを見に行った。名古屋市立大学を2005年に退職し、公職がなくなったため気楽であった。膝を痛めた妻を車椅子を押して連れて行った。欧米の女性教授達から「ナイス・ハズバンド」と褒められた。