3. シュトラウスの昆虫 1994年4号

 ヨハン・シュトラウスの天才は、人間の情緒も、社会の話題も自然の森羅万象のすべてもこのうえなく楽しい音楽へと転化させてしまう。加速度とか電磁波(いずれも大真面目な物理学のr概念))までもワルツやポルカに化ける。しかし、花とか動物とかの題材は、案外まれにしか取り上げられていないようだ。そのなかで昆虫がテーマとなっている音楽を調べてみると、「ほたる」とか、「てんとう虫」のワルツといったものがある。これらはいずれもCDで聴けるが、私が手に入れているのは「ほたる」のほうだ。ほたるは英語ではふつうlighting bugまたはfirefly(いずれも光る虫)であり、ドイツ語でもまったく同意のGlühw ürmchen(燃える虫)だと知っていたのだが、シュトラウスが題名として選んだ名は、まことに詩的で'Johanniskäferln"(聖ヨハネの小甲虫の意)。
 ドイツ、オーストリアにおいて夏至にあたる6月24日の聖ヨハネを讃えるお祭りは、長くない中部ヨーロッパの夏の讃歌である、まことにおめでたい行事だ。ワグナーの「ニュールンベルグの名歌手」の歌合戦は、聖ヨハネ祭の大イベントとして展開されるのは、よく知られている。つまり、ほたるは夏のよろこばしい象徴として、こうしたおめでたい名で呼ばれる甲虫なのだ。
 ワルツ「ほたる」の導入部を聴いただけで、ただちにこれはほたるの音楽でなければならない、と感じさせてしまうのは、シュトラウスの天才の所産であろう。絃のピッチカートの奏でる短いパッセージは、まっ暗の夏の夜のしじまに、きらきらと輝くほたるの音楽にほかならない。それに続くワルツは、これはなんとしても夏の音楽である。夏を讃える聖ヨハネの名を冠して呼ばれるおめでたい甲虫のための音楽だ。ということは、このワルツはウィーン・フィルの新年演奏会の曲目としては、ふさわしいものではないことになる。
 その新年演奏会が繰り返して取り上げる曲目のなかに、昆虫—当然、季節からすると夏の音楽なのだが—もある。それは、ヨハンではなく弟のほうのヨゼフの作曲した「とんぽ」のポルカである。
 最近では、1989年の演奏会に、いまや私たちの時代に稀有の天才としかいいようのない人物、カルロス・クライバーの指揮で演奏されたCD、LDがある。LDではクライバーがこれから演奏するのは蝶々でなくとんぽですぞ、といわんばかりに、指揮棒をなんとも粋に横にかまえた姿は、まさに「かっこえ一」。とんぼはああいう具合に、翅を横にしたまますいすいと飛ぶことを知った奴も本当にいる。
 クライバーは見事にとんぼを、とんぽならではの姿とリズムで音楽にした。しかし、世の歴史はおそろしいもので、上には上というのがある。それは、この新年演奏会の創始者であるクレメンス・クラウス指揮の1950年代の録音である。どこが上には上なのか?いうまでもないが、トンボの翅は透明である。クラウスの録音だけが、完壁な透明度を私たちに実感させるからだ。
 ヨハン・シュトラウスとその一家の音楽の、私たちに与えるところは、尽きるところがない。その底に、「ほたる」や「とんぽ」を相手にしていても「投票」、「利益配当」(本当にある!)や「女性賛美」といったタイトルの音楽の場合と同じく、人間の自由のスピリットがある。

(おかだ・ときんど/生命誌研究館名誉顧問)
[参考]

『J・シュトラウスII全集:第21巻』マルコ・ポー口8.223221
チェコスロバキア国立コンツェ・フィルハーモニー、ヨハネス・ウィルドナー指揮

『ニューイヤー・コンサート1989』CBSソニー 42DC 5211-2
ウィーン・フィルハーモニー、カルロス・クライバー指揮

『シュトラウス・ファミリー・コンサート1第3集』ロンドンKICC 2319
ウィーン・フィルハーモニー、クレメンス・クラウス指揮

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