16. 春の寿歌—ブリテンの『春の交響曲』 1999年23号

 春の訪れをことほぐ20世紀の音楽を。
 生命・生物の本質的属性が時の流れと不可分であることは、時間のない歴史があり得ないのと同様である。だからこそ生命・生物は「誌」として、つまり、歴史と時代の遷移の物語と見たときにおいて初めて実在となる。生命や歴史と同じく、音楽は時と共にあってこそ実在である。音楽家の創造的行為は美を時間へと投射させることにほかならないのだ。しかし音楽作品に、これこそ生命誌だ、と感嘆できるものがそんなに多いわけではない。
 こうした見地から、19回(番外編等含む)にわたって、心に訴える作品を、具体的な生き物たちが題材に使われるかどうかを離れて紹介してきた。しかし、生命ある自然と音楽を「誌」によって結ぶという訴えの直裁さと強さにおいて、現代英国の大作曲家ブリテン(1913-76)作曲の「春の交響曲」(1949年初演)は至高のものと私は位置づけている。
 生物自然の冬から春への移ろいは、生命の「誌」そのものであろう。ブリテンの交響曲の告げる冬は誠に厳しい。彼はこの部分のテキストとして、16世紀の作者不明の詩を選ぶ。それは驚くほど前衛的だ。
 「年老いた狼は三本足で街を這う。骨のない魚も増えているが、狼は寒さで痛む自分の足を食べる」
 ここには「雪はこんこん、猫はコタツで丸くなる」といった平和な寒い日の情緒のかけらもない。ブリテンの創る音楽も、ハイドンやヴィヴァルディが作曲したのどかな室内の冬に比べると、たとえ時代がどれだけ違うのかを考慮に入れても、およそ厳しい。その分だけ、やがて訪れる春の爆発はめざましい喜びである。
 生命の「誌」はこうでなければならぬ。進化とて時間の流れに乗った連続的なものでなく、爆発的変化こそ肝要なのだ。生物の一生についてもそうだ。動物の発生の嚢胚形成期(不連続的といえるクリティカルな時期)を思え。春といえば植物の発生においては発芽だというのは、あまりにも具体性が過ぎている感はあるのだが。
 第4曲「馬車に乗る」(テキストは16世紀と19世紀の英国詩人作)を聴いてみよう。一聴して耳に残るようなメロディーなどない。かなりこみ入ったリズム、音響。ここにはまごうことなく20世紀の音楽がある。だが、なんと喜びそのものに溢れた音楽だろう。ヴィヴァルディの春を超えて、自然が消えていく20世紀末の人の心にも、春の喜びを伝える音楽だ。
 「春の交響曲」は14曲から構成され、独唱者、合唱(少年合唱の役割は枢要)、大編成の管弦楽からなる大曲だ。器楽のみの部分はない。その点では、交響曲という名に馴染まない。しかし、全曲に声楽を伴うマーラーの第八交響曲がそうであるように、やはり「交響曲」と名乗らなければならない必然が聴ける。
 この20世紀を代表する名曲は、わが国でも東京では何回か演奏されている。私の記憶が正しければ、そのうちの一回はアフィニス財団(JTの傘下にあり、いわばBRHの親類組織というべきか)が支援したはず。この名曲の関西での演奏を誰がいつチャレンジするかを私は興味をもって期待している。
 この稿を記するにあたって私が聴き直したCDは、英国の今売り出し中のガーディナーの指揮によるものだ。しかし、私には作曲家自身による録音のLPがどうしても懐かしい(トランスファーされたCDは日本では発売されていない)。

(おかだ・ときんど/生命誌研究館名誉顧問)

*19回にわたってお届けしました「岡田節人の音楽放談」は、今回で締め括りとさせていただきます。長い間ありがとうございました。(編集部)

[参考]
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮。
ソールズベリ大聖堂少年少女聖歌隊、モンテベルディ合唱団、独唱者ギル・ロス(ソプラノ)ほか。
フィルハーモニア管弦楽団(ドイツ、グラモフォンPOCG-10042)。

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