生き物に関係のある曲はいろいろありますが、ここで演奏・歌われる曲を耳にしたことのある方々は、かなりな音楽好きといえるでしょう。生命誌研究館でも指おりの音楽狂と自負する、岡田・中村両先生がとくに選んだ名曲・難曲に、新進音楽家の二人が挑戦してくれます。

歌;ラヴェル『博物誌』/シャブリエ「セミ」
科学と芸術の出会い 野々下由香里

ピアノ;バルトーク『ハエの日記帳より』/ローゼンダール「チョウ」
原初の日 ー音楽と科学の主旋律ー 小坂圭太

東京芸術大学ピアノ科卒。第54回日本音楽コンクール入選。第58回同コンクール委員会特別賞(協演賞)

今回の「マルティ•プレゼンテーション」において、演奏する機会を与えられたことを心より嬉しく思います。

先日、テレビで偶然、中村先生が「最先端科学の発見も、子供の頃と同じ自然に対する感動によってもたらされているんですよ。科学にとって大切なのは、何事も原初の目で見ることではないでしょうか」と、生命誌研究館設立の意図について述べておられました。事実イコール真実であると考えているにちがいないと思っていた先端科学の先生方が、再び「(自身の)原初の目」という視座を設定しようとされていることに、私は強い印象を受けました。

というのは、文化や芸術はむしろ、非常に細分化されたかたちで学問化され、―例えば近年、遠山一行氏が、ニーチェの「これからは、音楽家はすべて学者になるであろう」という予言に注目しておられるように―それは、我々若い演奏家にとって、刺激的であると同時に閉塞感をも生み出しているからです。

言うまでもなく、史実や作曲技法を知ることは重要ですが、そうした事実の蒐集から演奏というかたちで真実に到達するには、ある直感による飛躍や絶え間ない逆説の呈示などが不可欠のはずです。ところが、細分化された事実に慣れてしまうと、既成概念を何となく音にしていることに違和感を覚えなくなる。いわば「様式感おたく」に堕してしまうわけです。

では例えば、新古典主義の曲ならひたすら正確に弾けばよいのか。ウェーベルンは現代の前衛の祖らしくスタティックでなくてはいけないのか。実際に練習してみると、ストラヴィンスキーやヒンデミットの一見(一聴?)端正な音響も、耳をそらさずに(耳というのは目と違って、そらしたりつぶったりすることへの自覚が少ないのがコトをやっかいにしているのですが)真正面から受けとめるには、末期ロマン派のこれみよがしな不協和音より大きなエネルギーが必要ですし、ウェーベルンの中に人一倍、音楽の伝統的不文律の埋蔵量が多いと感じられます。ただ、こうしたことは客観的に数量化できないので、学問的関心の外に疎外されつつあるように思われるのです。

しかし客観的アプローチだけでは、絶対にテクストへ己の身体が開いてこない……。以前一度書いたことですが、ドビュッシィには、セザンヌにも似たある「絶対」なものをまさぐりあてる過程での中途半端でいびつな作品が、同工異曲の趣で大量にあります。我々がなすべきことは、その繰り返された失敗の跡付けをし、そこから脱却しえた瞬間のドビュッシィの感動と、なるたけ相似形の喜びを味わおうとすることだけだと私には思われます。そしてそうした点で、先の中村先生の発言に強い感激を覚えるのです。

ただ、やはり「原初の目」で見続けるというのは、基本的には「大人の文化」であって、私たち若い者には危険な誘惑を孕んでいるとも思うのです。中心が固まっていない我々は、えてして形容詞的感覚に走り、「そばみたる輪説」をしてしまわないとも限らないからです。しかし、自分に見えているはずのものを掘りあてようともがいている年齢の者にとって、この研究館のような場が、目標として存在するのはこの上ない幸せだと感じます。

本日演奏いたしますバルトークの曲は、極度に描写的でかつ極度に抽象化されたマヌエラによるもの、一方ローゼンタールは中庸のイメージ化と中庸の描写を極度のヴィルティオジテで補完したものです。

(こさか・けいた / ピアニスト)