Index

日本政治思想史が専門の渡辺浩さんは、日本の思想に大きな影響を与えた朱子学も研究しています。
3000万とも8000万とも言われる多様な生命のつながりを朱子学の自然観はどうとらえるのでしょうか。
お話は山水画から愛、そして人間中心批判など、多様な世界へと広がりました。

中村—

友達の手紙に、朱子学の入門書を読んでいたら「理一分殊りいつぶんしゅ」という言葉があり、生命誌を思い出したとありました。以前から渡辺さんの朱子学のお話に魅かれるものがあったのはそんなところに関連があったからかしらと思って。

渡辺—

簡単にはとても言えないんですが、朱子学では、天地も人も動物も「気」というものでできていて、しかもそれが全部つながっていて一体であると考えます。同時に、すべてのものにはあるべきありようというものがあって、それを「理」と言っています。個物に内在している「理」は無限に多様なんだけれども、万物すべての「理」はもともと共通である、そういうあり方のことを「理一分殊」と言うんです。

中村—

生き物の基本を決めるゲノムはDNAとして地球上の全生物で共通でありながら、長い歴史の中でそれぞれの生き物の多様性を出してきた。「理一分殊」はたしかにこの「生命誌」の視点と重なりますね。

渡辺—

田毎の月にたとえることもあるんです。棚田の田んぼの一つ一つに月が映ってたくさんあるように見えますが、本当は一つですよね。だから、朱子学では人の「理」も万物を生み育てる大自然の「理」と同じで、その本質は「仁」だと考えます。そして、「仁」とは「愛の理」だと言うんです。

中村—

愛とはつながり、関係ですね。生命科学では生き物の構造と機能を重視したのですが、生命誌はそれに“関係と歴史性”を加えたんですよ。

渡辺—

体のどこかが悪いと、痛く感じるように、万物のどこでもちょっと悪いと自分が痛く感じるという気持ち。一切の生物、一切のものとつながっていて、それらがあるべきようにあるよう、慈しみの気持ちをもつことが、人として根本的に大事なことだというわけですね。

中村—

環境問題などそこから出発すればいいわけですね。日本人の日常にはどこか朱子学的な考え方がすり込まれているようにも思いますし。

渡辺—

う-ん、どうでしょうか。ただ、朱子学では完壁な人のあり方は「心の欲するところに従いて矩(のり)を蹄(こ)えず」という状態なのですが、それはたとえばお茶のお点前の理想に似ています。あれこれ考えなくても完壁にできちゃう境地が理想なんですね。

中村—

私は理屈で考えるたちなんですが、お茶は合理的で、いちいち考えなくても動けますね。

渡辺—

目的合理的であると同時に美しいんでしよ。

中村—

美しくて自然な感じ。

渡辺—

そういう動き方のことを「礼」というわけです。

「礼」を舞踏にたとえた人もいる。真ん中で天子が完壁にリズムに合わせて踊る。音楽が流れる。周囲の人も自然にそのリズムにそって体が動き、踊り出し、やがて全世界に波及していく。まるでマチスの「ダンス」の絵のように(写真=首藤幹夫)

渡辺—

『自己創出する生命』を読ませていただくと、歴史に対して二つのイメージが混在しているように思うんです。一つは、ひとたび真核生物が生まれてしまえば、いずれ多細胞生物ができ、やがて神経が成立し、そこから人間が生まれるべくして生まれる。つまり、最初にすべてのものの根があって、そこからすべてが進展していくといういわば内なるものの顕在化としての歴史ですね。しかし、個人の決断が大きく人間の歴史を変えることがあるように、いくらでも分かれ道があってどこへいくのかわからない、いかなる方向へも進んでいくし、進んできた。そうした歴史観も一方でありますね。

中村—

そうです。現存の3000万種とも8000万種ともいわれる多様な種の可能性も歴史を遡れば、15億年ほど前に生まれた真核細胞の中に全部入っていたともいえます。しかし、それがどのような形になるかは、予測できるものではなく、環境とのかかわりの中で実現します。

渡辺—

そうすると、いわばある時点でそこに含まれていた膨大な可能性の中の一部が実現したというわけですね。

中村—

そういう意味では、いろんなことが起こりえただろうと思います。人間の歴史が個人の決断で変わることがあるように、生命の歴史も環境条件の変化で、どこへいくかわからないということがあると思います。でも、できることしかできないという面もある。私たちは5~6億年前に起きたカンブリア紀の大爆発で誕生したたくさんの生き物の中の生き残りの子孫ですが、絶滅したほうが生き延びても、それほど違うものはできなかったんじゃないかと思います。

渡辺—

最初の可能性は膨大であるけど、しかし有限なんだ、ということになりますね。

中村—

カンブリア紀にはすでにヒトの体の基本構造である消化器官、感覚器官、神経系は登場しているんですよね。その後、分散系だった神経系が中枢化するという変化はありますけれども、模式的に描けば、ヒドラもヒトも変わりはない。外に骨がきたのが昆虫、中に入ったのが私たち。

渡辺—

人間の歴史については、一面で、レヴィ=ストロースの言うように賭博じゃないかって考えることもできるのかもしれませんね。各地でいくつものさいころを投げ続けてて、あるとき、アフリカかどっかで全部6が出た、つまり、必要な条件全部がたまたま揃ったということがあって、そこでとんでもない何かが始まった。火を使い始めたときも農業の始まりも「近代」というものもそういうものじゃないかと。生命の歴史にもそんな面はありませんか?

中村—

長い時間の中なら、いくつものさいころが全部6という確率はありますからね。神秘といわれてきたことも結局は長い時間が産み出したものととらえることができます。したがって歴史という視点が重要になります。

渡辺—

昔風の進化系統樹を見ると、横にいろいろと分かれてはいくけど、真ん中の太い幹はいつも人間で終わるというイメージでしよ。つまり、人間が最後に登場した生物のように描かれている。これは、人間中心的な世界観がもたらした偏見だという気がするんですけど。イリオモテヤマネコやミンククジラのほうが新しいという可能性はないでしょうか?

中村—

ゲノム分析をすれば何がどう分かれてきたかは追えますね。そこでやっぱり、ヒトが一番新しいんです。ただ、それは人間が最良ということではありません。

渡辺—

それにしても、8000万もの種の中で、人間が最新型というのは、信じがたいことのように思いますね。

中村—

こんな大脳の発達したおかしなものができあがるのには、やはり時間がかかったということではないでしょうか。逆に見れば、まだ環境にうまく適応できない面があるともいえます。大腸菌など進化しきっている。昆虫も。人間の脳の構造などを見ると、まだ完成していない、進化の余地を残しているという感じですから。

中村—

朱子学では、万物と一体であることが人間のあるべき生き方ということですが、その中で、人間の生み出した現代の技術をどう位置づけるのでしょうか。

渡辺—

山水画のことを思い出しました。山水画を中国人が偏愛するようになったのは、やはり朱子学が生まれた宋の時代以降で、中国の人々は延々とあれを描き、鑑賞し続けたんです。西洋では対象として風景を描くのですが、山水画の場合、よおく見るとたいてい画中にちっちゃな人がいる。

中村—

作者自身が中に入り込んでいるわけですね。

渡辺—

作者であると同時に、 見ているわれわれなんですね。「仁」なる自然の中に人が一部として完壁に調和している。その世界の中の人になって、あなたもしばし憩いなさいと、山水画はわれわれを招いている。そこに描かれたような大自然と人とのあり方の理想と現代技術を両立させる道があるかどうか・・・・・・。

中村—

その道の一つとして生命誌を考えているのですが。ゲノムを「理一分殊」の目で見ると、生命は一体であり、しかもそれぞれの歴史をもっていることが読み取れる。同時に、ゲノムは一方で物質ですから、まったくの機械的システムとしても見ることができる。だから山水画的感覚と現代技術を結びつけ得る存在だと思うのです。ここで私たちの中に存在する朱子学的視点を生かせないかなと・・・・・・。

わたなべ・ひろし
1946年生まれ。東京大学法学部卒業後、助手、助教授を経て1986年より現職。主な著書に『近世日本社会と宋学』(東京大学出版会/1985年)、論文に『儒学史の一解釈一「朱子学」以降の中国と日本』(岩波書店/1990年)など