季刊誌「生命誌」通巻28号

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自然を見る目と文化

杉本秀太郎 洛中生息者・国際日本文化研究センター名誉教授
岡田節人 JT生命誌研究館館長

フランス文学、日本の王朝文学、フランス近代音楽と広い分野で多くの著作のある杉本秀太郎氏は、昆虫を中心とした生物自然への関心と造詣も深い。
科学を文化が包含するものと捉える、虫好きの館長が、洛中の杉本宅を訪ね、同好の士の語らいは盛り上がりました。


杉本家で。

マルチではない!


1茶室から庭をのぞむ。
岡田--
 この『生命誌』は、話題の広がりはじつに大きなものがありますが、中心には生き物および生命の科学が入っているものを置いています。つまりマルチ何とかというようなものではなく、一つの求心的立場はあると僕は思うとるんです。日本では、誰々さんの専門は何々と皆くっついているでしょう。専門というものを麗々しく必ず名乗らされるたびに、杉本さんを思い出すねん。杉本さんは、そういう時、何を表看板にしておられるんですか?
杉本--
 何の看板も出してくれるな、というのに、フランス文学者とかね。何の雑誌やったか、どうしても肩書きというから「洛中生息者」と書いておいた。
岡田--
 いや、それがいちばん大事なところですよ。専門の寄せ集めのようなものをマルチ学者と称するのや。杉本先生は全然違う。全部一体となっている。それで私は非常に感心している。洛中がいちばん結構ですけれど、新聞記者はゆるさんですからね。日本のそういう世界では、大学でどういう学科を出たかだけで一生の専門が決まる。
杉本--
 仏文科を出たからフランス文学者。この慣習を疑う人が少ない。
岡田--
 仏文科を出て、数学に進んで仕事をしていても専門は仏文という具合。しかし失礼やね。
杉本--
 フランスの仏を2つ重ねて、仏仏学者にしておいてください。ブツブツ言うから。
岡田--
 杉本先生には肩書きがふさわしくない。その並んだ肩書きの多さにもかかわらず、いつも感心しているのは、何とトータルにして同じ雰囲気のものを書かれるのかということです。仏文学、平家物語や王朝文学などの日本古典文学、そこへもってきて自然です。その自然が、パプアニューギニアでも、沖縄でもない、京都のチョウチョウは、というようなことを書かはる。生物自然についての感受性は誠に見事です。

文化の中の自然


2杉本宅は1870年に再建された典型的な京町屋。

3店舗部と居室部をつなぐ表屋造りの取合部。看板は寛保3年(1743)創業の呉服商を営んでいたときのもの。

4坪庭。

5台所の太い梁。
杉本--
 家の庭にはイタチがいて、よく2階の軒を這うんです。猫と違って、カタカタカタと足音を立ててくるんで、すぐわかる。塀の下の穴から顔を出したり、台所の卵を上手に持ってったりします。割れないように抱いていくんですね。
岡田--
 よっぽどかわいがっておられるね。この辺、チョウチョウ来ますか?
杉本--
 昨日はものすごくきれいなルリタテハが庭のニンニクバナに止まっていました。
岡田--
 日本の王朝時代にどんなチョウチョウがいたか、知りたいですが、文学作品の中にチョウチョウ出てきますか?
杉本--
 出てきませんね。何でですかね。必ず目に止まっているはずですよね。和歌には時々セミの声くらいは出てきますが。
岡田--
 いちばん人気のある生き物は何ですか?やっぱり人間ですか?
杉本--
 それは人間の女でしょう。動物ではイタチがちょこちょこ顔出しますね。平家物語にもイタチが出てきて数匹で追っかけ合いをして、あと、輪になって回ることが出てきます。それがあると何かよくない兆し、火の出る兆しだと占うんです。
岡田--
 日本の文学に自然が書かれることは乏しいのですね。今でもそうやろうな。300年後の人が、今の人がどんなふうに自然を感じていたかを文章を通して知れるといいんですけどね。
杉本--
 カエルは平安時代からよう出てきますが、やはり季のものでしょう。ヤマブキの花が咲いて、カエルが鳴くともう初夏、そういうことです。植物は多いです。秋の七草から始まって、源氏なども草の風情がよく書かれてますね。
岡田--
 植物は好きだったのでしょうね。平安時代にチョウチョウについて観察した文章が残っているといいと思いますけれどもね。書くということは、人の心に触れているわけで。
杉本--
 今、昆虫図鑑に載っているチョウチョウの名前は、ほとんど明治以降に誰かが名づけたんでしょうけれども、なかなか上手ですね。スミナガシ、アサギマダラなんて、味わいが深い。
岡田--
 いい名前つけてますな。しかし、昔は人間の情緒的美的感覚からは、野生の生き物は、ちょっとはずれていたんですかね。
杉本--
 庶民はまさにひもじいから、食べられるものしか興味なかったのと違いますか。フランス文学は動物も植物ももっと出てきません。17世紀の古典では、ラファイエット夫人の『クレーブの奥方』にたった1カ所風景描写がある。これが非常に珍しい。ルソーから様子が変わります。詩はラテンの詩人のまねをしますから、よく歌われますけどね。

昆虫採集の面白さ


岡田節人館長
岡田--
 昆虫採集は、最初に先鞭をつけたのは、イギリスともフランスともいわれる。2代目(たぶん)のフランス日本領事は、そのために10人ほど人夫を雇った。それに奄美大島の昆虫を取りまくったのは、フエリエーというカトリックの坊さん。私のいちばん関心のあるカミキリムシのもっとも美しい種類は、この人が見つけて名(学名、和名とも)に残っている。殺されて第一次世界大戦の原因をつくるオーストリアの皇太子も、日本で昆虫採集した。ピアニストのギーゼキングは、日本に来る時にツマキチョウを採りたいとわざわざ言ってきたが、残念ながら季節が合わなかった。
杉本--
 ギリシャ神話にアポロンという神様がいますね。それが、ヒアキントスという美少年をかわいがって、その少年を喜ばすために網を持って野山を歩くんですが、その網の中は何やろって前から思っていたんです。アポロンって、あのアポロチョウのアポロでしょうね。
岡田--
 あの有名な。なるほどじつに品よく美しいですな。ヨーロッパの北のほうにいるこのチョウの美しさは、アマゾンのモルフォチョウとは全然違う。
杉本--
 不思議に、日本にいるチョウチョウは日本の自然の色彩と見事に対応してますわな。庭にそこらじゅうにフジバカマが勝手に生えてますが、香り高いし、蜜も甘い。必ずツマグロヒョウモンがやって来るし、他のヒョウモン、タテハ、アサギマダラも来ます。
岡田--
 ツマグロヒョウモンはちょっとどぎついです。いかにも世紀末に望まれてあちこちで増えてきたという感じ。今は高槻にもいるけど、昔は絶対おらんのよ。昔は代わりにオオウラギンヒョウモンがおったが、今は絶滅。きれいに置換したらしい。生き物があれだけ変わるんだから、人間の心が変わるのは当たり前や。京都にいる虫で古いものといえばムカシトンボ。京都は、妖精が住んでいて、怨念も永続していることを象徴している感じ。

京都の文化


杉本秀太郎氏
杉本--
 昔、三高に杉谷さんという数学の先生がいて、その人が名づけたスギタニルリシジミを僕は一生懸命採りました。貴船(きふね)に局地的にしかいなかった。
岡田--
 杉谷先生の影響力は大きかった。学問というと大げさだけど、自然に対しても、やはり何か興味や焦点をもった人間が、より深くした感がある。杉谷先生は数学の先生でしたが、生物の先生だったら誰もついていかへんわ。
杉本--
 洛北に行くとちょっと珍しいチョウチョウがいますね。
岡田--
 けっしてど派手なものではない。松本の人は、自然一般に割合関心があるが、京都人は一種美的な好奇心を満たすために自然を楽しんでいる。京都の呉服屋さんでもナントカシジミって、知っている人がいる。これが京都の土地柄や。断固として自然に根ざしておる。
杉本--
 旧制中学の生物班には、みんな街中の少年たちですけれども、ほんまにマニアが5、6人いましてね。1年上級で、中京(なかぎょう)の旅館の息子だった林孝男という人など、チョウチョウに関しては、ものすごく博識だった。
岡田--
 職業的なものとまったく関係がない。自然のそういうものを見たことが喜びになるような育ち方をした人が、人口的に多いところ。それは間違いない。
杉本--
 京都の家は鰻の寝床で、いちばん奥に庭がある、だから結構チョウチョウなどを見る機会はありますよね。ちょっと珍しいチョウチョウが来たら目に止まる。
岡田--
 今日では、モンシロチョウとアゲハチョウの区別がつかない人は多い。あげくの果てはモンシロアゲハや言う。しかし、そういうのが京都人には今でも少ない。少なくとも中年以上の方は。杉本先生に至っては、日本古典文学と、フランス古典文学と、音楽の中に自然に関する感性がちゃんと入っておる。非常に京都そのものやと思う。それが京都の価値だと思います。住むところによって、人間だけでなく虫も違う。オオセンチコガネは色変わりが見事。京都の北のほうに行くと赤紫。奈良の三笠山はきれいなブルーで、ルリセンチという。醍醐(だいご)にいるのだけが緑色という具合。
杉本--
 そうです、牛尾山にいるやつ。

自然と文化

岡田--
 地域によって違うのは、芸術作品もそう。
杉本--
 岡田先生のあの多様な音楽の聴き方はものすごい。
岡田--
 いや。私がいかに悪食(あくじき)かということ。しかし、美のレセプターの違いには如何ともなし難いところがある。ドビュッシーとはちょっと合わん。京都に住んでいてお恥ずかしいことです。
杉本--
 先生はハイドンがお好きでしたね。ドビュッシーもじつはハイドンが好きだった。東山の霞なんかは、ドビュッシーの音楽でだったら表現できるんじゃないですかね。
岡田--
 芭蕉の「蛙飛び込む水の音」の世界でもドビュッシーでないとあかんわ。生命誌に合うのもやはりフランスものですよ。フランス人が作り上げる音楽の美しさは自然と一致している。どこかで整合性がある。
杉本--
 ドビュッシーと、全然違うけれど、ラヴェルも。パリの西、50kmのところに、ラヴェルの家がミュゼとして生前そのままに残っていますが、西洋産のチョウチョウの標本が棚にのっかっていました。そうそう、チョウチョウでいえば、トラフシジミ、ウラナミアカシジミは京都にぴったり。平家の公達(きんだち)みたいな感じで。
岡田--

街中にこんな植物園が。
 なるほど、ウラナミアカシジミが平家物語かというように、ウラナミアカシジミを知っていることで、杉本秀太郎という人物がどういう美的感受性があるかということが具体化されて把握できるところに面白味があるのや。そういう意味で自然のことを知っていると、格別に個性的で、しかも優雅な表現が生まれるのがすごい。
 生命誌研究館もそんな感じで、そこにDNAをうまいこと入れる。自然というものは、ある生き物は、一定の美を発しますからね。それを具体的に見聞きし、慣れ親しんでいることで、人間にまで及ぶ。何々チョウを採りたいと思っているが、何かそれにふさわしい舞台装置の中で採れるらしい、という感じが子供にもわかる。ムカシトンボが兵庫県の武庫(むこ)川にいても何も味ない。やっぱり京都でなければならぬ。それは非常に意義のあることですな。僕、そんな解釈好きや。
(写真=桑田義彦)
すぎもと・ひでたろう
1931年1月21日、京都のど真ん中に生まれる。旧制第四高等学校(金沢)に行っていた1年間(学制改革で1年間だけに終わった)、パリに留学した1年間を別にすれば、長いこと京都を離れたことがない。少年時代は牧野富太郎のような植物分類学者になりたかったが、15歳あたりから文学少年に変わっていった。浅井忠をお手本に水彩を描き、ギーゼキング、アルゲリッチをお手本にピアノを玩弄する。
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