名誉館長の中村桂子が、情報と生命の関係を考えます。情報という切り口から、生きものたちの関わりを描く生命誌が始まります。
第一回 「情報社会と生命」
1. 情報社会とは
人間の暮らしは、狩猟採集社会に始まり、農耕革命、産業革命などを経て、現在は「情報社会」と呼ばれます。情報社会という言葉は1960年代ごろからよく耳にするようになったと記憶しています。1962年刊行のダニエル・ベル『脱工業社会』が、従来の工業に代わって情報・知識が重視される社会への移行を示し、多くの人に読まれました。
一方、江上不二夫(注1)により「生命科学」という新たな分野が提唱されたのが1971年。そこにも、近代化を進めてきた工業社会に、公害問題(環境汚染)などを解決する方向への転換を求める意図がありました。情報と生命。脱工業という点では一致するけれど、まったく異なるものとして同じ頃に浮かび上がったことに注目します。
情報社会の具体的なイメージをまとめると、次のようになります。「コンピュータやインターネットなどの情報通信技術が社会・経済・生活のあらゆる分野で中核的な役割を果たし、人々が大量の情報を、ネットワークを通じて入手・共有・発信することによって成り立つ社会。進展に伴い、利便性の向上と同時に経済格差・プライバシー・フェイクニュースなど、新たな課題も生じている」。その他、「物やエネルギーよりも情報の価値が高まった社会。ネットワークを通じて情報や知識を自由かつ安全に入手・共有・発信できる社会。デジタル社会とも言える」という言葉も見られます。電車内ではほとんどの人がスマホを見ており、SNSで誰もが発信する社会になっています。最近はAIが登場し、なかにはこれが人間を超えるとまでいう人もいる事態になっています。
人間を超えるとは何でしょう。ここで生命誌としては、AIをどのように使うかを考える前に、人間とは何か、情報とは何かを考えなければなりません。
(注1)江上不二夫
日本の生化学者。日本学術会議会長、国際生命の起源学会会長等を務め、戦後日本の生化学を牽引した一人。1971年に三菱生命科学研究所初代所長に就任。
参考文献
『脱工業社会の到来』 D. ベル著、内田忠夫 他訳 ダイヤモンド社 1975年
2. 情報とは何か ―生命情報こそが情報
そこで気づきました。情報社会と生命研究が求める社会は本来重なっていること、それなのにこれまでそれを意識した考え方が出されていないことに。生命誌にとって、これは大きな問題です。そこで、改めて情報とは何かと問うと、そもそも学問の中に「情報」という概念が登場するのは、科学者が「生命」について考えた時であることが見えてきます。
2-1.物理学者が問うた生命
20世紀に入り、物理学は日常の大きさの世界からミクロの世界へと入り、量子論が生まれます。興味深いことに、それは宇宙を考えることにつながります。アインシュタインの相対性理論に始まり、E・シュレーディンガーの量子力学、N・ボーアの相補性、W・ハイゼンベルグの不確定性原理など、新しい物理学が次々と生まれ、彼らは物理学の世界を知る基本はこれで揃ったと考えました(具体的な素粒子の発見や宇宙論など知るべきことはありますが、基本は分かったと考えたのです)。そこで浮かび上がったのが生命です。生命、更には人間の意識にまで思いを致すと、それが従来の物理法則で説明できるだろうかという問いが生まれたのです。詳述の余地はありませんが、二つのことを記します。
一つは、ここから分子生物学が誕生し、それが生命科学、生命誌へとつながっていることです。生命現象の分子的な研究は急速に進みました。それを踏まえて、生命や人間の本質を問うことが求める時代になってきました。
もう一つは、E・シュレーディンガーの著書『生命とは何か』で出された問いを考えることです。シュレーディンガーは、生物には物理学の統計的法則とは異なる原理がはたらいているとしました。生命を理解するには「無秩序から秩序を生む物理的仕組み」と「秩序から秩序を生む生物学的仕組み」を知る必要があると言うのです。エントロピー増大の法則が示すように、通常孤立系は無秩序の方向に動くのに、生命体は秩序をつくります。シュレディンガーはこれを、負のエントロピーを取り入れていると言いました。生命が秩序をつくり維持できるのは、実はここに「情報」があるからです。つまり、それまでの科学は事象を物質とエネルギーで説明してきましたが、生命はそれに加えて情報を必要とする独自のシステムなのです。情報という概念はこのようにして登場したのであり、このようなものとして理解されなければなりません。
物理学から分子生物学への流れの中で、この重要なテーマは置き去りにされています。「情報の生命誌」が必要です。
参考文献
『生命とは何か: 物理的にみた生細胞』 E. シュレーディンガー著、岡 小天 他訳 岩波文庫 2008年(初版1975年)
2-2.コンピューティング・パラダイムにおける情報
これとは異なる学問の流れの中で生まれたコンピュータが、急速な進歩を遂げました。そしてコンピュータが行う情報処理を中心に、情報という課題を取り扱う「コンピューティング・パラダイム」が今や情報科学の基盤になっています。最初に書いた情報社会は、まさにこれです。コンピュータによる情報処理でつくり出される仮想世界を現実のように受け止め、情報処理ですべてが理解でき、すべてが扱えるかのような勢いです。そこでは、人間も機械であり、情報処理速度に優れたコンピュータは、人間を超えるという発想になります。こうして、速ければ速いほど優れているという加速主義社会になっているのです。
人間は機械ではないというあたりまえのことを確認し、真の情報学を生み出さなければなりません。情報の専門家の中にもこのような考えを持つ方はおられ、日本では西垣通さんによる「基礎情報学」、その仲間のお一人である西田洋平さんの「人間非機械論」などから多くを学び、連載の中に活かしていきたいと思っています。
参考文献
『基礎情報学―生命から社会へ』西垣 通著 NTT出版 2004年
『人間非機械論 サイバネティクスが開く未来』西田洋平著 講談社選書メチエ 2023年

