季刊誌「生命誌」通巻15号

Perspective

今,生命誌は

中村桂子

生命誌研究館がスタートしてまもなく4年。
「生命誌」はどこまで来たのでしょう。そして,どこへ行くのでしょう。
中村桂子副館長が「生命誌」の今を語ります。

 高槻の地に「生命誌研究館」ができてから3年半がたちました。「これはとても大切なことなのだ」という信念(思い入れ),「誰もやっていない新しいことをやるんだ」という意気込み,「でも思いどおりにいくのだろうか」という不安,それらが混ざった気持ちで仕事を始めたのは,ついこの間なのに。幸い,信念と意気込みは,館の仲間たちにも広がり,不安は少なくなりつつあります。もちろん,まだまだ考えなければならないこと,やらなければならないのにできないでいることは山ほどありますけれど。
 そこで,今の「生命誌」をとり巻く状況,もう少し元気よく言うなら「生命誌」が本物になりつつある状況を報告したいと思います。

皆がわかってくれる

 今でも新しくお会いした方には「生命誌研究館って何ですか」と必ず聞かれます。生命誌のなかには,たくさんの事柄や思いを込めてありますので,全部を説明していると何時間もかかってしまいます。でもご挨拶ですから,そんな時は1分に縮めてこう言います。
 「地球上に生物が誕生してから40億年,今では数千万種といわれる多様な生物がいます。それらがどのようにして生まれ,お互いどのような関係にあるのか,なかでも,私たち人間(ヒト)がどんなふうにしてできあがり,他の生物とどんな関係にあるのか,それを知りたいのです。幸い,現存生物のもっているDNA(ゲノム)を調べると,その問いへの答に近づけることがわかりました。
 生命誌は,そのような生きものが作りあげてきた長い歴史物語を描きたい。気持ちをつき動かすもっとも大きな力は好奇心ですが,それだけでなく,ここから得られることは,人類の未来を考える視点を提供してくれると思うのです。ですから生命誌は,研究者だけのものではありません。そこで,4階建ての建物のうち,上の2つの階は研究のために使っていますが,1・2階は開かれた場にしています。私たちが何を考え,何をしているのかを見ていただくために,コミュニケーション・スタッフが工夫しながら展示や催し物をしていますので,是非お出で下さい」
 最近は,バッグの中に「生命誌絵巻」のポストカードを入れておき,質問された時,それを使ってお話しすると,皆さん「面白い。それ大事なことですね」と言って下さいます。「外交辞令もあるんじゃない?」と言われそうですが,それを差し引いても確かな手応えを感じています。
 その理由は,こんなところにあるのではないでしょうか。未来を考えるに当たって,生きもののこと,その一員である私たち人間のことを知らなければならないと思っている人が多い。また,今や変化の時であり,歴史的な視点が必要だと考えている人もたくさんいる。そこへ「生命誌」という,この二つをつなぐものが出てきたので,そこに何かがありそうだと期待するというわけです。生命誌は,生きものを知ろう,それにはその構造やはたらきだけでなく,それぞれの生きものがどのようにしてできてきたかを知らなければならないと言っているのですから。しかも,現代生物学の成果と方法論をフルに活用してそれが解けるとなれば,面白いことになりそうだ。それが生命誌への関心だと思います。
 つまり,誰かがやっている面白そうな研究,というのではなく,自分の関心事そのものを,DNA(ゲノム)という思いがけない切り口で解こうとしていることへの期待だと受けとめています。だからこそ,専門などにこだわらず,皆で考えるものにしていきたいのです。
生命誌絵巻
生命誌研究館の入り口のすぐ横に掛けられているこの絵は,開館以来,生命誌研究館のシンボル的存在だ。一つ一つの生きものがもつ歴史性と,多様な生きものの関係性が描かれている。
(案:中村桂子,協力:団まりな,画:橋本律子)

生命誌の研究が確実に進んでいる

トリボネマ
クロララクニオン
ツノモ
新しい研究の流れを開く藻類(そうるい)たち
1トリボネマ Tribonema aequale
黄緑藻の一種。遺伝暗号が変化していることがわかった。生命誌研究館では,他の藻類でも遺伝暗号が変化しているものをいくつか見つけている。暗号の変化のパターンは,藻類の分類に役立つと考えられる。
2クロララクニオン Chlorarachnion reptans
クロララクニオン藻。アメーバ状の形態をしているが,葉緑体をもっている。アメーバ状の原生動物が葉緑体を取り込んだと考えられる。
3ツノモ Ceratium hirundinella
うずべん毛藻の一種。藻類以外の原生生物だと考えられていたマラリア原虫はこの仲間に近いことがわかった。
(写真12=江原恵,3=石丸八寿子)
 そのような期待にこたえて,本当に生きものの描く歴史物語が読みとれるのか,そこが生命誌の勝負どころです。適切な材料を選び,有効な方法を使って研究成果をあげなければなりません。幸い,この3年半で研究館の中から「生命誌」として興味深い成果が出てきています。藻(も),オサムシ,チョウ,イモリ,アフリカツメガエル,ニワトリとさまざまな生きものの系統発生と個体発生を追うことによって。ここで成果のすべてを述べる余裕はありませんし,その一部は,この季刊誌でも紹介してきましたので,読んでいただければ幸いです。ここでは簡単に,オサムシと藻を例に,生命誌ならではの特徴にだけ触れます。
 オサムシは,形態による分類ができているという利点を生かし,DNAを用いた系統研究を進めました。その結果,系統と棲息地域の関係がみごとに出た(このムシはまったく飛べず,地面を這うだけというところがミソ)だけでなく,それが日本列島形成史を語っていることまでわかりました。生物は地面の上で生きているのだもの,そんなこと当たり前。わかってみればそう言えます。しかし,研究を始める前は予想もしなかったことです。ムシのDNA解析が地球の研究ともつながっていく,このダイナミズムこそ生命誌らしさだと思います。
 さらにもう一つ,研究材料となるオサムシは,日本各地の昆虫愛好家から送られてきました。現代科学の枠組みの中では,アマチュアと位置づけられる方たちですが,自然界のオサムシに関してはプロ。実験室の中でDNAを分析する研究者とオサムシ愛好家とのみごとな協力あってこその研究です。今では日本中にネットワークが広がり,オサムシニュースレターも発行しています。これもまさに生命誌研究らしい姿で,今やネットワークは,フランス・ロシア・中国と,世界へ広がりつつあります。小さなムシと大勢の人々が,生命誌を本物の研究分野にしてくれているのです。
 藻の研究も興味深く展開しています。藻は専門的には“藻類(そうるい)”と呼ばれ,その多くは真核単細胞に分類され,動物・植物などが分かれる前の,原生生物界をつくっています。たった1個の細胞なのに,さまざまな形,さまざまな生き方をしている。なんとも面白いので顕微鏡観察による研究がたくさんあります。生命誌ではそこにDNAを用いた系統研究をもち込み,“ミドリムシは動物か植物か”という問いから始めたところ,次々と興味深いことがわかってきました。まず,ミドリムシは動物細胞の中に光合成をする藻類が入り込んだものでした。いわゆる共生です。ミドリムシだけでなく,ある細胞が別の細胞に入り込むという形でできたものはたくさんあります。また,細胞の中で不要とされ捨てられるものが出てくるという過程も何度も何度も起きて,多様な生きものができてきたことが明らかになりました。ちょっとびっくりしたのは,マラリア原虫が,昔は光合成をしていたらしいとわかったことです。寄生するようになって,自ら栄養分をつくることをサボり始めたのでしょう。
 生きものたちは,その形成過程で,お互いに助け合ったり,利用し合ったり,不用物を捨てたり,競争し合ったり…,深く関係し合ってきたのです。今でもそれが起きているはずです。私たちをつくっている細胞の祖先についていろいろ教えてくれる原生生物界は,ちょっと穴場で,しかもとても大切なことがわかる「生命誌」の宝庫です。
 生命誌の研究で使う手法は,生物学研究のそれと同じです。ですから,研究者には,生命誌は生物学とどこが違うのかと聞かれることがあります。でも,生きものの歴史性の尊重,アマチュアとのネットワーク,身近な生きものを用いた研究などなど,一見ちょっとしたことのなかに,科学を大きく変える鍵が隠されていると思っています。
オサムシのDNA系統樹と日本列島の形成史
生命誌研究館で作成した,マイマイカブリ属(オサムシの仲間の一つ)のDNA系統樹は,地質学の研究から予想される日本列島の形成史と一致する。
地史の研究によれば,日本列島は約1500万年前に2つに分かれ,その直後に多島化し,その一部が再び集まって今の形ができたと考えられている(地図)。
DNA解析から得られたマイマイカブリの系統樹も,約1500万年前に2つに分かれ,その直後に複数の枝に分かれている。このデータを見る限り,マイマイカブリは,ダイナミックな日本列島の変化とともに種分化してきたと考えられる。ただし,この考えを検証するには,両方のデータをさらに確実にすることが必要である。
(図=生命誌研究館・谷本周也)

世界の研究の新しい流れ

 DNAを基本にした研究は,これまで免疫やがんなど,多細胞生物の体内で起きている現象の解明を中心に進められてきました。それらが一段落した今,次の対象の一つは脳とされています。意識の生まれるところであるこの臓器で何が起きているのか,本当に知りたいことです。
 もう一つ,系統発生と個体発生をDNAの言葉で語るという研究も重要です。まさに生命誌です。新しい研究成果が満載の最近の雑誌を手に取ると,5年前とはまったく違って,生命誌と呼べる研究が増えたと思います。アフリカの湖でのサカナの多様化,チョウの紋様などをDNAのはたらきと結びつけた研究が始まっているのです。分子生物学では扱われなかった多様な生物の再登場です。ゲノムプロジェクトも多様な生物を扱い始めています。もっとも,各研究者は,発生生物学,分子進化学など既存の学問のなかで考えているだけで,「生命誌」という概念をもってはいません。しかし,それらをまとめれば,生命誌の姿が見えてきます。遠からず,生命誌という分野は確立していくと思います。
 このような新しい研究の流れは,すでにいくつかこの季刊誌で取りあげました。たとえば,ゲーリング博士の仕事です(『生命誌』12号)。Pax-6という遺伝子が眼の形成に重要なはたらきをしており,これを将来脚になる部分ではたらかせると,脚の先に眼ができるという話。また,マウスのPax-6をショウジョウバエではたらかせると,マウスの眼ではなくショウジョウバエの複眼ができるという話。これから,眼という大切な器官が生きものの歴史のなかでどのように生まれたのかがわかります。それだけでなく,歴史が個体のなかでの眼の形成にどのように反映するのかを考えることもできます。
 じつは,研究館でもイモリやアフリカツメガエルを用いて眼の研究をしており,近い将来「眼の生命誌」を描き出してみたいと思っています。前号と今号のテーマである「花」も,まさに生命誌を語っており,今年の4月からは「花の生命誌」というテーマで展示をします。
“第3の生物界”は存在するか?
生きものの歴史を語るゲノムプロジェクト

ヒトや酵母,大腸菌などに限らず,多様な生きもののゲノム配列を決定しようという動きが,世界各地で始まっている。その原動力のひとつは,生物の進化の歴史をゲノム解析により調べようという,「生命誌」的な発想だ。昨年8月には,これまで「古細菌」と呼ばれていた細菌の一つ,Methanococcus jannaschii の全ゲノム配列が決定され,発表された(Science誌,8月23日号)。Methanococcus ja. は,1982年に深海潜水艦「アルビン号」が,太平洋の底の熱水噴出域から採取したメタン菌で,90℃,200気圧以上の環境でも増えることができる。決定されたゲノム配列から,この生物は,真核生物的な部分とバクテリア(原核生物)的な部分を半々にもつことが明らかになった。たとえば,物質代謝にかかわる遺伝子群はバクテリアに似ていて,DNAの複製や遺伝子発現にかかわる遺伝子群は真核生物に似ている。ゲノムの半分はどちらにも似ておらず,この生物に固有のものらしい。これらの結果から,「古細菌」を"Archaea "として,“真核生物界”(Eucarya ),“バクテリア界”(Bacteria )に次ぐ,第3の「超生物界」として分けようという考え方が提唱されている。ただし,3つの超生物界の正式な日本語名はまだ存在しない。(右の図は,昨年のNature誌,9月26日号より改変)。写真は,超好熱古細菌Thermoproteus 属の一種(1)と,それが住むニュージーランドのホワイトアイランド(2)。この古細菌は80℃以上でも増えることができる。
1撮影=弘前大学医学部・高橋元,2提供=東京薬科大学生命科学部・山岸明彦)

横への広がり

 ギャラリーに招かれて,作品を前に芸術家と語り合う。この3年半の間にこのような体験を何度もしました。「生命誌」のなかに,芸術家が今求めているものがあるということでしょう。どこがどうつながるのか,ピッタリした表現はなかなか見つかりませんが,重なり合うものがあるのは間違いありません。話を聞いて創作意欲を刺激されたと言っていただくと,こちらも嬉しくなります。計算し尽くされたものとは違った何かをそこに読みとってくださるのだと思って。私は,生きものとは“矛盾に満ちたダイナミズム”であり,それが私たちを惹きつけるのだと思っています。DNA研究は,そこにある矛盾やダイナミズムの実態を示しているのです。表現者(芸術家)たちにとって魅力的なのはそこなのだろうと思います。
 若者たちとのおつき合いも増えました。研究館に何度も現れ,生物学を生涯の仕事と決めた高校生や大学生が,将来どんなふうに育つのか楽しみです。
 広がりとしては,まだまだやりたいことがたくさんあります。政治・経済・教育などなど,各分野における日本のリーダーが,生命誌の感覚を身につけてくれたら,世の中は変わるはずです。人文科学や社会科学のなかに,今明らかになりつつある生きものの姿から学んだものを組み込んでいってほしいと強く思います。海外からの来館者は皆さん共感して下さるし,国際会議でも反響は十分なので,日本から外への発信をもっと増やそう・・・。きりがありません。
 とにかく,科学研究を核にしながら,それを客観的データとして示すだけでなく,生きものの歴史物語として語っていきたいと思っています。日常的でありながら,思想のある広く深い知として,生命誌を育てていく基盤はできつつある,そんな実感をもって,皆で毎日楽しみながら忙しくしています。皆さまもこの活動にどんどん参加して下さい。とても楽しい分野ですから。
(なかむら・けいこ/生命誌研究館副館長)
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