季刊誌「生命誌」通 巻22号 
「翅」が語る生命誌:目次>今、チョウの翅の研究は:鳥居信夫
「翅」が語る生命誌
今、チョウの翅の研究は:鳥居信夫
  翅はいつどこからできるのか
  チョウでも始まる遺伝子の研究
  広がる眼状紋の研究
 チョウやショウジョウバエの翅の研究は、私たちの体づくりと無関係ではない。 昆虫の翅とヒトの手足のでき方は基本的なメカニズムが同じであることが明らかになってきた。このことは進化がどのようにして起こってきたのかについても教えてくれる。 美しいチョウの翅を入り口にして、現代生物学が明らかにしようとしていることを見てください。
翅はいつどこからできるのか
 鱗粉の電子顕微鏡写真。きれいに並んだ鱗粉は、ソケットと呼ばれる鞘(さや)に刺さっている。
(写真=吉田昭広)
 蛹の中で、鱗粉形成細胞が突起を伸ばし、ソケット形成細胞がその根元を取り巻く様子(館内展示ビデオより)。
 チョウと言えば翅(はね)。模様は美しいし、形もいろいろだ。チョウを捕まえた経験のある人なら知っているように、翅は鱗粉で覆われている。翅を掴むとくっついてくる例の粉である。じつはこの鱗粉、成虫ではすでに死んではいるが、もとは一つ一つが一個の細胞なのである。
 蛹(さなぎ)の中で鱗粉母細胞が一列にならび、その場で2度分裂して鱗粉形成細胞になると、突起を伸ばし、その中にそれぞれの位置に対応する色物質を分泌する。羽化直前に、この突起だけが残って鱗粉ができあがり、それが翅の模様をつくる。個々の鱗粉は単一色だが、位置情報が正確なので複雑で種固有の模様ができる。
 ところで、翅は、いつどこからできてくるのか。チョウの成長を観察しても、蛹から出てくるところしか見えないが、本当は孵(ふ)化した時にはもうでき始めている。完全変態をする昆虫では、翅も含めた成虫のほとんどの器官が、幼虫の表皮、たった一枚の皮からできてくる。表皮は、体の表を覆っている1層の細胞層で、傷つかないように、自身が分泌するクチクラで外側を保護している。表皮の内側に詰まっている幼虫の器官は神経系を残して大部分が蛹の中で消失し、成虫の各原基と入れ替わっていく。脚の原基、触覚の原基と、いろいろな器官の原基が海に浮かぶ島のようにひょこひょことできてきて、いつのまにか機能的つながりをつくって成虫ができていくのだ。残念ながらこのへんはまだよくわかっていないが、大変興味深いテーマだ。
 消えていく幼虫の器官は、遺伝子のプログラムに従っている。プログラム細胞死だ。JT生命誌研究館では、プログラム細胞死で翅の形づくりの過程を研究している。ヨモギトリバの翅の大きな切れ込みもプログラム細胞死によってできる。プログラム細胞死は発生過程で形ができる際の重要な出来事として注目されている。
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チョウでも始まる遺伝子の研究
 形づくりで重要なのは位置情報である。鱗粉の色、原基のできてくる場所、プログラム細胞死を起こす部分、どれも位置情報を必要としている。位置情報がなければ正しい細胞分化は起こらない。位置情報がどのように生み出され伝えられるのかという疑問は発生生物学の大きなテーマである。このような研究は昆虫ではショウジョウバエで集中的に行なわれ、その結果は、多くの場合他の生きものにもそのまま当てはまることがわかった。チョウでも最近、ショウジョウバエですでに見つかっている遺伝子と同じ型の遺伝子(相同遺伝子)を探し、その発現を探る研究が始まった。
翅の表面の拡大写真。
さまざまな形、さまざまな色の鱗粉が並んで模様をつくっている。
 ギフチョウ
 ブルネイアゲハ
 ヨモギトリバ。細胞死によって翅の形がつくられている。(写真 = 吉田昭宏)
 ウスバシロチョウ
 スカシジャノメ
 翅は薄い紙のようだが、2つの細胞層からできており、翅の縁がくっついて袋のようになっている。背中側にある上の層を背側面 、下の層を腹側面と呼ぶが、背側面をつくる細胞で働く遺伝子(apterous)がチョウでも見つかった。また、翅は前と後ろの2つの領域(コンパートメント)に分かれているが、後部にだけ働く遺伝子(engrailed)も見つかった(多羽田哲也氏のページを参照)。翅の基本構造をつくるこれらの遺伝子が、チョウでもショウジョウバエでも同様に働くことから、基本的な発生メカニズムは多くの種で保存されていると考えられている。こうして一つ一つ比較してゆくと、何が共通 していて、何が異なるのかが次第に明らかとなり、体づくりに重要な因子が見えてくるだろう。
 位置情報に注目すると、翅の模様を研究する意味は大きい。鱗粉の色の違いはまさに位置情報の違いだからである。目玉のように見える模様(眼状紋)の研究から、眼状紋の中心となる位置には、distal-less(dll)という遺伝子が強く発現することがわかってきた。この遺伝子の発現によってシグナル分子が拡散し、濃度勾配が形成されて位置情報の一つを提供するのだろう。位置情報はもちろん多くの遺伝子の働きの総和で決まる。蛹から将来眼状紋の中心となる部分を取り出し、他の場所に移植すると、移植先によって眼状紋の色に違いが出ることがわかった。位置情報に基づいたパターン形成を色で簡単に追える点がチョウを使う利点なのだ。(ちなみに、dllはショウジョウバエでは脚の先をつくる部分に発現する。チョウの脚の形成に関係しているかどうかは今のところ不明であるが、遺伝子の働きが進化過程で変化した一例である。)
 原基上で働く遺伝子(上段はengrailed,中段はapterous,下段はwingless)をチョウ(右)とショウジョウバエ(左)で比較したもの。ショウジョウバエの翅原基はチョウとは異なり、袋状になっておらず、袋が開いたような状態になっている。翅の縁となる部分が中央部にあり(点線部分)、それを境に将来翅の腹側面となる部分が接している。2種で遺伝子の働く場所が対応しているのがわかる。
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広がる眼状紋の研究
 B.anynanaというアフリカのチョウは面白い。生まれた時期が雨期か乾期かで眼状紋の大きさが変化するのだ(図)。気温が高く、餌の豊富な雨期にはよく飛び回り、敵から狙われやすい。そこで、敵を脅すために大きな眼状紋を身につけている。逆に、乾期には枯れ草に停まっていることが多く、目立ってはならないためか眼状紋は小さい。この変化は、気温や日照量が、あるホルモンの分泌量に影響して引き起こされることがわかった。よく似たホルモンを注射すると、眼状紋が大きくなるのだ。当たり前のことだが、体づくりには遺伝子だけでなく環境も重要な役割を果 たしているのである。環境との相互作用によって、その環境に適した体をつくるよう進化した面 白い例だろう。
 このチョウを雨期と乾期の中間の温度で育て、眼状紋の大きさの違いで選別 していくと、季節に関係なく、眼状紋が大きいものと、小さいものの2つの系統ができてきた。それも、数世代という短期間で起こり、他の形態変化を伴うこともなかった。眼状紋は自然淘汰によって進化してきた典型例とされているので、これを一種の進化のモデルと考えて、遺伝子レベルの解析も含めた研究が始まっている。発生や遺伝に対する自然淘汰の影響を検討し、進化の過程を直接確かめようというわけである。もちろん、この現象が進化のモデルとして適切かという根本的な疑問は残っているが、ほとんどなされたことのない試みであり、興味深いことには違いない。
雨期
乾期
雨期と乾期で目状紋の大きさが違うのは、シグナル分子の拡散領域が異なるから。
 以上見てきたように、私たちにとって身近なチョウが、進化のメカニズムを探ったり、パターン形成のメカニズムを探ったりするための面白い研究材料になってきた。専門外の人の生物研究への関心を高める役割もしてくれるのではないかと期待している。
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(とりい・のぶお/本誌)
INDEX
  翅の発生で見る生命の歴史:林茂生
遺伝子で決める翅の形:多羽田哲也
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