生命誌ジャーナル

2012年間テーマ 変わる

芸術と科学の蜜月を再び
石原あえか 東京大学大学院准教授 × 中村桂子 JT生命誌研究館館長

ゲーテを論じる文に生命誌を引用していただいて以来、お話する機会を楽しみにしてきました。分科した科学から自然そのものを見る研究への移行を考え始めた生命誌ですが、それは決して新しいものではないとゲーテは教えてくれます。今回初めてゲーテの時代に、一瞬、女性と科学が急接近したと知りました。生活を大切にする生命誌としては興味津々です。石原さんが、興味深いゲーテを掘り起こし続けて下さることを楽しみにしています。(中村桂子)

石原あえか(いしはら・あえか)
東京生まれ。ドイツ・ケルン大学博士(PhD)。慶應義塾大学商学部教授を経て、2012年より東京大学大学院総合文化研究科准教授。ヤーコプ・ヴィルヘルム・グリム奨励賞、日本学術振興会賞、日本学士院学術奨励賞などを受賞。ドイツ語著作・論文と並行して、日本語著書に『科学する詩人 ゲーテ』(サントリー学芸賞)ほか。新刊に『ドクトルたちの奮闘記』。

1. 科学という言葉では表現できない学問を

中村
 石原さんの『科学する詩人 ゲーテ』(註1)とても楽しく拝読して、以前からお話する機会を楽しみにしてきました。
 研究館の初代館長の岡田節人先生(註2)がゲーテが大好きで、動物の発生のお話をなさる時、同じ細胞仲間が集まるところで「親和力」という言葉を使っていらっしゃいました。旧制高校世代の岡田先生の中には、ゲーテと発生学が一体のものとして入っているのがよくわかり、羨ましく思いましたね。

註1:『科学する詩人 ゲーテ』

石原あえか著。慶應義塾大学出版会(2010年)。

註2:岡田節人【おかだ・ときんど】

1927年生まれ。発生生物学者。生命誌研究館名誉顧問。2007年文化勲章受章。
関連記事:生命誌ジャーナル30号「ルイセンコの時代があった−生物学のイデオロギーの時代に」

註3:今道友信【いまみち・とものぶ】

1922年生まれ。美学者。東京大学名誉教授。国際形而上学会会長。著書に『西洋哲学史』『エコエティカ』など。
関連記事:生命誌ジャーナル37号「讃美と涙が創造の源泉」

註4:本間長世【ほんま・ながよ】

1929年生まれ。政治学者・思想史家。東京大学教養学部名誉教授。文化功労者。主著に『理念の共和国』『思想としてのアメリカ』など。

註5:ベルトルト・ブレヒト【Bertolt Brecht】

(1898-1956)
ドイツの作家・劇作家。叙事的演劇を唱えて自然主義的な伝統演劇の改革を志した。評論多数。戯曲『三文オペラ』『ガリレイの生涯』など。

註6:フリードリヒ・デュレンマット【Friedrich Dürrenmatt】

(1921-1990)
スイスのドイツ系劇作家。風刺の効いた喜劇を書く。戯曲『貴婦人故郷に帰る』『物理学者たち』など。

石原  それでこちらにもゲーテ全集があるのですね。
中村
 ゲーテと言えば、まず詩人、小説家、さらに広げても政治家までで、自然科学との関連はあまり知られていませんでしょ。でも生命誌からはゲーテの自然科学への眼が魅力的なのです。実は、年に三回ほど、企業のリーダーが集まって古典を学ぶアスペンセミナーのお手伝いをしています。アメリカで行われているセミナーを日本で始める時、企画者の今道友信先生(註3)と本間長世先生(註4)の発案で、国際政治、哲学、美学などに加えて、自然・生命のセッションを入れることになり、そこを私が考えました。
 自然科学を意識しながら題材を探し、ダーウィンなどと共にゲーテの『科学方法論』、『形態学序説』を選びました。ですから、ゲーテとその時代の自然研究を扱う石原さんの御本は楽しくて。
石原
 ありがとうございます。私は、博士論文のテーマに「ゲーテと近代天文学」を選んだのですが、最初、日本の指導教授に相談したら、対応に非常にお困りになって。結局ケルン大学の先生に自分で手紙を書いて行きました。苦労もありましたが、自分の感性で仕事ができました。ドイツ語圏文学には、ブレヒト(註5)の『ガリレイの生涯』やデュレンマット(註6)の『物理学者たち』などの戯曲もそうですが、文学を通して自然科学の問題や知識を社会に問いかけたり、還元したりしようという素地があります。私も、今、あえて近代科学が始まる18世紀の文学を扱って、その面白さを皆さんに伝えながら、現代の根元を照らし出したいと思っています。ところが、私の書く科学と文学の両方に関わる本は、出版社の悩みの種で、いつも本屋さんに「文学でも科学でもないので配架場所に困る」と言われるとか。ドイツではポピュラーサイエンスやノンフィクションの棚があるので、さほど問題ないのですけれど。幸い、ゲーテファンの皆さんに救われています。
中村  今、多くの人が、科学という限定した方法論だけでは、自然を見ることにならないと感じていると思うのです。私も生命科学という言葉に、分析的、論理的でなければ学問でないという感じがあることに抵抗しています。
 科学、科学者という言葉は、学問が専門に分科してからのもので、それ以前は、ニュートンも自然哲学者でしたし、石原さんは、ゲーテを「自然研究者」と書いていらっしゃいますね。自然研究者という言葉を、もう一回、現代に呼び戻したいと思うのです。
石原  「自然研究者」、そしてそこに生命誌の誌という意味を込めたい、というお話ですね。
中村  ええ。21世紀に入った今、科学が直面する問題として、例えば、物理学はミクロの世界に入って素粒子にまで行き、それが宇宙というマクロの世界へと突き抜けたわけです。生命科学も同じで、DNAという物質だけを分析しても生命現象は複雑で解けない。だからチョウやトンボなど個体の成り立ちや、種と種が関わり合う生態系という生きた自然の中でDNAを見ないと次を考えられないというところに来ています。次へ進むには、恐らく、今までとは違う方法論が必要です。
 「私たちは星から生まれた」と言うように、素粒子から宇宙まで理解がつながり、生命体も宇宙も同じ物質が作っているとわかった21世紀は、恐らく、科学という言葉では表現できない学問をやらなくてはいけない。だから今、自然研究者という見方がとても大事で、ゲーテとその時代の学問を見直すことが、新しい時代を作る基盤になると思います。
 

2. プリズムと織姫様

中村  石原さんの感じるゲーテとその時代の自然研究の魅力は何でしょう。
石原
 ゲーテという人は、科学が専門的に分岐する前の、まだ趣味・嗜みとして一般人が科学に参加できた時代に生まれています。彼はアマチュアながら自分が主宰するサロンや書簡を通じて研究者と交流して、いろいろな分野に関与しました。ラヴォアジエ(註7)に発する近代フランス化学や天文学の先進国イギリスやフランスからの最新情報も、彼の取り巻きの一流の科学者からいつでも話を聞ける状態にあったのです。
 またゲーテが高級官僚として仕えたカール・アウグスト公(註8)は、市民の啓蒙のためにいわゆる「化学の学校」を開き、娯楽的内容もふんだんに盛り込んだ化学実験を一緒に見学したものでした。ゲーテの理解者であり、女友達の一人だったシュタイン夫人が住むお屋敷の1階に開設されたのですが、聴衆の気を引くために派手な実験をするので、住人の彼女は身の危険を感じることもあったようです。科学が、楽しみや遊びとして人々の生活の中に溶け込んでいる、そんな時代がありました。

註7:アントワーヌ・ラヴォアジエ【Antoine Laurent Lavoisier】

(1743-1794)
フランスの化学者。燃焼の理論を確立してフロギストン説を退けた。化学命名法の体系化、質量保存則の発見など、近代化学の礎を築いた。研究費を稼ぐために徴税請負人をしていたため、フランス革命時に処刑された。

註8:カール・アウグスト(ザクセン=ヴァイマール=アイゼナハ公)【Karl August von Sachsen-Weimar-Eisenach】

(1757-1828)
幼い時に父を亡くし、1775年の成人まで母が摂政をつとめた。彼の教育係は詩人ヴィーラントだったこともあり、文学にも造詣の深い、いわゆる文武両道の啓蒙君主として知られる。1815年から大公。

中村  望遠鏡や顕微鏡を覗くということもよくあったと言われますね。
石原  どちらも同じ頃に発明された光学機器ですが、天体望遠鏡は普及が早く、顕微鏡は普及に時間がかかったと言われます。美しく遠い星の世界を望遠鏡で覗くのは楽しいけれど、顕微鏡を覗くと、カビ菌や微生物など、身近に眼に見えない怖い世界があるということを、人々は認めたくなかったのでしょう。
中村  なるほど。身近な現実を科学の眼で見るのを避けるというのは面白いですね。自然の法則も、天体の軌道のような遠くの動きのほうが簡単です。それで天文学は早くから進んだし、アマチュアも多い。科学は遠くから始まりました。一番身近が一番苦手、だから人間が一番難しい。
石原  近くのものほど複雑な要素が見えてしまいますから。
中村  でも20世紀後半から、複雑な系を考える手掛かりは出ているわけですから、そろそろ次に進みたいですね。
石原
 ゲーテが、身近なものを研究課題にした一つに「病理学的色彩」があります。彼の大作『色彩論』の中で、早くから注目を集め、いまだ通用する部分が多いところです。
 『はらぺこあおむし』で有名な絵本作家エリック・カール(註9)が、ゲーテの色彩研究を取り入れた『こんにちはあかぎつね』という絵本を出しています。例えば、白地に描かれた赤い蝶を一定時間見つめてから、隣の真っ白なページに眼を移すと、そこに補色の緑の蝶が浮かび上がってくる、という面白い本です。ゲーテにとって、色彩の研究は、日常の、自然の光が降りそそぐ場所で行われる必要がありました。
 ゲーテの『色彩論』と言うと、彼がニュートンのプリズムの実験にやみくもに抵抗したように捉えられていますが、ゲーテの味方をすると、彼は、ニュートンの「暗室」での実験が気に入らなかったのです。七色の虹を見るためには、暗室という自然から隔離した状況を作って、これまた寸法の決まった小さな穴から光を入れなければなりません。不自然に作った光をプリズムで虹に分解するニュートンの光学実験は、自然への拷問のようなものだ、と主張したのです。

註9:エリック・カール【Eric Carle】

1929年生まれ。アメリカの絵本作家。鮮やかな色彩感覚と独特のコラージュ手法が特徴。

中村  美しく偉大な自然を、不自然な状況に閉じ込めて観察をすることに抵抗する気持ちはわかりますね。
石原
 彼の自然研究には、主観的な好みが多分に反映されています。ゲーテの時代に盛んだった地球生成にまつわる議論 — 地球は穏やかな水の作用でできたという説(水成説)、それとも急激で激しい火山活動でできたという説(火成説)が二大勢力でしたが、隕石落下や氷河活動など諸説ありました。 — でも、ゲーテは、途中から分が悪いと知りながら最後まで水成説を支持しました。地震も伴う激しい火山活動は、暴力的なフランス革命を「自然なもの」とする正当化にも使われたのですが、ゲーテは人々の血が大量に流れるような革命を嫌悪したので、一瞬にして既存の世界を崩壊させる火成説はどうしても認めたくなかった。火成説を主張する大博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルト(註10)は、頑固なゲーテを説得しようと躍起になりますが、ゲーテはこの年下の友人に、「貴殿の御説が正しいのは理解できるけれど、水が歳月をかけて穏やかにつくる地球を思い描くことが私の心の平安だから、老いぼれのたわごととして、そっとしておいて下さい」と答えています。自然に関わる詩人の立場だったからこそ、こんな風に我を通せたのかもしれません。

註10:アレクサンダー・フォン・フンボルト【Alexander von Humboldt】

(1769-1859)
ドイツを代表する博物学者・探検家・地理学者。1799〜1804年に南・アメリカを探検し、チンボラソ山(標高6267m)登頂を試み、山頂まで400mまで到達した。ベスビオ火山の調査も行う。1829年中央アジアを踏査。気候学・海洋学などを創始。大著『コスモス』が有名。言語学者の兄ヴィルヘルムともども、シラーおよびゲーテと親交があった。

中村  ニュートンのプリズムの実験は、科学として納得しますが、それで自然がすべてわかるわけではないということも確かですよね。
石原  ゲーテが自然を人格描写する場合は、女神様の姿にすることが多いです。「自然」は女性名詞なので、それは特別なことではありませんが。彼の詩には、さらによく機織のイメージが出てきます。彼にとっての自然は、縦糸と横糸を機にかけて、疲れを知らず、永遠に生命を織り続ける織姫様。だから、虹という神秘を裸にするニュートンは、失礼極まりない野蛮な奴だ、と言うわけです。ノーベル賞のメダル彫刻にもあるように、科学者の真理の探求は、自然の女神の御顔を隠していたヴェールを掲げることになぞらえられますが、ヴェールを脱いで欲しいのなら、暴力的にはぎとらず、紳士的に御顔を見せて下さるよう、ちゃんとそうお願いしなさい、という主張です。
中村  面白い。もちろん科学を進めるのはよいけれど、自然に対して失礼のないようにしましょうという気持ちは必要ですものね。私が生命誌を始めたのもその感覚に近いのです。
石原  ゲーテは東洋的あるいは仏教的な思考に近い部分がある、と言われることもあります。例えば、道端に見知らぬ美しい野の花が咲いていたら、それを根ごと採取して標本にしてしまうのがヨーロッパ的思考ですが、ゲーテには、散歩の折に見つけたかわいい野の花を根っこごと掘り出して、「私の庭に植えて、大切に愛でています」という、糟糠の妻に送った詩『見つけた』があります。
中村  なるほど。ゲーテの自然感はヨーロッパの中では少し異質なのかしら。でも織姫様も含めて、惹かれるところがあります。
 

3. 女性が科学に参入した時代

石原  ドイツ啓蒙主義時代の文学は、自然研究の発表・宣伝の場でもありました。ゲーテが生まれた頃は、そんな文学と科学の蜜月時代でした。
中村  文学が研究発表の場という感覚は、その時代に一般的なものだったのですか。
石原
 啓蒙主義時代に、ゲーテより年上のゴットシェート(註11)という啓蒙思想家兼翻訳家が創刊した女性雑誌があります。その雑誌は、女性読者向けの平易な文体で、文化的な話題を幅広く扱い、天文学などの最新の研究成果もリアルタイムで発信しています。しかも懸賞問題として数学の証明がついている雑誌もありました。

註11:ヨーハン・クリストフ・ゴットシェート【Johann Christoph Gottsched】

(1700-1766)
ドイツ啓蒙主義を代表する評論家兼劇作家の一人。彼のドイツ語文体および文法論は、18世紀以降のドイツ語に大きな影響を与えた。なお彼の最初の妻ルイーゼ(1713-1762)も、優れた女流詩人および翻訳家として知られる。

中村  18世紀後半の女性誌に数学の証明問題が出ていたんですか。初めて伺いました。今は数独程度ですが、証明とは本格的ですね。
石原  大きな実験装置が必要な物理や化学と違い、紙とペンだけでできる数学は女性にふさわしい科目だと言われていました。ゲッティンゲン大学のある数学教授は、女性を含めた一般読者に対して「論理的かつエスプリのある会話には、数学が有効だ」という記事を書いています。雑誌にあるレシピ通りにケーキを焼くのと同じ真剣さで、女性たちは、数学の証明問題にも取り組みました。当時は女性が科学に参入した時代で、一瞬だけ、ごく少数ですが、数学や天文学の領域で女性が活躍するのです。
中村  一瞬って、どのくらいの期間ですか。
石原
 20年弱ですが、そんな楽しい時代があった。ガウス(註12)が一目置いていた文通相手の一人に、当初、男性の偽名を使っていたソフィー・ジェルマン(註13)というフランスの女性数学者がいます。このように数学の得意な女性たちが出て、専門教育を希望し始めるや否や、大学は女性に門戸を閉ざしてしまうのです。

註12:カール・フリードリヒ・ガウス【Karl Friedrich Gauss】

(1777-1855)
ドイツの数学者。ゲッティンゲン大学教授兼天文台長。18歳で正十七角形の幾何学的作図に成功。最小二乗法・整数論・曲面論・虚数論・方程式論・級数論などを論じたほか、天文学・電磁気学にも精通。

註13:ソフィー・ジェルマン【Sophie Germain】

(1761-1831)
フランスの女性数学者。独学で数学を学び、男性の偽名オーギュスト・アントワーヌ・ルブランでガウスと文通を始めた。フェルマーの最終定理を考察し、「ソフィー・ジェルマン素数」に名を残す。1831年にガウスは彼女にゲッティンゲン大学名誉博士を授与しようとしたが、その数か月前に乳癌により惜しくも没した。

註14:フリードリヒ・フォン・シラー【Friedrich von Schiller】

(1759-1805)
ドイツの詩人・劇作家。古典主義の歴史劇『オルレアンの少女』『ヴィルヘルム=テル』など。頌歌『歓喜に寄す』は、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」の原詩として知られる。歴史学教授としてイエナ大学で教鞭もとった。

中村  ゲーテは、ちょうどその時代の空気の中にいたのですね。
石原
 青年期までは、自然科学が得意な女性がそばにいるような状況でした。彼は法学部卒ですが、学生時代から詩や小説を書き、自然研究もしていました。ゲーテが仕官してしばらく後、年下の戯曲家シラー(註14)がヴァイマールを訪ねて、「ここの女性たちは化学の実験はするし、ハンマーを持って珍しい石ころは集めるし…」と驚いています。
中村  それはある限られた場所、限られた時間でのことだったのですね。
石原  そうみたいです。ゲーテはこの頃、自分の植物学研究をそのまま題材にした『植物のメタモルフォーゼ』という詩を発表しましたが、後年になって「あの頃は、詩と自然科学は一つのものだったのに」と嘆いています。
中村  蜜月はとても短く、ゲーテが活躍する時代には、文学と科学はもう「離婚」し始めていたのでしょうか。
石原  1809年に出された『親和力』は、タイトルそのものが化学用語で、作品中にも女性を交えての化学談義や実験の場面が出てきます。でもちょうどその頃から、科学は文学と分岐して急激に専門化を進めました。もう素人は口出しできない、という雰囲気の中で、唯一人、ゲーテは抵抗を続ける。彼は大学の理事のような役職についていたので、最新情報を得ていたものの、自然科学系の専門教育は受けていません。にもかかわらずあまりにニュートンを悪く言うものですから、ニュートンの力学・数学を支持していた専門家たちには無視され、物理学・数学の分野からは、早々に締め出されてしまったようです。
中村  残念ですね。ところで、大学に門戸を閉ざされた数学が得意な女性たちは、その後どうなったのでしょう。
石原
 そこが引っかかりまして、そういう男性主導の大学専門制度と科学する女性たちの関わりを調べました。天文分野では、例えばドイツ・ハノーヴァー出身の天文学者ウィリアム・ハーシェルの妹・キャロラインが、ゲーテの時代の女性天文学者としては有名です。
 この女性と科学というテーマでは、医学の分野ですと資格試験などを手掛かりに追跡が比較的容易なので、そこに絞って数年間調べた成果を、『ドクトルたちの奮闘記』(註15)にまとめたところです。ドイツでも女医の存在を受け入れるか、受け入れるとして男性同様に国家試験や大学での公開試験を受けさせるのか、それも特例として認めるのかなど、さまざまな女性たちの苦闘がありました。

註15:『ドクトルたちの奮闘記』

石原あえか著。慶應義塾大学出版会(2012年)。

中村
 明治の頃、日本人では、北里柴三郎(註16)や森鴎外(註17)がドイツで医学を学びましたけれど、その頃ドイツ社会では興味深い動きがあったのですね。

註16:北里柴三郎【きたざと・しばさぶろう】

(1852-1931)
医学者・細菌学者。ドイツへ留学。コッホに師事し、破傷風菌の純粋培養に成功。ベーリングとともに血清療法を創始。

註17:森鴎外【もり・おうがい】

(1862-1922)
本名は森林太郎。作家・軍医・官僚。東大医科出身。軍医となりドイツ留学。陸軍軍医総監・帝室博物館長。明治文壇の重鎮として、西洋文学の翻訳、創作、批評を行う。

註18:フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト【Philipp Franz von Siebold】

(1796-1866)
ドイツの医学者・博物学者。1823年、オランダ商館の医員として長崎に着任、日本の動植物・地理・歴史・言語を研究。鳴滝塾を開設し、高野長英らに医術を教授。娘・楠本イネは西洋医学を修めた産科医となる。

註19:クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント【Christoph Wilhelm Hufeland】

(1762-1836)
ドイツの医学者。ゲーテ自邸サロンでの講演が、カール・アウグスト公の眼に留まり、イエナ大学に招聘される。のちにプロイセン宮廷医とベルリン大学医学部長およびシャリティ病院長。医学・医学教育の指導的立場にあり、半世紀にわたる臨床経験をまとめた著書”Enchiridion Medicum”は、緒方洪庵らによる『扶氏経験遺訓』や杉田成卿による医学倫理を扱った部分の訳『医戒』により、幕末の洋学医に大きな影響を与えた。

石原  もう少し古いところから始めると、楠本イネの父フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(註18)は、南ドイツの名門医学一家の出身でした。この一族は、日独の両国でほぼ前後して女医を輩出しています。シーボルトの叔母ヨゼファとその娘シャルロッテ二人は、近代ドイツにおける女性医師のパイオニアになりました。それから明治に入ると、当時ドイツと言えばまだプロイセンですが、この大学制度を模範にしたのが日本ですから、受け入れを拒む大学の門を突破しようとする女性たちの動きも見事に一致します。日本にも男性しか入れない医学校の前で、3日3晩ハンストした高橋瑞子、もっと医学の勉強をしたいと書き残して結婚式当日に行方をくらました宇良田唯など、強い明治の女性がたくさんいます。
中村  結婚式にいなくなるとは…ドラマですね。そんな歴史を知らないでいます。森鴎外や北里柴三郎だけでなく、同時代に活躍した女性に眼を向けなければいけませんね。
石原  幕末の洋学医に大きな影響を及ぼした著作の一つにフーフェラント(註19)の『医戒』があります。実は、フーフェラントはゲーテがその才能を見出した人物でもあります。ゲーテが主宰するサロンでの「人間はいかに長生きできるか」というフーフェラントの講演を聞いて、主君カール・アウグスト公がすっかり気に入ってしまいました。そこでゲーテに指示してイエナ大学に招き、フーフェラントはそこで才能を開花させたという次第です。ゲーテが発見したフーフェラントが、さらに日本でどんな風に影響を及ぼしたのか。そこが、この物語の起点でもあるので、副題を「ゲーテが導く日独医学交流」としました。
 百数十年も前の日独交流ですが、調べていくと、私がケルンに留学していた時、たくさんの人々に助けてもらった体験とも重なるところが多いのです。それもこの本を書こうと思った動機です。最近、学生があまり海外に出たがらないので、向こうへ行ったらこんなに豊かになる人生もあるんだよ、と伝えたいという思いもありました。
中村  なるほど。こんなところにもゲーテが登場するとは。石原さん独自の切り口ですね。
 

4. 現代に必要なバランス感覚

石原
 最近、原子力の話題にからめて、ゲーテの詩『プロメテウス』を授業で扱いました。生前に自分の全集を責任編集した時、彼は意図的に、この『プロメテウス』の後に、『ガニュメート』、次いで『人間性の限界』という順番で成立年代の違う詩を置きました。
 『プロメテウス』は科学史的にも面白い内容です。彼がこの詩を書いた時代には、電磁気の研究から発明された避雷針がドイツに普及し始めていました。ですから、もうゼウスが雷を落としても怖くない。プロメテウスが粘土をこねて、息を吹き込んで作った人間の領域は自分たちで何とかするから、神様は神様で勝手にやってくれ、という風にも読めるのです。
 続く『ガニュメート』は、神様が私をさらっていくのなら身を任せましょうという、ゼウスにさらわれた美少年の身になった詩。そして、『人間性の限界』では、神様の持っている永劫な時間の流れや空間の広がりを海に例えるなら、その波間に浮かんだり沈んだり、翻弄されるしかないところに人間性の限界はある。けれども人間の一生を一つの輪と考えれば、その輪でどんどん世代をつないでいける。人間には、神様とは別の連なりがあると締め括っています。私はこの詩がとても好きです。
 『プロメテウス』だけを独立させずに、全体の流れを考え、とてもよいバランスをとっています。彼はどこまで意図しているのか、あるいは感覚で知っているのか、「なんだか怖い」と思うとブレーキをかけます。『ファウスト』の人造人間ホムンクルスも、最初は問題なく誕生させる構想でした。ところが、新進気鋭の化学者ヴェーラー(註20)が人工的に無機物から有機物が作り出せる、つまり尿素の合成に成功したことを知ったゲーテは、何か感じるものがあって、メアリー・シェリー(註21)の『フランケンシュタイン』のように怪物を誕生させず、瓶に封じ込めます。そのバランス感覚に、詩人ゲーテの面白さがあると思うのです。科学としていかがでしょう。

註20:フリードリヒ・ヴェーラー【Friedrich Wöhler】

(1800-1882)
ドイツの化学者。1828年、偶然に、シアン酸アンモニウムの水溶液を加熱して尿素を生成することに成功。

註21:メアリー・シェリー【Mary Shelley】

(1797-1851)
イギリスの女性作家。ゴシック怪奇小説『フランケンシュタイン 現代のプロメテウス』は、1818年に匿名で出版。夫は、詩人パーシー・シェリー(1792-1822)。

中村  現代に必要な感覚ですね。今、科学技術と金融経済の世界では、人間はその感覚を忘れてとどまるところを知らずに突き進もうとしています。『魔法使いの弟子』ですね。バケツにどんどん水を汲ませるのはいいけれど、そのままでは自分が溺れてしまう。今、みんな弟子になってしまって、水汲みをやめさせる呪文を知るお師匠さんはどこへ行ったのか。
石原
 例えば、啓蒙主義時代を代表する科学的な発明は、避雷針と種痘(註22)です。それまでの科学に、予防という概念はありませんでしたから、雷に打たれたら天罪と考え、天然痘に罹ったら何かの業を背負ったと考えられてきました。
 アメリカでは、フランクリン(註23)が避雷針を発明するとすぐに普及しましたが、ヨーロッパは導入までにかなり時間をかけています。種痘も同じで、宗教家と文学者と科学者の間で、多角的に議論を重ねます。その間、落雷で人が感電したり、教会が壊れたりすることはあっても我慢して、「私たち人間は、どうして今これを発明できたのか」と議論している。当時の人々にとっては、雷を誘導する避雷針も、天然痘ウイルスの予防接種も、違和感のある恐ろしいもので、悪魔が作った可能性も考えられるわけですから。

註22:種痘

天然痘の予防接種。アジア圏では人の天然痘を使う人痘法が知られていたが、危険性が高かった。1796年、イギリスの外科医ジェンナーが、牛の天然痘である牛痘の膿を用いて免疫を得る安全性の高い牛痘種痘法を発明。

註23:ベンジャミン・フランクリン【Benjamin Franklin】

(1706-1790)
アメリカの政治家・文筆家・科学者。印刷事業を営み、公共事業に尽くした。雷と電気が同一であることを立証し、避雷針を発明。独立宣言起草委員の一人。

中村  なるほど。神様のご意思はどこにあるかをよく知ってから行動するわけですね。
石原  フランスでも、新旧論争と呼ばれるアカデミー論争が盛んでした。先ほど話題になった光学機器について言えば、「ギリシャ人はガラスが作れたのになぜ望遠鏡は作れなかったのか」と懸賞課題も出して議論を重ね、最終的には、私たちが頑張って研究してきたから、神様はご褒美として「第二の眼を与えて下さった」と肯定していきます。
 天然痘の議論も同じで、科学者の言及を文学者が援護しながら、徐々に導入する方向に進め、最終的に、宗教という関門で「神様が予防するという知識を私たちに与えて下さった」と認める。ヨーロッパは導入に至る過程で、ひと手間かけるところが面白いですね。
中村  今でも体外受精など新しい技術が生まれると、必ず、哲学者、文学者、科学者、宗教家が話し合う伝統が残っていますね。
石原  ドイツでは、『ファウスト』第二部のホムンクルス誕生の場面などを引っ張ってきて、哲学者と文学者が必ず絡む。それがブレーキになるのですが、日本では、異分野の専門家が議論に加わることが少ないですね。
中村  クローンについても、バチカンの科学者会議は世界中の専門家を集めて議論しましたが、日本には、審判を下すタイプの神様がいらっしゃらないということもありますね。
石原  八百万の神様ですからね。
中村  八百万のもと、日本は日本らしく考えればよいと思うのですが、それがありません。是非そういう文化を作りたいですね。ゲーテにも、いつも神様がいらっしゃるから。
石原
 ゲーテの作品を再評価しようとする動きは、ドイツの場合、戦後、自然科学者側から出てきました。ドイツでは、第二次世界大戦中、国民の幸福のためには暴力も容認で、猪突猛進するファウスト像がナチスのプロパガンダに利用されたので、文学者はゲーテに触れることを躊躇して来ました。ところが、ゲーテを愛読していたハイゼンベルク(註24)らが、ゲーテの自然研究姿勢に戻るべきだと言い出したのをきっかけに、ゲーテの良さが再認識されるようになり、ドイツ文学者もゲーテに回帰したのです。

註24:ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク【Werner Karl Heisenberg】

(1901-1976)
ドイツの理論物理学者。行列力学・不確定性原理を提唱。量子力学確立の中心人物。ドイツの原子力研究を指導。

中村  ハイゼンベルクは、時代にいろいろと翻弄された人でしたが、彼のすばらしさは、物理学者としての業績にとどまりませんね。ゲーテに匹敵する20世紀の自然研究者、思索者として、偉大な人だと思います。ドイツは懐が深い。ゲーテを評価するハイゼンベルクの考え方は、彼の著作『部分と全体』にもあらわれていますね。実は最初にお話したセミナーでは『部分と全体』も読んでいます。

5. 変わる時代を生きる

中村  ゲーテは、幸せな時代に生まれながら、育つと共に時代が変わってしまった。今、まさに学問も社会も変わらなければいけない時だと思い、ゲーテが時代の変化を一生懸命に生きたことに共感を覚えるのです。
石原  彼は『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』では、「専門化の時代が始まってしまい、今は一つの専門を成し遂げるしかないのだ」というような台詞を主人公に言わせています。
中村  本当はそれを認めたくないという気持ちだったのではありませんか。
石原  そうですね。アマチュアも研究者も、老若男女も入り混じって自然科学サロンを楽しむ時代を経験した者としては、寂しかっただろうと思います。
中村  もう専門家の時代だと書いてはいるけれど、言葉の端々から、決して、それを好きになれないという感じがしますものね。
石原  他方では専門の大切さもわかっている。ゲーテが大学監督官という役職でイエナ大学に残した功績として、医学部が片手間にやっていた薬学、植物学、化学などの研究領域を分離して、正式な化学教授、植物学教授というポストを作り、独立に仕事ができるようにしたことは大きいです。
中村  きちんとした専門性を持った上でのサロンが面白いとわかっているから。その意味で、石原さんの引用されたゲーテの文章で、私が研究館でやりたいことと重なると思ったのが世界文学のところです。「世界文学とは、実際に作品を手がけている現役の文筆家が互いに知り合って、共通の興味や関心を通して社会に働きかけるきっかけを持つことにほかならない」って。これは今日、話し合っていることでもありますね。
 例えば、宇宙を探る人と、生物を探る人が、共通のものを見て話し合い、そこから新しいものが生まれてくる。ゲーテの言う世界文学という考え方は、まさにその通りだと思いました。
石原  彼も喜ぶと思います。そういう文学者と科学者の語り合いを構想していたことは確かですね。でも最後は発展する速度についていけなくなってしまった。
 「世界文学」を構想した頃、ゲーテは官僚として高い地位にあったので、ヨーロッパ中に広がる郵便網を好きなだけ利用できる権利を持っていました。ヨーロッパの情報を最速で得られる特権的な立場で、例えば、パリから「あなたのファウストが上演されました、こんな評価でした」という情報が数日中に伝わる。モスクワからもローマからも同様にどんどん情報が入る。最初は彼も喜び、全部に眼を通して、「交流はすばらしい」と言っていました。ところが、1800年を過ぎると出版物が増え、追いつかなくなります。自分で書いた『魔法使いの弟子』を思い出し、「魔法をかけた帚がバケツで際限なく水を汲むように、たくさん情報が入り過ぎる」と言って、あるところで眼を通すのをやめてしまいます。
中村  今やその速度は当時の比ではありません。石原さんの御本に出てくるゲーテの言葉で、現代と同じだなと思ってびっくりしたのが、知人に宛てた書簡で、「若者たちは非常に幼いうちから急きたてられ、時の渦に飲み込まれていく。豊かさと速さこそ世間が称賛し、誰もが求めてやまないものとなった…」って、しかも「…コミュニケーション手段の省力化を目ざすが、激しい競争の末、むしろ均質化してしまう。」って、ゲーテが1825年に書いた文章とは思えませんね。そのまま現代に通用します。つまり世の中、変わっていない。
石原
 私もそれを訳していて、ゲーテが200年後の今を予見しているようで怖かった。ゲーテの作品は、現代性をかなり持っています。かくいう私も大学の昼休みは、サンドイッチを横齧りしながら、本を読むようなお行儀の悪い、忙しい人生を送っていますけれど。
 ただこういう警告はゲーテに限らず、同世代の物理学者でアフォリズム作家として知られたリヒテンベルク(註25)にもあります。彼の格言からも、ちょっと少し立ち止まって人生を、科学を見直そうというメッセージを読み取れます。自然を対象として見る時には、少しわき道に外れて、楽しみながら見たほうがよいと。

註25:ゲオルク・クリストフ・リヒテンベルク【Georg Christoph Lichtenberg】

(1742-1799)
ドイツの物理学者。ゲッティンゲン大学教授として、実験物理学分野で優れた功績を残した。1777年に彼が発見した、放電の軌跡として絶縁版上に現れる図形は「リヒテンベルク図形」と呼ばれる。ゲーテはカール・アウグスト公と彼の実験講義を聴講した。格言・風刺家としても知られる。

中村  その頃も、第一線の科学者や詩人は、加速する時代に危機感を抱いていたということですね。
石原  鉄道もゲーテの最晩年に開通しました。馬車では、周りを見て、花の香りを楽しむこともできたのに、箱の中に押し込められて目的地に運ばれるだけの鉄道なんて味気なくてつまらん、と彼は言うのですね。それが今や飛行機の時代ですから。
中村  今、鉄道の旅と言えば、大分のんびりしたものに感じますものね。次世代のリニアモーターカーは、ほとんどトンネルの中を走るそうですね。大阪まで1時間で運びますって、人間も荷物と同じ扱いです。
石原  わき目もふらず目標に突き進むというのは時代の要求ですね。もっともゲーテは「鉄道なんて」と言う反面、「もっと長生きして、スエズ運河の開通を見たい」とも言っているので、他の詩人・作家に比べて首尾一貫性がない、とゲーテの代わりによく叱られます、私。
中村  人間って複雑ですもの。別に原始時代に戻りたいわけではないけれど、トンネルの中を1時間で運びますと言われてもうれしくない。
石原  でも急いでいる時は、喜んで乗ってしまうかもしれない。
中村  そう。そこが難しい。
石原  ゲーテの光学機器嫌いは有名ですが、彼が嫌うのは、自分が知らないところで見られているということです。例えば、オペラグラスで観劇していると、舞台だけでなく桟敷席まで見えてしまいます。天体望遠鏡も同じで、見られている側は見られていると知らずに無防備な自分を晒している。それを覗き見するのは失礼千万、というようなことを書き連ねています。そうかと思えば別のところで、光学機器はすばらしいとも書く。今は、防犯上の必要から街中に監視カメラが溢れていますが、ゲーテは絶対に嫌がるでしょうね。では、なくせばよいかと言えば、また違います。
中村  そこが魅力ですよね。一つ一つを悩んでいるところが魅力で、悩んでいるというところは首尾一貫していますよね。私も同じことを悩みます。原子力は、現時点では止めておいたほうがいいだろうとは思います。でも、あの技術は絶対によくないかと聞かれたら、考えてしまう。何か一つの考えで首尾一貫しなさいと言われても、それは難しい。そういう悩みを抱えているところも魅力的な人です。
 

6. 待てる文化

中村  ゲーテの時代に、テムズ川が凍った小氷期がありましたね。今、太陽の黒点があの時代と同じ動きをしていると言われています。
石原  間もなく小氷期が来るのですか。
中村  日本の人工衛星「ひので」で太陽を観測している方のお話を伺ったら、今の太陽黒点の動きと、その影響による地球の磁気の変化が1800年頃の小氷期と同じなんだそうです。もう小氷期に入っていることは科学的事実らしい。石原さんのお書きになった19世紀と、現代とが、小氷期の話題でも重なるのです。
石原  私は高校の時に地学部に所属していて、昼休みに太陽黒点を数えて蝶形図にしていたのですが、当時は極少期で黒点活動は停滞気味でした。先日お会いした天文学の先生から、最近、太陽黒点の変化が激しく、その直前に、黒点の全くない時期があったと伺って、ゼロというのはめずらしいね、と話していたところです。
中村
 サロンや雑誌のようなものを通して、自然研究者と芸術家がよい形で刺激し合えたゲーテの時代の小氷期は、科学の記録だけでなく、ゲーテの文学や、フリードリヒ(註26)の絵画にも表現されて、今もその様子を思い描けるところがすばらしいと思うのです。
 石原さんの御本を読んでいて面白いなと感じたことですが、ゲーテは、気象が自分の気持ちとつながっていて、私の気分が悪いのはあの雲のせいか、などと言っていますね。

註26:カスパー・ダヴィッド・フリードリヒ【Caspar David Friedrich】

(1774-1840)
ドイツ・ロマン派を代表する画家の一人。彼の油彩画『氷海(Eismeer)』(1823/24)はエルベ川の凍結を熱心に観察して描かれた。

石原  ドイツには天気による体調予報というのもあって、新聞に「今日は気圧の変化が激しいので、具合が悪くなる人がいるでしょう」などと書いてあります。ゲーテの気象学への興味というテーマでは、彼が出仕したヴァイマール公国は、毎日の気象観測を組織的に始めたヨーロッパでも先進的な国で、ゲーテも積極的に取り組みました。
中村  お天気が自分の体調にどう影響するのか調べてみたかったのかしら。
石原
 彼は、まず好奇心が働かないと動かない人ですから。それに新しい研究成果を必ず文学作品にも使ってみたい。
 もともと気象に興味があったところに、イギリスの薬剤師ハワード(註27)が発表した雲の分類を見て、自分でも確かめたくなった。実用を兼ねてイエナ大学を中心に測候所を七カ所ほど設置しました。ハワードの雲の分類に従って、画家と相談して詳しい銅版画を作成させ、これを参考に雲の形を観測・報告するようにと指示しているのです。かなり組織的に計画しています。
 実は、『ファウスト』第二部で、メフィストとの賭けに負けたファウストが、かつての恋人グレートヒェンの口添えと聖母マリアの慈悲により天上に昇っていく様子を描いた最後のシーンは、ゲーテが自分の雲の研究成果を踏まえて執筆したことがわかっています。巻層雲や積乱雲の出現高度を書き込み、巻層雲のレベルで聖母マリアを登場させるよう、プランを練っているのです。ゲーテは眼の人だとよく言われますが、彼の作品の視覚的な楽しさは、自然科学の知識にも基づいているのです。

註27:ルーク・ハワード【Luke Howard】

(1772-1864)
イギリスの薬剤師・アマチュア気象学者。刻々と変化する雲の形を分類し、事実上気象学を創設した。

中村  全体をイメージする人なんですね。日常と研究がいろいろなところで重なっていて面白いですね。
石原  ちょっと脱線しますが、ゲーテの晩年頃から流行し始め、庶民が楽しんだ娯楽の一つに「パノラマ」があります。今はもう廃れたと思いきや、近頃、アレクサンダー・フォン・フンボルトへのオマージュで、ライプツィヒのパノラマ館が集客に成功しました。大きな水道塔を改築したもので、円筒形の内壁360度にアマゾンの熱帯雨林の様子が描かれていて、そこに音楽が流れ、照明が変化して、朝、昼、晩が15分ほどで一巡します。その中に設置された展望台に登ったり、また周囲をぐるりと歩いたりできるという単純な仕掛けですが、ドイツの人々は、それを楽しそうに眺めていました。私もそこで、なんだか時代が戻ったように感じました。
 3D映画が上映されている現代に、動きのない異国の景色を描いた丸い塔の内側で、「あんなところに子供が隠れている」とか、「鳥がいるよ」とか言いながら、時を忘れて楽しむ。ドイツは、「待てる文化」だなと感じます。
中村  人間には、一直線に突き抜けるのでなく、行きつ戻りつして少しずつ進んで行くところがありますね。
石原  ドイツには、12月に入ると、毎日窓を一つずつ開いてキリストの生誕を待つ「アドベント・カレンダー」がありますが、ある時、日本の大学の授業でそれを回覧したら…。
中村  いきなり全部開けちゃう。
石原  思わず「やめて」って叫んでしまいましたが、その時、今の学生は待つことを知らないのだと気づきました。幼稚園の子も同じらしくて、こちらが黙っていると、全部窓を開けてしまう。
中村  確かにヨーロッパの文化は、待つということをプラスに位置づけようとするところがあると感じますね。
石原  ドイツの子どもたちは、基本、誕生日とクリスマスにだけ贈り物をいろいろな人から山積みでもらえるんです。でもその日まで、耐えに耐える。欲しい物リストを作成して、親に「これをサンタさんに渡してくれない?」と言って日々を送る子どもたちの様子を見て、私たちの日常にも、その「溜」が必要なのだと感じました。
 私も研究者としては、いつも締め切りなどに追われ、科学の発明も、「論文にどう使えるか?」とすぐ考えてしまいます。一旦、溜めて、醸造させて、一度に言わずに時間をかけて少しずつ伝えるということがもっとあってもよいはずです。でもどうすれば、そういう感覚を培うことができるのか。
中村  もういくつ寝るとお正月という感覚は、日本にもありましたでしょ。
石原  それがどうして、いつから待てなくなったのか。最近の学生を見ていて感じます。御託はいいから、「早く正解を言って下さい」って。
中村  そうなったのはごく最近ですよ。答を知ったからどうということはないんですけどね。わかるということとは別でしょ。ゲーテも言っていますけれど、今、待てずに求めているものは情報ですね。断片の情報だけもらって安心する。知識というものは全体の中に位置づけられて、初めて意味が出るものなのに。今、本当の意味での学問が欠けていると感じることがよくあります。科学の世界も、情報の断片が溢れていて、それを全体に位置づけることができていません。人間とは何か、生きているとはどういうことかという問いにつながる知識にするには、ゲーテのように、全体のイメージを考えることが大事だとわかっているのですけれど。
 

7. 彼に引っぱられて

中村  ヨーロッパは今でも街ごとに文化がありますね。今、日本での一番の問題は一極集中だと思っているのです。小さくても個性的な街をたくさん持つ国になれば、面白いこともいっぱい起きるんじゃないかと思う。
石原  ヴァイマールなんて小さな片田舎の町なのに、なぜかバッハもリストも住み、バウハウスの芸術家たちも活躍しました。劇作家シラーも居れば、哲学者ニーチェも晩年を過ごした町です。
 そうそう、イエナ発祥のドイツの光学機器メーカー「カール・ツァイス」はある意味、ゲーテが産みの親です。当時イギリスの天体望遠鏡はとても高価で買えなかったので、何とか自分たちで作りましょう、とゲーテが提唱した。失敗を重ねながら、ゲーテと実験をくり返していた親方の弟子、カール・ツァイスの代になって成功した。
中村  なんか限りなくいろいろなことが出てくる人ですね。ゲーテはやっぱり面白い。
石原  私も、ゲーテのおかげで、彼に引っぱられて、こうしていろいろな分野の方とお話する機会を得ていますが、他の詩人を研究していたら、これはできないと思います。
中村  ゲーテを追いかけて行くうちに、石原さんの中で、ヨーロッパで科学が始まる頃のいろいろな時代の流れが折り重なってきたところはとても面白く、私たちにもありがたいことです。そこから独自の視点が生まれてくるのを期待しています。
石原  自分でもよくわからないのですが、文学作品を読んでいる時に「え、おかしいな」と引っかかる。私の研究は、そこから始まっています。
 昨年、ゲーテの『親和力』をきっかけに、ゲーテ時代の測量学に関する本をドイツで出版しました。普通、ゲーテの『親和力』といえば化学の話題になるのですが、私は、4人の登場人物の中に1人だけ、「大尉」と呼ばれている人が気になっていました。何でこの人だけ名前で呼ばれないのか、というところがまず引っかかりました。しかも、陸軍大尉なのに測量学をやって地図を作っているという不思議な設定だなあ、と。でも決め手となる資料がなかなか手に入らなくて。ところが、10年くらいたった頃、そのモデルになった人物の生誕記念の年だとかで、急に歴史的資料が出版され始めたのです。実在モデルは、ゲーテのすぐ近くで、当時、公国内の測量に携わっていたプロイセン大尉ミュフリンクという人物ですが、実はこの人、プロイセンにおける三角測量と製図技術を確立・導入させた人物で、その技術が明治時代にプロイセンから日本に導入されたことも判明しました。私の研究は、いつもゲーテに引っぱられている感じがします。長丁場も覚悟しなければなりませんが。
 近く、今度はゲーテのために医学標本室にも行かなければなりません。私は怖がりなので、本当なら進んで行くところではないのですが、ゲーテの研究に必要なら、話は別です。そうやって、次々と思いもしなかったところに入っています。
 笑い話と思って聞いていただきたいのですが、私が暗礁に乗り上げて「この研究どうしようかな、やめちゃおうか」なんて迷っていると、不思議な地図や絵が出てきたり、何か面白いことが起きたりする。空のほうから、ゲーテが「これをやりなさい」って言っているのかな、と思いながら、「では、やりましょうか」って。そうやって研究している時が一番楽しいです。
中村  よくわかります。幸せですよ、それは。
石原  シーボルト一家の話も、実は、デュッセルドルフのゲーテ博物館で見かけたゲーテお気に入りの一幅の絵がきっかけでした。私もとても好きな絵ですが、その作者を調べていたら、たまたまシーボルト家の女医の歴史につながったのです。
中村  石原さんとゲーテのお気に入りという絵に、とっても興味がありますね。どんな絵ですか。
石原  幅1メートルほどの横長の彩色図版で、海抜ゼロメートルを示す水平軸の上下に、山と海が中心から放射状に広がって行くうように描いてあって、そこに例えば、積雪地帯や、動植物の生息域をすべて描こうとしたようです。
中村  研究館では、「生命誌絵巻」や、「生きもの上陸絵巻」など、空間と時間を一枚に込める絵巻物の表現にこだわっていますが、ちょっとその感覚ですね。絵は言葉と違って、視覚的に全体像を示せますし、相聞歌の入った「源氏物語絵巻」のように、文学や詩を含めての絵巻の表現というのも魅力があります。ヴァイマールの辺りでは200年前に、研究を文学や絵画で表現していたということですね。
石原  ゲーテ自身も世界を一枚の絵に描く試みを何度かしています。ゲーテの個性が浮かび上がる面白い絵があります。南米大陸で動植物を調査したフンボルトが、調査結果をまとめた本をゲーテに献本した際、「図版は後ほど送ります」と書きました。でもその図版入手に時間がかかり、待ちきれなくなったゲーテが、本の内容を元に、勝手に画家に描かせたという絵です。私から見ると、彼はこういうものを想像するのだなということがよくわかって面白いのです。
中村  フンボルトの図版は、後から送られてきたのですか。
石原  はい。送られてきました。
中村  じゃ、両方を比べて見ることができるのね。
石原
 ええ。それが全く違っていて面白いのです。フンボルトは自然「研究者」ではなく「科学者」です。フンボルトの図版は、新大陸で一番高いと言われていたチンボラソ山のシルエットに、標高や気候や、どんな動植物が生息しているかなどの種名を文字でびっしり書き込んだ記載中心の図です。
 一方、ゲーテの図版は、一枚の絵の中に、旧大陸と新大陸を両方入れて、確かにこちらも氷河の分布や植生が描かれているのですが、もっと視覚的な遊びがあります。イグアナのように見える大きなトカゲがいたり、空には、ヨーロッパアルプス最高峰モン・ブランの頂上辺りまで飛んだゲイ=リュサック(註28)の気球が飛んでいたり。さらに新大陸側のチンボラソ山には、登頂できなかったので、頂上の少し下のところにフンボルトの姿が、旧大陸側のモン・ブラン山頂にはソシュール(註29)の姿があるのです。どちらも小さな点のようですが、二人が合図し合っているようにも見える楽しい絵です。

註28:ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック【Joseph Louis Gay-Lussac】

(1778-1850)
フランスの物理学者・化学者。気体反応の法則の発見、硫酸製造法などに貢献。1804年、物理・天文学者のビオと熱気球に乗り、標高6400mまでの地球大気を調査した。

註29:オラス=ベネディクト・ド・ソシュール【Horace-Bénédict de Saussure】

(1740-1799)
スイスの貴族にして自然科学者。モン・ブラン(標高4811m)をはじめとするアルプス山脈の山々を登破し、そこで地質学、気象学、化学に関するさまざまな学術的観測を行った。近代登山の創始者ともされる。

中村  是非、その二つの絵を見せて下さい。今の科学は、夢を失って、フンボルトのほうへ行ってしまったことになりそうですね。
石原  最近、私は、ゲーテの個性や独自性がどういう風に育まれたのか興味を持っています。あの時代に他の国でこういう人がいたのかなども調べてみたいですね。
中村  それは是非。でもゲーテは、やはりすごい人ですね。今、こういう人がいたら面白い。
石原  一体何をやるんだろう。自然科学にどこまで参入できるのか。
中村  ゲーテに引きずられると、一つことを掘り下げるよりは、あっちに行ったりこっちに来たりすることになるかもしれませんね。でも今そういう人が必要です。また新しい発見楽しみにしています。
 

生命誌研究館展示「蟲愛づる姫君」の前で。

ゲーテの育った時代に

せっかちな6月の台風が本州を直撃した翌日、高槻の生命誌研究館を訪ねました。19世紀に袂を分かち、専門化を進めた文学と科学は、使う言葉さえ異なる、と言われてきました。「対談が上手く成り立つか?」という心配は、中村先生の巧みなリードで霧散し、あっという間に時間が経ちました。科学と文学の蜜月時代に育ったゲーテは、後年両者が分離し、対話がなくなったと嘆きましたが、200年後、彼をめぐって楽しい対話が始まるとは予想もしなかったでしょう。館内展示にもありましたが、どんな生物も「変わる」のは、危険と隣り合わせの大冒険です。何度も「脱皮」し、新しい文学を模索し続けたゲーテ。彼の作品がもつ現代性や問題意識をこれからも紹介していきたいです。(石原あえか)

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