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Essay×Drawing

ブッダが答えなかったこと

法橋登/ 画・植松誉

ブッダが、真に伝えようとしたものは何か――。
この永遠の問いかけに物理学者として一つの答えを示そうとする法橋氏と、古代彫刻のもつ普遍性を通して自己の内面を見つめようとする画家の植松氏。
「言葉で語れないこと」をキーワードに、両者のコラボレーションを試みた。


スリランカのコロンボにあるジャワルデナ元大統領の資料館で、“Buddhist Essays" という小冊子をもらった。1940年から50年代にわたって書かれ、国際仏教学者会議 (1982年、コロンボ) で報告された元大統領のエッセイをまとめ直したものだという。

この講話録によると、ブッダはヒンズー教から解脱 (nirvana) の概念を継承したが、創造神との合一による解脱の達成という考えを、幻想 (delusion) であるとしてしりぞけたという。では何が幻想であり何が実在するか。ブッダはまず賢人(現代でいう科学者や専門家)の話を聴き、それを自分の経験と直観で判断せよ、と教えているという。

元大統領は、人に訊かれてブッダ自身が答えなかったといわれる次の五つのテーマを挙げている。

①創造神・万能神・見えざる神の手・永遠の生命などの存在、②宇宙の始まりと終わり、③宇宙は有限か無限か、④生命の起源と運命、⑤死後の世界。

結果から原因を逆算できず、また、現在から未来を決定できない縁起の世界に因果法則を求めることの無意味を、ブッダはすでに直観していたのだと思う。

ブッダによれば、生命にとっては瞬間、瞬間が生きるという目的の実現であり、創出である。生物の目的は、いま、ここに、実現されていると同時に、未知との出会いに向かって未来に開かれている。時間も空間も、物も心も、本来はどこにも境界がないのではないか。あえて境界をつくり、先の五つの設問に答えようとした同時代の宗教家や哲学者たちに、ブッダは異議を唱えたかったにちがいない。

先年、トリエステの国際理論物理学研究所で開かれたアインシュタイン生誕100年記念行事での総合報告のなかで、素粒子の世界における「対称性の破れ」の発見でノーベル賞を受けたヤンは、マクスウェルの電磁方程式を ∂=0 と記号化し、電磁場の境界 (左辺∂) は境界をもたない (右辺0) と翻訳、言葉で表現すれば自己矛盾となる自然法則の一例とした。

ブッダの時代には、老荘思想にみられるような矛盾の論理はなかった。そのために言語表現に内在する論理的矛盾を、表情やパフォーマンスや逆説的説話によって伝え、言葉の創り出す矛盾や幻想からわれわれを解き放とうとしたのだと思う。

当時はまだ、科学者とアーティストが分離していなかったことも、言葉が創り出す迷妄から自由であれた一因だったかもしれない。近代になってもこの両者が分離しなかった幸福な例として、ジャワルデナ元大統領はイギリスの天文学者で詩人でもあるジーンズを挙げている。彼の輻射論と太陽スペクトルの観測は、プランクによる量子発見の直接の動機になったものである。

ジーンズの著作のなかに次のような箇所がある。「太陽表面の原子内電子の振動が、輻射光となって人間の網膜の視神経細胞を刺激する。この刺激は大脳で広域に拡散してさまざまな心の反応を喚び起こし、ある人は夕暮れを惜しむ詩を書く。このとき、物質の現象と心の現象が入り組んでいて分離できない。」

元大統領はジーンズの著作からこの箇所を引用して、物心二元論や唯物論、矛盾対立を進歩の原動力と考える弁証法を批判した。そして、心のなかに生まれた未来は地球環境にも生物進化の未来にも影響を与えるはずだ、とも言っている。

アインシュタインの相対性原理や量子力学の不確定性原理から、たんに「相対性」と「不確定性」という用語を取り出して、物理絶対主義や物理的決定論への不満に結びつけ、自然科学を人文科学の懐に抱き寄せようというニューサイエンス的な試みも少なくない。しかし、ジャワルデナ元大統領の講話には、そのような慣用化した学術用語が創り出す幻想にとらわれず、現象自体の本質をとらえる解脱者=自由人の姿勢が見られるように思う。

五つの問いに対するブッダの沈黙は、言葉による表現の限界、言葉が作り出す幻想、また、仏教の未来が諸科学に開かれていることを、われわれに訴えているように思う。

 

  

(左)ジャイナ教の女神 (インド、カジュラホ) 鉛筆画27cm×19cm、1994年
(中)タントラ (インド、カジュラホ) 鉛筆画27cm×19cm、1994年
(右)ヴィシュヌ神とラクシュミー (インド、カジュラホ) 鉛筆画27cm×19cm、1994年

法橋登(ほっきょう・のぼる)

1953年京都大学理学部物理学科卒業。元日立製作所中央研究所主任研究員、元国連国際原子力機構特別研究員。著書に『科学の極相』、共著書に『構造主義をめぐる生物学論争』など。『Foundations of Physics』誌などに量子力学の解釈問題に関する論文がある

 

植松誉(うえまつ・ほまれ)

画家。1993年東京芸術大学美術学部絵画科大学院修了。古代彫刻や遺跡などを鉛筆で克明に描く。エジプトのギザを訪れ、満月の夜にピラミッドの頂上で瞑想のときを過ごしたことがある

※所属などはすべて季刊「生命誌」掲載当時の情報です。

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