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中村桂子のちょっと一言

館長の中村桂子が、その時思うことを書き込むページです。月二回のペースで、1998年5月から更新を続けています。

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小さな体験を記します

2016年8月1日

石牟礼道子著「苦海浄土」は今からちょうど60年前に正式認定された水俣病についての本として御存知だと思います。ほぼこの経過と同じ時間をかけて書かれた三部作で合わせて1200ページほどになる大著です。ということは読むのに覚悟がいるということです。

生命誌を考えるうえで、水俣病はとても重要な事柄であることは前にも書きました。そこで手にとったのですが、正直、全部読むのは大変と思い、斜め読みにしました。医師による患者の症状の記録や、患者からチッソの社長に対する話し合いの申し入れが無視される様子、裁判の記録・・・当然このようなものがたくさん出てきます。事件の流れを捉えようとするとそこに眼が行きます。それらに眼を通し、本当に大変なことが起きたという実感だけで本棚に戻しました。

ところで先日、「苦海浄土」が100分de名著でとりあげられるのを機会に普及版を出すので解説をと依頼されました。しかも急いでと。考え込みましたが、強い依頼でしたのでやってみようと決心しました。

東京へ帰る新幹線の中で600ページの第一巻を開き・・・きちんと文章を読んだら、すばらしい・・・2時間半夢中になり、新幹線を降りてからも家まで読み続けました。面白いのです。「苦海浄土」が面白いという感想はあたらないと思われるでしょう。確かに扱っているテーマは厳しく、怒りがわいてくる場面がたくさんありますが、著者が描いているのは海と山に囲まれた美しい日本でみごとに暮らす人々なのです。著者はあとがきで「我が民族が受けた希有の受難史を少しばかり綴った書と受け止められるかも知れない。間違いではないが、私が描きたかったのは、海浜の民の生き方の純度と馥郁たる魂の香りである」と書いています。本当にその通り。純度と香りに充ちているのはもちろん人々の生き方が豊かでユーモアがあり、笑いっ放しのところもたくさんありました。

事件を知っておこうなどと思って読んだのが間違い。大事なのは人であり暮らしです。最初に開いた時の過ちを反省しました。人と暮らしを基本に考えなければ何事も面白くない。生命誌は人だけでなく小さな生きものの暮らしも含めて考え、面白くしていきたいと改めて思ったことでした。

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