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TALK

名付ける科学と語る科学

中沢新一明治大学 野生の科学研究所所長
中村桂子JT生命誌研究館館長

1. 詩的な科学

中村

中沢さんの著作(註1)は『チベットのモーツァルト』以来読んでいて、中沢さんを通してラカンやハイデガーの思想を学びましたし、『対称性人類学』の「対称性」はとても大事なことだと思いました。『野生の科学』までの流れは、私が生命誌で20年間求めて来たことと重なり、もう少し理論的な軸が欲しいと思って、今日はお話を伺いにきました。

私の家は国分寺崖線(註2)にあり、丹沢の向こうに富士が見えます。山に沿ってお日様が毎日動き、夏至と冬至にダイヤモンド富士になる。地動説を知っていても動くのは太陽です。東京の古くからある道は正面に富士山がくるようにできていますし、中沢さんの言われる「野生の科学」は、このような山や太陽という形で私たちの中にあるような気がします。

中沢

日本の神話や神様の考え方は太陽と深く関わっています。とくに大阪は古代に太陽信仰を持った人たちが上陸しているから、重要な建造物の位置がもののみごとに太陽との関係で決められている。大阪の東部にある高安山から見て冬至に日が昇る方向には大阪城があり、さらにその先には地主神の坐摩神社(註3)がかつてあった。

中村

そういうところに歴史が残っているのですね。

中沢

日御子や天照大神も太陽を象徴していますね。中国の場合は不動点である北極星を皇帝と重ねて絶対的なものとしていますが、日本の場合は太陽ですから夏になればあっち、冬になればこっち、としょっちゅう動いている(笑)。太陽と北極星、どちらを基準にするかで、ものの考え方は大きく違ってくるでしょう。

中村

両者の特徴が出ていて面白い。ところで、ヨーロッパではどうして地動説が生まれたのかしら。

中沢

地動説は音楽や宇宙、調和のような全体的な、詩的な構造を基本にした理論でつくられているそうです。天動説のプトレマイオスの理論は、音楽的にはぎこちない部分があり、それを聞こえのいい音楽にしようとしたのがケプラーやコペルニクスの発想だというわけです。そう考えると、科学的発見って理詰めというよりも詩的なところがありますね。

中村

今もいいお仕事をされる科学者は詩的な感覚を持っていますよ。

中沢

さらに時間を遡って、星と太陽を見る古代の航海術や、神話の山と太陽の関係にもハーモニーという視点があり、とてもポエティックな理論でつくったものだと思います。

中村

その感覚はとてもよくわかります。

中沢

人間の脳はコンピュータとは全然違う作りをしていて、無意識のような計算不可能なものが必ずあります。理論をつくるとき、人間の心は無意識の領域に一旦もどって、また帰ってくるという螺旋運動をしていますが、これは今のところまだ科学の論理には入りません。

中村

無意識ということと関わると思うのですが、中沢さんの「不思議な環」(註4)という言葉は感覚的にも意味としてもわかるのですが、具体的にはどう説明したらよいのでしょう。

中沢

あれは本体の構造をそのまま語っているわけではなく、近似的な、射影に過ぎません。人間の心の動きはイメージ化できない領域で起こっていますから、それを理論や数式や絵という眼に見える形で表そうとすると、三次元の中におさめるしかなく、元の動きは消えてしまいます。だから、「不思議な環」と言った時、その言葉で表そうとしたものはもう消えてしまっているわけですが、名前を与えることで、そこに何かがあるということがわかる。

どんな表現でも埋め尽くすことができない場所というのがあります。中村さんの言い方をすると、ここを、編んだり、結んだりする何かが必要だと僕は思っている。普通の科学はここに蓋をして二つを分離して処理しようとするけれど、そこを掴み出すには、まず名前を与えないといけません。

中村

それが「不思議な環」。

中沢

そう。あれは単に名前に過ぎない。僕がやっていることは、ほとんど名前を付けることと言ってもいかもしれない。名前を付けて、さらにメビウスの環のような図形を当てはめることで、見えない場所にはねじれやひねりという現象が起きていることがわかるわけです。

中村

なるほど。そうやって本質を取り出すところから中沢さん特有の切り口が出るのね。『アースダイバー』(註5)もその一つで、ちょっとショックでした。私は東京生まれですし。

中沢

僕は、それをやるために、今見える東京を全部引き剥がしているんです。中村さんのお生まれは東京のどちらですか。

中村

四谷一丁目です。高台でしたが、坂を降りるとお岩稲荷がありました。だから『アースダイバー』で新宿界隈の湿った土地と乾いた土地というお話をとても面白く読ませて頂きました。『アースダイバー』で語られている下の層にある歴史はまさに歴史とつながっている魅力がありますね。それがバブル以来、土地を無視した街になりましたでしょう。東京タワーはよいのですが、なぜかスカイツリーは好きになれなくて。

中沢

僕も東京タワーは好きですね。何かが露呈して、そそり立っているのが見えるじゃないですか。大阪の魅力も、どんな小さな場所に行っても、人間も場所も何かが露呈しているところがあって、面白いんです。

(註1)

『チベットのモーツァルト』(1983年)は、著者がネパールに渡りチベット僧の下で密教の修行を積んだ実体験に基づく実践研究の書。『対称性人類学』(2004年)は比較宗教論として行われた大学での講義をまとめたカイエ・ソバージュ・シリーズ第5巻。「対称性」は全巻を貫く主題。以降、人間の心の起源を探る『芸術人類学』(2006年)等を経て、人間諸科学の野生化を越えて「知性の奥に潜む野生の構造」をめぐる思考作品を『野生の科学』(2012年)に集めた。

(註2) 国分寺崖線 【こくぶんじがいせん】

国分寺周辺の湧水を源流とする野川に沿って続く高さ10〜20メートル程の河岸段丘。武蔵野台地に特徴的な地形の一つで「ハケ」とも呼ばれ、周辺に湧水が多く見られる。
 

(註3)坐摩神社【いかすりじんじゃ】

坐摩神は大宮所を守る神。坐摩は土地を守る意の「居所知」が転じたとされる。1582年豊臣秀吉の大阪築城に際し現在の大阪市中心部の船場付近に遷座、それ以前は現在の天満橋西方の石町付近にあった。

(註4) 「不思議な環」

生命と非生命の境界や、giverとtakerが結び着いた贈与空間、農林水産業のような一次産業、さらにこの世とあの世がループ状につながり全体性をつくる神話は「不思議な環」の構造をとるという。詳細は、『野生の科学』第2章 “「不思議な環」を組み込んだ人間科学” を参照されたい。
 

(註5) 『アースダイバー』

中沢新一著。講談社(2005年)。関連図書:『大阪アースダイバー』中沢新一著。講談社(2012年)。



2.階層を遡りつながりを見る

中村

私はお勉強が苦手で、中沢さんがさまざまな知を渉ってつないでいくことに圧倒されます。

中沢

それがいいかどうかはわかりませんよ。トマス・アキナス(註6)という人は神学のあらゆる知識をつぎ込んで『神学大全』という立派な書物を書きましたが、亡くなる直前に「私のやったことは無だ」と言ったそうです。一方で無学の聖フランチェスコ(註7)はストレートに神様の啓示を受けて聖人になりましたから。知識でやるのも、何も持たずにやるのも、両方必要なんじゃないかな。

中村

必要な時に教えてもらうことにして。

中沢

大切なのは詩的な連関です。僕はものごとのつながりがわりあいよく見えるほうで、いろんなものが連鎖的につながりながら宇宙に広がっていくという、ポエティックなつながりが見えるのです。ヨーロッパでは計算と図面で建築物を設計するように思考するけれど、僕はそうではない。

中村

籠を編んでいるような感じでしょう。私もつながりはよく見えるほうで、異分野という感覚なしにさまざまな人と一緒に考えることを楽しんでいるのですが、学問として新しいものをつくるのはなかなか難しいですね。

中沢

それは単にヨーロッパの学問が長い間、覇権を握ってきたからそう感じるだけじゃないですか。日本には俳句がありますが、西洋の学問で俳句に相当するものが数式なんですよ。短い式で、対称的に、美しく、見事に作るという原則になるわけです。でも思想系の学問は、そんなところで力んでどうするんだという感じにごちゃごちゃ書く。無駄が多い(笑)。

中村

中沢さんの世界観はヨーロッパ型とは違いますね。それを基盤とする『アースダイバー』の「層」という見方は生命誌にとっても大事です。

生命誌はゲノムを切り口に考えていますが、ゲノムは生きものの歴史がすべて書かれているアーカイブであるだけでなく、階層を貫いています。ゲノムの実体は細胞が持つDNA分子であり、それが入った細胞が組織、器官を作ります。個体を示す「私のゲノム」、さらに種も示す「ヒトゲノム」となります。すべての階層を貫くお団子の串なのです。アーカイブとお団子の串で生きものを語りたいと生命誌を続けてきました。

ゲノムの持つ歴史性は「生命誌絵巻」に描きましたが、階層性を「生命誌マンダラ」として制作しています。中心にゲノムの入った細胞があり、これを受精卵と見るとそれが多様な細胞になり、組織、器官を作り、個体、種を生み出す。このとき階層を貫いて現れる生命現象は、常に個と普遍の両義性を持つというメッセージを込めています。

中沢

面白い。インドにもこのような生命観を表したマンダラがたくさんありますね。僕はゲノムにも階層にもとても関心がある。最近はミトコンドリアDNAの解析が進んで、約20万年間の人類の移動のルートがかなり明確に特定できるようになりましたね。アフリカを出て中近東、インドへと広がった頃の人類は、まだペルシャ語とインド語も未分化で、皆、同じ言葉を喋っていたはずです。

言語学という学問の発達は、インド・ヨーロッパ語族の発見がきっかけで、ヨーロッパ語とヒンドゥー語は基本構造も単語も同じだということで、それらをつないでいったら印欧語族というものが見えた。でもこのような理論で作られた言語学ではごく最近の分化しか説明できません。言語の原型をより深い階層に探ろうとすると、人類移動の原点へ遡ることになります。

不思議なことに日本文化は未分化なものをものすごく含んでいて、いろいろなところに原型的な要素が残っているのです。日本は、言語構造もインド・ヨーロッパ語のようにリジットに分化していません。言語は合成体の一種で、ウラル・アルタイなど北方由来の要素もあれば、単語の多くは南方の太平洋由来。朝鮮語と比べても、やわらかい文法構造を持っている、悪く言えば、いい加減。神話や社会構造も、南方の古い文化要素が多く、ゲノムでそれらが南中国経由だとわかる。彼らの移動をさらに遡ると、インドシナ半島、インド、中近東、アフリカ…この大きな流れを移動の原点に近づくほど階層性が未分化な領域に入っていく。

僕は今、対馬に注目しています。対馬は中国、朝鮮から北部九州への中継点で、ここでは独自の考え方が育った。大和朝廷にも取り入れられた対馬神道をよく見ると、朝鮮のものとも日本のものとも違って、むしろ原型に近いんです。

中村

原型というのは、そこから生まれたという意味ではなく、多様な要素を混ぜ合わせた結果、原型に近くなっているということですね。

中沢

日本の場合は純系ではなく、いろんな場所から入ってきた共通項を取り出しているのだと思う。一言で言うと三元論、トリニティの構造ではないかと思っています。眼で見える世界は、左右、上下、0,1のような二元論として現れるけれど、実は全体を動かし、変化させていく第三項が存在し、この三極構造は変化しないという考え方がスンダランドの文化の特徴で、これが日本文化の中にはっきり残っているのが見えてきた。

三元構造を眼で見える形で表現すると、編むしかないんですよ。中村さんも「編む」をテーマにされていたけれど、生命原理と文化原理でも日本に残っているものは非常に原型に近いところで動いていて、それを自然な形で取り出そうとした時、生命誌という考えが出てきたのかな。

中村

中沢流に言うとまさにそうですね。

(註6) トマス・アキナス【Thomas Aquinas】

[1225頃 - 1274] 南イタリア生まれ。イタリア盛期スコラ学期の神学者、哲学者。ドミニコ会修道士。アリストテレス哲学とキリスト教思想を統合し体系化。

(註7) 聖フランチェスコ【San Francesco d’Assisi】

[1182 - 1226]イタリア中部アッシジ生まれ。フランシスコ修道会の創立者。聖人。人間と自然の共鳴を通して神を讃美する祈り「太陽の讃歌」を創作。神のあらゆる被造物を愛し小鳥に説教した逸話が伝えられる。



3.階層の底の対称性

中沢

階層という考え方は、僕が最初に宗教学科でチベットのシャーマニズムの研究から入ったことと関わっていて、シャーマニズムは人間の心を階層性で捉えます。シャーマンはダイバーのように意識の表層部から深層部へ潜って、心の階層性を探っていく。彼らは現実世界では精神病とされたりするけれど、そういう人でなくては意識の階層を行ったり来たりするのはつとまらない。 

井筒俊彦(註8)先生の研究主題は階層性の問題で、心の内面へ潜っていくと、五感で捉えているこの世界の構造がどう変わっていくのかを探っていました。心の構造の奥の奥に入ってくと、熊とかジャガーのイメージが出てきます。さらに奥へ行くために、インドの人はヨガを、イスラム教のスーフィーの人たちはダンスという手法を開発した。生命という物質的現象と意識の階層性の中で起きている心的現象は、かなりパラレルに対応するのではないかな。

中村

そう思います。それがソバージュ、野生につながるんですね。

中沢

1960年代、70年代のアメリカのヒッピーはドラッグで表面的に入っていくだけで大騒ぎしていましたね。昔の人のやることはもっと野生的で本格的だったと思います。この問題を、学問的に、体系的にがっちりつくるには、井筒さんのような階層論理を生物学に転用すればいいのだと思ってます。

中村

井筒先生のお考えはすばらしいと思いますが、私にそれができるかどうか。階層を降りていくと熊やジャガーのイメージが現れると言われたけれど、ゲノムから階層を降りていくと、バクテリアも粘菌も、皆、対称性を持っています。もっと言うと、対称性でない現象ってあるのかしら。

中沢

それは直感的感覚で、大変鋭いと思います。物理学では対称性がいちばん大事ですし、どんな理論でも正しいかどうかは対称性がはたらいているかどうかで見分けることができます。人間のやっていることを考えていくと、格差や不平等という問題の根底にも対称性があることが見えてくる。生物学をやっていれば、当然見えてきますよね。

中村

はい。

中沢

南方熊楠(註9)は粘菌を見て夢中になりましたが、頭の中で発火しているのは対称性ですね。彼の宇宙はフラクタル構造だから全体の強度は弱いけれど、まるで粘菌のように衝撃を受けても生き延びる。そのようにして意識の深層部で動いているものは、対称性以外のなにものでもありません。

対称性を表現できる言葉を探すのはすごく難しい。神話はそれを探してきて、上半身は狼で下半身が人間だったり、右と左が違う人間だったり、そういうイメージをつくり出してきました。僕がチベット人の先生に教えられたのは、右も左もなく、過去、現在、未来もなく、時間と空間の違いもない領域が広がる、そういう対称性の空間が生命を動かしていくということです。インド的な発想で、生命は対称性がそのまま出てくるのではなく、カルマに引きずられて非対称になってしまう。対称性が崩れて非対称になると生命現象が起き、輪廻転生が起こってくる。輪廻転生を消すには対称性に戻ることだと考えていくわけです。

 

(註8)井筒俊彦【いづつ・としひこ】

[1914 - 1993] 東京生まれ。言語学者、イスラム・東洋思想研究者。慶應義塾大学名誉教授。20カ国語を駆使し、ギリシア、イスラム、中世ユダヤ、インドの哲学、仏教、密教、禅を横断する独自の言語哲学思想を構築。
 

(註9) 南方熊楠【みなかた・くまぐす】

[1867 - 1941] 和歌山県生まれ。民俗学者、博物学者。粘菌の研究で知られる。アメリカ遊学の後に渡英し大英博物館東洋調査部員を務める。諸外国語、民俗学、考古学に精通。自然を必然性と偶然性から捉える独自の科学的方法論として「南方マンダラ」を示した。

4.日本列島を捉え直す

中村

野生の科学は対称性から出発して、究極はどこへ行くのですか。

中沢

人間は世界を捉える時に、上から下を見ているけれど、僕は、ひっくり返して下から上を見てみたいのです。それが野生の科学かな。

中村

生命誌はまさにそうです。でも下からでも上からでもなく、中にいて見ると、ものが見えてくるという感覚です。

中沢

同じ感覚ありますね。高校生の時、網野善彦(註10)さんという僕の叔父さんが、僕を驚かせようとして、ある時、逆さにした日本地図を持ってきて、びっくりしました。上下をひっくり返すだけで見え方がすごく変わって、日本人の辿ったルーツまで見えるのです。アースダイバーのコンセプトを含めて今の仕事に大きな影響を与えたのはあの地図だなあ。

中村

実は私もその地図が好きで部屋に貼っています。日本列島の形がお椀のふたのようで、その取っ手にあたるところが東京で、なぜいちばん端っこに集中しなければならないのかしらと思います。 北にも南にもたくさんの島があり、真ん中に日本海を挟んでユーラシア大陸とつながっているように見える。島は広がっていくものとして捉えられますね。

中沢

そう、島ぐらい広がりのある場所はない。日本が島であることの意味を明らかにするために、海洋アースダイバーという仕事を始めたところです。さきほどの対馬の話もその一つで、何年かかるかわからないけれど。

中村

私は地球儀を見るのが好きで、見ると日本列島って、なんとも言えずいい位置にあると思います。北海道から沖縄まで、雪も見られればバナナもできる。富士山があれば日本海溝もあり、潮がぐるりと流れていて、面白い国だなあと思うのです。

中沢

日本列島のでき方を見るともっと面白くて、元は沿海州の朝鮮半島にくっついていたところから離れていく過程を見ると、「いやだっ!」って蹴り出された感じがする。

中村

実は、その離れていく土地の上にはオサムシがいて、今の日本列島のオサムシの分布を見ると、日本列島がどうやってできたかがわかるという研究をしました。オサムシは飛べないので地面を這って生きてきましたから、種の分化と地面の動いた歴史は強く結びついています。だから彼らのDNAを調べた多様な種に分かれていく過程と、地質学研究でわかった日本列島の形成史がピタリと重なるわけ。

中沢

オサムシが語るかあ。オサムシだって、いやがってたでしょ(笑)。

中村

あはは。生物学だけやっていたら、こんな面白いことはわかりませんでした。地面の上にいるオサムシにとっては当り前の話で、地質学も生物学も関係ないのに、人間はそこを分けるでしょ。科学はとくに細分化されています。

(註10) 網野善彦【あみの・よしひこ】

[1928 - 2004] 山梨県生まれ。歴史学者。海民、アジールなど独自の視点から中世日本史を捉え直し日本の歴史観を転換。中沢新一著『僕の叔父さん 網野善彦』集英社新書(2004年)を参照されたい。

5.農業 結ぶ技術

中沢

今、日本の都市の人口集中度の6〜7割は海岸部ですね。もともと日本列島に海を渡って来た人間の大半は海民で、彼らは、始めは半農半漁でしたが、後に内陸部に入る人たちも出た。内陸部の人たちが農業を専業に定住すると、海民との間にだんだん意識の違いが生まれてくる。御年貢がお米になってからはお百姓の地位が高まり、一方で海民は商人になっていきますから、士農工商でも低く見られてしまう。僕の生まれは山梨ですが、山梨の名物は駿河湾で採れたアワビを醤油に漬けた煮貝で、そういうものを好むこと自体が元は海民だということを表している。

中村

なるほど。人類の歴史を見ると、狩猟採集の頃は、人間は自然の一部でしたが、農業を始めたことで大きく転換しましたね。中沢さんがお書きになったことですが、農業は循環系と利潤関係の両方を合わせて回っているということが大事ですね。

中沢

そこですね。農業が始まると技術が人間を自然から分離させていくから、自然との環をどう結ぶかということが人類の大主題になった。

中村

今でもそうです。経済の面ばかり強調されますが、問題の本質はそこですね。

中沢

資本主義の困るところは、市場という場が人間と自然を分離させてしまうことです。僕は『日本の大転換』(註11)を書きながら、原発と資本主義がとても似ていると気づいた。市場経済は農業に企業化を求め、原発は一瞬で莫大なエネルギーを作り出す恒星のしくみを、自然との媒介なしに直接地上に持ち込む。どちらも人間社会と生態系を無視しているから、人間と自然が結んでいる環をほどいてばらばらにしてしまう。これを結ばなければいけない。

中村

結ぶということの始まりが農業なら、もうちょっと上手に農業をやらないと、政治も経済もうまくいかないでしょう。

中沢

市場経済では農業も企業化を求められますが、それでは農業の基本原理である結ぶということが破壊されてしまう。

中村

そこをどうつなげていくかが、21世紀の人間の生き方を探るうえで重要ですね。技術を開発することを否定する気はありませんが、自然との環を結び忘れてしまったら、トマス・アキナスではありませんが、何をやっていたのだろうとなってしまいます。

中沢

結ぶ技術と分離する技術、二つのバランスを取ることが重要です。分離する技術は結ぶ技術の意味を理解しておらず、遅れた技術だと思っているけど、とんでもない。生命の根源はDNAにしたって結ぶことで成り立ったわけでしょう。

中村

そうです。だから私も今農業が面白くて。農業や漁業をされている方って、何とも言えず複雑で、豊かですね。夏休みに農業高校へ行ったら、女の子が汗だくで豚の世話をしていて、その豚が私にしっぽを振るんです。よほど大事にされているんでしょう。彼女たちは先生に来るなと言われても来て、しかも育てた豚でソーセージを作ることを承知で育てていると聞いて、すごいと思いました。

中沢

祝島(註12)でも、豚を飼うということの意味を、全体サイクルで見せる取り組みをやっています。こうした取り組みが活気を呈しています。

中村

地方に行けば、若い人を中心に地域ならではの活動をされているところが日本中にあるのに、大きなメディアで取り上げられないことに疑問を感じます。

中沢

あれはデスクがね、頭固いからなんですよ(笑)。

中村

あはは。現実には、日本中にいい取り組みがありますよ。

中沢

ブルータスのような雑誌も農村特集(2013年8月16日 No.761号など)を行う。都市文化の先端を特集してきた雑誌ですから、今、農村が先端ということです。世の中が変わってきています。ただ、「これはなんなんだ」と言い続ける必要はあるよね。3.11で日本のある部分は変わって、自然との関係を見直す考え方も水位を上げているのに、メディアは知らんぷりする。

中村

一度は科学技術信仰を見直す素振りを見せたのに、ほんの短い時間で、また考えない風潮が作り出されてしまった。どうしたらいいのかしら。

中沢

でもインチキだとわかっている人は増えていると思いますよ。いい加減な報道をするテレビと大新聞は見なければいいし、テレビの中で番組がうまく変わっていけばいい。もっと別のところで、自然との関係を考え直そうとしている若い人たちに向けて、言葉を伝えていく必要はあるんじゃないですか。

中村

言葉と言えば、今日こちらへ伺う前に、たまたま大岡信ことば館(註13)の方から「あなたの言葉に、私たちの言葉とのつながりを感じます」というメッセージをいただきました。私は生命誌で20年同じようなことを言い続けていますが、言葉を考えていらっしゃるプロの方から、科学という枠を越えて、生命誌につながりを感じるという嬉しいお手紙が増えていて、言葉の世界の新しい動きを感じます。当り前ですが、言葉というのは大事なものですね。

中沢

お金は言葉から発生しますが、言葉はお金から発生できません。詩人が朗読を始めているのも、印刷物から生きた言葉に戻したいからで、ささやかな活動に違いはないけれど、本質につながっているのでしょう。

今はインターネットで知識が入ってくるようになった。ウィキペディアの力ってすごくて、普通の人が、昔の物書きや学者よりもいろんなことをよく知っている。飛ばし読みされているとしてもあれは意識を変えたでしょう。

中村

権威ある誰かでなく、皆で書いているところが面白い。正しいかどうかチェックしながらですが私もよく活用します。

中沢

この歳になると、権威とされていた人がいかにいい加減だったかがよくわかる。僕に辞典の依頼が来る位だから(笑)。

中村

ただ、科学ではよい形のものが出てきませんね。この頃はサイエンスコミュニケーションが流行りで、知識を伝えようという意識はあっても、本当の意味で科学を表現しようとする動きはとても少ない。

中沢

科学者としても二流、三流の人は、勉強した知識以上のものはできないからでしょ。

中村

生身でやる以上は、知識を伝えるだけでは意味がないと思いますけど。

中沢

でもほら、学校の先生流のコミュニケーションが好きな人って、周りの人をすぐ生徒にしちゃうでしょ。自分をちょっと上に置いて伝達するから。

中村

啓蒙とかいわれると…。やめて、って思います。

中沢

よくわかります。(笑)

(註11) 『日本の大転換』

中沢新一著。集英社新書(2011年)。

(註12) 祝島【いわいしま】

周防灘と伊予灘の境界に位置する山口県熊毛郡上関町の島。瀬戸内海の交通の要で、「伊波比島」として『万葉集』にも詠まれる。豊かな漁場と傾斜地を拓いた段々畑や棚田で半農半漁を営む。住民による上関原発反対運動は30年以上続いている。

(註13) 大岡信ことば館

詩人大岡信の活動をもとに「ことば」の魅力を伝える場として、氏の出身地三島市に設立。著作・文芸資料・美術作品などを収蔵し、展覧会や催しを企画。
関連記事:生命誌ジャーナル12号対談「詩と科学の生まれるところ」

6.贈与がつくる人間社会

中村

中沢さんが大事と仰って、私が苦手としてきたものの一つが数学、もう一つが経済です。著作を読むとおっしゃっていることはよくわかるんです。

中沢

あれ生命論だよ。僕、数学とか経済を生命論のほうへぶち込みたいんですよ。

中村

大阪大学の方からアダム・スミス(註14)の話を伺ったら眼からウロコで、経済学は生命論だと思いました。彼が言うのは分業と交換です。私も分業によって科学という分野で仕事をしていますので、職業としてしっかりやらなければいけませんが、分業しながらも、どこかで、いつも当り前の人間でありたい。その基本は、「これを差し上げましょう」という贈与の感覚で、それが貨幣交換では失われてしまいますね。

中沢

貨幣は便利なものですけどね。

中村

今は貨幣すら動かさずにコンピュータの中の数字だけで経済を動かす風潮までありますね。経済は社会の基本ですから、経済と人間をつながなくてはいけないのに。

「見えざる手」という表現は一カ所しか出てこないそうですね。学校の勉強ではアダム・スミスと言えば「見えざる手」と教えられていますが、彼はそんなことは言っていない。

中沢

あれ、本来はレトリックですよ。

中村

贈与を考える時、縄文まで戻らなくても、アダム・スミスに学べば良いと思ったのですけれど…。

中沢

人間が最初に行う交換と贈与は母子関係にあります。欲望を贈与で満たしてくれるのが母親で、一方的に受け取り続けるのが子供。言葉はまだ喋りませんが、そこで良いものが動いているという感覚が子供の中に育つ。

言葉を喋る段階になると社会性が出て、母親との一体感を離れて別の交換が始まる。言葉が生まれると、そこを経由するので自分が欲するものを直接求めることができず、その遠回りが進むと、お金がなくては話にならなくなってと、母子一体感から切り離されていく。人間の成長は贈与から交換へという過程を経ますが、贈与時代に人間の中に形成されたしくみは消えないのです。

中村

なるほど。

中沢

人間同士が愛し合うことができるのは、生物学的なDNAのはたらき以上に、母子関係が贈与でつながれていたことに起因するのだと思います。それが成長の過程で、家族、共同体へと広がりますが、狩猟採集時代の母は、グレートマザーとしての森や自然そのものでもあるのです。だから大抵の神話で母なる神が最初に出てくるわけです。ところが一神教になると、おやじが出てくる(笑)。我は言葉なりという言い方になる。おとっつぁんが出てきて社会、国家を作っていくけれど、人間のベースは贈与空間にあるままです。

今問題なのは、経済が贈与の空間を解体して交換だけにしてしまおうと突き進んでいることです。まずは環を再結成していかなければならない。

中村

中沢さんが抱く経済への関心はそこなんですね、

中沢

そうです。経済学を、あの日本海地図みたいに逆にしてみようと思った。現代の経済学は、贈与というものを、交換だけではうまく説明できない部分に潤滑油のように取り入れるものとしか捉えていません。例えばクリスマスプレゼントは潤滑油になりますね。しかし、考え方をひっくり返して贈与を基本にすると、経済学の全構造が変わってくるのではないか。経済学の人は認めません、こんなことは(笑)。

中村

アダム・スミスの時代は、まだ経済学の基本に贈与があるという考えが保たれていたのに、次の時代になるとそれが消えて、人間というものが見えなくなるのね。

中沢

ストッパーは利いていました。そのメカニズムは人類が誕生してからずっと脳の中にあるから、「そっち」に行ってしまうのはまずいという感覚は働いている。古代史を見ると、「そっち」に突っ走ってしまう人が結構いるけれど、ストッパーがかかって引き戻されている。

中村

そのバランスですね。

中沢

ところが、ある時ストッパーが外れて解放、改革、自由が最高の価値になる。それを誰もが良いことだと思ってしまい、問題は、保守というだけで根拠なく頑迷なものとされてしまうことです。

中村

変わるものと変わらないものがあるというのが生きものの基本ですね。生きものって面倒くさいものです。変わるならどんどん変わっていきましょう、変わらないなら永久に変わらずにいましょう、と単純化できたら楽チンですが、生きものを調べれば調べるほど矛盾が出てきます。学校ではその反対を教えていますが。

中沢

生命って矛盾の塊でしょう。やっぱり矛盾を抱えたものは大事ですね。

中村

矛盾があるから面白い。

中沢

そう、矛盾したものはつないでいかなければいけない。矛盾しているから戦えと言う毛沢東は、日本人の感覚からすると違うよね。矛盾したものはつながなきゃいけない。

中村

日本の原型が見えるという対馬神道のお話もそうですが、排除するのではなく融合させる、つなぐという視点を入れると考えは広がりますね。

(註14) アダム・スミス

[1723 - 1790] スコットランド生まれ。イギリスの経済学者、哲学者。政府が主導する重商主義を批判し経済の発展のための市場解放を提唱。
 

7.学でなく新しい神話を

中沢

アダム・スミスの頃の経済学は、まだ博物学の枝分かれの時期にあって、倫理学の中にあったでしょ。

中村

そう、『道徳感情論』ですものね。

中沢

自分がやっているのは、そんなものだと思っています。文科でも、理科でもない、何学でもないんです。博物学(笑)。

中村

私も分けたくないという思いで、生命誌は「学」でなく「誌」としています。

中沢

「誌」はgraphyですか。

中村

historyです。ゲノムはアーカイブだという思いから、歴史という意味でhistoryにしました。でも、藤澤令夫(註15)先生がギリシャ語辞典を見せて下さったら、historyの第一項目は、「inqure into」とあったのです。二項目が「書く、誌す」。

history というのはまず inqure することで、わかったことを誌していくと歴史になる。だから三項目が「歴史」なのだと教えていただきました。以来それを心に留めています。

中沢

すごいね。でも、Science という言葉もいいよね。

中村

Scienceはいいですが、学という言葉はだめですね。学問の約束事は大事ですが、学とすると、分野の中に閉じてそれ以外のことができなくなる。誌の方が広がるし、物語を語れます。

中沢

History は story だし。

中村

三元論の出来事を伝えようとしたら語っていくしかないですよね。レヴィ=ストロースの神話の方程式のような式を、最初は読み解けなかったのですが、中沢さんの著作を読んでいるうちに見えてきた。あの方程式は面白いですね。

中沢

最初はあてずっぽうに書いたらしいのですが、たいがいの神話の構造が当てはまるようです。

中村

一応の約束事が神話にあって、それをあのように語っていくと…。

中沢

『野生の科学』を書いてわかった一つで、あの式は、内側にあるものを外側に出してく、insideをoutする法則なのです。内側にあった価値を外側へ出すと、反転してマイナスになったり、内側では良かったものが外側に出て悪いものになったということが起こる。history というものは、内側にあったものが外側に出てく時の論理を取り出しているのではないかな。

中村

なるほど。その時に、クラインの壷だったり、メビウスの環のような形をとったりするのかしら。

中沢

もちろん、伊勢神宮のあの千木(註16)になったりね。だから、生命を「誌」で捉えると、やっぱり神話の構造になってくるでしょう。詩的構造は皆そうです。

中村

それゆえに難しい。レヴィ=ストロースの式で書いたらいいのかしら。生命誌は、現代科学の知見を扱いますが、構造的には神話なのかもしれません。

中沢

一つ一つの言葉は正確な科学的な語彙で構造は神話、というものを作らなければいけない。コペルニクスやケプラーが宇宙論でやったことを、生命論でやる時期が来ているんですよ。

中村

そうだと思います。新しい神話を。それがなかなか難しい。

中沢

神話の構造が入った科学理論は少ないですね。アインシュタインの理論には入っていませんが、量子力学には入っている。ハイゼンベルグのマトリクス・ダイナミクスはまさにそれで作っています。

中村

彼の中には詩的なものがありそう。アインシュタインは矛盾を徹底して排除するけれど、ハイゼンベルグはなんでもいらっしゃいというようなところがありますでしょ。

中沢

ボーアからハイゼンベルグは、とても神話的ですばらしかったなあって思う。

中村

ハイゼンベルグの『部分と全体』はある種の神話ですよね、私はあの本がほんとうに好きで。

中沢

朝永振一郎先生が『量子力学』第一巻の後半でハイゼンベルクについて非常に精緻に書いています。ハイゼンベルクは暗号解読のやり方で理論を作っているとして、暗号解読のやり方を克明に説明していくのですが、それが神話の構造に思えて、何度も読み返しました。僕のバイブルの一つです。

中村

朝永先生には、矛盾を排除しない器がありますね。私ももう一度読んでみます。朝永先生は魅力的な方で色々教えていただきました。落語が大好きで。ノーベル賞を受賞された時も、お風呂場ですべって授賞式に行かれなかったのも、ほんとに朝永先生らしいと思って(笑)。そういう魅力的な学者がいなくなりましたね。

(註15) 藤澤令夫【ふじさわ・のりお】

[1925 - 2004] 長野県生まれ。哲学者。京都大学名誉教授。著書に『哲学の課題』ほか。プラトン『国家』などギリシア哲学の訳書多数。
関連記事:生命誌ジャーナル4号対談「生命誌再発見 - ギリシアから言葉の源流を求めて」

(註16) 千木【ちぎ】

社殿の屋上、破風の先端が延びて交叉した二本の木。

写真:大西成明

 

対談を終えて

中村桂子

生命誌を始めて20年、中沢さんの仕事に刺激され続けてきました。とくに対称性、層、野生などの切り口は自然を見る時の基本、考え方の基盤をみごとに見せてくれてさすがです。人類は生きものであることを踏まえたうえでその特徴を知りたいと思う時、中沢さんの人類学が適確な方向を示してくれます。久しぶりにゆっくり話をして、数学や経済まで生命論に持っていく力技に改めて刺激されました。また話しましょう。

中沢新一

中村桂子さんは生命の本質を「編む」ことのなかに見出しています。「編む」はなにかの行為を内包していますから、それを本質とした生命を記述するのに、体系的な「学」よりも、叙述行為的な「誌」のほうがふさわしい、という中村さんの直観はまったく正しい、と考えてきました。生命体がおこなう主体的な行為として生命をとらえることにすると、生物「学」で今まで考えられてきた「客観性」の意味が揺らいでくることになります。はたして生命は客観的な現象なのでしょうか。中村さんが続けているこういう問いかけを、私などはとても東洋的、ないし仏教的な問いかけだなと感じてきました。私は中村さんの探求に深い共感をいだいているのです。

中沢新一(なかざわ・しんいち)

1950年山梨県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、明治大学野生の科学研究所所長。人類学者・思想家。著書に『チベットのモーツァルト』『雪片曲線論』『森のバロック』『フィロソフィア・ヤポニカ』『カイエ・ソバージュ』『アースダイバー』『芸術人類学』『日本の大転換』『野生の科学』ほか多数。

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