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研究館より

表現スタッフ日記

2026.03.03

それは野暮

私の尊敬する方に、力強く真っ直ぐ心に届く表現をする文筆家の先生がいます。昔、その大先生に「是非お会いしたい」と連絡をして会ってもらったことがあります。私としては、一生の間に幾度もないくらいの思い切った行動でした。先生の綴る文章は、科学的な根拠は何もないのに生命的であるとしか思えず、「科学を表現する」という自分の仕事の方向性に行き詰まっていた私は、藁にもすがる思いで連絡をしたのです。

待ち合わせ場所である喫茶室に現れた先生は、今風の服装にも関わらず、野武士のような琵琶法師のような、無頼の空気を纏った男性でした。そして驚いたことに、まず私に一輪のガーベラを手渡してくれました。見ず知らずの私に花を準備してくれていたのです。

席につくなり私は、自分が科学を表現する仕事をしていることを伝え、客観的な科学を踏まえた上で心に届く表現をすることの難しさを語り、先生の文章が素晴らしいと思ったこと、その表現の源がどこにあるのか教えて欲しいと頼みました。続いて先生に、「なぜこんなにも的確な生命的表現ができるのですか?」「先生が書いておられたあの言葉はどこから発想されたのですか?」「どんなことを勉強してきたのですか?」などと矢継ぎ早に質問をしました(今思えば礼儀を欠いた行為だったと反省します)。しかし先生はほとんど何も言いません。私が10回喋って1回だけ何かが返ってくるといった具合で、「うーむ…」と言って横を向いたり、下を向いたり、頭を掻いたり頭を抱えたりするばかりでした。

助言を引き出したくて焦った私は、ふと自分の手元にあるガーベラを見て「なぜ、プレゼントが花なのですか?」と尋ねました。すると「それは野暮だね」と即座に答えが返ってきたのです。「言葉にするなんて、野暮ではありませんか。花がきれいだと思ったなら『きれい』でいいし、花をもらって嬉しかったなら『嬉しかった』でいいのですよ」

この発言に私は何とも言えない衝撃を受け、「ありがとうございました。では、帰ります!」と言って、一方的にその場を切り上げてしまったのです(これも非常に礼儀を欠いた行為でした)。先生の驚きが混じった苦笑いは忘れられません。

「言葉にするなんて野暮だ」という先生の発言は、私が期待していたものとは正反対の内容でした。やはり表現のコツは自分で掴めということなのだろうか、とさえ考えた帰り道、ふと先生の様子を思い出して気づいたのです。彼は初対面の私に向き合い、じっと話を聞き、かけるべき言葉をずっと一生懸命に考えてくれていたことに。「言葉はアナログではなくデジタルである」と、永田和宏館長はよく言います。人間は、言葉として浮かんでくることより遥かに多くのことを考え、言葉にできることより遥かに多くのことを感じているはずです。私がお会いした先生の元にはいつも多くの人が訪れるそうです。ただ話してみたいという人もいれば、家族との関係に悩む人、大切な人を失った人など、事情は誰一人として同じではありません。先生はその一人ひとりに花を差し出し、話を聞き、分かり合えた時は共に喜び、そうでない時は共に傷付いてきたのでしょう。

先生の才能だと思っていたものが優しさだと気づいた時、それをただ羨んで盗もうと考えていた自身の浅さと、自分に向けられていた優しさに気づけなかった後悔が重なって、道の真ん中で大泣きしました。表現は等身大の人間がするものであり、生身で感じ紡いだ言葉にこそ力があるのだと、リアルな先生に会って初めて気付いたのです。何かを言葉にしようとか、決まった形にしようとする前に、まず対象とする生きものや人、現象の全体に眼を向け、感じ、考え、ゆっくりと形にしていくこと。それ以来、私が肝に銘じるようになったことです。