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科学と芸術が生んだ植物画

大場秀章

科学的な説明のためのたんなる図ではなく、芸術としても楽しむことができる。
そんな植物画の世界とは。


植物や花の肖像画としてのボタニカル・アートは、18世紀後半に発展し、19世紀から今世紀初頭にかけてヨーロッパで隆盛をきわめた。植物好きの貴人が送り出す探検船によってテラ・インゴニータ(未知なる土地)から持ち込まれる未知の植物が競って栽培された。それを学者が研究し、お抱え画家が描いたのである。

こうして生まれた植物学者と植物画家の合作が、植物画を満載した植物学書の出版である。学術書でもあるこうした図書がティータイムのテーブルに置かれ、王侯・貴族の会話の題材となった。そこで、このような植物学書は、コーヒーテーブルブックと呼ばれることもある。

18世紀後半以降、経済力をつけた新興市民が王侯・貴族の生活に憧れ、植物を愛好し、植物画の載った豪華な植物学害の刊行を支援した。

エリカ・セバナ(ツツジ科)/フランツ・バウアー画/Delineations of Plants Cultivated in Royal Garden at Kew (F. Bauer著, 1796年)

当時は植物画の輪郭だけが印刷され、彩色は一点一点手でなされていたため、品質は不揃いであり、また、きちんと彩色されるのは高価なものだけであった。状況を変えたのは、バラの画家ともいわれるルドゥーテの開発したステップル法という新しい印刷技術であった。1799年に出版された『多肉植物図譜』(ドゥ・カンドル著)がこの手法で制作された第一号で、それが評判を呼び、ルドゥーテの名声も高まった。

ちなみにイギリスでは、ほんの最近まで手による彩色を付した植物学雑誌が出版されていた。イギリスの印刷技術が劣っていたわけではないから、理由は今後検討してみたいところだ。

こうして貴族や新興市民が、パトロンとして植物学の振興に貢献したが、ヨーロッパの科学のスタイルに大きな影響を与えたことも見逃してはならない。科学の成果も芸術と同じ美意識を満足させるものでなければならなかったのだ。

西洋から科学と芸術が無関係に移入された日本では、この事実に気づいている人はきわめて少ない。イギリスでは、今でも植物画が学術雑誌に登場し、科学と芸術の融合に心がくだかれている。これが、植物分類学などの基礎分野でイギリスが世界をリードしている一つの理由に違いない。

「科学者である前に芸術を解する人間たれ」とはこうした時代のヨーロッパの科学者のモットーであるが、今一度考えるに値する言葉ではないだろうか。

(上段左)オニユリ(ユリ科)/エイレット画/Plantae Selectae, Decuria I (C. J. Trew著, 1750年)
(上段右)マミラリアの一種(サボテン科)/ルドゥーテ画/Plantarum Historia Succulentarum (A. P. deCandolle著, 1799-1832年)
(下段左)ディレニア・オルナタ(ビワモドキ科)/ヴィシュヌプラサード画/Plantae Asiaticae Rariores (N. Wallich著, 1830-32年)
(上段右)ヨーロッパオシダ(オシタ科)/グレヴィル画/Icones Filicum (W. J. Hooker & R. K. Greville著, 1831年)

(おおば・ひであき/東京大学総合研究博物館教授)

※所属などはすべて季刊「生命誌」掲載当時の情報です。

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