生命誌ジャーナル 2005年夏号
Talk ─ 対話を通して ─ :目次
Talk ─ 対話を通して ─
年間テーマ「観る」
[複製と共有]
観察による手描きと再認を求める写真:港 千尋×中村桂子
港 千尋(写真家/多摩美術大学教授)
中村桂子(JT生命誌研究館館長)
[ 対談を終えて|港千尋 ]
 分子生物学の模式図を見せていただき、科学におけるイメージの重要性を再認識しました。日本語でも英語でも、「把握」を、理解するという意味に使います。眼と手のはたらきが重要ということですが、シミュレーション全盛の今日、科学の現場にもういちど自分の身体を通して記述する、「観察」の時間を取り戻すことは、現実的には難しいかもしれません。「効率」や「競争」のみを優先すれば、そのための時間はなくなります。対象を愛しみながら時間をかけて観ることは、芸術が自然に対してとってきた、もっとも基本的な態度ですが、この点で芸術と科学が何らかの協同を再構築することが、「生命」理解への道につながるのではないかと感じました。
港 千尋(みなと・ちひろ)
1960年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。1985年よりパリを拠点に写真家・批評家として幅広く活動。主な著書に『群衆論』『記憶』『映像論』『洞窟へ』、写真集に『瞬間の山』など。
1. パッと見る
2. 「美しい」とわかる基準
3. 「観察」には時間がかかる
4. 一瞬に「凝縮する」/ 形を「生き直す」
5. 「再認」を含む方法論
6. 生きものは「プリント」する
7. 「これしかない」と「見たことがない」
8. 全体を存在させる偶然
1. パッと見る
(中村)
 季刊『生命誌』では、今、生きものについて探り、生命ということを考えていく大事な切り口として、毎年のテーマを決めています。一昨年が「愛づる」、昨年が「語る」、そして今年は「観る」です。生命誌はDNAを基本にして生命現象を理解していきますが、そのときに現代科学が捨象している“時間”に注目しています。そこで時間を組み込んだ言葉をテーマにしているのです。
 私たちは何かを知ろうとするとき、必ずある整理をします。実は今、生命科学の世界はデータが溢れています。これをどう整理すればよいか? 一つはコンピュータによる整理ですが、果たしてコンピュータの整理で私たちは“わかった”という気になるのだろうか? という疑問から、語るという方法を探りました。その過程で、さらに「人間が直感的に見ることでわかる」という整理をもう一度見直したいと思い始めたのです。
そこで今年のテーマを「観る」にして、いろいろな分野のお話を伺いながら考えていくことにしました。まず始めに、写真家の眼でものを「観」、一方、人文学や生命科学など幅広いご関心から観ることについて語っておられる港さんに教えて頂きたいと、個展会場へ訪ねて参りました。

(港)
 「観る」は自然科学の基本である「観察」でもありますし、今日はむしろこちらからお聞きしたいことのほうが多いくらいです。

 
(中村)
 まずここに用意した二つの図なのですが。両方とも『細胞の分子生物学』という教科書に載っている模式図で、DNAがメッセンジャーRNAへ写し取られるしくみについて、わかってきたことを表現しています。一つが1984年の第一版、もう一つが2002年の第四版です。第一版の図を見ると、二本の直線で示したDNAの片側の鎖の上を、大きな円で示した酵素が塩基配列を読み取って、メッセンジャーRNAの鎖を伸ばしています。
 第四版の図は‘02年の時点でわかってきた転写に必要なたくさんのタンパク質の一つひとつが具体的に詳しく描き込まれているのです。今、二つの図を見て、詳細な新しい図のほうがよりわかったと思えるかというと、実は転写という本質についてわかることは、二つの図で同じなのです。科学は、いったい何をするものなのか。要素をすべて解くしかないのですが、それは決して本質の理解を進めてはいないのです。

(港)
 なるほど、ある現象を理解するために、どのような表現がよいかという問題ですね。

(中村)
 転写という現象は、数式では表現できませんし、言葉で語るのも難しい。図にして、それを「観る」しかないのですが。

(港)
 今の模式図ですが、何にも説明を与えられず二つを出されて、パッと見たときに、僕は第一版のほうがいいと思います。なぜなら、そちらのほうが美しいからです。

(中村)
 なるほど。美しいという判断のしかたがあるということ、おっしゃられて初めて・・・。

(港)
 「美しい」と思う基準は人それぞれでしょうが、最大公約数のようなものはあると思います。例えば、白い紙を一枚出されて「線を一本引いてください」といわれれば、これは易しいですね。では「いちばん美しい線を引いてください」といったら、どうしますか?

(中村)
 ……難しいですね。

(港)
 考え出すと難しい(笑)。僕らは、いろんなものに囲まれて暮らしていますから、こういう質問をされれば即座に「美しいといっても、人それぞれ違うじゃないか」と思うでしょう。美の基準は千差万別なのに「いちばん美しいという“いちばん”の根拠はどこから来るんだ?」などと考えはじめると、なかなか線は引けない。
 そこを素直に考えると、いちばん美しいのは、やはり水平の線でしょう。真ん中に一本引いて、紙をきれいに二つに分割する。

(中村)
 安心感がありますね。

(港)
 安心、安定・・・いろんな言葉に翻訳できますが、それら多くの言葉を使わずに、たった一つの言葉で何かを表わすのが「美」ではないでしょうか。これを仮に「思考のエコノミー」とすれば、そこから観ると、この第一版の図は美しいのです。

『細胞の分子生物学』
“MOLECULAR BIOLOGY OF THE CELL”
原著・日本語版共に改版を重ねて、第四版が最新のもの。ブルース・アルバース他著 中村桂子他監訳。ニュートンプレス

※図:mRNAへの転写
教科書『細胞の分子生物学』の1984年版(左)と2002年版(右)。左右共、「DNAからRNAへの転写」の図(同教科書を参考に編集部で作図)。
クリックすると拡大図が見られます。
2. 「美しい」とわかる基準
(中村)
 思いがけなく「美しい」という判断を教えられましたが、私もこの第一版の図が好きで、二つを眺めながら「この十数年、生物学は何をやってきたのだろう?」と考えています。この本は、この分野で最良のものとされるアメリカの教科書で、日本の学生たちにも読んでもらいたいと、第一版から第四版まで仲間と翻訳を続けてきました。こんなにぶ厚い本は翻訳でもしなければ全部は読みませんから(笑)。
 実をいえば、第一版はとても興奮しながら訳したのです。それまでは、ワトソンの『遺伝子の分子生物学』を教科書としていましたが、そのワトソンが主導して若い研究者と共同で著したのが『細胞の分子生物学』だったのです。遺伝子は、科学として面白いが生きるという感覚まではつながらない。でも細胞となれば、それは「生きる」の単位です。遺伝子DNAで始まった分子生物学から、ついに細胞が扱えるところにきたという執筆者たちの興奮を翻訳した私たちも共有していたのです。

(港)
 なるほど。その第一版から現在の第四版に至る間には、細胞の捉え方や、事象の記述がかなり変わっているのですね。

(中村)
 そこが問題なのです。先ほどの図で見た通り、第四版となると新しい遺伝子やタンパク質の名前が山ほど出てきます。もちろん詳細な記述は科学として欠かせない。でも細胞とは何か、生きるとは何かという問いに対して一歩進んだかというとそうではありません。それが「わかる」には、もう一段階越える何かが欲しい。でもまだ誰も見つけていないのです。データを集めたらわかるというものではない。いわゆる複雑系の理解のしかたですが、そこには文脈を探り語っていくことによって物語としてわかるとか、パッと見ることで「美しい」とわかるとかいうことが関わるような気がします。そのような試みから開かれる面もあるのだと思うのです。
 「美しい」ということは、何かがわかる、何かを理解するための「何か」の基準が私の中にあるということかもしれませんね。「DNAからメッセンジャーRNAが作られる」ということを科学として考えると詳細である方がよいという判断になりますが、本質を伝えてくれるものとしては簡単なものの方が好きということになる。

(港)
 その場合当然、科学的な研究において、「好き嫌い」という主観的な判断はいかがなものかという反論が出てくるでしょう。でもパッと見て「こっちが好き」という判断も、実は重要なのかもしれません。ひとつの判断の背後には、複雑な過程がある。例えば一枚の写真や絵画を見て「好き」という場合、私たちは、視覚情報を脳で処理すると同時に、その視覚像が与える連想、過去の経験、像が与える視覚的快感あるいは情動といった複雑な過程を総合して、「好き」の一語で表わしている。この過程のほとんどの部分は、ふつう無意識のうちに遂行されているわけですが、その過程を細かく分析すれば、きっと面白いことがわかってくるに違いない。二つの図像から一つを選ぶという判断をするときにも、同じような過程があるはずですが、そこを思考のエコノミーは「自分に合わない」という感覚をもとに判断するのではないでしょうか。

(中村)
 科学は論理性と客観性が重要だとされてきました。現代の生物学では、体細胞クローンなど難しい問題も出てきています。このような問題で、正しいか正しくないかを論理的、客観的に判断するには無理があります。実際の判断には「つくってみたい」気持ちや、「胚を操作してよいと思うか?」、「その結果できたものは美しいだろうか?」などのさまざまな価値が入ってきます。それなのに、これは科学の問題だから「客観的に判断しなさい」という議論になるのですが、そこからは何も判断を引き出せていないのが、ここ30年ほどの生物学です。
 「生きものは面白い」と感じることから始まった生物学は、20世紀に物理学を基本にした科学の仲間入りをしましたが、従来の物理学の範疇で理解する基本は終わったと考えたほうがよいのかもしれません。改めて生きものに向き合う生物学は、今とても難しいところにいると思います。

『遺伝子の分子生物学』
“MOLECULAR BIOLOGY OF THE GENE”
原著は、2003年に第五版が出版された。日本語版で最新のものは1988年の第四版。ジェームス D. ワトソン他著 中村桂子他監訳。トッパン
3. 「観察」には時間がかかる
(港) 
 「観る」ということを考えるためには、科学史における図像の役割を振り返ることも必要かもしれませんね。例えばレオナルド・ダ・ヴィンチによるデッサンやリンネのスケッチなどが頭に浮かびますが、不思議なのは17世紀から18世紀にかけて花開いた偉大な博物学の時代にあれほど大量に描かれていた動植物の図像が、19世紀には急速に消えてしまうことです。その背景には博物学自体が発展的に解消したこともあるでしょう。しかし三百年近く描かれてきたあれだけの美しい絵と、それを描き続けるという行為が、もったいないことに、19世紀末には廃れてしまった。いったい何の結果として消えてしまったのでしょうか。
 ひとつには19世紀前半に起きた写真の発明によって、人間の眼と手が分離してしまったということがある。眼では見るけれど、手で描かなくなったということです。手で描かないということが何を意味するか。これは美術大学で教えているので分かるのですが、デッサンをするにはそれ相応の時間がかかるのです。例えば入学試験で、「自分の手を描きなさい」という問題が出たとします。基本的な課題といってもいいですね。自分の片手を木炭デッサンで描くのですが、手首から先だけでも最低3時間は必要でしょう。さらに実際の出題では「どういう手を描きなさい」という条件が含まれる。数年前に「重力を表現するような手を描きなさい」という出題がありました。すると、なぜかリンゴが描かれていたりして…。

(中村)
 非常に科学的・・・(笑)。

レオナルド・ダ・ヴィンチ
【Leonardo da Vinci】
(1452-1519)
イタリア、ルネサンス期の画家・建築家・彫刻家。トスカーナ地方のヴィンチ村生まれ。フィレンツェ・ミラノで修業・制作。詩人・思想家としても傑出し、自然科学に関しても多くの業績がある。
リンネ
【Carl von Linn
(1707-1778)
スウェーデンの博物学者。ウプサラ大学教授。二名法を採用し、生物分類学の方法を確立。著『自然の体系』。
(港) 
 いずれにせよ、なぜ3時間かかるかというと、観察するからです。眼でモノを見て、理解して、手の動きに伝える。手技で線を引いていく。その線をもう一度見て、判断して、気に入らなければ消す。対象を見直し、「よりよい」と思える線を引き直す。そうした運動が少しずつ、紙のうえに像をつくりあげてゆく。これは構築的な回路ですね。このような回路を、僕らは「観察」と呼んでいる。だから観察するには、それ相応の時間が必要なのです。
 おそらく19世紀の間に、科学の現場である変化が起きたのでしょう。ひとことで言えば、時間がなくなったのです。それまでは、例えば裏庭にエンドウマメを植え、毎日行通って観察して、暗くなれば寝るという生活をしていた。あるいは、チャールズ・ダーウィンのように、いちど航海に出れば世界周航の旅になって、何年も帰ってこない。技術的な制約上そうなったわけですが、それほどの時間をかけるのも可能な時代だったともいえる。ところが産業革命が起き、より短い時間で生産すること、つまり「効率」が求められるようになると、話はちがってくる。産業だけでなく科学の現場でも効率が追求されれば、どうしても一人がある対象にかける時間は短くならざるをえない。個人としての人間の能力は、そう簡単に向上するものではありません。3時間かかることを20分でやるのは無理ですね。それをするには、何かを削らなければならない。こうして観察のための時間がなくなった。それが美しい図像が消えてしまった、もう一つの原因だと思います。
 もっともその時代は、科学者だって「なんか最近忙しいなあ」と感じるくらいで、それほど大きな変化が起きているとは気づかなかったのではないでしょうか。そこから、あっという間に百年が経ち、気づいてみたら、観察し、描き、線や色を反芻し、最終的に美しい形にもっていくという数世紀来の伝統がすっかり失われてしまったわけです。

(中村)
 一つひとつ時間をかけて描くことと同時に、描かれたものをじっくり見て考えることの大切さを取り戻したいという動きもあります。研究のすべてはそこに戻りませんが、そのような分野もあってもよいという考えです。研究館でも、博物画から生きものの歴史物語を辿る展示を試みています。博物画といっても、21世紀ですから、DNAや細胞、形態の多様化などの現代生物学の知見を描いたものです。その絵を描いてくれた菊谷さんという若い女性は、生物学を勉強した後、アメリカでサイエンティフィック・イラストレーションの修業をしてきたのです。科学でわかったことを表現するのですが、そこには美しく描こうという気持ち、見る人が美しいと思う気持ちの重なりがあります。

(港)
 先ほどからお聞きしていて面白いなと思うのは、「生命誌」の「誌」です。これは物語と歴史との両義を含んでいる「ヒストリー」ですね。物語も歴史もどちらも「時間」を基軸にしているわけですが、その「時間」の概念を、もう一度、科学の中に注入することで、概念上の変革だけでなく、科学者という人間の生き方も考えていこうということでしょうか。つまり「人生」と呼ばれる時間、人生としての時間も何らかの形で、科学に反映すべきだということですね。そうすることで、「正しいか正しくないか」を目的とした従来の科学の価値とは違う、「一市民として生きる」人生の価値を導き入れて、倫理や感情も含めた判断から、均質な科学に多様さを取り戻そうとされているのですね。

(中村)
 みごとにおっしゃって頂いてびっくりです。「時間」と「日常」。産業革命以降の社会は、時間を消すことを価値としてきました。時間を消せば消すほど進歩したのだとして、その分だけ生きることを殺してきたのです。「生きものの科学」といいながら、生きものを機械としてしか見られない学問ばかりになってしまって、生きものを「時間を紡ぐもの」として観る知が消えつつある。それを取り戻すところに、私が「生命誌」という分野を立ち上げた思いがありますし、今、港さんが「誌」に込められた時間と価値について語ってくださったことはその通りなのです。そこまでわかってくださる方は少ないのでうれしさを通り越して驚きました。
チャールズ・ダーウィン
【Charles Robert Darwin】
(1809-1882)
イギリスの生物学者。進化論を首唱し、生物学・社会科学および一般思想界にも画期的な影響を与えた。著『種の起源』『家畜及び栽培植物の変異』など。
4. 一瞬に「凝縮する」/ 形を「生き直す」
(中村)
 博物画が消えてしまうことと写真の誕生は関係がありますね。以前は顕微鏡で見た対象を手で描いていました。それはとても小さな、しかも動いている世界ですから、素早くスケッチすることが大事でした、そこでもそれまでの描写より時間は短縮されていたかもしれません。今は顕微鏡の世界も写真で撮るのが当たり前になり、生物学からスケッチが消えています。

(港)
 顕微鏡の話では、実はフランスでダゲレオタイプが発明されて間もない頃、1850年代にはウニの顕微鏡写真も撮られています。またダゲレオタイプとほぼ同時期に 、カロタイプという複製可能な写真方式を発明したイギリスのフォックス・トールボットという人は、世界初の写真入りの書物を著して、その題名を『自然の鉛筆』としましたが、この言葉はこの発明の意味を非常によく表わしていると思います。写真とは、自然の光が、人間の手を介さずにそのまま描くものだという考えですね。今まで何時間もかけていたことを、一瞬のうちに、しかも正確に、写し留めると。フランスでは写真が発明されるとすぐに、国が特許として買い上げましたが、それは天文学者として有名なフランソワ・アラゴの功績でもあった。発明した本人はもちろんですが、当時の社会が写真という発明の意味をよく理解した。だから顕微鏡への応用もすぐ試されたし、その発明の瞬間に、実は21世紀まで続くような応用の「青写真」が皆の頭の中に描かれていたのではないでしょうか。
 しかし顕微鏡写真が存在する時代になっても、「観察」を続けていた人もいます。そのなかでなかなか味のあるいいデッサンを続けていたのがラモン・イ・カハールというスペインの科学者で、ニューロンの構造を特定してノーベル生理医学賞を授賞しました。彼は「見て描かなければ、ものは理解できない」と、研究室の学生にもデッサンをすることの重要性を説いていたそうです。彼は描くための時間を削らずに、偉大な発見を成し遂げた科学者でした。

(中村)
 写真をなさる方が、そこをどうお考えになるかを伺いたいのです。ゼロから自分で組み建てていく過程を経ての理解と、パッと切り取ったものを見た理解とでは、違うところがあるのではないでしょうか。

(港)
 もちろんデッサンと写真とでは、その過程が随分違います。それぞれ一定の時間の中でものを見ているのですが、その過程は逆ですね。写真は、ある一瞬、しかも250分の1秒や500分の1秒というような、本当の一瞬の判断にすべての時間を「凝縮」するのです。これは相応の時間をかけて「構築」してゆくデッサンとは、まったく逆の過程を辿ることですね。

(中村)
 私の撮る写真が全くダメなのは凝縮できてないからですね(笑)。よくわかりました。

(港)
 生物学の教室では、もうデッサンをしていないかもしれません。でも僕のいる「情報デザイン」学科では、授業の初めにコンピュータを分解させ、部品を一つずつデッサンさせたことがありました。例えばドライバーで本体を開けてハードディスクを取り出し、そこで紙と鉛筆を渡されれば「いったい何を始めるんだ?」と誰もが驚くでしょう。しかし自分たちが扱っていく「コンピュータ」というものを捉え直す、ひとつのやり方としてデッサンをして欲しかった。デッサンをする過程においていちばん大事なことは、ある形を「生き直す」ことです。一本、一本の線を引きながら、対象の形を生かしていく行為は、ちょうど写真の逆を辿る過程なのです。
 例えばここにある、この角砂糖一つ描くのも大変ですよ。まず対象には、輪郭というものがありません。一つひとつ線を引いて輪郭をつくっていくのですが、見た人に、これが石炭のかけらでなく角砂糖だとわからせるには、どこかを省略し、どこかで強調しなくてはなりません。その判断は、あくまで描き、描かれつつあるものを見ている状態と不可分のものですね。デッサンとは見るという行為を通して、自分が見ている状態を生き直す過程です。
 ある一定の時間、自分がいろいろ考えながら対象に向き合い、生きて、呼吸する。その時間を生き直すのがデッサンをするということです。見るとはとても能動的な行為なのです。
 話を戻すと、今の科学者も描いたほうがよいのではないでしょうか。やはりデッサンは、ものを観る基本ですからね。ただ、実際にその時間が得られるかというと…、それも難しいのが今の社会の現実です。それは科学だけでなく、政治やジャーナリズムなどすべてにいえるのではないでしょうか。短時間でとにかく結果を出すことが求められる。社会全体が結果オーライだといわれて、結果のための過程というように本末転倒している有り様です。

(中村)
 「生き直す」という言葉、心に響きます。過程に大事な意味を見出すことですね。生きることは過程そのものという意味でも、そろそろ社会全体がもう少しゆっくりとする方向に行くのがよいだろうと思うのですが、それもなかなか難しいですね。

(港)
 難しいですねえ。研究費をもらったら結果は数年で出すのが普通でしょうし、すべて締め切りが決まっている社会ですからね。今さら締め切りのない時代の研究生活に戻れといっても、あまり建設的ではないですし。今の経済システムの中でどれだけ「生きる」ということを取り戻せるか。難しいけれど、僕らはそのしくみを考えてゆかなければならないですね。

(中村)
 生命誌は、そのしくみを作る一つにならないかと考えているのですが・・・。
ダゲレオタイプ
【Daguerreotype】
いわゆる銀板写真。1837年にフランスのルイ・ダゲールが発明し、1839年に発表した写真術。感光性を持たせた銀メッキ銅版をカメラで露光し、水銀蒸気で現像する。複製はできないが、鏡に映したような高精細な画質を誇る。簡便な装置で撮影ができ、特にポートレイト写真に適していたため短期間に広まり、初期写真術の普及に貢献した。
W. H. フォックス・トールボット
【William Henry Fox Talbot】
(1800-1877)
ネガから感光剤を塗布した紙に何枚でも焼き付けられる写真術を考案(1839)し、「美しい」を意味するギリシア語"Kalos"に因みカロタイプと名付けた。その発明を示すために出版した『自然の鉛筆(The Pencil of Nature)』(1844-1848)は、世界最古の写真入り書物となった。
フランソワ・アラゴ
【Dominique Franois Arago】
(1786-1853)
フランスの物理学者・天文学者。フレネルと共に光の波動説を確立。渦電流現象を発見。太陽コロナや彩層も研究。
ラモン・イ・カハール
【Ramn y Cajal】
(1852-1934)
スペインの動物組織学者。マドリッド大学教授。脳および神経の組織学的研究で知られ、神経単位を確認した。1906年にC.ゴルジとともにノーベル生理医学賞を受けた。
5. 「再認」を含む方法論
(港)
 写真は、何月何日、何時何分、何秒に撮られた「瞬間」が結果として出てきます。写真家がなぜそれを撮るかという理由が、僕は二つあると思います。一つは感動して撮る。結果がよければ、その感動を共有できるでしょう。もう一つは過程にかかわります。撮影の瞬間には見えなかったものを、もう一度、よく見たいと思うから撮るのです。その時、自分がどう見ていたか、何を思っていたかを、もう1回見たいのです。画像を通して生き直すことですが、ふつうは「再認」という言葉を使います。"recognition" , "representation" というように、英語では頭に"re"がついて「再」に重きを置きます。一度ならず、何度も見るのが写真家の仕事ですね。撮影は3分の1、残りの3分の2は選択と整理です。時間も労力もかかりますが、これは映像を扱う者の宿命でしょうね。例えば1時間のビデオを撮ると、それを見るには1時間かかる。だから一生、写真を撮り続けると・・・。

(中村)
 もう1回、人生が欲しいわけですね(笑)。整理のときには、ファインダーを覗いていたときとは違うものが見えてきますか。

(港)
 もちろんです。人間の視覚は選択的にできていますから、現場では撮影の状況次第で見えたり見えなかったりしています。僕は長い間、「常に揺れ動いている群衆」というテーマに興味をもち、1989年には東欧の革命も取材しました。そのような撮影の現場で、例えば百万の群衆を眼の前にしたときには、一人ひとりが見えているわけではありません。その時は、やはり全体を捉える中で人の流れやスピードを体で感じ取ってシャッターを切っているのです。撮影が終わって家でネガフィルムを現像して、カットを選ぼうともう一度見たときに初めて「こういう人たちだった」という人間の顔が見えてくる。

(中村)
 写真は必ず「再」を含んでいるのですね。

(港)
 メディアとして「再会」を含んでいるのです。1枚しか使わないとわかっていても、たくさん撮るのはなぜなのか。その中から1枚をどう選択するかに、大変なエネルギーを注ぎ込むからです。それは撮影のあとの話なのです。こうした「再」の時間がなければ写真は成り立たない。科学もそうではないでしょうか?

(中村)
 本来はそうです。生物学の場合、複雑な生命現象を眼の前にして、生きものが基本に持つ共通のしくみとその多様な表われとのつながりを知るわけですから、まさに「常に揺れ動いている群衆」に相当するものを見ていくのです。けれどもプロジェクト型の研究になると、論文を書くにも、型があるところにデータを当て嵌めればよいという流れになっています。一本道を高速道路のように立派にして、皆が走って行くので、外からはとても素晴らしく見えて生物学は繁栄していると思われていますが、群衆の一人ひとりを見る余裕がないのは、どこかで行き詰まると思うのです。
 今の社会で拾い物をしていては間に合わないのだけれど、生物学には、もう一度という「再」の時間がなくてはならないのです。ですから、見直すことを過程に含んでいる写真というものがとてもうらやましい。

(港)
 写真でも、過程に含まれた意味が気づかれないことが多いのです。高速道路のお話と一緒で、結果を求められて1,000枚の中から1枚だけ使えば、残りの999枚は要らないもの、忘れられていくものです。何とかして999枚をもう一度回収するしくみが作れないものかと思うのですが、大概の場合は・・・。

(中村)
 今は捨てられていくものが多いですね。科学でも捨てられるものの中に宝物があるかもしれないと思うけれど、それは今、あまり認められない感覚ですね。
6. 生きものは「プリント」する
(中村)
 港さんは、体細胞クローンなど生命科学の問題についてもよく考えてくださっているので、その話題で伺いたいのですが、最近では、例えばES細胞などの多分化能を持つ幹細胞を培養して、欲しいときに欲しい細胞に分化させて医療などで利用していこうという研究もさかんに行われています。

(港)
 そのようですね。クローン動物の場合は、体細胞の核を除核した別の卵に移植する。どちらもある意味で時間を短縮していますね。ただ生物学的な時間と、「生きる」時間とは必ずしも同じではない。先ほどの観察の問題と同じように、時間の短縮が何かを「削る」ことによって可能になっているとも限りません。

(中村)
 どちらも人間が望む細胞や個体がどんどん作れると、実用への期待が膨らんでいますが、最初に体細胞クローンが成功したときの生物学者としての驚きは、生殖細胞でもない体の中にあるふつうの細胞に入っていたゲノムで、もう1回、個体の“生”をやり直せるとわかったというところにある。

ES細胞
【embryonic stem cell】
胚幹細胞。多分化能をもつ樹立細胞株。培養皿で培養できるが、他の胚盤胞腔中に注入した時は生殖細胞も含む種々の細胞に分化できる細胞のこと。
(港)
 誰もが納得できる科学的な手続きでそれが証明された。言いかえれば自然科学の論理として、人間は個体の生を「やり直す」ための技術を手中に収めようとしている。個体の生をやり直すというのは、歴史的にみれば文学的あるいは神話的なテーマでした。『ファウスト』のような作品のなかでのみ可能なことだった。この点で、体細胞クローンの成功によって、わたしたちは科学だけでなく、倫理を含めた人間一般の問題として、非常に重要な段階に至っていると思います。

(中村)
 その後、クローン羊のドリーが早死するなどの事実もあったため、クローン個体と通常の個体との違いが何かを明らかにするための研究も行われていますが、最近、なぜか哺乳類だけにゲノム・インプリンティングというしくみがあることがわかった。それはゲノムの中に、もう一度始めから“生”をやり直すための目印を刷り込む過程が存在するということなのです。
 私たちのゲノムでは、多くの場合に父母由来の両方の対立遺伝子が働くので、片方に欠陥があっても、もう片方で補える。でもインプリンティング遺伝子は、個体発生の生殖細胞ができる過程で、その個体の雌雄に応じて新しく目印が刷り込み直されて、対立遺伝子の片方だけが働くようになるのです。この目印を外してしまうとゲノムが全体として働けずに個体は産まれてこない。これは、例えばカエルにはないしくみで、哺乳類がそれをどのように獲得したのか・・・。

(港)
 まだわかっていないのですね。

(中村)
 ただ、哺乳類にこのしくみがあるという事実は、はっきりしている。体細胞の核を移植するクローン動物では、ゲノムが精子や卵という生殖細胞を通って目印をつけ直す過程が省略されていますね。だからクローンの個体は、そこが欠けたまま“生”のやり直しをさせられている。
 クローンを、肉の生産技術と考えるならば、そこに何か欠陥があっても技術としてあり得るかもしれないけれど、本当に生きるということを考えるならば、体細胞クローンはないのです。

(港)
 そうだとすれば、生きるためには、やはりもう一度やり直す、「再」の時間が欠かせないということですね。

(中村)
 それゆえ、生きものは時間を短縮できない存在とされる。くり返すところに生きものの本質があるという気がします。

『ファウスト』
ルネサンス期に生きたとされる人物で、伝説化され民衆本『ファウストゥス博士』などで有名。1774年から1831年頃、ゲーテが劇詩として作品化。
ゲノム・インプリンティング
【genome imprinting】
関連記事:
生命誌38号リサーチ「世代に刻みこまれる時」
39号リサーチ「ゲノム・インプリンティングと哺乳類の進化」に詳しい。
(港)
 非常に興味深いお話です。体細胞クローンにないものを一言でいえば、それは「歴史」です。「生命誌」の「誌」にあたるものが欠けている。
 もう10年以上も前になりますが、『記憶』という本を著した最初のきっかけは、人間の記憶の中に本質的に存在する「再認」のしくみにとても興味を持ったからなのです。それはジェラルド・M・エーデルマンの本をフランス語で読んで感銘を受けたことに始まります。英語からの翻訳もよかったのですが、免疫のメカニズムから神経細胞の淘汰へと論を進める彼の記述は、とても美しいと思った。そして興味が湧いてきました。ある出来事が1回起きるだけでは、それは記憶にはならない。それが何らかの目印となり、もう一度、ある出来事を認識するとき、つまり「再認」されたときに初めて記憶が立ち上がるということなのです。
 ゲノム・インプリンティングの場合にも、それがなぜ哺乳類にあってカエルにないのか、今はわからなくても何かしっかりとした理由があるはずです。ある意味で、人間の記憶と同じようなしくみがそこでも働いているのではないでしょうか。僕らは、ひとまず結果を得てから、それが仮にネガティヴなものだったら、もう一度やり直すことで克服しようとしますね。でもクローンはその「もう一度」のしくみを持たないがゆえに、本当の意味での“生”を全うできない。逆をいえば、クローンが「本当の意味での生とは何か?」という非常に本質的な問いを投げかけてくれているわけです。つまり生きるとは、ただ生きることではないのです。

(中村)
 ゲノム・インプリンティングを単に遺伝子のメカニズムとして見るのでなく、ゲノム全体として観れば、それが辿った過程が再びゲノムの状態に反映されていくという、まさに自己創出するものとしての生きものであることがとてもわかりやすく示されていて、最近の研究成果の中でもいちばん印象的でした。

(港)
 僕にとっても印象的なのは、「インプリンティング」というように「プリントする」という言葉を使いますね。人間が世界を記述して、それを理解していこうとするとき、どうしても通らなければならない過程が「プリント」だと思うのです。刷ること、複製することによって、それは「共有」できるようになる。ゲノムの場合にも、似たようなことが起きているとすれば、面白い。ゲノムの「経験」がプリントされ、共有可能なものとなってはじめて「歴史」となるとすれば、やはり生命誌的な視点が必要になる。
『記憶』
港千尋著。講談社選書メチエ93
ジェラルド・M・エーデルマン
【Gerald Maurice Edelman】
(1929-)
アメリカの分子生物学者。抗体分子の構造解明によりR. Porterとともにノーベル生理医学賞(1972)を受けた。その後、脳研究の分野で細胞接着分子CAMsなどの分離に成功。現在は、The Neurosciences Institute 所長。著書に『ニューラル・ダーウィ二ズム』、『脳から心へ』など。
7. 「これしかない」と「見たことがない」
(港)
 これは生きもののいちばん不思議なところでもあります。何か欠陥があっても、別のものでそれを補完して克服できるということですね。なぜ補完できるのかといえば、ひとことで言えば「全体」があるからでしょう。

(中村)
 ある環境や集団の中でうまく生きるのに不都合が生じる場合にそれは欠陥と見做されます。でも例えば同じ種のゲノム同士を比べると、そこには欠陥とはいえない小さな“違い”は無数にあるし、欠陥であっても別のものでうまく克服されて気づかないことも多いのです。本当に補いきれない欠陥の場合は、死によって、そのことを他に伝える。一方、種の中の個体、個体の中の細胞というように、全体の中の個を観れば、個の死によって、全体の“生”が生かされることも多いのです。生きているということの複雑さを感じます。

(港)
 先ほどのゲノム・インプリンティングもそうですが、ある過程というものは、常に全体の中で起きるということですね。過程を捉えるには、全体の中で観ていくことが非常に大事なのだと思います。

(中村)
 全体というと掴みどころのないイメージがありますが、科学で「全体」というときには実体としての手ごたえが欲しい。ゲノムはDNAという物質であり、遺伝子の集まりでもあります。その塩基の違いを読み取って、ヒトゲノムなら32億個の配列として示したものを一応「全体」だといえる。ただ、ここに含まれる情報の間にどんな関係があるか? 構造としてどう機能しているか? などなどゲノムと複雑な生命現象の関わりの解明はこれからの課題ですが、少なくとも今私たちは、その手掛かりとなるゲノムという有限の実体を手にしているというのが興味深いところです。この「全体」から出発できることは、これまでにない新しい出発ではないか。それが、私がゲノムで捉えたいというときに基盤にしていることなのです。

(港)
 有限の集団を対象にしたときの覚悟を感じて、その気持ちがとてもよくわかります。興奮が伝わってきますね。人間の意識の中でも「有限の要素で考えなさい」という命題は、科学的な思考の根幹にあたることかもしれませんね。

(中村)
 私が科学の世界にいるから大事に思うことかもしれません。科学的思考でなければ、生きていることを考えるときに“有限のもの”を持ち出さなくて済むかもしれない。

(港)
 いや、それは科学だけでなく、広く“創造性”ということに関わります。“創造する”には、有限の要素から出発しながら、一方で「開かれている」ことが必要です。素材を組み合わせ、場所を替え・・・、いろいろな試みから常に新しいものを探っていく。

(中村)
 今までになかった感じがすることが大事ですね。

(港)
 “新規性”ということですね。もう一方で、例えば古代のギリシアや中国では、何かを理解するときには有限個の要素に還元して、そこからある整合性を見つけ出す。文字通り「元素」によって世界を理解しようとする思考ですが、それが求めるのはやはり美しい体系ですね。もうこれしかないという美しい体系だけが“モデル”と呼ばれます。
 人間の心の働きは、片方では「見たことがない」ものを求める。もう一方で「これしかない」ものを求める。常にこの二つがあります。

(中村)
 生命誌を考えるときに、切り口として多様と普遍という言葉を用い、それで整理してしまっているのですが、今のような言葉で表現して頂くと、とても刺激的ですね。
 物理学では自然を理解するために対象をどんどん細かくして、最後に素粒子で捉えれば一つの要素ですべてがわかると思った。ところがそこにも幾つもあって、物理学の方は納得できず、もっと統一的な解を求めている。

(港)
 マトリョーシカ人形ですね。開けても、開けても、どんどん小さなものが出てくる(笑)。

(中村)
 物理学は「これで世界がわかったぞ」と言える統一理論を求めている。生物学には、たぶん統一理論のようなものはないのですが、科学としては「これしかない」ところでわかりたい気持ちも強い。もちろん「見たことがない」ものを知りたいのですが、普遍を重んじるところに自分自身の価値を見出そうとするのが科学者の常ですね。

(港)
 「これしかない」ものと「見たことがない」もの、普遍性と多様性は矛盾するものではありません。
 “創造”とは、新規性を生み出すことですが、まったくの無からの創造ということはあり得ない。僕は、創造力とは記憶とほぼ同義と考えてよいと思っています。既にあるものを再発見すること、再認することでしか創造は生まれない。普遍性とは、常に再発見を期待されているものですが、それには違う見方やいろいろな考え方、言い換えれば多様性が前提となるわけです。
8. 全体を存在させる偶然
(中村)
 今日は、港さんが「再」とおっしゃるのがとても印象的です。私は、ゲノム、ゲノムと言っていますけれど(笑)。実はこの二つは重なっているのだと思います。
 今、港さんの体の中にあるゲノムはどこから来たの? と遡れば、生命の起源とされる単純な細胞に辿り着く。そこにあったゲノムが始まりで、世代を経るたびにゲノムは複製され、複製のたびに “違い”を生み出しながら親から子へと受け継がれて、38億年分の無数の個体を通ってヒトゲノムにもつながっている。もちろん今生きているすべての生きもののゲノムが同じ起源から分かれてきたわけです。

(港)
 まさに「プリント」の歴史ですね。複製され、違いが生まれ、それらが共有されているわけですね。

(中村)
 いろいろな生きものが持っている「プリント」に含まれている“同じ”と“違う”を比べていくと、生きものの歴史が観えてきます。でも始まりは一つだけ。「一創造、百盗作」、もう故人となってしまわれた大野乾さんの言葉ですが、創造があったのは起源の1回だけ。とても上手な表現だったと思います。

(港)
 いい表現ですね。芸術も模写からです。どんなに独創的な芸術家でもそうでしょう。ピカソも最初は模写から始めたのですから。こうしてみると、複製することは最も本質的な現象なのではないでしょうか。写真は絵画と違って「複製芸術」と呼ばれてきました。複製されて「共有」できることと、複製できないことの間には非常に大きな違いがあるのです。1枚の絵を共有するのはせいぜい5〜6人が限度ですが、複製されれば億の単位でも共有できる。そこに本質的な転換があるのです。

(中村)
 複製によって見る人が増えれば、それに刺激されて新しいことが生まれる可能性もさらに増える。

(港)
 生きること、ある時間の中で観ることの根本に、「複製」という現象を認めることができそうですね。これは集団という全体を考えれば、きわめて自然なことのように思えます。複製による「共有」がなければ、そもそも集団として生きられない。生きるとは、集団として生きるということ以外にはありませんから。

(中村)
 ゲノムの複製には 、必ずある確率で生じる誤りが含まれています。ゲノムが自己複製をすること自体にも驚きはあるけれど、その過程で起こる誤りを含んだまま全体として残していくしくみに驚くのです。“違い”が残らなければ生きものに変化はなく、人間が生まれることもなかったのです。人間には、同じものを目指すことがよいという価値観があるので、これを「誤り」と呼びますが、私はそれこそが誤りだと思う。

(港)
 変容と捉える。もしそれを誤りと呼ぶならば、全体のなかに生かされた誤りにこそ価値がある。言葉を換えれば偶然性に価値を見出すということですね。

(中村)
 偶然でも、全体を残さない偶然は残らない。全体を存在させるような偶然を含むあり方が、生きものの本質にあるのです。

(港)
 その全体が、偶然をどのように判断しているかということがわかってくると面白いですね。

(中村)
 それは、ゲノム全体のうごめきが、いったい何をやっているのかということから観えてくるのではないでしょうか。
 今日はほんとうに刺激を受けました。写真という芸術は、とても生きもの的なのかもしれないと思いました。実は私の中にある生命誌という考え方を人に伝えるときは、どうしてもその方にわかって頂けそうな一面を話してしまうこともあって、なかなか全体をわかって下さる方がないのです。ところが、今日、私が考えていることを私以上にみごとに構成し、適確に表現して下さるので感激しました。生命誌を考え始めてから20年くらい経つのですが初めての体験です。ほんとうにありがとうございました。
大野乾
【おおのすすむ】
(1928-2000)
京城生まれ。医学博士、理学博士。シティ・オブ・ホープベックマン研究所特別研究員。遺伝子重複説やHY抗原の解明などで知られる。米国科学アカデミー正会員。木原賞など授賞多数。著『遺伝子重複による進化』『生命の誕生と進化』など。
 生命誌ジャーナル 2005年夏号
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