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TALK

脳の自己形成から人間を探る

中田 力新潟大学脳研究所統合脳機能研究センター長・教授
中村桂子JT生命誌研究館館長

 

1.ルールは簡単、条件が決める

中村

今年のテーマは「生る」。

中田

「なる」と読むんですね。

中村

生命誌ではやまと言葉を大事にしているのです。「なる」は古事記※註1で多用されている言葉と教えていただいたのですが、そこでは神さまも日本列島も、誰かが「つくる」ものではなく、自ずと「生(な)る」ものとされていると指摘され、現代の「生る」を考える、具体的には生きもの研究や暮らしを考えてみようと思いました。1回目は宇宙の生まれる話をインフレーション理論の佐藤勝彦さん※註2、2回目は形が生まれる話を建築家の伊東豊雄さん※註3と語り合いました。伊東さんが出された「エマージング・グリッド」(図1)という建築の構造モデルが面白い。二つのグリッドを合わせてひねると生まれてくる空間が、生きものっぽくてとても居心地が良いのです。

(図1)

エマージング・グリッドの生成過程。詳しい過程は生命誌ジャーナル54号参照。

中田

面白いですね。そのような空間は、おそらく六角形が鍵になっているはず。雪の結晶が単純なルールの繰り返しから複雑な形をつくりあげるように自然界をミクロの視点で見ると、平面上に現れてくる形はみな六角形をとりますね。形態を考えることは重要で、僕はそこから脳のなりたちを考えています。

中村

脳科学の研究者であり、現役の臨床医でもある中田さんは、脳という臓器もその機能も、出来上がったものとして解析するのでなく、生まれてくるものとして捉えているところが特徴で、そこが魅力。「脳が生まれる」ってどういうことなのか、複雑系の視点からも伺いたいのです。

中田

生体の機能は、形がつくられるところに生まれてきます。人間は初めに設計図を考えてしまうけれど、ものが生まれてくることに目標はありません。ビッグバンが起こり、さまざまな段階を経た後の宇宙に地球が生まれ、その中から生体が生まれて、脳という臓器が生まれた。

中村

ビッグバンから脳までをつなぐ何かがあるというわけですね。

中田

それを今の理論物理学では「ポリアの壺」※註4と表現します。全く同じ動作を重ねていくとき、それぞれが独立した事象だと考えると、行為は一定した方向性を持つ。何万回も事象を繰り返したある時点を見ると、初期に起こったことが非常に影響を与えていることがわかる。傾き、あるいは偏在というものです。僕らは宇宙が生まれた時から続く傾きをそのまま受け継いでいる。こうした複雑系の話は、なかなか理解してもらえないですね。

中村

今や神経科学に限らず、すべての分野で複雑系の考え方が重要になってきましたが、何しろ難しいのです。私も何度も挫折しているのですが、今日は勉強しようと思っているのでよろしくお願いしますね。私たちの日常空間は3次元で、時間を入れた4次元の世界にいますよね。それ以上の次元に入ってしまうと・・・。

中田

その時、助けになるのが「ロー・ダイメンショナル・フィジックス(low dimensional physics)」と言って、わざと次元を下げる考え方です。あらゆるものを2次元にするとものごとがすっきり見えてくる。例えば六角形の中心にポイントを置いて線を引いて現れるのは6つの正三角形ですね。つまり、真ん中から行ける場所は6箇所ある。それを「自由度が6だ」と表現します。ある状態を2次元上で自由度を6にして並べると左右対称になり、4次のテンソル(tensor)※註5の等方性が保証されるのです。なぜこんなことを言うかというと、僕は脳を情報と確率からなるエントロピー空間と捉えていて、それを可視化するためには非常に大事になることだから。この見方から脳の生成を考えているのです。

中村

考える手段として興味深いけれど、まだ“なるほど”までは・・・。

中田

少しわかりやすい例として、ロー・ダイメンショナル・フィジックスと同じような考え方から出来上がってきたものにセル・オートマトン※註6があります。まず一点一点のポイントにアップかダウンかどちらかの状態を与える。1次元を状態を表す情報に使うのです。次いで、2次元を各点がどこにあるかという場所の情報として使うと、2次元平面上に広がるデジタル空間が生まれる。
 脳もこの「0か1か」と「どこにいるか」でわかります。例えばニューロンが0か1かの情報をとるビットだと考えると、状態情報としては1次元を使い、皮質においては2次元平面上に広がっている。

中村

なるほど。皮質だから2次元でいいのね。

中田

そう、そこからポリアの壺の延長で僕らの世界が現れる。

中村

生きものの特徴は情報を持っていることで、情報といえばまずDNA。これは1次元で、それが体の中ではたらく時、確かに前後、背腹、左右という2次元的広がりを積み重ねているなと今気がつきました。1次元情報と2次元の位置情報の組み合せで見る切り口、面白いですね。

中田

情報として書き出すなら0か1の1次元情報の方がわかりやすい。それを2次元平面上に展開するだけでも組み合わせは十分に複雑です。DNAを情報と見る時も、塩基配列に記されたルールが何かを決定するという概念から抜けないとだめ。線形数学でy=f(x)という数式を考える限り重要なのはf(x)という関数、つまりルールですが、複雑系の考え方ではルールはあまり重要ではありません。そこが難しいところなのかな。考え方としては量子力学から始まっています。

中村

なるほど。ムードとしてわかるというところまできました。その先長そうだけど、がんばってついていきます。

中田

量子力学は線形ですが、すでに一般的な線形関数とは違った考えが必要になります。「オペレーター(演算子)」※註7です。x2という関数にd/dxというオペレーターを適応させると2xになる。一般にオペレーターがルールだと思ってしまうんだけれど、実際には、そのなかにすべての情報が含まれていて、ある状態を与えると結果が出てくるのだと考えます。一般には、y=f(x)という関数で重要なのは、x,yという変数であると考えてしまいますが、それは状態を表しているに過ぎない。つまり決定された状態が大事とされるけど、本当は情報を持つオペレーターが大事なのです。

中村

それよくわかります。生きものはまさにそうですから。やっとほんの少しわかってきました。

中田

自然現象にもルールはありますが、ごく簡単。一番有名な例が「マルコフ連鎖」※註8と言って、NからN+1に行く情報しか要らない。ある状態を与えられればそれで次に行く。例えば「一歩前に出る」というルールがあるとしましょう。Nの状態を僕が立っている状態だとすると、このルールに従って一歩前進する。ところがもし僕の前にソファーがあって道がふさがれていたら、「一歩前に出る」というのは、その場に留まれという意味になる。


中村

なるほど。ルールではなくて与えられた条件によって結果が変わるということですね。

中田

もし僕がソファーの上に立っていれば、「一歩前に出る」と下に落ちることになる。ルール自体は「一歩前に出る」としか記載されてないけれど、自分がどこにいるかの環境に応じて次が全く変わってくる。これが境界条件です。複雑系ではルールは簡単にしておいて条件で結果を見る。まずオペレーターに意味があることを理解し、さらにルールそのものは単純で、すべての結果は条件が決めていることを理解しなければいけないのです。

中村

それって生きものだと思いますよ。ゲノムを見てもそう。DNAは単純なルールしかありませんよね。もし複雑なルールだったら生きものはこれほど長く続かなかったと思うんです。

中田

その通りだと思います。例えば、唇の横にある細胞がなぜ分裂して皮膚になるかを考えて下さい。その細胞が「僕は精子と卵がくっ付いたあとの分裂では右側にいて、そいつが4万5,656回分裂したときの、左側の3番目で」と記憶していますか。

中村

違う違う(笑)。

中田

そんなの絶対無理でしょう。それぞれの細胞は、例えば細胞接着分子などを通して隣り合う細胞からどんな酵素がどの位出ているかを感知して、それを基準に次に何をするのかを決めている。

中村

前のことで次を決めているということの連鎖ですね。

中田

その通り。初期条件と環境(境界条件)次第です。だからこそDNAには単純なことしか書かれていない。あとは勝手にやれと。生体で使われている基本的なルールは二つしかなくて、一つはマルコフ連鎖で、もう一つはフィボナッチ数列※註9だと思います。マルコフ連鎖は1個の情報しか使わないから自分自身の歴史は問わないけれど、フィボナッチ数列は一つ前の情報、つまりN-1を使って形態をつくる。指の関節から関節への距離はフィボナッチ数列に従っているから、拳を握ると黄金分割が現れますね。生体というのは恐ろしくよくできているんですよ。

中村

指の関節って黄金分割になっているんですか。知らなかった。

中田

生きものの体は自己形成できちんと形態がつくられる。指が短い人も長い人もみな黄金分割になっているのはフィボナッチ数列を使っていなければ。

中村

なるほどね。ここまではよくわかりました。生きものを見ている時に感じることと、とてもよく合うから。

(註1) 古事記【こじき】

現存する日本最古の歴史書。全三巻。稗田阿礼の誦習した帝紀および先代の旧辞を太安万侶が筆録し、712年元明天皇に献上。天地開闢から推古天皇までの記事を収める。「天地初めてひらけし時、高天の原になれる神の名は・・・」で始まる。

(註2) 佐藤勝彦【さとう・かつひこ】

1945年生まれ。東京大学教授。宇宙物理学。生命誌トーク53号「理論と観測が明かす宇宙生成」参照。
 

(註3) 伊東豊雄【いとう・とよお】

1941年生まれ。建築家。生命誌トーク54号「生きものが暮らす空間が生まれる」参照。

(註4) ポリアの壺

ハンガリーの数学者George Polya(1887-1985)によって提示された数学の問題。赤と白の2色の玉が入った壺から無作為に一個の玉を取り出し、その玉と同じ色の玉を一つ加えて壺の中に戻す作業を繰り返す中で、何度目かに赤または白の玉が出る確率などを求める。
 

(註5) テンソル【tensor】

「3のn乗の要素」で規定できる数。nを次元という。4次のテンソルは3の4乗の要素で表される数。

(註6) セル・オートマトン【Cellular automaton】

アメリカの数学者ノイマン(1903-1957)によって考案された自己増殖系の計算モデル。平面に広がる格子状のセルで構成され、各セルは自己と近傍の状態のみに従って内部構造を変化させ、系全体の動きを定める。計算可能性理論、数学、理論生物学などの研究で利用される。
 

(註7) オペレーター

関数を他の関数に対応させる演算記号。例えば微分記号は関数をその導関数に対応させるオペレーターとなる。

(註8) マルコフ連鎖

一定の規則に従ってある状態(Mn)から次の状態(Mn+1)へ移行する操作だけが決められている過程。
生命誌ジャーナル34号「形態の自己形成:中田力」参照。
 

(註9) フィボナッチ数列

初項 1,第2項 1として,隣り合う項の和が次の項の値となるような数列。fn=fn-1+fn-2 という漸化式に従い、1,1,2,3,5,8,13,21,34,55,… と続く。最初の1を除く隣り合う項、または前の数字を2項後の数字で割っていくと、その比は黄金分割比に収斂していく。
生命誌ジャーナル24号「生きものと数:上野健爾」参照。



2.熱がつくる脳の形

中村

世の中で脳は特殊なものとして扱われているけれど、生体の中の臓器の一つである以上は、他と同じようにあるルールのもとに生まれるところから見ていく必要があるわけで、脳もこれまでのお話と同じようにしてできているということですね。そこでいよいよ脳の話ですけれど、中田さんが複雑系の科学の視点で脳を考えるようになったのには何か理由があったのですか。

中田

僕は大学に入った当初は理論物理学をやっていたのですが、そこでは水素分子1個1個の原子核が上を向いているか下を向いているかを調べても全く意味はありません。分子の状態を見るためには、何万個の原子核の上下運動が生み出す系全体のふるまいを見なければいけない。それと同じで、当時の脳科学で主流だった脳細胞に電極を刺し、ニューロンの信号を見る方法には細分化の限界を感じたんです。それに、人間を対象にしたいと思っていたので、針を刺すという手法はとりたくなかった。

そこで、二つのことを決めたんです。まず大脳皮質に関しては針を刺して局在を見るのではなく、全体の系を見ていかなければいけない。そして、情報を見なければいけない。そこでシミュレーションの出番です。でも、シミュレーションは何でも作れてしまうから、例えばニューラルネットワーク※註10のような機能空間を作っても、脳が同じ事をやっている保証はない。空を飛ぶ機械を作って鳥が飛ぶ方法を証明しようとするようなもので、飛ぶためのルールはたくさんあり、どれが正しいかはわからない。だったら目に見えて証明できるものとして、ある初期条件と合致してつくられた形態を見れば良いと考えたんです。

中村

なるほど。全体としての情報を見るために、形態に注目されたんですね。

中田

脳のひだはよく表面積を増やすためと言われるけれど、それだけなら小腸のように臓器そのものを折りたたむ方が効率が良い。そうならない理由は何か。
 ある一点から3次元方向に広がる波があったとします。SF映画によくある宇宙空間での衝撃波は超音速で球形に広がり続けるけれど、地上の衝撃波は重力によって速度に変化が生じ、非線形要素が加わった結果、例えは悪いけれど原爆のキノコ雲のような形になる。同様に、脳は本来球形で、自己形成する過程で非線形要素が加わることでひだのある今の形が生まれたはずだと思い、まずはこの成り立ちを研究しようとしたのです。

その頃、地球科学で溶岩を研究している友人から二つの事を学びました。地中のマグマが増えて地上の溶岩の一部を押し上げていく様子は、細胞が増えていく時とよく似ている。しかしマグマは脳のような球形は取らない。つまり、脳の形が生まれるためには、粒子と粒子の間に粘着性がほとんどない、ガス状の空間と、そこではたらく物理量である熱が必要だということがわかってきたんですよ。

中村

中田さんはとてもよく考えているので話を聞くのが楽しみなのだけれど、突然突拍子もないことを言い出すから。脳を考えようとしているところで溶岩と細胞を比べ、そこへ粘着性と熱を持ち込むなんて考えつきもしませんよ。でも脳の形がどのようにできたかということをまず知りたいので、続けて下さい。

中田

そこで、熱反応のシミュレーションをしている研究所で天気予測のデータ借りて、これで脳の形態が生まれるところが捉えられると確信した。

中村

また飛躍する。天気の予測がどうやって脳の形につながるの。

中田

天気図を作るためにシミュレーションが繰り返された結果、膨大な数のデータが蓄積され、そこには僕が後にシミュレーションしたのと同じようなものもあった。当時、コンピューターを借りて自分で計算するには、莫大なお金がかかりましたので。

中村

だから、シミュレーションの結果だけを借りてきたわけね。

中田

そう、そして見つけたのが「プリューム」と総称される渦の形。単純なルールから生じた熱対流の渦は、最終的に脳と同じ形をとった(図2)。ガス状の流体が、熱という物理量によって脳の形をつくるのです。

(図2)

3DAC法による脳の断面のMRI画像(左)と熱対流の法則に従いシミュレーションした脳(右)

中村

熱とガスで脳を考える。ちょっと驚くけれど興味津々です。

中田

流体に粘性があったら溶岩のように平らな形になってしまう。物理量としては電気も考え得るけど、電磁界をコントロールするのは不可能です。熱はコントロールするには最も簡単な物理量で、放っておいても一定の環境を作り上げる。母親の胎内がまさにそうで、重力が遮断された羊水の中の環境を安定させているのは熱なんです。脳は実質的に球なので、それを構成するコラム構造も熱に対して等方性を持っていますね(図3)。そうやって脳の形が生まれてくる。

携帯電話をかけるとどんどん熱が出てくるのと同じで、脳のエントロピーの変化はエネルギーを使うために大量の熱が出される。そこで母なる自然は、脳がつくられる時に生まれる熱を利用して、本来脳の外側をカバーしていた細胞を内側に、神経細胞であるニューロンを外側に逆転させて、皮質を表面に移動させたわけです。

(図3)

脳のコラム構造。球形を作るコラム構造はいずれも等価である。
(中田 力『脳の中の水分子』,紀伊国屋書店,2006より)

中村

なるほど。

中田

ここでもう一度、僕らが扱うものは情報だということに戻りましょう。量子力学は熱力学の延長にあるので、ガスのエネルギーを空間の中の状態として考えます。一つひとつのガスの粒子が上下運動をすると仮定すれば、2次元平面上に分布する0か1かの集まりに置き換えられます。ここから統計的に確率論としてガスの性質を規定することができる。

中村

熱とガスで脳の生成を考えると、次いではたらきを見ようとする時は熱力学が出てくるわけですね。脳の形とはたらきがどう生まれるか。今日はそれを伺いたいのでもう少しついていきます。

中田

アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言いましたが、僕は講義の時に半ば冗談で「神は実はコインを振る」と言うんですよ。コインを振ると表と裏のどちらかが出て、振り続ければその確率は一定の分布をとります。4万個のコインをパっと振った時、表が出たコインが4万個、裏が出たコインが0個だとします。それは物理学で言われるエネルギーの決定された状態で、その状態になり得る確率をエントロピーと呼ぶのです。考えて下さい。確率は一度状態が決定してしまったらもう存在しない。エントロピーは常に動いていないと存在できなくて、つまりコインを振り続けていないといけない。一度でも決定してしまってはもうダメなんです。

中村

生命体はそういう存在ですよね。

中田

数学的に脳を考えている研究者のほとんどが脳の機能とは熱力学で語るものと考えていますね。一つひとつの粒子が上下のどちらを向いているかによって全体の姿が決定されるから、単純な熱衝突のルールに意味がある。これがまさにMRI※註11の考え方なのです。

中村

なるほど、MRIは今脳機能の解明に大活躍ですから、それを開発した中田さんにそう説明されると、熱とガスが脳の形をつくり、そこからはたらきが見えるという話が具体的に見えてきますね。

(註10) ニューラルネットワーク【neural network】

ヒトの脳神経系をもとにした情報処理モデル。後述するコホネンの自己組織化マップはその一つ。

(註11) MRI【Magnetic Resonance Imaging】

磁気共鳴画像法。主に体内に存在する水分子の水素原子の原子核の核磁気共鳴を利用し、共鳴信号の強度分布を画像化する。生命誌ジャーナル34号「言語と音楽の機能画像:中田力」参照。



3.意識の自己形成

中田

次は脳の機能の話に入りましょう。脳機能の研究では、例えば視覚野という領域は後頭部にあると考えて実験を進めます。ところが臨床の現場にいると、ある機能が壊れてもどこかで代替できてしまう例に始終ぶつかる。アメリカで一緒に感覚代行を研究していたポール・バキリタ※註12は僕の大先輩で、盲目の人に視覚を与えようとしていました。CCDカメラの画像をたくさんの点の集まりとして針の先で描く装置を開発し、それを皮膚に取り付け、視覚の代わりとなる情報を与えた。

中村

脳を球形のコラム構造として考えれば、どこの部分も等価のはたらきがあると見て当然ということね。

中田

ええ。そこにあるのは感度の違いなんです。まず皮膚で上手くいかなかったので、次は舌に当ててみた。すると、舌で視覚情報を受け取った盲目の人は、トレーニングを重ねた後には、飛んでくるボールをバットで打てるまでになったのです。この実験は、脳の局在は後天的なものだということを証明した。情報の伝わり方も自己形成するのです。

中村

舌で「見る」ために、情報を舌から視覚系へ伝える経路を臨機応変に作りだしたというわけですね。すごいですね。

中田

僕のボスは「脳はどんなやつよりも悪い最低の差別者だ」という表現をするんですよ。脳は異物の侵入を非常に嫌うので、電極の針から電流が流れてこようものなら、その一帯を自分の機能から切り離そうとするのです。僕たち現場の医者は患者さんの脳に安易に触ってはいけないことをよく理解しているから、バキリタは素直に生体に備わっている情報システムを利用したわけです。

中村

体の中で鋭敏なところを探したら舌だったのですね。でも針を刺さずに、脳に「お前は何をしているのか」と聞こうとしたらどうすれば・・・。そうか、それがMRIにつながった。

中田

最初にお話したように、脳を情報のエントロピー空間だと考えれば、球体の脳を構成するコラム構造の一つひとつがエントロピーの要素を持っているはず。ならば、脳の形が作られるときに、情報も自己形成されているはずですね。同じような考え方で作られたニューラルネットのモデルを探せば、本物の脳で起こっていることがわかる。そして見つけたのがコホネンのネット。

中村

コホネンのネットって何ですか。

中田

大脳皮質を2次元平面上の神経ネットワークと捉えた時、特定のニューロンに繰り返し同じような情報が入ってくると、その反応に対応する構造が自ずと出来上がってくる。そのような自己組織化マップ※註13の仕組みをコホネンのネットと言います。真っ白いところから情報の自己形成が起こるのです。複雑系の理論は数学的な証明はできませんが、脳機能の構造化はすべてコホネンのネットによる自己形成で説明できるのです。

中村

数学的な証明ができないのは残念だけれど、そういう自己組織化マップが考えられると面白いなと思いますね。

中田

ところが、実際の脳でコホネンのネットが成立するために必要な構造を、ニューロンのネットワークと考えるとつじつまが合わないんです。理論は正しいはずなのにと悩み抜いた末、ニューロンだけでやらなきゃいいんだと気付いたんです。グリア細胞のマトリックス構造が、情報伝達のための空間を作っているのだとわかった。

中村

最近グリア細胞が単にニューロンのお守り役ではないということがかなりわかってきたけれど、そういう役目が考えられるわけね。

中田

教科書には「脳には隙間がない」と書かれていますが、そこで言う「隙間」というのは、水の詰まった空間を指している。電子顕微鏡で脳組織を丁寧に見ていくと、ニューロンのランビエ絞輪※註14のような活動電位を要する箇所には水が封鎖されているけれど、残りの空間には割と隙間がある。つまり、グリア細胞のマトリックスが水を抜いているのだとわかったのです。

中村

水ではなくガス、つまり乾いた空間になっているんですね。脳って体積の割りに軽いと聞きますが、隙間があるからなのね。もっとも水のある空間もある。その水にも大きな意味があると言うんでしょ。水も脳科学者が普通は話題にしませんね。

中田

また突拍子もないことと思われてしまいそうですが、23歳のときから水分子をずっと追いかけてきたのです。学会で水の話をするときは人生を語らさせられてしまう(笑)。学生の時、麻酔学の教授に麻酔は脳の中で何をやるのかと聞いた時、先生はまともには答えてくれなかったんですけど、たまたま隣にいた助手が「そういう話をライナス・ポーリング※註15が書いてたと思うから、調べてごらん」と言ってくれたんです。

中村

へえ。医学部の人でポーリングを読んでいるなんてびっくり。

中田

論文の引き方も知らずに東大医学部の図書館へ行って、有名な雑誌に載っているだろうと見当をつけて、1961年の『SCIENCE』を一発で見つけたんです。論文※註16には、麻酔薬は脳の中の水のクラスターを安定させる、つまり水分子がくっつきやすい状態をつくると書いてあった。

中村

いよいよ水の登場ですね。ポーリングという人も何にでも関心を持つ人ですね。麻酔について考えてたなんてこれもびっくり。

中田

大気圧の高低によって麻酔の効き具合が変化するのも、水分子がくっつくことで説明がつく。僕は理論家なので理論が合っていないと進めないんだけれど、ポーリングの論文は首尾一貫、全身麻酔の分子機序を説いていて、明らかに正しいと直感しました。どこから手を付けて良いかわからないけど、それを追いかけてみようと思ったのが出発点で、アメリカに渡る契機にもなったのです。僕はずーっと水について考えていたんですよ。

水は一部でも振動すれば全体に振動が伝わりますから、振動からニューロンを保護する緩衝材が必要ですね。脳には水の含有量が少ない乾いた空間があることは以前からわかっていましたが、そこに先ほど述べたグリア細胞のマトリックス構造を当てはめると、発泡スチロールのような緩衝材の役目も果たせるとわかったのです。そこはガスの通り道になって、さらに熱が加わると先ほどのコホネンのネットが形成されるという具合にすべての理論がつながりました。

中村

そういう臓器って他にありませんよね。

中田

普通は衝撃をコントロールする必要がないですから。MRIの新しい機能の開発で最初に取り組んだ研究がこれで、脳が軽い理由もわかりました。それまで脳の比重に変化を与えるものは脂肪だとされていましたが、脳の脂肪は体積がないからMRIの信号に影響を与えない。グリア細胞のマトリックス構造が水を抜いて比重を変化させているのです。そこで、脳の中には「水を扱うもの」があるはずだとひらめいた。

中村

脳と聞いた途端にニューロンネットワークを思い浮かべ、それがどうはたらいているかと考えれば脳は語れると思っている人が多い中で、中田さんは今伺っているような考え方を積み上げて、新しいMRIの開発につながったというのが興味深い。それにしてもポーリングとの出会いは面白いですね。意識の抑制が水で説明されると狐につままれたような感じがしなくもないけれど、理にかなった話ですから。

中田

その頃友人の医者のピーター・アグレ※註17が赤血球で水のチャンネルになるアクアポリン※註18を発見したんです。細い血管を通る赤血球は、水風船のように水を足したり減らしたりして形を変形させる必要がありますね。脳にも同じようなチャンネルがあるはずだけど、そんなことはどこにも書いてない。仕方がないから病理学者の知人に恐るおそる、まだ機能が解明されてないチャンネル構造があるのかと聞いてみたら、「アセンブリーだよ」と返ってきた。さっそく論文を調べ、アセンブリーが水のチャンネルだと確信を持ちました。今ではそれがアクアポリン4と呼ばれる構造であることがわかっている。これで脳の中にコホネンのネットと同じ構造があることの間接証明はできたと思っています。

中村

脳をつくる理論をなぜ証明しないのと聞くとコホネンのネットとして間接証明はされているとすましているところが中田流ですね。

(註12) ポール・バキリタ【Paul Bach-y-Rita】

(1934-2006)
ウィスコンシン大学教授。生物工学、リハビリテーションの専門家。

(註13) 自己組織化マップ【Self-Organizing Maps(SOM)】

フィンランドの科学者コホネン(Teuvo Kohonen)によって提唱された自己形成するニューラルネット。2次元平面上に広がるニューロンシートを考え、特異的な位置に加わる刺激の量により学習程度が変化するという基本構造を持つ。
生命誌ジャーナル34号「機能の自己形成:中田力」参照。
 


(註14) ランビエ絞輪【node of Ranvier】

有髄神経繊維は絶縁性の高い髄鞘に覆われており、髄鞘を欠く部分をランビエ絞輪と呼ぶ。軸索を流れる活動電位はランビエ絞輪を通して跳躍伝導する。

(註15) ライナス・ポーリング【Linus Carl Pauling】

(1901-1994)
アメリカの量子化学者、生化学者。ノーベル化学賞、平和賞受賞。
 

(註16)

A Molecular Theory of General Anesthesia: Linus Pauling (1961)  Science 134: 15-21

(註17) ピーター・アグレ【Peter Agre】

アメリカの分子生物学者。1992年に赤血球からアクアポリンを発見。ノーベル化学賞受賞。
 

(註18) アクアポリン【aquaporin(AQP)】

300前後のアミノ酸から成る比較的小さな膜タンパク。水チャンネルとして水透過にはたらくほか、ガスのチャンネルや細胞接着など多様なはたらきをすることがわかってきている。

 



4.思考の始まり

中村

今おっしゃった脳の形がどのようにして出来上がり、それがどうはたらいているかという中田理論がfMRI※註19の開発と結びつきますね。今やfMRIは時代の花形になっていますけれど。

中田

始めた頃は「行動学のような研究は精神科と心理学がやるもので、神経科の医者がやることではない」と言われ続けたんですよ。でも人間を知りたいんだったら人間を対象にして研究しなければいけない。もちろん人の脳に「触れてはいけない」という大前提があるから、どうにかして外側から脳のはたらきを知りたい。脳波の誘発電位を用いるより詳しく調べられるものとしてfMRIを作ったのです。

中村

先ほどのお話から、グリアのマトリックス構造によって球形の脳のコラム構造がつながれていることがわかり、2次元の自己組織化マップとして、情報のエントロピーによってはたらく脳のイメージが持てました。皆が正しいと思うか思わないかは別として、私は脳という臓器の特徴としてもよく捉えられたし、なるほどなあと思います。私がもっと伺ってみたいのは、中田さんは何をわかろうと思ってfMRIを作られたのかということです。

中田

僕は理論科学者なので、現象論の証明では納得がいきません。しかし、理論を証明をするべきだと考えているので、それには目で見える具体的なものの比較が必要です。fMRIを作った理由は、脳がはたらいている状態を、空間上でどこがどのように使われて、環境によってどう変化するかを見ることで知りたいと思ったからです。脳波で脳の形と機能の関係に決着がつけば良かったのですが、脳は複雑系だからそう簡単にはわからない。

中村

そうでしょうね。

中田

大脳皮質で起こっていることを、初めに言った0か1の情報と位置情報の状態として、どう変化して行くかを詳しく見ていくことが重要で、コホネンのネットは、まさにそのような構造を作るのです。

中村

中田さんがfMRIで見たいと思ったことはよくわかりました。

中田

それと同時にもう一つ、コホネンのマップの仕組みによって、どのように脳に局在が生まれてくるのかも説明できます。本来、大脳皮質は脳のどこの場所であれ等価で自由に使えるはずです。けれども脳が生まれた後、例えば視覚情報が入る経路は大体は決まっていますから、大脳皮質で情報を受け取る場所も決まっていく。そうしてできた局在同士の協同から、さらに大きなシステムが生まれてくるということを理論的に証明できると思うのです。

今研究しているのが、学習の重み付けです。人間の脳は白紙で生まれてきた後に、情報がたくさん入ってきて局在を作る。その作り方はコホネンが教えてくれたけれど、学習の重み付けには別の要因があるはずです。28歳の時に書いた本では“floating decision maker”というものを考えた。赤ん坊の思考は最初は“I want it”だけど、ちょっと賢くなると“I want it, but”になる。最初は明らかにサバイバルですよね。

中村

“I want it”のときはがむしゃらですね。大人が見るとわがままに見えるけれど生きる手段なんだ。

中田

サバイバルから出発したものを上書きしていく時、人間の場合は、少し複雑に重みづけをやっているはずだと思う。これが前頭葉はどうしてできたかという話につながります。コホネンのネットの形成には、前頭葉という特定の部位が必要ではありません(図4)。

(図4)

前頭葉の中でも前頭前野は、記憶や感情の制御や、行動の抑制などを司る。

中村

そうですね。等方性が原則というんですから。

中田

ところがわれわれの脳には前頭葉があり、その大切なはたらきは抑制です。大抵の脳機能は、まずは自由に動かした後に抑制をつくる。おそらく最初は運動系でおこった、運動と抑制の繰り返しが学習の始まりです。自発的なはたらきには制御がかかるのです。

中村

フィードバックがかからなければ暴走することになりますからね。

中田

脳のはたらきをシステムとして考えていくと、まず運動系が制御を獲得して、さらにすぐ側に前頭葉が出来上がったという偶然の重なりが人間にとってはよかった。どうしてこんな偶然が起こったかというと、それは僕らが立ち上がったからなのです。

中村

またまた面白い見方が出てきた。とにかく脳はどのようにして生まれたかという問いを出したのだから徹底的にその道を聞きます。中田さんの話ってものすごく論理的でよく考えられているのでよくわかるのだけれど、そこから出てくることは、「えっ」というものが少なくない。でも、驚かされながらもこれこそ科学だなと思います。正しいかどうかの前にきちんと考えられている魅力がある。そこで二足歩行ですね。

中田

立ち上がることによって、それまで前方にあった脳が地表に対して垂直の位置に移動し、空いた空間に新たに熱でつくられる組織の容量が増えてくる。猫のような動物と比べて、人間の場合はかなり前頭前野が大きくなっているでしょう(図5)。

(図5)

ヒトは二足歩行を始めたことにより前頭前野の方向に向かって余分な脳(αの領域)を増やす余裕が生まれた。(『ぷらす・あるふぁ』(紀伊國屋書店)より)

中村

なるほど。前頭葉のでき方の基本は他のところと同じなんだ。ここでも熱対流が形をつくっていくんですね。

中田

脳を考える時、熱は本当に大事なんです。ニューロンの活動は温度が36.5度以下ではボロボロで、一方で38.5度以上あるとダメ。日常の中でわかりますよね。熱中症があるし、寒くなると眠くなる。代謝機能などは25度でも平気ですし、高い方もかなり幅がある。前頭葉も熱対流によって生まれましたが、それが運動系の近くで起きたことが人間にとっては幸いでした。

中村

出来上がる理屈はあるけれど、どこにできるかは偶然が関わる。そこが生きものの面白いところですね。物理学だったらそれで幸いでした、なんて言えないでしょ。

中田

例えば病気の痙攣を例に挙げれば、ほとんどは前頭葉で起こっていて、視覚系のような脳の古いところは起こりません。視覚系のように情報を受け取るはたらきに専念している場合には、自発的に何かをする機能を作る必要がない。ところが、運動系は自由度を高くして自分で自分を動かさなければいけなかったから、抑制を含めた制御が自発的に効く仕組みをつくり、たまたま隣接する前頭葉という部位にその仕組みが広がっていった。こうして前頭葉で制御が利くようになる。それが思考の出発ですよね。

中村

すごい展開ですね。運動系と前頭葉が近かったことで思考が生まれる。でも物語りとしてとても面白い。

中田

あまり進化の話を進めると具体性が欠けてくるので学習の話に戻すと、脳は抑制でものを覚えます。“I want it, but”の“but”ですね。

中村

“but”がつくのは前頭葉の制御が利いているということね。

中田

犬だって訓練されれば学習しますが、人間はもう少し情報をうまく使えるようになった。その過程でどういう処理が行われているか、どこまで抑制を行い、それがシステムとしてどうはたらくかを明らかにしようと今研究しています。

(註19) fMRI【functional Magnetic Resonance Imaging】

機能的磁気共鳴画像。MRIが構造を写す画像法であるのに対し、fMRIは神経活動に伴う血流変化を測定し、その時点で活動中の脳の部位を写し出すことができる。
生命誌ジャーナル34号「言語と音楽の機能画像:中田力」参照。



5.臨床医として

中田

僕は臨床医ですから、「数打ちゃ当たる」式の研究はできない。患者さんに役に立つ保証がないのに手伝ってくださいとは言えません。

中村

生物学としての研究が医療とどう関わるかは今とても大事な問題ですね。

中田

僕らは、二つの脳のシステムの作り上げ方を知っています。一つがいわゆる「パブロフの犬」と呼ばれる条件反射※註20で、もう一つが先述のポリアの壷、つまり初期条件によって展開する確率空間です。皮質を介してものを覚えていく時は、何度も学習を繰り返すことで、2次元マップの構造の仕組みとしてコホネンのネットによって状態が決まっていきますが、その時、やはり子どものときに与えられたものが一番強い影響を及ぼす。パブロフの犬とポリアの壺。この二つが脳のシステムに作用していると考えています。

虐待児の心の傷をケアする小児科の医者たちは、現場にいるから虐待児の心の動きが複雑系であることを理解している。ポリアの壺の延長で、子どもたちが自身の行動半径を作っているとすると、外科治療や薬治療は基本的に役に立ちません。具体的な行為として、それこそ抱くという状態を繰り返すことの方がどれほど効果があるか。でも、僕の開発したfMRIでは神経繊維がどうつながっていて、どういう時にどのような状態にあるかというはたらきが見えるから、強い記憶に関連する組織が特定できれば、それを抑える処置も考えられる。15年くらい研究すればわかるかな、と思いながら今取り組んでいます。

脳機能は新しいことがどんどんわかってきています。これもバキリタの仕事ですが、右手がうまく使えなくなった人の左手を固定してリハビリをすると、右手の回復が良い。傷害を補うようにはたらく領域の活性が傷害箇所の機能回復に遅れをもたらすならば、その領域に何らかの処置を施すことで機能が改善するかもしれないと考えたのです。

中村

以前ロボトミー※註21が問題になりましたね。一面だけ見て脳の手術をする怖さ。脳の機能面をよく知った上での対応が少しずつ出てきているのですね。

中田

fMRIにしても、ひとり一人の患者さんで脳のどこが使われているかが見えて、具体的な手術の予定を決めるのに便利だから使ってきたというのが臨床医としての僕の立場です。

中村

fMRIって画像が見えるから便利に使っているけれど、開発者としてはちょっと気になるところもあるでしょうね。これで何がわかり、何のために使うのかを自分の中ではっきりさせることは大事ですね。

中田

人間は本質的には触れられることを嫌がりますから、注射も切開も行わずに、病理学と同じことをするのが医学としての最終目標だと思ってます。そのために、10年ほど前からfMRIの開発者の一人として、マイクロイメージングという分子レベルの可視化を追いかけてるんです。

中村

それは診てもらう側としてはありがたい話ですね。マイクロイメージングによって、具体的には何が見えてくるのですか。

中田

例えばアルツハイマー病の研究です。アルツハイマー病ではニューロンは30歳頃から徐々に減少していき、細胞死がある閾値に到達したとたんに発病し、さらに細胞の減少が進むことがわかっています。ならば65歳位から細胞数が下がってきて、危ないと思った時点で速度をゆるくしてあげれば90歳まで保てるということです。

中村

そこまでできれば実際にはアルツハイマー病がほとんどなくなるというわけね。

中田

ニューロンがなくなってから、もう一回ニューロンを増やすのは大変な仕事で、幹細胞だってそれはできないでしょう。アメリカではゲノムプロジェクト終了以来、国をあげて分子生物学に取り組むことはやめている。今、アメリカで分子生物学をやっているのは民間のベンチャー企業ですね。

中村

それについて話し始めるとあまりにも言うことあり過ぎるので止めますが、その辺りの日本の政策を進めている人はまったく考えていませんね。とんでもなく間違った方向へ動いていますよ。それはそれとして、ニューロンの減少を防ぐ事はできるのですか。

中田

そのためには、まず正常な人たちでどうなっているか見なければならない。アメリカでそれを行う班に僕は所属していて、今、7テスラ※註22という超高磁場の非侵襲的な生体顕微鏡を作ろうとしています。カリフォルニア大学と米国立衛生研究所が同じような仕事をしていますが、アルツハイマー病の最初のシグナルを可視化する仕事では、今のところ一応僕らが一番です。実は、7テスラの装置で、患者さんで老人斑を可視化することには成功していますが、日常の医療現場で使うまでにはなっていません。

中村

強すぎるのですか。7テスラの装置を使って具体的に何をどう進めるのですか。

中田

色々な発想があるけれど、特にRNA干渉※註23を用いて関連するタンパク質の反応を見ていくには有効ですね。問題なのは、分子生物学の側からの研究が医療の現場に応用されていないことです。その理由は研究を医療につなげられる検査機がないことで、だからそれを開発したのです。

中村

アメリカでは分子生物学が政府主導でなくベンチャー主導だとおっしゃいましたが、日本の場合はまだその辺りが割り切れておらず、医学の素人の私が見ても、医療の現場につなげる方法をとっていないことが気になるんです。

中田

つながりませんね。アメリカの強さは研究と臨床の関係がしっかりしているところです。

中村

ゲノムプロジェクトを一緒にやって、日本はアメリカの強みを学んだはずなのに、なぜそのやり方でできないのと思うと、素人ですけれどイライラします。

中田

多分、組織の人にその意識がないのでしょう。医療改革もそうです。

中村

さらに気なるのは、絶対につながらないやり方をしていながら、あたかもつながるかの如くに言う、その弁舌だけが10年前に比べて上手になりましたね。

中田

何かを解決するには、まず最初に問題を明確にする。でなければ理論的な話を始められません。

中村

まさにその通り。当たり前のことなのに、それをやらずにどんどん状況を悪化さていますね。

中田

僕がアメリカの大学に行ったもう一つの理由は、医療を学びたかったからなのです。歴史を見ても昔は医療と医学がほぼ一緒でしたが、現代では医療と医学が完璧に分かれてしまいましたね。アメリカは医療を、日本は医学をとったと言える。医学は生物学者がやってもかまいませんが、医療は医者がやるべきです。

中村

なるほど。私は研究の側からばかり見ていたけれど、医療の方から見るとそういう見方ができるんですね。

中田

志を持ち、能力に信頼のおける医者をつくるだけで医療は全部改革できる。

中村

とにかく基本は人間ですものね。

中田

今のアメリカの医療の基盤は1910年のフレックスナー・リポート※註24なんです。患者さんにきちんと対応しているかどうかで大学をA,B,Cランクに分けて、Cならその場で閉院にした。どんなに名のある大学でも医療の質と名前は関係ありません。アメリカ全土がその基準を採用して一斉に医療改革を実施したのです。

中村

国によって医学の研究や医療は共通する部分と国ごとの事情とがあるけれど、アメリカは考えた結果のシステムを作ってそれを徹底しているのですね。日本はゲノムプロジェクト以降の医学と医療の関わり方についてよく考えられていません。ただ、アメリカでは医療も自由経済の中に放り込まれているための問題点も指摘されていますよね。

中田

アメリカは基本的人権を守ります。『ジャングル病院』※註25という本に書きましたが、僕はアメリカの公立病院で18年間チーフを務めていました。そこはお金のない人のための病院で、場合によっては心臓移植も無償で行います。片や金持ちの人からは高い額をもらって、余剰分を貧しい人の医療費に回すことで、皆が均等に医療を受けられる仕組みを作っている。

医師免許にしても、日本では資格試験と同義ですが、アメリカでは2年ごとの更新制です。産休で現場から離れるときは免許も1年間休止され、再び臨床を始める時にトレーニングを受ける必要がある。そうした仕組みは内側にいないと見えませんし、日本が一朝一夕で導入できるものではありません。

中村

医療は難しい問題。でも中にいた人の言葉だけに重味があります。医者も患者も納得できる医療システムをつくる努力をしなければいけませんね。日本は国内で通用しない外国のシステムを形ばかり真似しようとして、中途半端なところにいます。

中田

平等という名の不平等がたくさん生まれてしまった。日本の医療はもっとよくできるはず。コスト削減や効率化という意味ではなく、患者さんに対して先進国としての態度をとれるかどうかです。

僕は日米を行き来していますが、アメリカの西海岸は学問の場としてもとても活気がありますよ。自分が一番優秀だと思ってる学者が世界中から集まって、目標に向かって切磋琢磨している。

中村

やることが決まっているっていうのが重要。日本はやることも決まらないのに、予算だけで動いています。

中田

やがては皆病気になります。医療は皆がつくるものであって、誰が何をやるかじゃないでしょう。スタンドプレーをやっても仕方がない。医学教育と医療システムの双方から支える仕組みをつくらないと、良い医者は育ちません。

中村

科学も危ないですね。

中田

分子生物学は構造を解明する線形科学ですが、今のアメリカの科学の主流は非線形科学です。カリフォルニア工科大学に、“quantum mechanical consortium (量子力学協会)”が設立されたのが36年前。日本は今でも線形科学が多勢ですね。

中村

コールドスプリングハーバー研究所※註26で行われた最初のシンポジウムが“quantum biology(量子生物学)”という言葉で始まったことを思い出しました。先ほどの、コホネンのネットで情報が自己形成されて最後に制御系が出来上がるという前頭葉の誕生のお話などまさに複雑系の世界ですものね。

中田

その通り。複雑系の計算は全て離散系になります。2つの点があったとき、それが直線でつながっている保証はまったくなくて、地球を4周して帰ってくるかもしれない。本当は基礎の数学で証明したいのですが、計算で追いかけるのはまだまだ大変なので、まずは臨床から見ていこうとしているのです。

(註20) 条件反射

生物が環境条件に適応して後天的に獲得する反射。反射と無関係な刺激を同時に反復して与えることにより、その刺激だけで反射が起きるようになる現象。

(註21) ロボトミー【lobotomy】

統合失調症などの治療を目的に、前頭葉の白質の一部に切開を加えて神経繊維を切断する外科療法で、現在は行われていない。
 

(註22) テスラ【tesla】

磁気の強さを表す単位。MR装置の磁場強度を示す。現在、医療現場では1.5テスラの機種が主流だが、3テスラの機種も増えつつある。

(註23) RNA干渉【RNA interference】

任意の塩基配列と相補的な配列を含む二本鎖のRNAを細胞に導入すると、その遺伝子に由来するmRNAが分解され、遺伝子の発現が抑えられる現象。正常な細胞の状態と比較することで、その遺伝子がどのような機能を果たしているかが予測できる。
 

(註24) フレックスナー・リポート

アメリカの教育改革者エイブラハム・フレックスナー(1866-1959)によって1910年に提出された医学教育に関する報告書。全米の155の医学教育施を訪れ、その教育水準を調査し、以降の医学教育に革命をもたらした。

(註25) 『ジャングル病院』

中田力著。紀伊國屋書店。
 

(註26) コールドスプリングハーバー研究所【Cold Spring Harbor Laboratory (CSHL)】

1890年設立。ノーベル賞受賞者者を多数輩出した歴史ある私立の非営利研究・教育施設。



6.言語と音

中村

複雑系で脳を考える話に戻ると、脳は等方性とおっしゃいますが、例えば視覚情報は大抵の人が脳の同じ部分を使って処理していますね。その辺りについてもう少し詳しく聞かせてください。

中田

局在は、脳の決まった部位に決まった情報が入ってくることで、後天的に形成されます。僕には言語の誕生に関する持論があって、言語は「耳による色化」だと考えているんです。音は耳でフーリエ変換※註27されて脳に伝わるから、耳と脳で受け取る時間情報には断絶が生じています。そこで、耳の奥にある蝸牛で感じ取った周波数情報を視覚情報におけるRGB情報※註28と同じように、もう少し高度な情報信号の束として脳に伝え、言語が生まれたのではないかと考えています。そのために蝸牛が二周半の螺旋構造をしている。言語の誕生は、人間の心を考える鍵になります。大脳皮質の中で言語機能がどう組み上げられていくかはコホネンのマップで説明できますが、外部からの物理情報の意味も考えなければいけない。

中村

進化の立場から言語の始まりを音楽に見るという考え方が出てきていますね※註29。それも面白かったけれど、情報としての話を是非聞かせて下さい。

中田

物理情報、つまり音を受け取るのは耳で、蝸牛のらせんと周波数の位置情報が一致することで音階が生まれる。『ぷらす・あるふぁ』※註30に「中田音階」というのも書きましたが、これは音楽家を敵に回すかもしれない(笑)。音楽家でもそれぞれが受け取るオクターブ※註31には多少差がありますし、また、オクターブを高くするに従って音色も少し高くしないと、誰の耳にもオクターブが下がって聞こえる。オクターブは脳が作り上げている高次機能の概念なんです。蝸牛のらせん構造の同じ位置が反応する音ならば周波数は違っても同じ「ド」の音だとわかります。

中村

なるほど。確かに1オクターブ違う「ド」がどうして同じ「ド」に聞こえるのかってあまり考えたことがなかったけれど、概念なんだ。

中田

概念がわかれば言語もわかります。音と言葉の両面から「ド」の概念が理解できるのです。

中村

なるほど、耳が言語の始まりというか、オクターブという概念が持てたということが言語を生み出したというわけね。言語は概念ですものね。

中田

他の動物と異なる耳の構造も、人間が音情報から言語を使えるようになった理由ですよ。

中村

この構造は人間特有のものなのね。

中田

犬は音情報としては言語に近いものを扱えますが、言葉は使えませんね。犬が人間とまったく同じ耳の構造を持っていて、まったく同じような情報信号が脳に届いているとすればこの理論は誤りということになります。

言語が耳から出発するなら、言語と音楽との重なりももう少し考えていかないといけません。音楽は音情報として非常に平らで、言語は立体的な構造を持っている。聖歌でも歌詞が際立ちすぎると、意味は理解できても音楽として納得できなくなってしまうでしょう。言語と音楽は基本的に同じ音情報のはずなのに、受け取り方が違うのはなぜか。

楽譜を読んでも音楽を聴いても、脳の中では同じように音楽として認識されています。「机」を例に取ると、「つ・く・え」という音でも、目から入った映像でも同じ「机」だとわかりますよね。聴覚情報と視覚情報が一致している。僕は、ニューロンのはたらきとは情報の内容ではなく、「どっちに行け」という具合に情報を導く標識だと考えている。だから活動してないとはたらきがわからない。同様に、音を受け取る時に耳の中で起こっている現象を追っていけば、どのように言語が生まれたのかもわかるはずだから、今その研究もしています。

中村

言語が生まれるところは一番知りたいけれど、それは難しいなと思っているので、中田さんのように、きっぱりとそう言われるとすごいな、と思うと同時に、どうしてそれでわかるのか、とも思います。言語はまず耳で生まれて、文字によって目で読むこともできるようになったのだけれど、それぞれで理解の仕方は違うのかしら。

中田

第一言語、つまり母国語の理解の仕方が、その後に習得する言語の理解に影響を与えています。fMRIでバイリンガルの人の脳の使われ方を見たら、第一言語で出来上がった機能の拡張で第二言語が処理されていることがわかったんです(図6)。脳のどこをどう使うかは、情報の内容ではなく、その人の育った環境によるんです。

(図6) バイリンガルの機能画像

日本語を第一言語とした人(上)と英語を第一言語として獲得した人がそれぞれ日本語と英語を読んだ時の脳の機能画像。脳の使い方は第一言語によって決定され、第二言語の獲得においてもその使い方は変わらない。
生命誌ジャーナル34号「言語と音楽の機能画像:中田力」参照。

中村

本来等方性の中で出来上がっていく、脳の可塑性ですね。

中田

脳は自分でコホネンのネットを組み上げて行くとき、音情報が脳の中に入ってくれば、情報の内容がわからなくても一応の情報処理システムを作り上げます。幼い時から耳が聞こえない人たちが文字を読むときの脳をfMRIで見ると、言語野はまったく使われずに記号を処理する頭頂葉が使われています。でも彼らは僕らと同じように言葉がわかる。

中村

私たちにはわからないわかり方をしているんですね。でもそれって、言葉の始まりは耳だという説に矛盾しませんか?

中田

もしも人間が、言語による教育を行わない動物だったら、文字情報だけで意味がわかるということはなかったでしょう。でも、僕らは言語による教育を受けています。情報の扱い方は犬と人間とで同じですが、文字情報というものは、人間が他の人間から訓練されて初めて獲得するもの。もともとの言語能力は音から自己形成されていますが、文字情報の扱い方を言語情報に重ねる過程が人類の歴史の新しいところで出来上がってきたんだと思います。

中村

生きものの構造としては、耳から出来上がってくるけれど、文化というか、人間としての文字情報の訓練の過程はさらに脳内に組み立てられるということ。

中田

そう。前頭葉の柔軟性が訓練を可能としている。

中村

なるほど。

中田

だからこそチンパンジーも教えればある程度の言語は学習できますね。もう一つヒトで画期的なことは、脳の機能が左右に分かれたことですね。チンパンジーまでは脳機能は完璧に左右対称ですが、左右の脳が同じ事をしているというのはかなり無駄でしょう。

中村

左右の脳に機能が分かれたことで単純に言えば倍の可能性ができたとも言えるわけね。

中田

舌を使って言語を発する時には、本来生命を維持するための延髄に近いところの筋肉を使います。万一、脳の一方の半球に傷害を負った時にもその筋肉を動かすことができるように、左右の脳が同じようにその機能を持っています。しかし、それでは言語機能のような詳細な運動のコントロールができない。そこで、言語に関しては、一方の脳機能を押さえ込む機能を作ったのでしょう。

中村

なるほど。

中田

生まれたばかりの赤ん坊はミラーモーションと言って、両腕が鏡のように一緒に動き、片手を使うことができません。脳梁の発達と共に、片側を抑制する回路が出来上がって、利き腕が生まれる。利き腕の使用は脳の高次機能です。

中村

なるほど。そうですね。

中田

二足歩行にしても、非線形制御を必要とする、ひざをロックして足を一本のようにして歩くことはサルにはできません。人間が自己歩行ができないような未熟なままで生まれてくる理由も、言語をつくりだしていく過程で、運動系に脳の左右の半球を制御する装置を必要としたためだと思います。つまり、生まれてからでないと言語のトレーニングができず、従って運動系の成熟も完成もできない。

中村

言語というものを、非線形歩行にまでつなげて考えるって面白い。普通なら言語は言語だけで考えてしまいがちですけどね。ここの話は、改めてよく考えてみたいです。生命誌にとって大事なことですから。

中田

右利きか左利きかが遺伝子で決まっているのか、ポリアの壺なのか、解き明かしたいですね。

中村

fMRIに始まり、さまざまな技術開発は「知りたい」という知的欲求から来てたんだけれど、医療で大いに活躍している。

中田

宇宙開発で地球から月に行くために発明した様々な技術が実社会に転用されているように、言語を知るための技術開発も医療の現場に応用していきたいと思っています。

(註27) フーリエ変換【Fourier transform】

フーリエ積分を利用した、時間領域を周波数領域への変換公式。

(註28) RGB 情報

赤、緑、青の光の三原色からなる色の情報。
 

(註30) 『ぷらす・あるふぁ』

中田力著。紀伊國屋書店。34-35頁に音階は円でなくらせんに沿うことが示されている。
 

(註31) オクターブ

周波数が2:1となるような二音階の間の音程。音階上で同じ音名を持つ。



7.成熟と文化の誕生

中田

ところで、猫は前脚と後脚が一緒に動かないってご存知ですか?前脚が歩くから後ろ脚がついていくんですよ。

中村

またまた、それってなあにというようなことを言いますね。

中田

二足歩行は訓練次第と言われていますが、それは違う。二足歩行のロボットを研究している人たちが「人間はハイハイをするから、その機能をロボットのニューラルネットワークに入れてトレーニングをさせればいいのかな」と言うのを聞いたことがあります。

中村

まずハイハイして、それから立ち上がるロボット(笑)。

中田

日本の科学者って、どうして他の分野をまったく勉強しないんだろう。アメリカインディアンは、赤ん坊が生まれたら籠に載せて、まったく地面に触れさせなかったそうです。一年後に子どもを地面に降ろすと、ぱっと走った。二足歩行には、脳の機能構造を決定するための成熟期間が必要なんです。

中村

その時期に外界と触れなければそれができないから人間の赤ちゃんは未熟でも外へ出なければいけないんですね。

中田

人間の子どもほど未熟な状態で生まれてくる生きものはいませんね。生存の危機が高いにも関わらず、外部情報としての言語を与えられる中で運動系が成熟するから、僕たちの運動系は知性との結びつきが深いのでしょう。

脳がどのようにつくられているかが明らかになるにつれて、情報の自己形成の過程で生まれてきたものこそが、心理学者の言う「こころ」だということがわかります。「こころ」を科学的に定義すると、その人の脳の中でひとり一人が集めてきた情報の非線形のかたまりです。その作られ方がコホネンのネットによって決まるのです。

中村

今日は頭の中がおおさわぎ。でもとにかく熱とガスから始まり、脳の構造ができる。その基本はコホネンのネット。それが基調になって思考から言語、ついには心まで来ましたね。一気呵成でしたけれど、すべて論理的につながっている。いよいよ「心の作り方」。

中田

心の作り方がわかるということは、人の心がわかるということではなく、むしろその逆で、心が読めないということの証明なのです。一人の人間の生まれた瞬間から今に至るまでの全情報を集めてシミュレーションすることはできません。生まれた時のことなんて自分でも覚えていませんよね。だから人間の心というのは測れない。

中村

ちょっとホっとしました。

中田

心を作る情報は自分自身が経験したもので、それは常に変化し続けている。加えて、僕たちは人類としての情報を継承している。人間は、幼児体験に影響を受ける個々人のポリアの壺と、人類のポリアの壺の二つを持っているんですよ。遠い昔、アフリカで生まれた人類の祖先は一つの家族だった。彼らが抱いた自然に対する感覚が人類の幼児体験で、全世界の人類の心に受け継がれています。だから、すべての人間に共通の考え方が出てくる。

今、世界は良くも悪しくも地域ごとの局在が生まれていますね。機能局在としての文化が出来上がるということは、人類の文化がかなり成熟しているということです。でも世界中の文化には、宇宙を見るときに北極星を中心に択えるような、たくさんの共通性がある。

中村

共通性と独自性。これも生命誌のテーマ。

中田

実は僕は白川静先生※註32を尊敬しているんですよ。白川先生は漢字を生んだ殷※註33の研究をほとんどやりつくされている。僕はそこから日本文化との関係も探りたいと思っている。科学とは関係ないかもしれないし、証明はできないけれど、夢をどう追いかけるか。理論をどう追いかけるか。これ僕の基本です。

中村

自分が納得できるものをどう追いかけるかということが学問の基本ですものね。最近はそういう言い方が許されないけれど、中田さんを見ているとそれを徹底させることが医療現場で役に立つこととつながっている。本当はそれが一番だと思うんですよ。脳はそういう意味で興味尽きない対象ですね。

中田

脳は面白いですよね。個人と人類の情報が一緒になっていて、だからこそ人々がこういうふうに心を繋げる。

中村

その通りですね。

中田

神に対する原始的な感覚の在り方が、西洋と東洋で同じなのは当たり前です。時代を経ていくうちにそれぞれの文明の中で変化し、今となっては自分たちのルーツを忘れて争っていますが。

中村

もとが同じだから余計にそこでの闘いが深刻になるのね。

中田

僕の場合、周囲の医者仲間はユダヤ人ばっかりで、一方研修医にはヨルダンとか、パレスチニアの人が大勢いる。皆で酒を飲みながら勝手なことを言い合ってます。割と仲良いんですよ、みんな。

中村

同じ仕事仲間ですものね。

中田

人間としては、みな同じですね。

中村

今日はこれから考えることたくさんもらいました。気持ちがよいのは、よーく考えて、自分で答を探す、そのために技術も考えていく。それが好きでやってるんだ、そうしなければ納得ができないからやってるんだということがわかるから、よけい魅力的なんですね。また考えたら教えて下さい。

(註32) 白川静【しらかわ・しずか】

(1910-2006)
漢文学者。福井県生まれ。漢字研究の第一人者で。主な著書に『字統』『字訓』『字通』など。立命館大学名誉教授。

(註33) 殷

中国の古代王朝の一つ。紀元前16世紀から11世紀頃。高度の青銅器と文字(甲骨文字)を持つ。

 

写真:大西成明

 

対談を終えて

中田 力

対談の筈だったのに、ふと気付くと、また一人で話しまくっていた感がある。「いい加減にしておきなさい!」と、怒った家内の顔が頭に浮かんだのだが、めげずに、話し続けていた。原動力は、桂子先生の、「判る!」の言葉。複雑系の科学は、あまり理解してもらえないことが多い。仕方がないので自己満足を糧に生きているのだが、だからこそ、判ってもらえる相手に会うと、どんどん深みに嵌ってしまう。あっという間に4時間が過ぎていた。何となく暗いニュースの多いこの頃に、からっと心が晴れる楽しい午後を頂いた。これが、中村桂子マジックなのだろう。

中田 力(なかだ つとむ)

1950年東京生まれ。東京大学医学部医学科卒業。カリフォルニア大学脳神経学教授。新潟大学脳研究所統合脳機能研究センター長・教授。臨床医、脳科学研究者として国内外で活躍。fMRI技術開発の世界的権威。脳の渦理論など、独自の統合脳理論を展開する。著書に『脳の方程式 いち・たす・いち』ほか多数。


 

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