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研究館より

中村桂子のちょっと一言

2020.05.01

渡辺一夫先生のユマニスム

外出から帰ったら必ず手を洗います。石鹸を使って"ハッピー・バースディ"を2回くり返しながら。家にいても、お料理の前などには、同じように手洗いをしています。もちろんこれまでも手を洗ってはいましたが、これほど意識してていねいにではありませんでした。

これって「人間が生きものであること」を考えさせます。ウイルスが入り込み悪さをするのは私が生きものだからです。機械ならウイルスなんて関係ありません。

コロナウイルスの自然宿主はコウモリですが、今回の新型の中間宿主はセンザンコウの可能性が高いと言われています。そこから人間(ヒト)に感染・・・つまりウイルスにとってはどれも増殖の場を与えてくれる生きものというわけです。
生命誌ではコウモリもセンザンコウもヒトも哺乳類。多様な生きものたちの中では本当に近い仲間たちというところに注目します。

ところで、今私が一番考えたいのは、でもここで感染を防ぐために手を洗うのは人間だけだよねということなのです。あたりまえのことですが、これを単に人間は文化・文明をもつ特殊な生きものということですねで終わらせずに、一人一人の人間の生き方として考えてみたいと思っているのです。

手を洗うのは、もちろん自分に感染しないためですけれど、それは同時に他の人への感染を防ぐことにもなります。自分だけでなく、他の人の命も守りたいという気持ちであり、それが実際に社会全体での感染拡大を防ぐことにつながるのですから、とても人間的です。一人の力の大切さがはっきりわかるところがよいですね。

ここで、渡辺一夫先生の「ヒューマニズム考−人間であること」に眼を向けます。渡辺先生は大江健三郎さんの世代(つまり私と同世代)を育てたフランス文学の先生で碩学とお呼びするのがピタリの方です。

ヒューマニズム(フランス語でユマニスム)を先生は「思想・制度・機械・・・など、人間がつくったいっさいのものが、その本来もっていた目的からはずれて、ゆがんだ用いられ方をされるようになり、その結果、人間が人間のつくったものに使われるというような事態に立ちいたったとき、「これでは困る。もっと本来の姿にもどらなければならない。」と要請する声がおこり、これが「人間らしい」ことを求めることになるのです。」とおっしゃっています。1973年に書かれた言葉です。今もその通りですね。

そして「ユマニスムとは、堂々たる体系をもった哲学理論でもなく、尖鋭な思想でもないようである。わたしたちがなにをするときでも、なにを考えるときでも、かならず、わたしたちの行為や思考に加味されていてほしい態度のように思う。」とまとめていらっしゃいます。これです。生命誌を「行為や思考に加味したい」。これが今考えることです。

<附録>
 新型コロナ騒ぎの最中に京都の家を引き上げるお引越しをしました。東京から京都へと移動する東海道新幹線は一つの車両に私たち夫婦だけという恐らく開通以来初めてではないかと想像する事態でした。三密とは無関係でありがたかったのですが、嬉しいとは言えない妙な気分の二時間半でした。京都駅は外国の人ゼロはもちろん、日本人もまばらです。
 次は東京に着いた荷物の整理です。手帳がすべて×で埋められてできた時間を使ってゆっくり進めます。

中村桂子 (名誉館長)

名誉館長よりご挨拶